薩摩隼人
西郷さんに率いられ、江戸まで攻め上った後、黒田清隆と共に蝦夷まで征ったひい爺さん。西南戦争を戦い、田原坂で壮絶に戦死した爺さんの長兄。黒木、野津両大将と共に奉天会戦まで戦い抜いた爺さんの次兄と従兄弟。そして第一次大戦と大東亜戦争に出征し、無事に帰還した爺さんは、平成9年3月に94歳の大往生を遂げた。晩年の爺さんは自らが「薩摩隼人」であることをよく自慢していた。そして自らが十男でなければ、もっと早く生まれていれば、西郷さんと共に戦い、城山で戦死していたのにと言った。
「薩摩隼人」とは何であるか。単に鹿児島で生まれ育った男のことであるのかと思えば、どうにもそうでもないらしい。実際、叔父達は鹿児島生まれであり、青年になるまでを過ごしているはずだが、自らを「薩摩隼人」とは言わないし、人からも言われない。
そもそも「隼人」とは、「隼人族」のことであり、しばしば「熊襲」とも同一視される九州南部に居住した人々の事である。その中でも「薩摩隼人」といえば、南九州に居住した隼人族のことであり、平安の昔からその名を知られる勇猛果敢な一族である。
してみると代々薩摩に居住し、その血を引くもののみが「薩摩隼人」と称することを許されるのか。が、現代となっては血脈は拡散してしまい、意味を成さないのではないだろうか。
鹿児島県人の血を引く私はなにかと鹿児島に縁深い。他県で生まれ育った私であるが、仕事の都合でここ幾年かを鹿児島で過ごしている。
まれに訪れる休日には、磯庭園まで出かけ、磯御殿で噴煙絶えざる桜島を眺めているのだ。
夏のよく晴れた日の午後、透き通るような空を背景として、どっしりと構える桜島の威容というのは、筆舌に尽くし難い。これぞ鹿児島の醍醐味と言う他ないと感じる。
「よくお見えになりますね」
もう顔見知りになっている磯御殿の従業員、昔なら女中頭といった風情の方が優しい声をかけてくれた。たおやかな風情を備えたこの女性を私は憎からず思っている。
「はあ。他にアテもないのでここに来て、問うております」
私は、ゆっくりと桜島から視線を移し、彼女に言った。
「何をですか?」
「私が何者であるか、をです」
「お若いのに奇特な事ですね」
上品に笑う彼女に、私は一族の戦いの歴史を語って聞かせ、祖父の言葉も伝え、いまの私の考えていることも整理できないままに伝えてみた。
「そこまでお考えでしたら、薩摩隼人がどういうものかはよくご存知でしょう?」
「概念としては十分以上に知っていると思います。特に私が思う薩摩隼人に近いのは、島津家十七代維新斎義弘公に関わる人々ですね」
文禄・慶長の役で約七千の寡兵で三万弱の明・朝鮮連合軍を破ったと言う逸話も薩摩隼人を感じさせるが、より強く人種として別物なのではないかとさえ感じたのは、関が原の合戦前後の話である。
豊臣政権下において、薩摩・大隈二カ国の大名として存続を許された島津家は関が原前夜に、「庄内の乱」と言うお家騒動を迎える。義弘公の息子、忠恒が、家老である伊集院忠棟を殺害し、その子である忠真が、反乱を起こしたのだ。このようなお家の一大事においてもなお大阪に留まり、親豊臣的、中立的な立場を示した義弘公に対して、兄であり、当主である義久公は、疑惑の念を向け、それを敏感に感じ取った家臣団は、分裂の兆しを見せる。
すなわち薩摩・大隈に割拠し、天下を狙いつつ雌伏するべしとする本国派と豊臣政権という時の天下の中で所領を保ちつつ、一定の勢力を維持するべしとする大阪派の二つにである。
その最中、起こったのが関が原の合戦である。その時、大阪に常駐する義弘公の手元には二百名足らずの手勢しかおらず、至急国許へ兵を派遣するようにと使者を送る。その使者に対し、黙して語らずの義久公。幾たびか使者も往来しただろうか、時勢は急を告げ、日に日に豊臣対徳川の構図は鮮明になる。この時、義弘公の心中はどのようなものであったろうか。徳川か豊臣か、兵は来るか来ぬか、千々に乱れ動揺していたか、あるいはなるようになるわと泰然自若たるものか。
その内に、乞食かと見紛うような姿の武士たちが、己の具足のみを担いで二騎、三騎と辿り着いてくる。どうしたものかと義弘公問えば
「上方で大戦ありと聞けども、一向に上からは命下らず。されば、取るもの取り合えず、勝手自侭にまかり越したる也」義弘公これを聞いて、落涙し
「お主らの奉公、末代まで忘れぬ」と駆けつけた一人一人に言ったと言う。
そのようにして集まった手勢千余りをまとめ、豊臣方に組した義弘公。後に「三河武士の鑑」と称えられる徳川の忠臣鳥居元忠の籠もる伏見城を攻め立て、落城させるとすかさず美濃墨俣へと転進し、関が原本戦を迎える。この時、本来は徳川方の援軍となるつもりであったと言う話もあるが、事実はどこにあるのかはわからない。唯、豊臣方に妻を人質にとられていた義弘公に取るべき道はそう多くなかったと考えている。本戦の結果は歴史の示すとおりであるが、義弘公にとっての関が原はそこから始まった。
前代未聞の数万の敵本陣に向かっての退却劇。自殺行為としか思えぬその行動の中に、義弘公は活路を見出し、「義」を見出した。この場合「義」とは「己を己らしく美々しゅう飾ること」の意であると思う。
義弘公に従うのは生き残った三百余りの手勢。彼らは義弘公ただ一人を薩摩へ撤退させることに「義」を見出した。
彼ら一団は徳川の先鋒であった福島左衛門太夫正則を突破すると、徳川本陣の目の前で転進し、伊勢街道へと突入する。本陣脇を突破され、面目を失った徳川方は色めき立ち、家康の号令が後から届くほどの勢いで遮二無二追撃をかける。一番手は武田家滅亡後、信玄・勝頼二代に渡る旧臣を大量に召抱えた時に「武田の赤備」をそのまま任せられた「赤鬼」井伊直政。
「徳川に過ぎたるものが二つあり。唐のかしらに本多平八」と称えられ、勇名を欲しいままにした本多忠勝。
徳川家康四男にして二代将軍同母弟、赤鬼井伊直政の娘婿松平忠吉。彼ら三人が数千の手勢を率いて、わずか三百の島津勢を追う。
追いつかれれば、波間に漂う小枝の如く翻弄されるのがわかっている島津勢。追いつかれまじとて、その中から、一人、また一人と街道筋に鉄砲を抱え、槍を携えては待ち伏せを図る。そうして追ってくる敵勢の指揮官を狙撃し、狙撃し終えた後は槍を持って敵勢の只中に繰り込むと言う生還は、ほとんど期待できない壮絶な戦法「捨て奸」を取って応戦する。この戦法にかかって、井伊直政は傷を負い早々に離脱、松平忠吉も負傷したといわれる。両名ともこの時の戦傷がたたり戦後間もなくして没する。
島津勢は三百の手勢を八十余名にまで減らしながらも、上方にまで辿り着き、大阪城に乗り込むと義弘公の妻を助け出し、堂々と船を仕立てて国許へと帰り着いた。
世に言う「島津の退き口」である。
生き残った中に中馬重方なる郷士がいた。彼は戦に間に合うため、薩摩で話を聞いたその場から裸足で駆け出すと、先を行く同僚の鎧櫃を奪い、伏見城の戦いから島津の退き口までを生き抜いて、三代将軍家光の時代まで存命していた。
その頃の城下の若者達が是非関が原の話を聞こうと裃の正装をして、100Kmの道のりを歩いて彼の元までやってきた。彼は突然やってきた若者達の姿を見ると驚いて、自分も裃の正装を整え、屋敷の広間に通し、相対した。若者の内の一人が「後学のために、是非関が原の武勇談をお伺いしたい」と言い、若者達は彼の言葉を聞き漏らすまいと真剣な眼差しを向けている。それを見た彼は、威儀を正し「関が原と申すは…」と言い出したものの、みるみる涙が溢れて言葉にならなかった。それを見た若者達は呆然とするしかなかった。若者達は帰る道すがら「関が原の話はこれまでも何度か伺ったが、そのどれよりも優れていた」と語り合い、その難儀を思いやったと言う。
私はこの逸話を思い出す度に、薩摩隼人というのは何とも凄まじい生き物であり、種族であると戦慄が走る。
「西郷さんはお嫌い?」彼女はいつの間にか正座して、私を見上げるようにして言った。
「西郷さんを初めとする幕末期に活躍した薩摩人は、失礼ながら私には『薩摩隼人』のように思えないのです」
「あらまあ。どうしてかしら?」
「何故でしょう。自分でもまだ答えが出ておりません。ですが明治に入ってから、特に日露戦争までの間に活躍した薩摩人は『薩摩隼人』であるように思えるのです」
「そこには西郷さんも含まれるの?」
「矛盾しているようですが、含まれます」
「じゃあ、難しいわねえ」
「難しいです。ですので、桜島に聞いているのです。私の知らない何人もの薩摩隼人を見てきた桜島に。そして私が何者であるかも」
「お茶を、入れてきましょうか」
「ありがとうございます」彼女は私に座るように促して立ち去った。
私は、御殿の廊下に胡坐をかいて背中を丸めて座り込むと、両肘を両膝についた。
彼女はお盆にお茶碗と茶菓子を載せて戻ってくると、ホントはこんなことしちゃいけないんですけどね。今日は珍しく暇ですし、常連さんにサービスするくらいの懐はありますから。と微笑みながら言った。私も小さく微笑み、礼を返す。
「桜島はお好き?」
「怖いですね。よくもまあ、現在も活発に活動を続ける火山の近くにこれだけの街を築こうなんて考えたもんだと思いますし、また今も住み続ける神経が信じられません。自然の驚異を甘く見ているとしか思えません。また当たり前のように灰が降ってくる生活にも驚きました。なんと住みづらい街だろうと、失礼ながら思っております」
彼女の質問に対する回答にはなっていないが、正直な感想を述べた。彼女は微笑を絶やさず、桜島をまっすぐ見据え、恐らく正直な答えをくれた。
「他県から来た人にはそう思えるのかもしれませんね。私のように生まれも育ちも鹿児島市内の人間からすると、子供の頃からすぐ側に当たり前にあるから、逆にないと不安になってしまうものですよ」
「そんなもんでしょうか?」
「そんなもんです。貴方、桜島を見て綺麗とは思わない?綺麗なバラには棘があるものだし、何かを得るためには何かを犠牲にしないといけないものなのよ」
「博打みたいですね」
「そうですよ、命を賭けたギャンブル。だから肝の太い人間が出るのかしらね。この街からは。貴方、こちらへはどうやってお越しになるの?」
「そうですね。大体、歩いてきます。鹿児島市内の史跡や資料館なんかは大体回らせて頂きました」
「あらそう。それじゃ、私なんかより余程詳しいわね」
「はあ。趣味が歴史と民俗学ですので」
「ご出身はどちら?」
「神戸です。海軍操練所のあった街ですね」
「あぁ。龍馬さんのね。鹿児島には龍馬さんの逗留した温泉もあるのよ、ご存知?」
「塩浸温泉ですね。司馬遼太郎先生の小説で読んで、お伺いしたことがあります。ですが、小説にあったように鄙びた温泉ではなく、観光地化されていて残念でした」私の言葉に彼女は軽く驚いた表情をして答えた。
「珍しい感想をお持ちね」
「余り商業主義的なモノに価値を見出せないもので…」私は軽く後ろ頭を掻いた。
「そういう方も中にはいらっしゃるのでしょうね。私も少し人間が古いせいか、極端な便乗は余り好ましくありません」
「よくおっしゃる。さほどのお年でもありますまいに」
「お上手ね、貴方。こう見えても龍馬さんの享年は少し超えておりますのよ。そういう貴方は?」
「私は、丁度龍馬さんの享年と同じです。ですので、余計に考え込んでいるのかもしれません」
「生真面目ね。どちらかと言うと損をするタイプなのでしょうね」
「かもしれません。ですがこれでも会社では狡賢いと言われております」
「まあ。私の見立てが外れたのかしら。ご両親はどちらのご出身?」
「父は北海道。元々の出自は越前松平家に連なる家系です。母は垂水の方で郷士をしていた家系です。生まれ育った村がダムに沈んだので鹿児島を離れたと聞いております」
「まあ、それがどうして神戸で?」
「父は家出で。母は、祖母が元々神戸の人らしく、村が沈んだときに家族で移住した、と」
桜島の上を、幾つかの千切れ雲が流れすぎていく。私は、傍らに置かれたお茶碗に多めに注がれたお茶を、半ばあたりまで飲み下す。
桜島は、鹿児島湾に浮かぶ東西12km、南北10km、全周55kmの火山島である。大正3年の噴火により、大隈半島と陸続きになっているため、厳密に言えば島ではない。
明治以前には約2万人が居住していたが、漸減し、現在では数千人を数える程度らしい。
有史以来30回以上の噴火が記録されており、最古の記録は「薩藩地理拾遺集」によると七百八年(和銅元年)であると言う。特に、文明、安永、大正の3回が大規模な噴火として記録されている。
大正の大噴火の際には、噴火の前兆となる微震が頻発し手いたのにも関わらず、当時の鹿児島測候所が、なんの心配も要らないと行政関係者からの問い合わせに回答したため、避難が遅れ、大混乱を招いた。そのため、後に建立された桜島爆発記念碑には、「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、別名「科学不信の碑」とも呼ばれている。ただ、個人的に思うのは、当時の科学技術でどこまでの事がわかってたのか疑問であるので、これをもって石碑に記録するに至るというのは、少々やりすぎの感があるような気がしないでもない。が、科学に携るものに対する最高の戒めにはなっていると思う。
「どうして『桜島』というか、ご存知?」
彼女は唐突に言った。私はしばらく記憶を整理してみたが、思い当たる理由がなく、ゆっくりと頭を振り答えた。
「不勉強で申し訳ありません。深く考えたこともありませんでした」
「昔、ね。コノハナサクヤビメを祭る神社が島内にあったから、サクヤ島と言われていたのが、訛って桜島になったって言われているらしいんですよ。でも、コノハナサクヤビメ自体、火の神様ですし、コノハナというのは桜の事らしいですから、一番相応しい話かもしれませんね」
「確かコノハナサクヤビメは、隼人族の出身と言われていましたね」
「難しいことは、私にはわかりませんけれど、鹿児島の出身と言うのは聞いたことがあります」
ここでも「隼人」か。
桜島を子供の頃から見て育ち、その脅威を知るものだけが、「薩摩隼人」を名乗ることが許されるのかもしれないな。ふと、そんな気にもなった。
「私、実は桜島の生まれですの。でもさっき貴方の言ったとおり。住むのは大変。地震で揺れてばかり、洗濯物もまともに出来やしないし、何かというと避難訓練。若い頃は出たくて出たくてしょうがありませんでした」
「これは、失礼をしました」僕は彼女に向かい頭を下げた。
「いいのよ。私も思っていることですから。気になさらないで。でも不思議と居ついちゃったの。何故かしらね。『住めば都』と言う奴かしら」
「お好きなんですね」
「何が?」
「桜島を抱く、鹿児島と言う街が」
「ええ。もちろん。日本中探しても他にはないわ。こんな素敵な街。生まれ育った街は誰にとっても特別。貴方もいつか神戸に帰るおつもりでしょう?」
「その機会があれば、そうします」
「そうね。男の人は仕事があるから気楽にそうも言ってられないわね」
「私は、仕事に最大の価値をおいておりませんので、そこは気楽に考えております」手の中で茶碗の中に写りこむ自分の姿をもてあそびながら言うと、彼女は気持ちよく笑って言った。
「ホント、貴方は変わってらっしゃるわね。失礼だけど、初めて会ったわ。貴方のような人」
「そうでしょうか?」
「ええ、ホントに」彼女はひとしきり笑うと、姿勢を正して歌うように言葉を紡ぎ出す。
「姿を見せだしたのは昨年の春ごろ。服装はいつも上から下まで黒一色。身長は180cm位で体格はがっしりとした感じ。どちらかと言うと縦長の細面で鹿児島県人らしくない顔つき。目も眉も切れ上がった鋭い顔つき。現われるのは決まって月曜日の午後。いっつも従業員みんなであの人は一体何者なんだろうって噂してたの。それがこんな変わった人だったとは思いも寄らなかったわ」
「怪しい風体なのは自覚してます」僕は苦笑しながら言った。
「自覚してらっしゃるのに、どうしてそういう格好を?」
「色々と便利なんです。人混みを歩くときに道が勝手に開いてくれたり、話しかけられたりせずに済みますので。何かをじっくりと考えながら移動できるので重宝しております」
「それだけの理由?」
「はい。それが、なにか」今度は彼女は呆れたようだ。継ぐ言葉もないといった風情だ。
「それにしても、この街は変わっています。仕事柄日本全国色んな町を渡り歩きましたが、こんな街は初めてです」
「あら、どの辺りが変わってるのかしら?変わってる人の言う変わってるは、どういうものなのかお聞かせいただけますかしら」
彼女は、私と言う人間を楽しみだしたようだ。二人の間にある線を少し越えてきたような気がする。
「そうですね。では、少々長くなりますが、お付き合いいただけますか」
私はそう前置きし、彼女が小さくうなづくのを確認すると、桜島を向いて小さく深呼吸し、話を始めた。太古の物語を記憶し、次代に語り継いでいった語り部のように。
「地理的な部分については既にお話をさせていただきました。人文については、私自身が現在も悩み続けているところですので、お話できるレベルにありません。となると、どこからお話すれば良いのか私も整理が付かないままになりますが、こちらの文化は全てどこか中国や琉球を初めとする外国の香りが漂います。『方言周圏論』はご存知ですか?ご存じない。そうですか。まあ、そういう仮説がありまして。京都を中心として、言葉は同心円状に広がっていくと言う内容です。同様に文化も広まって言ったのではないかと考える向きもあるのです。これは『文化周圏論』と言います。その論で行くと、鹿児島辺りは日本でも最古級の文化が伝えられているはずなのですが、どうもそうは思えません。同じ最果てでも青森の津軽辺りとはまた違うのです。北国と南国との違いだけではない、何かを感じます。え?何故それがわかるのか、ですか?簡単な話です。親戚が青森に住んでおりますので。はあ、他にも北陸、四国、関東に親戚がおりますので、日本全国どこに行っても困りません。ああ、そう言えば九州だけですね、私の血縁の方がはっきりしないのは。ええ。祖父の田舎ですし、十男ですから、親戚がどこかにいることは間違いないのですが、どこに居て何をしているのかははっきりしないのです。やはり、普段から年賀状程度でもやり取りをしておりませんと、三代も離れては他人も同様になってしまうものですね。少し話がそれました。鹿児島は
外洋に面していること。黒潮と言う大きな潮流が沖を通っていることを勘案すれば、遥かな昔から外国との交流は盛んだったのでしょう。例えば『あくまき』という食べ物を取ってみても、日本の文化の中だけでは生まれない食べ物ではないかと思います。実際、私は他の地方であのような食べ物を見たことがありません。製法は『こんにゃく』と似ているような気がしますが、もち米でそれをやる、という発想に驚き入ります。また、戦国時代から豚をほぼ常食していたという記録もありますし、酒の点で考えても焼酎を常飲するのは、この鹿児島を初めとする九州地方だけでした。今でこそ、全国どこででも飲めるようになっていますがね。焼酎の起源自体判明している訳ではないのですが、琉球から伝わったものではないかと言われております。それら諸々の条件を勘案して考えますと、他国の文化と日本の文化が程よく入り混じったのが、この鹿児島という土地柄ではないかと思えます。つまり、日本でありながら、日本的ではないのです。ですが住んでいる皆様は間違いなく日本人です。だから余計にわからず、変わっていると感じるのです」
語り終えた後、彼女の方に視線を向けると、彼女は真剣な眼差しで言った。
「よくそんなこと考えてらっしゃいますね。鹿児島で生まれて、育った私ですが、そんなこと思いもしませんでした。貴方はどちらかの学者さんですか?」
「いえ。私はごく普通の技術系ビジネスマンです。ああ、そう。技術という観点からも鹿児島は面白いですね。28代斉彬公の頃には洋学を積極的に取り込んで、反射炉や溶鉱炉を建設したり、ガラスやガス灯等を作成する事業を起こしたり、今で言うIT革命の先駆ですね」
「貴方は行く先々の街でずっとそういうことをお考えなんですか?」
「はい。大体は、土地に由来する物事を考えております。特に、今回考えております『薩摩隼人』は、私自身のルーツにも関わることですので、大変興味深く取り組んでいるテーマです。ま、別段成果を求められる内容でもないので、単なる自己満足なのですが」
私は、普段し慣れていない笑顔を、彼女に向けて言った。
「『薩摩男は議を言ってはならん』という言葉をご存知かしら?」
「はい、よく。それから考えると、私は薩摩の血が薄いのかもしれませんね」
「そんなことはないと思いますよ。薩摩男でも、大久保公や、五代公のように政治向きで活躍した方も多いですから」
彼女は、膝をそろえて立ち上がると、背筋を綺麗に伸ばして言った。
「ほら、御覧なさい。桜島が赤く染まって来ましたわ」
「ああ。もうそんな時間ですか。長々と済みませんでした」
「いえ。楽しいお話を聞かせていただきましたわ。今度いつお越しいただけるのかしら?」
「さて」
小首を傾げて、尋ねる彼女に私は、少し躊躇を見せた。なにやら、自分の教養を見せびらかし、自慢したような気がしてならなかったのだ。何もなければ来るだろうが、自分の感情による理由で遠慮しなければならないような気がしたのだ。彼女は私の躊躇を察したのか、笑顔で言った。
「じゃあ、一つだけお約束いただけるかしら」
「何をでしょうか」
「貴方にとっての『薩摩隼人』の答えが出たら、必ず教えに来てください」
「わかりました。必ず」
「絶対ですよ」
「はい」後ろ頭を掻きながら、顔を彼女に見せないようにして答えた。
「それじゃあ。今日はこれで」
彼女は頭を下げて、お盆にお茶碗を二つ、茶菓子の皿を一つ載せて去っていく。
私は突然あることを思い出し、彼女の背中に向かって声を出した。
「すみません。お茶を頂いて御代を払うのを忘れておりました」
彼女は背中で微笑んで
「無粋なことを仰ってはいけませんよ」
そう言い残して、静かに廊下の角を曲がって消えていった。
どうもお茶と茶菓子で行動を縛られたような気もしたが、その考えも無粋かと思い直し、私は出口に向かって足を向けた。
磯庭園を後にして、私は天文館に足を向けた。天文館は、鹿児島市一番の歓楽街。そもそも島津家25代重豪公が、この地に天体観測や暦を研究する施設「明時館(別名「天文館」)を建設したことにその名は由来する。
磯庭園から鹿児島中央駅に至る区間は全長約6Km。その途中には様々な史跡が点在している。その史跡を訪ねながらゆっくりと歩いている時間が私にはとても貴重なものに感じられる。今はアスファルトで舗装され、車が走り回っているこの街は、たかだか100年少し前は土で固められた道路に、武士が大手を振って歩き、馬が駆け回っていたのだ。
変わった景色に変わらぬ景色を重ね合わせ、私はちょっとした時間旅行に出かける。やがて見えてきた目的地に向かい、私は歩みを急がせる。暑さが我慢の限度を超えて、鹿児島名物「白くま」にがっつきたい気分なのだ。まあ、黒尽くめの格好をしているのだから、かなり熱を吸収しているせいもあるのだろう。白くまというのは、カキ氷の上に練乳をかけて、さらにフルーツや餡などをトッピングした鹿児島独自の夏の風物詩だ。諸説は色々あるが、カキ氷の上に練乳をかけてみたら美味しかったので、それを商品として売り出そうとした時にネーミングに困っていたら、練乳の缶に「白くま」が描かれていたのでそれを拝借したと言う説が主流らしい。発明は昭和に入ってからだから、なかなかの歴史ある食べ物である。
天文館全体には,降灰や夏の強い日差しを避けるため、アーケードが張り巡らされており、各店舗が全開にしている冷房のせいで商店街は少し寒いくらいだ。天文館本通りアーケードを入ってすぐの店に、飛び込んで待ち望んでいたただの「白くま」を注文する。最近はコンビニでも売っているが、やはりどうせ食べるなら少々値が張っても本物の白くまを味わいたいところである。
注文して5分と待たずに出てきた白くまに、スプーンを入れ、ゆっくりと口に運ぶ。柔らかい口どけ、冷たい優しさ、程よい甘さ。夏の盛りの白くまほど美味いものはないと思う。鹿児島に来て感動したのは、さつま黒豚のロースとんかつとこの、白くまだ。
カキ氷の部分もさることながら、このほど良くシャーベット状態になったフルーツもオツなものである。
半ばまで食べ終えて、目の前の空間に、ディスプレイを想像する。今考えていることを、色々と並べ立ててみる。さながらリレーショナルデータベースソフトのように、関連しそうな項目を連結して、共通項を選び出すことを試みる。ほんのわずかな痕跡すらも見逃すまいとして、手元にメモ帳を広げて、逐一メモを始める。
「隼人族」「火山国」
そうすると、隼人族がどこから来たのか、から、考えてその上で地理的文化的要素を加えていく必要があるのか。これは、思ったより大変な作業になりそうだな。
気が付くと半ばまで残していた白くまが、氷水に近くなっている。それを一気に飲み干すと、今度は冷えた体を温めるために、紅茶を一杯頼む。
隼人族がどこから来たのかを考えることは、日本人がどのようにして成立したかを考えるのに等しい。一般論から考えると中央アジア周辺から、北回りで日本列島にやってきた北方系。東南アジア辺りから黒潮に乗ってやってきた南方系の二系統が考えられる。これが「原日本人」とでも言うべきものだろう。この後、ある程度文化が成熟した段階で、海を渡ってやってきた弥生人との混血が起こり、文化も一層の発展を見せる。ともあれ、彼らがどこからやって来たにせよ、こんな住みづらい地域に生活圏を定めたのだから、元々彼らが住んでいた所と地理的な相似があるに違いない。今の段階での仮説だが、私自身は、薩摩隼人がいつの間にか、隼人族の総称となり、現代に伝わっているのではないかと考えている。
さて、この仮説を立証するために、どのように動くべきか。私は運ばれてきた紅茶を、ほぼ一気に飲み干すと勘定を置いて、席を立った。夕焼けは既に色濃くなり夕闇に近づいていた。まだ風が生暖かく、心なしか砂利ついていた。
人のDNAの中には「ミトコンドリアDNA」と言うものがある。これは必ず母から子に受け継がれ、母系にのみ変異せず継承されるDNAである。これを分析すると母の母、母の母の母、母の母の…とずっと母系のみをさかのぼることが出来、人類全体で見れば、約15万~30万年前に、アフリカに存在したグループが起源であると言うことが判明しており、人類のアフリカ起源説の重要な根拠となっている。では、これを日本人に適用するとどうなるかと言うと、最近の研究では日本人の95%は大体9つのグループに属することがわかってきている。
年代別に並べると、約6万年前に発生した中央アジアを起源とするグループ、これが日本人の34%を占める。これは中央アジア最大の勢力であり、ほとんどのアジア人はこのグループに属する。
同じく約6万年程前に南中国で発生したグループ。これは広く環太平洋に分布し、一部は南アメリカにも分布している。
次に、4万年程前に発生した東中国に起源を持つグループ。15%程度を占め、縄文人等のルーツと言われている。一部は、フィリピンや、琉球に渡ったとされている。
以下、東南アジアで4~5万年前に発生した最大のグループ、5%程度。チベット付近で4万年前程に発生したグループ、3.4%。北東アジアで3~4万年程前に発生したグループ、3.2%。バイカル湖畔で2~3万年程前に発生したグループ、6%。東中国で2~3万年程前に発生したグループ、日本人の7%。となる。
この内で隼人族の先祖なった可能性の高いのは、前半3グループであると考えている。特に4万年程前に東中国で発生したグループが日本に負けない火山帯であるフィリピン、インドネシアを経由して、黒潮に乗って渡来し、南九州に住み着いた可能性が高い。その際、自分達がそれまで暮らしていたのとよく似た環境である地域を選択したのではないだろうか。つまり南九州における隼人族の勢力圏は、桜島周辺を基点とし、広がっていったと考えても良いのではないか。以上はあくまで推論である。
証拠と言うほどの証拠になるかはわからないが、古事記、日本書紀に描かれる古代九州は、隼人族を中心として南九州が極彩色に描かれている。これはこれらの地域に既に人が定住し、文化らしきものの萌芽があったのではないかと考えられる。
南九州に根付き、順調に勢力を拡大していた彼らは、恐らくその過程において、各々の居住範囲を定め、それぞれに首領をおき、一種の連合国家形式を取ったのではないかと考えるのだが、どうだろう。その連合国家の名前が、熊襲だったとしたら、従来の学説と矛盾を生じることはないのではないだろうか。と素人ながらに思うのである。以降、仮に彼らのことを熊襲と呼ぶ。
そんな彼ら熊襲の前にある日、新たな武装集団が現われる。日向国に天下った天孫とされる瓊瓊杵尊を首領とする集団である。彼らは、この集団と決戦するより融和する道を選んだ。具体的には連合国家を形成する有力豪族である隼人の首領の娘とされるコノハナサクヤビメを差し出し、ある種の同盟関係を結んだのではないだろうか。これはこの時点において双方においてメリットのある同盟だったと考えられる。渡来してきたばかりの集団は熊襲の支援を得ることが出来、熊襲は脅威を未然に防ぐことが出来る。まして、二人の間に子でも生まれれば、少なくとも当面熊襲の生存圏、既得権益が侵される心配はない。この策は見事に実を結ぶ。コノハナサクヤは、後の神武天皇に至る家系を築くことに成功する。結果勢力を増した二つの勢力は順調に生存圏を拡大し、新たな渡来人集団は、北九州から山陽道、機内に至り、大和政権を成立させた。対して熊襲は自らの生存圏を確固たるものとし、その連合国家を磐石としたとするのは飛躍しすぎであろうか。
かつて彼らと同盟を結んだ大和政権は、年を経て機内を中心に順調に勢力を拡大し、律令制を掲げて、その基となった熊襲の勢力圏にまで食指を伸ばしてきた。ここで問題が起きる。恐らくは熊襲内部でも大和政権に服属すること自体に異論はなかったのであろう。何故なら、大和政権は彼らの血脈でもあるのだから。だが、律令制はその基本に稲作を置いている。ところが彼ら熊襲の居住する南九州は桜島の影響もあり、シラス台地であり、基本的に稲作に適合しなかった。また支配領域の大部分も山岳地帯であるため、基本的に狩猟民族である彼らには律令制は受け入れ難いものであった。また同時に彼らは黒潮を利用して外国とも交流を行っていた形跡もあり、日本を支配する唯一絶対の王権として支配体制の確立を急ぐ大和政権とは相容れぬものがあったのであろう。この辺り、後の幕藩体制下における島津家の有り様と相似している部分があり、面白い。
結果、大和政権と熊襲の対立は必然となり、戦争は、西暦七百二十年に始まった。九州各地から一万人余りの兵力を動員した大和政権に対して、熊襲側は数千人の兵力を持って南九州各地に建設した7つの城に籠もり対抗した。戦争は一年半の長きに渡り、熊襲側の敗北で決着を見た。この時、熊襲側の戦死者、捕虜は千四百人余りだったと伝えられる。これを称して、「隼人の反乱」と言い、熊襲は完全に征伐された。しかし、大和政権も南九州に対して、律令制を敷くのにこの後八十年の期間を要していることを考えれば、相当南九州の治世に慎重になったのであろう。
その後平安時代を終え、鎌倉時代になると守護として島津氏を迎え、隼人族と島津氏はほぼ一体のものとして捉えられるようになる。
私は疲れて、そこで筆を一旦置き、目頭を押さえながら椅子の背もたれに思いっきりもたれかかる。
「お前さあ、なんでそういう道に進まなかったの?」
さっきから熱心に私のディスプレイを覗き込んでいた同僚が不意に声をかけてくる。手に持ってきてくれたコーヒーはもう相当ぬるくなっている。
「なんでって。行ってた学校が理系の総本山みたいな学校だったからですよ」
私はコーヒーを受け取りながら言った。
「そもそも、なんでそこに行ったんだ?」
「入るまで、自分が文系だって気付かなかったからです。そしてそのまま就職。道を変えたくても変えられなかったんですよ」
「もったいないなあ。文系だった俺が見ても立派な文章だぜ、これ」
「素直に褒め言葉と受け止めましょう」私は苦笑いをしながら受け取ったコーヒーを一口飲み下した。異様に甘い液体が喉の奥に流れ落ちていく。
「しかし。客先常駐のシステム管理者ってのも暇なもんだな」
「僕らが暇なのはいいことですよ。トラブルが起きたら、寝たくても寝れないし、こんなことして時間潰すなんて持っての他です」
「そりゃ、言えてるな」
同僚は、私のそばを離れ、広げてあるスポーツ新聞に熱心に見入った。
システム管理室は少し肌寒く、端末には快適な環境だが、人の身である私には少し厳しい。もうそろそろ秋の声が聞こえてくると言うのに、まだまだ残暑は厳しく、仕事終わりで外に出ると目眩がしそうになる。こんな生活を、十年近く続けているのだ。体力は落ちる一方、彼女を作る暇もない。外に出れば悲しい現実だけが満ち溢れている。こうして思索に耽るときが一番楽しい。我ながら、難儀なことである。
さて。これが、古代から幕末に至るまでの隼人の歴史の概要になる。どうやら私は少し勘違いしていたようだ。薩摩隼人は、最初は存在しなかった。文献をよく読んでみれば、大和政権草創期から存在していたのは熊襲や、それを構成する隼人族だけで薩摩隼人の「さ」の字も出てこない。一部、「続日本紀」に「薩摩隼人」の呼称が出てくるが、これは記載も少なく、隼人族とは別の部族に仮に「薩摩隼人」と言う呼称を与えたと考えられる。
とすると、誰かがどこかで現在言われる「薩摩隼人」を創ったことになる。薩摩国が設置されたのは、八世紀半ばのことだが、この頃にはもう「隼人」の名前を大和政権は、葬り去りたかったのではないだろうか。確かに「隼人の反乱」前後には、平安京南部に隼人族の一部を移住させ、その勢力の減退を図ったり、禁裏の守護に当てるなどの懐柔政策を取った形跡もあるが、彼らを管理監督する役職である「隼人司」は八百八年には廃止されている。征伐により、完全服属した隼人を厚遇する理由は大和政権には既になかった。
そうすると誰かが消えつつあった「隼人」をもう一度引っ張りだしたことになる。しかも自分達に都合の良い改変を加えて。
「島津氏、かな?」私は、頭の中に浮かぶ思索の雲の中から一つの答えを導き出した。
島津氏は鎌倉時代に薩摩に土着した守護大名だが、幕末までその地位を保ち、今もなお存続する血統である。その来歴がはっきりしていると言う点においては日本でも数える程しかない名家であると言っていい。
島津氏は歴史上、最低3回、時の政権に弓を引いている。鎌倉幕府。後醍醐天皇の建武の新政。そして江戸幕府。
考えてみれば時の政権に3回も喧嘩を吹っかけて、無事に生き残っているとは、なんと喧嘩上手な一族だろう。この3回の中でもし、「薩摩隼人」が生まれるとしたならば、恐らく鎌倉幕府倒幕の時だろう。当時、武者の最強は坂東武者とされていた。これに対抗しうる兵力は、日本国中どこを探してもないとされていたはずだから、後醍醐天皇は坂東武者の勢力の及ばないどこかから、精強の兵力を、例え風聞だけにしろ引っ張ってくる事が急務だったはず。それに当たっては各種の文献を調べたことだろう。中に私が探したように日本書紀を精査した者がいたのかもしれない。そして、隼人の記述を見つけた。当時の寿命は大体五十年。隼人族は既に当時の人々の記憶から消えつつあったのは間違いない。
あるいは坂東武者の後ろに居るであろう蝦夷に対抗する必要もあって、同じく化外(大和政権の影響力の及ばない領域)の者を必要としたのかもしれない。
だとすれば、隼人の復活はありえる。そして当時は既に薩摩国が設置されていたから、「薩摩隼人」として復活させる。それには守護の島津氏の協力は必要不可欠だ。
時の島津氏当主は5代貞久公。
島津氏は3代久経公の時から元寇を理由として、薩摩国に下向し、土着しており、貞久公の時には既に五十年近く薩摩で治世を行っていたはずだ。
そこに仮に「兵をを率いて上京せよ」、との勅使が届いたとすれば、島津氏自身まだ勢力を扶植中であったにせよ、薩摩国の民心を一本化し、統一するには良い機会であったはずだ。
また後醍醐天皇としても、実際に戦場に到着せずとも、薩摩から隼人が攻め上ってくるというのは、良い政治宣伝になったはずだ。
実際、この頃千早赤坂では、楠木正成の手によって百万とも号する幕府方の軍勢が破られており、それに加えて薩摩からの隼人の遠征の噂である。幕府軍の動揺たるや、想像に難くない。
こうして創られた「薩摩隼人」は鎌倉幕府瓦解の一助になったのではなかろうか。
ただ、万人にとって誤算だったのはこの後も、「薩摩隼人」の伝説は生き続けたことだ。建武の新政を倒したのも九州で力を付けた足利尊氏。今度は、薩摩隼人を創った側がその伝説に怯えることになったのは歴史の皮肉と言うべきだろう。時代は下るが江戸幕府を最終的に倒したのは薩摩隼人の武力であった。
西郷隆盛と言う旗頭があったにせよ、ようやく成立した大日本帝国を苦しめた最大の内乱を起こしたのも薩摩隼人であるし、対外戦争で陸海共に決戦兵力の指揮官に任じられたのは薩摩隼人である。
「さて、これで大体『薩摩隼人』が生まれた理由には説明が付くんだが…」
何故薩摩隼人が精強であるかの説明が付いていない。それがしっかりと説明できないと仮説としても成立しえない。さて、どこから当たるべきか。
「おい!システムにアラームが出てる!」
後ろで、同僚の荒々しい声が突然聞こえた。
さて。これから先はしばらく、保留だな。これからまた眠れない夜を幾つ過ごすことか。私は、端末のウインドウを切り替え、システムコンソール画面を呼び出した。
「エラー部分のチェックを行います。システム管理部に至急連絡を。本社への連絡も急いでください」
私の号令一下、管理室に詰めていたメンバーが慌しく動き出す。
年内に答えを出したかったが、どうなるかな。
画面は結構深刻なエラーを表示している。
忘れない内に、私は考察した内容をテキスト文書を、そっとUSBに保存した。この次、いつ開かれるかわからないテキストを。
満開だった桜の花も、木々から離れ葉桜になろうかと言う頃、私はようやく約束を果たすために磯庭園を訪れることが出来た。いつものように、入り口の売店で入場券を購入し、途中の土産物屋を物色し、焼酎のラインナップを確認する。外から眺め、薩摩切子の熟練した業に感心する。元来がガサツな人間なので、決して店の中に入ることはしない。そうしてそぞろ歩きながら売店で購入した揚げたてのさつま揚げを食べ終わろうかと言う頃に、いつものように磯御殿に到着した。
よくしたもので、御殿の入り口で靴を脱ぎかけていると、小さく声があがり、廊下を丁寧に走る音が聞こえてくる。
私が次に顔を上げると、あの日話をした彼女が、同じようにたおやかな笑顔を湛えて、そこに立っていた。
「お見限りでしたね。もうてっきり鹿児島から離れてしまったのかと思っておりましたわ」
私は、気恥ずかしく顔を伏せながら後頭部を軽く掻いた。
「約束も守らずに、離れるなんてそんな不義理な真似は致しません。不本意な事に、仕事に手を取られておりまして。なかなか伺う時間が作れませんでした」
「それにしても、もう一年」
「ああ。そんなになりますか。早いものですね」
「貴方、私が結婚でもして退職していたらどうするおつもりでしたの?」
「これは迂闊でした。そんなこと、考えもしませんでした。そこに行けばいつも当たり前に居てくださるように思っておりました。何か、良いお話でもおありで?」
「ある訳ないじゃございませんか。この年になるまで独り身で、親にも世間様にも突っ張って生きてきているのですもの。余程の殿方でないと、私は御せませんよ」
着物の袂で口元を隠しながら穏やかに言う彼女であるが、その言葉は過激極まりない。私は、少々呆気にとられた。
「かごんまおごじょの面目躍如たる発言ですね」
「あら、こちらの言葉も多少はご存知なんですね。でも、『おごじょ』と仰っていただける季節はとうに、過ぎてしまいましたわ」
「そんなことはないでしょう。『おごじょ』とは未婚の美しい女性の事を言うと、こちらの友人に聞きました。貴女は十分に『おごじょ』と言われる資格を持ってらっしゃる」
私が真顔でそう言うと、彼女は何故か顔を背ける。周りからも小さな笑い声が聞こえてくる。私は、そんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「さて。折角お越しいただいたのですから、お答えを持ってきていただけたのでしょう。丁度、私これから昼食を使わせていただきますから、良かったらご一緒に如何ですか?」
「いえ、私は余り食事は…」と言いかけて、ここで私が断ると彼女も昼食を食べるタイミングを失うのではないかと思い直した。
「ええ。ご一緒させていただきましょう。ところで、私は食事を持参しておりませんので、一旦売店まで戻ってなにか見繕って来たいと思うのですが」
その時、奥の間から年季の入った女性の声で「今日はお客さんも少ないし、『望嶽楼』の方で頂きなさい」とのご配慮を頂いた。彼女は素直にうなづくと
「じゃあ、望嶽楼の方で待ち合わせで」
「わかりました。すぐに参ります」
私は折角脱いだ靴をまた履いて、売店への道を、何故か浮立つ心を不思議に思いながら急いだ。
私は、売店でじゃんぼ餅一本と野菜天を二つ追加で購入し、約束の場所に急いだ。望嶽楼とは、島津氏19代光久公の時代に琉球国王から贈られたとされるもので、28代斉彬公が勝海舟と面談したとされる場所である。そんな場所で女性と二人で話をするとは少々不謹慎な気もするが、まあ、皆の心遣いをありがたく受けることにしよう。私は少々速足で進んでいたのだが、ある場所まで来て、その足を動かすのを忘れてしまった。どこまでも青く晴れ渡る空と、桜島の威容を背景とし、望嶽楼に座る和服美人。これほど豪快な借景に映える日本庭園にこれまで気が付かなかったのは、汗顔の至りである。
「お待たせしましたか」
私は多少息を整えながら、ゆっくりと近づいていった。
うつむき加減に構えていた彼女は私の声が届くと、顔をきらめかせて答えた。
「いいえ。少しも。今来たところですわ。ああ、そうそう。皆がこちらに簡単な食卓をしつらえてくれたので、桜島を見ながらお話を聞かせてくださいな」
「いや、こんな贅沢な食卓は初めてです。皆様に、ご挨拶する余裕がないかもしれないので、どうぞ良しなにお伝え下さい」
「ええ。それはもう。ところで、答えはお出になりましたか?」
彼女は私にお茶を勧めながら質問した。
「ようやく」
私は、お茶を一口飲み下し、答えた。彼女は私の顔をじっと見つめ、次の言葉を待っている風情だった。そんな彼女に向かい私は言った。
「では、私は好き勝手に話を始めさせていただきますので、どうぞお食事の方をお続け下さい。私も無作法ながら食事しながら話をさせていただきます」
彼女は小さくうなづくと、可愛らしい弁当袋を広げた。
「結論から申し上げますと、私は『薩摩隼人』ではありません。と言うより、現代に『薩摩隼人』は存在しませんが、存在します」
「まあ。なにやら禅問答のようですね」
私は、じゃんぼ餅に丁度かぶりついた時だったので、くわえたまま、後ろ頭を掻いた。少々行儀が悪いのではないかと心配もしたが、彼女は笑って見過ごしてくれた。
「ええ」
私は以前に、考察した薩摩隼人の成り立ちを、要約して話した。
「それでは、『薩摩隼人』は伝説の、歴史の中にだけ生きているものなんですか?」
「と、私も考えていたのですが。よくよく考えてみると、『薩摩隼人』は個人の呼称ではなく、集団としての呼称ではないかと思い直しました」
「集団、ですか」
「はい。彼らが歴史に名を現すのは常に歴史の動乱期です。古くは、鎌倉に始まり、直近では西南戦争。そもそもの起源を『隼人族』に持つ、と私は仮定しておりますので、これは決して不思議なことではありません。ですので、鹿児島の人々は、その頭領に仰ぐ相応しい人が現われた時、一致団結し、日本最強と言ってもいい『薩摩隼人』となるのです」
私は、残りのじゃんぼ餅をお茶碗の半ばまでのお茶で流し込んだ。彼女は相変わらず微笑みながら、そんな私の様子を見ている。
「ですので、鹿児島に住んでいる個人を『薩摩隼人』とするのは正解でもあり、間違いでもあるのです。その論で行けば、私のように鹿児島県人の血を引いているだけの男は、『薩摩隼人』ではないのです」
「なるほど。よくお考えになったのですね。私などにもよく理解できました。難しい部分は別ですけれど」彼女は、手元に置いたお茶を軽く喫した。
「ですが、それでは何故『薩摩隼人』は伝説になるほど強かったのでしょうか?そこがわかりません」
「はい。私も、そこは悩みました」
私は、そこで更にもう半分ほどお茶を飲み下した。
「私の知りうる限りで、火山帯のすぐ側に住む民族について調べてみたのです。日本中はもとより、この鹿児島と友好都市になっているナポリや、隼人族の元々の故郷と思しきフィリピン、東南アジア、有名なところではハワイ等ですね」
彼女は、上品な仕草で箸を勧めながら、笑顔を絶やさない。
「火山の側に住むと言うことは危険もありますが、それなりにメリットもあります。例えば、水の確保が容易であるとか、農作物が育ちやすいとか、ひょっとしたら、稀に湧き出る温泉の効用も昔の人たちは知っていたかもしれません」
そこで一旦区切り、彼女の様子を伺う。彼女も箸を止めて、私の様子を伺おうとしているところだった。私は慌てて、目をそらし、眼前に広がる鹿児島湾の波間のきらめきに視線を向けた。
「どの地方に住む人々も、極めて楽観的、と言いますか、賑やかなのです。まるでそこに危険などないかのように。ナポリなどは実際に幾つかの村が噴火で滅亡しております。有名なところではポンペイ遺跡ですね。それでも尚、そこに住み続けているのです。明るく、陽気に。奇しくも貴女は最初に禅問答と仰いましたが、私は火山の側に住むということは、禅の精神に通ずるものがあるのではないかと考えるのです。目の前に、火山の形をした大きな『死』が聳え立っているのです。いつ、噴火するかわからない毎日を過ごす内に、半ば必然的に自己深化が深まると考えられます。結果、心胆を練ることにつながり、覚悟を得ることに繋がるのではないでしょうか。覚悟を得た人間は強いです。それは、歴史が証明しています。これが、私が得た『薩摩隼人』が精強を謳われるに至った理由です」
私は、野菜天二つを一気に喉の奥に押し込んで、お茶で流し込んだ。彼女は、箸箱にお箸をしまい、丁寧にお弁当箱ごと封をした。つと、私の方に向き直り真剣な眼差しをした。
「難しいことは私にはわかりませんが、貴方は答えを出されたのですね」
「はい。一応」
私は、最初にお茶を頂いた時のように、お茶碗の中に写り込む自分の影をもてあそびながら答えた。
「では、この街でお調べになることはもうなくなったのでしょうか?」
「いえいえ。人である限り、生涯勉強です。『薩摩隼人』の答えは一応、自分流に解釈して出したつもりですが、他にも調べたいことはたくさんあります」
「また桜島に聞きに通われるのですか?」
「そうですね。その、つもりです」
「いつか、また仕事で去られる時まで」
「そうですね。仕事の都合で、あちらこちらと歩き回るのも飽いてきましたし、そろそろこの辺で腰を落ち着けたいと思っています。まあ、良い口があれば、の話ですが」
私がそう言うと彼女は、今までとは比較にならないくらい華やかな笑みを浮かべて言った。
「そうですか。では、私もまた貴方とお話できる機会が増えるかもしれませんね」
私は、不器用に微笑んだ。
そんな二人を桜島は今日も見下ろしている。穏やかな陽気の中で。