三章三節 - 藍明の報告
* * *
「水月大臣……、夜分遅くに申し訳ありません……」
その夜、あてがわれた部屋でそろそろ休もうと思っていた絡柳の元にやってきたのは、おかっぱ頭の少女――漏日藍明だった。
「かまわないさ」
絡柳は穏やかにほほえんだ。ちゃんと使用人を通して伺いを立てるなど、正規の手順を踏んでくれたため、さほど迷惑は感じていない。
「何があった?」
こんな夜中に来たからには、何か急ぎの用があるはずだ。
絡柳はさっそく本題を尋ねた。
「与羽ちゃん――姫様が部屋を抜け出して、角湖で泳いでいます」
角湖はこの集落の名前だが、それが面する湖の名前でもある。この場合は後者だろう。
「…………」
藍明――ラメの報告はこの上なく簡潔だったが、内容がうまく理解できない。
「つまり――?」
絡柳はさらに詳細な説明を求めた。
「暑くて寝苦しいから水浴びしてくると言って、角湖へ向かってしまいました。自分の立場はある程度わきまえているようで、私と吉宮巫女、野火女官、護衛の赤砂武官に声をかけてくれました。
しかし、水月大臣や古狐文官にもお知らせした方が良いだろうと思い、報告に参りました。古狐文官の方へは、野火女官が――。姫様には、吉宮巫女と赤砂武官がついています」
「なるほど」
絡柳は腕を組んで、半眼になった。
「まぁ、一人じゃないなら大丈夫だろう」
人に見られる可能性もあるが、ここはまだ中州だ。与羽の人となりは良く知られている。
湖で溺れない限り何の心配もない。そして、与羽の泳ぎのうまさならば、溺れるなどまれだ。それこそ、河童が川に流されるのと同程度の確率だろう。
もし万が一溺れても、近くに武の心得がある吉宮実砂菜巫女と赤砂千里武官がいれば、最悪の事態は免れる。さらに、辰海にも情報がいくとなれば、彼の事だ。与羽の元へ駆けつけ、危険がないように全力で配慮するに違いない。
「俺が手を出す隙もない完璧な安全性だな。せいぜい俺にできるのは説教するくらいだが、まぁ、今回は不問にしてやろう。中州を出たら、自由などないからな」
与羽もそれを知っていて、今のうちに精一杯羽を伸ばそうとしているのかもしれない。
「はい……」
ラメも少し悲しそうな顔でうなずいた。
中州を出た後の与羽を想像して、同情しているのかもしれない。
「明日以降の旅にあまり疲れが残らない程度に遊ばせてやれ」
「はい。晩くに失礼いたしました」
「漏日文官もしっかり休むようにな」
有名文官家月日本家の出身で、こちらも有名文官家の漏日家に嫁いだラメも順位を持つ上級文官だ。
一方の絡柳はラメの生家――月日家に使える使用人の家系。昔は、召使として様々な世話を焼いていたにもかかわらず、今は大臣として彼女の上に立っている。何とも変な感じだ。
「もう『お嬢さま』とは呼ばないんですね」
ラメも似たようなことを考えていたのだろう、くすぐったそうに笑みながら言う。
「それを言うなら、今は『奥さま』だろう。まぁ、漏日文官が望むのなら、そうお呼びしますが? お嬢さま」
絡柳はかすかに不敵な笑みを浮かべてそう呼んだ。
「いいえ。月日直系の娘や漏日家の嫁と見られるよりも、一官吏として見ていただく方がうれしいです」
ラメはわずかに頬を上気させて、穏やかにほほえんだ。その上品さに、家柄の良さがうかがえる。
「水月大臣も、気安く『絡柳』と呼べないほど、大臣らしくなられましたし」
「そう言われると嬉しいな」
かつて仕えていた月日家の者の言葉ならなおさらだ。
「水月大臣も想像を絶する努力をされてきたと思いますが、私たちも負けませんから」
私たちとは彼女とその夫――漏日天雨か。
「あぁ、期待している」
彼らが先か、辰海が先か――。楽しみが一つ増えた。
「ありがとございます」
ラメは笑みを崩さずに言って、立ち上がった。
退出の体勢に入った彼女を送るために、絡柳も立ち上がる。
「水月大臣も、しっかりお休みになってくださいね」
そう頭を下げて、ラメは足早に絡柳の居室を後にした。




