七章二節 - 冷王の主張
すでに与羽の姿は見えない。それでも、あわただしい黒羽嶺分城の人々の動きで、与羽の向った方向はなんとなく察せる。姫に似つかわしくない全速力で駆け抜けた与羽に戸惑う彼らをたどればいい。
脇腹に受けた傷が、足を踏み出すたびに痛んだが手当てはあとだ。
足の速さも持久力も大斗が与羽より勝っている。しかも、与羽は動きにくい打掛姿だった。必ず追いつける。できるだけ早く追いつかなくてはならない。
回廊の角まで走ったところで、前方の地面に足跡らしきものが見え、大斗はためらいなく回廊から飛び降りた。
足の指のあとがはっきり確認できる。大きさから女か子どものものだと察せた。素足で女性の足跡。十中八九与羽のものだろう。
点々と続く足跡を追って、大斗は再び駆け出した。
裏庭を駆け抜け、屋敷を回り込んだところで前方に見知った巨体が見えた。長身の大斗よりもなお大きな彼は――。
「雷乱! 与羽!」
大斗は彼と、その肩に担ぎあげられた少女の名を叫んだ。
正面からでは彼女の下半身しか見えなかったが、来ている着物や体型から与羽だと確信できた。
「ああ」
雷乱が返事をしながらこちらに歩いてくる。
「与羽は?」
素早く駆けよった大斗が、低く不機嫌な声で尋ねる。
彼女は雷乱の肩で荒く息をついていた。
「泣いてるだけで、けがとかはねぇよ。最初はかなり暴れてたから担いだが、だいぶおとなしくなったな」
雷乱は答えて与羽をおろそうとしたが、彼女は雷乱の背に顔を押し付けたまま離れようとしない。
「与羽」
大斗は与羽の頭側に回り込み、その髪に手を伸ばした。しかし、一瞬触れただけですぐに与羽に払われてしまう。
乱暴で明確な拒絶を感じさせる払い方だった。与羽は大斗を見ようとさえしない。
「…………」
大斗は無言だったが、その表情や汗で張り付いた髪をかき上げるしぐさには、隠しきれないいらだちがにじんでいた。
周りには一連の騒ぎを聞きつけてやってきた黒羽天駆城の武官が集まりはじめている。それがいっそう大斗をいらだたせた。
「なんだ?」
雷乱も周りを見て眉間に深いしわを寄せている。
「九鬼武官、何の騒ぎでしょうか?」
城内警護をしている者の中でも身なりの立派な男がこちらに近づいてくる。彼は大斗のことを見知っているらしい。
「お騒がせして申し訳ありません。少し遊び過ぎてしまったようです」
普段の彼を知る者が見たら確実に驚く穏やかさを装って、大斗はそうごまかした。
「与羽姫殿下は――?」
相手は納得していないだろうが、それ以上の言及はせず、他の質問をしてくれる。
「走りすぎて疲れてしまったようです。これから護衛官と部屋へお送りしようかと――」
「護衛官、ですか……」
そう言って雷乱に意味ありげな視線を向けた。官位を持たないにもかかわらず、与羽の護衛をしている雷乱にもさまざまな噂が立っている。そのほとんどが良い内容のものではない。
「何か?」
いつもより若干丁寧な口調で問いつつ、雷乱は男を見おろした。
「いえ、何も」
男はそう答えて大斗に向き直った。
「九鬼武官、そのおけがは――?」
そこで大斗は自分が脇腹を斬られていたことを思い出した。走っている間に痛覚が麻痺していたようだ。
「かすり傷です」
そう言って傷に手を当てた。
そこでやっと痛みが戻ってきて、大斗はわずかに顔をしかめる。走ったせいで早くなっていた脈に合わせて傷が再び痛みはじめる。
傷口まわりの着物はぐっしょり濡れ、そのしみは袴にも広がっていた。
「どう見てもかすり傷には見えません。九鬼武官はまず傷の手当てをお受けください。殿下をお送りするのは、我々がおとも致しますので」
「殿下を部屋へ送るのが先です」
大斗は傷口をおさえたまま言った。
予想より出血は多そうだが、何とか与羽を送るだけの時間と体力はあるだろう。
「お前、今日も非番だろ。とっとと手当てして休んどけ」
雷乱が大斗の傷を見て不機嫌に言う。
「関係ないさ」
「……先輩は、来ないでください。今は先輩の声さえ聞きたくないです」
与羽は顔をあげていた。真っ赤に泣きはらした目で、大斗を冷たく見据えている。
いつもならば、大斗の傷を案じての言葉だと思えたが、彼女の目は完全に大斗を拒絶していた。
「…………。……仕方ないね」
大斗はいらだちを込めて言う。見せたくない感情はすべて不敵な笑みの裏に隠して。
「でもこれだけは言わせてよ」
そして大斗は自分を睨みつける与羽の耳元に唇を寄せた。
「お前だって人間でしょ? 血筋は少し特殊でも、お前は俺たちと同じ心を持った人間だ」
早口にそれだけ伝えて、大斗は自らの足で堂々と医務室へ向かった。




