月に向かって青汁を飲む
井川さんは真っ青だった。
それはもう、摘みたての茶葉よりも青々とした顔で、エレジー先生のところへやってきた。
「わ。どうしたらそんなに」
エレジー先生は井川さんの顔を見て、何度もまばたきをした。
ふざけないでください、と井川さんは言った。
「前回の診察で先生が言ったんですよ。助かりたければ一日百回、月に向かって青汁を飲めって。僕はその通りにしました。そしたらこんな、宇宙人みたいな顔色に……あんまりじゃないですか」
「ふーん。ホントに百回飲んだ?」
「飲みました」
なるほど、とエレジー先生は腕組みをした。その診察はぼんやり覚えているような気がしたけれど、こんなに顔が真っ青になる症例は見たことがない。
「青汁が濃すぎたんだね。中和しないとだめだ」
「中和? 一体どうやって」
「一日五百回、西表島に向かって唐辛子を食べなさい」
そんな、と井川さんは飛び上がった。
「無理です。遠すぎてどこにあるのかわかりません」
「何で。月より近いよ」
「そりゃそうだけど、見えないじゃないですか」
エレジー先生は窓のそばに立ち、白衣のポケットから方位磁石を出した。あっちだ、と斜め向かいのビルと電柱の間を指す。
「適当ですねえ」
「あとは心の目で見るんだね。五百回だよ、間違えないようにね」
一週間後、井川さんは再びやってきた。顔色は元に戻っていたが、今度は体が、赤唐辛子のように痩せてしまっていた。
井川さんはだらりと舌を出し、エレジー先生の前に座った。
「言われた通りにしたら、舌も喉もおなかもじんじん痺れて、食べ物が通らなくなっちゃいました」
これはずいぶん繊細な人だ、とエレジー先生は思う。一つずつ根気よく、問題を解決していくしかない。
「今度は辛さを中和しないといけないね。一日千回、ハラマキ平野に向かってはちみつを食べなさい」
井川さんはまた言われた通りにし、一週間後にやってきた。
体は元通りふっくらしていたが、顔つきが妙に険しく、そわそわと落ち着かない様子だった。
「は、は、はちみつを食べすぎて、まるで、まるで……」
ハチになった気分だ。
そう言って、井川さんはエレジー先生に飛びかかった。エレジー先生がよろけた隙に、注射器を奪って振り上げる。
落ち着いて、とエレジー先生は言った。
「ハチを中和するには……そうだな、一日三千回、黄金のカワウソ像に向かって……」
「もうたくさんだ! 観念しろ、このヤブ医者!」
井川さんは注射器を振り下ろした。エレジー先生は床に倒れたが、咄嗟に丸まって身をかわしたため、注射器は床に刺さった。
「うう……」
井川さんは注射器を抜こうとしたが、びくともしない。口をすぼめて踏ん張る顔は、まさにハチそのものだ。
「そんなことより、調子はどうなの?」
エレジー先生はボールペンでカルテを叩き、言った。
「見りゃわかるでしょ、今の僕はハチです」
「そうじゃなくて、元々の病気はどうなったの?」
井川さんは顔を上げた。腹に手を当ててみる。何ともない。首を回し、肩を上下させ、背をエビ反りにし、頭のてっぺんで倒立をしてみたが、どこも痛まなかった。
そもそも、どこが悪くて病院に来たのか、さっぱり覚えていなかった。
「それじゃあ治療は終わり。帰っていいよ」
「えっ。でも」
「大丈夫。エレジーが言うんだから間違いない」
井川さんは首をかしげたが、終わりのない修行のような日々から解放されるなら、それ以上のことはないように思えた。
ありがとうございます、と言い、ハチのように手をはばたかせながら帰っていった。
エレジー先生はほっと息をつき、カルテに目をやる。
用紙の半分にコーヒーがこぼれ、病名も症状も読み取れなくなっていた。
「ああ良かった。汚しちゃった時はどうなるかと思ったけど」
エレジー先生は白衣の内側から新しい注射器を出し、胸ポケットに挿した。