意志1
「ん……」
目を開けると白けた空とそこに煌々輝く太陽が目に入った。その強すぎず弱すぎない日差しに目を細めながら目だけで周囲を軽く見渡す。
視界を遮るか遮らないか絶妙なラインに草が生えそろっている。そこでおぼろげにだが昨夜のことを思い出す。
「そう言えばあのまま外で寝てたんだっけ……」
自分の身体の方に視線を落とすと枯草色のいつの着ている外套に包まる様な格好ですっかり寝入ってしまったらしい。
(天幕に戻らなかったことをフィンに怒られそうだな……)
腰に手を当てながら、可愛く怒る相棒の姿を容易に想像できてしまうあたり俺がどれだけ日頃から怒られているか窺えてしまい、思わず苦い表情を浮かべてしまう。
それと同時にいつのも気だるげな精神状態になっていることにも気づく。
「これも全部ルナのおかげだな」
年下の見目麗しい婚約者の姿を思い描きながら、ポツリと呟く。出会った当初はどことなく頼りなさを感じていた少女が今では自分の心の拠り所としてその存在を大きくしている。
(人生経験的には俺のが上なんだけどな……)
情けないとは思いつつ、それに心地良さを感じてしまっている自分。変な奴だな、と自分を嘲るように締めくくり、起き上がろうとしたところでいくつかの違和感を感じた。
「あれ……?」
その一つは昨日ここで会話していた少女の姿がどこにも見当たらないということ。そして今俺の右腕に微かに圧力がかかっているということ、枯れ草色の外套の下に何やら温かくて柔らかいものが俺に抱き着くようにして存在しているという事。そして最たる違和感と言えば――――。
「どこかで嗅いだことのある香りがする……」
ヤバい、と顔を引き攣らせながら外套に目を向ける。思えば草原に寝転んでいたのだがら草の匂いがするはずなのに今は、それがない。草の匂い以上に安心してしまうような香りが外套の下からしてくる。
俺は外套をそーっと覗くように持ち上げる。暗がりの中には真紅の長い髪が見えた、と同時俺は外套を再度ゆっくりと戻す。
「……どうすべきか」
天を仰ぐようにしながら誰か助けてと言わんばかりに呟いてみる。もちろん返事があるはずもないし、あったらあったで色々と拙い。
とりあえず昨夜のことを一度思い出して何もやましいことがなかったかを確かめる。
(たしかルナに慰められて……抱きしめた)
随分と大胆で自分らしくないことをしたな、と驚きながらその感触を思い出そうとしている俺に男だなと他人事のような感想を抱く。
(一端思い出すことに集中だ。えっと、それで……っ)
脳裏に焼き付くはルナの真紅の瞳と柔らかな唇、そして口いっぱいに広がる甘さ。それを再び体験したかのような気分になり、顔に血が集まっているのがよく分かる。
昨夜はずいぶんと大胆なことをしたな、と思わず漏らしながら今も外套の下で抱き着いている少女の背中を空いてる手で軽く撫でる。それがくすぐったかったのか、ぅん……と可愛い声が聞こえてきた。もう少し聞きたかったような気もしたが、これ以上聞くと何か危ない気がしたので手を止めて記憶を遡る。
(そのあとは話をして……寝た、のか?)
未だに高揚しているせいか、あるいは他の理由があるのかもしれないがその先の記憶がどうにもない。そのまま大人しく寝た気がするのだが、一抹の不安が残る。
(落ち着け、落ち着け……)
心の中で呪文のように唱えながら、フーッと息を吐き出す。そして再び外套をそーっと持ち上げて中を確認する。燃えるような真紅の髪が見え、その先には小さな寝息が規則正しく聞こえてくる。理性を溶かそうとする甘い香りに意識を掠め取られないように自分に檄を入れながら、さらに奥へと踏み込む。
「……っ」
自分の息を飲む音がやけに鮮明に聞こえてくる。それほどまでに集中している。なぜこんなにも集中しているのか自分でも分からないくらいである。
外套を慎重にまくり上げていくと、陽光の下に彼女の整った小顔が姿を現す。その容姿はまさに美姫と呼ぶに相応しい。日差しを感じたせいか、ぅん……、と唸りながら俺の胸に隠れるように今まで以上にすり寄ってくる。その際に彼女の隠れている豊満な双丘があらん限り押し付けられ、男としては役得なのかもしれないが、今は毒でしかない。
(うぐっ……)
内心で苦悶の声を上げながら、必死に理性を保つ。念仏のように何度も落ち着けと言い聞かせる。
ある程度抑えが効いたところで、もう少しだけ外套をずらすとそこから白く艶かしい肩が見えてきた。
(ん!?)
一瞬にして状況が理解できなくなる。確かに婚約しているので問題はない、問題はないが今いる場所に不都合がある。
こんな野外の草原地帯、しかも相手は一国の姫。
(いや、姫じゃなくても問題なんだが……この際今は無視しておくとして……)
昨夜の出来事を思い出さなければいけないという焦燥感に狩られ、必死に頭をフル回転させる。しかし、いくら思い出してもあの先のことは思い出せない。
まずい、と内心で頭を抱えていると、ぅぅん……、という可愛らしい声と共に腕のなかにもぞもぞという動きが伝わってきた。
目を向けると、眠そうにしながらこちらを見上げる真紅の瞳とばっちり合う。だが、向こうはまだ寝ぼけ気味なのか、とろーんという擬音が聞こえてきそうな下がり瞼。そして嬉しそうな、心地よさそうな表情。何故か先程までの焦燥感が無くなり、癒され始めている。
「マフユ……さま」
知らぬ間にいわゆる腕枕をしている右手で真紅の髪を掬うようにしながら撫で始め、空いている左手は彼女の背中に回されている。
そのような体勢になってせいか、余計に感じ始める温もりと柔らか、。それらは思考を急速に奪い、理性という壁を壊そうとする。
「ルナ……」
小さな声で少女の名を耳元で呼びかけながら、吸い寄せられるように彼女の瑞々しい唇に目を奪われていく。俺の胸元にあったはずのルナの顔が目の前に現れたかと思うと、それが次第に鼻先が触れ合う距離まで近づき……あと少しのところで止まった。
ハッと我に返り、周囲を見渡す。別に何が見えるわけでも無いが、なぜか嫌な予感がした。
「ルナ、起きろ」
何かに駆り立てられるかのように彼女を優しく起こす。何か確信めいたものが、ここで起こさないと危険だと頻りに訴えている。
俺に肩を軽く揺すられると、先ほどのとろーんとした下がり瞼とは違い、ほえ、と聞こえてきそうなキョトンとした表情を浮かべるルナ。そんなルナに、おはよともう一度声を掛けながら外套が捲れないようにかけ直す。
「まあ分からないことがあるかもしれんが、とりあえず今は早く起きた方がいいぞ」
「え、あ、と……はい」
状況がつかめてないのか、疑問符を浮かべながらも起き上がるルナ。すると同然のように枯れ草色の外套は緑の絨毯の上に落ちる訳で……。
「あっ!?」
「へ?」
目を背けることもできずに、パサリと音を立てながら外套は無残にも落ち、そこにあられもない姿をしたルナが――――いなかった。
「……あれ?」
素っ頓狂な声を上げながらルナを見るが、そこには肩を艶かしく出したルナがいた。どうやら服が大きすぎたせいで(なのかは分からないが)肩口がはだけてしまっただけらしい。
あまりにも自分が滑稽過ぎたせいで思わず、頭を押さえてしまう。いや、別に見たかったとか残念だとか思わないけど……。
(まさに道化を演じていたという事か)
虚しさを感じながら茫然としていると、ルナが不思議そうに俺を見つめてきた。
「どうしましたか?」
「あ、いや、なんでもない。それよりもルナ、服がはだけてるぞ」
そう言いながら肩口を隠すようにそっと直すと、知らなかったと言わんばかりに驚きながら羞恥に頬を朱に染めた。それが何となく微笑ましく感じつつ、落ちた外套を拾いそれを羽織って、座り込んだまま俯いているルナの手を取って立ち上がらせる。
「え、っと……お見苦しいものをお見せしました……」
「そんなことはないぞ。むしろ……良いモノを見せてもらったよ」
頬を掻きながらそう言うと、ルナはさらに顔が真っ赤になった。もちろん滅多にそんなことを口にしない俺も同様に顔が赤くなっているに違いないが、ルナは俯いているし、誰にも見られることはないからいいだろう。
そのまま夏に近づきつつある朝にしては強い日差しを肌で感じていると、背後から俺を呼ぶ相棒の声が風に乗って聞こえてきた。
「マフユーーーーーーっ!」
背に生える透明な2対の羽を優雅に羽ばたかせながら、猛スピードで飛んでくるフィン。ここでいつもなら腹部に激突され、くの字に折れ曲がるのだが、今はそれを視認出来ているので柔らかく包み込むように受け止める。ポフッと可愛らしい音を立てて止まったかと思うと、今度はそのまま俺の目の前までやってくる。この位置取りには嫌な予感がする。案の定嫌な予感に冷や汗を垂らしていると、いつも通りの指をビシッと鳴らして突き立てながら開口一番怒声が響く。
「なんで昨日帰ってこなかったのーーーー!!」
「いや、まあ、な?」
どうにも曖昧な返事しかできない自分が情けないが、仕方ないというモノ。真実を話しても結局怒られそうだし。
そんな曖昧な返事に対してフィンは腰に手を当てて、頬をプクーッと膨らませている。だけどその金色の瞳は言外に、元気になってよかったよ、と語りかけている。
(なんだかんだ、こうやって目と目で意思疎通できるのなんてフィンとツルキくらいだからな)
古くからの絆と新たに芽生えた絆、その二つが今の俺を支えているのかと思うと感慨深いものを感じる。特に古い絆、フィンとツルキとはそれこそ幾度とない死線を潜り抜けた仲だからこそ、思考もある適度は読めてしまう。それこそ今のように目を合わせれば会話が出来てしまうくらいには。
「もう、マフユ!聞いてるの!?」
「ん、あ、いや。悪い悪い」
「もう昔からそうやってすぐ一人の世界に旅立つんだから!!」
その後も続くフィンのお説教を今日は軽めに受け流しながら、すっかりと日が昇り始めた空を見上げながらルナを共だって野営地へ戻った。
「あ、お帰りなさい兄貴!」
いくつも並ぶ天幕の間をすり抜けていくと、短髪で彫の深いイケメンが火にかけた鍋をかき混ぜながら、こちらに手を振ってきた。その姿はどう見ても一介の主夫のようで、とてもではないが恐れられている冒険者とは思えない。
(まあ人は見かけによらないと言うべきか)
そんなことをしみじみ考えていると、鍋から美味しそうな香りが漂ってきた。結局昨夜はあんな出来事があったにもかかわらず碌に食事もしていないことに今更ながらに気が付いた。
人間気が付くと余計に腹が減るもので、簡易テーブルセットにそそくさと腰を下ろし、今か今かと朝食を待つ。そんな俺の肩の上にはフィンが陣取り、おいしそうに花蜜を啜っている。
「マフユ様、とりあえずこれでも飲んでください」
「ん、ああ。悪いな」
羨ましそうに見ていたのに気が付いたのか、ルナが可笑しそうに微笑みながら木のカップに入った珈琲を渡してくれた。白い湯気とともに芳醇な香りカップから広がっている。
それを一口すすると、口の中に独特に苦みが広がる。それを楽しみながら周囲に目を向けると、ほかの天幕も食事の時間らしく、堅そうなパンをスープやらに浸しながら噛り付く光景が目に留まる。そのあと再び手元のカップに視線を落とすと、自然と苦笑いを浮かべてしまった。
「まあ、ここまでの食事をできるのはひとえに兄貴のおかげですね」
テキパキと執事を連想させる動きで配膳をするレイが苦笑いから俺の心情を察したように話かけてきた。俺はそれに自嘲気味に返す。
「まあそれを有効に活用出来てるのはほとんどお前のおかげだけどな」
「そうっすか?」
「うん、だってマフユは一人で旅してた頃、ずっと簡素な食事してたし。まあそもそも野営なんてほとんどしなかったけどね!」
宝の持ち腐れだよね、と言わんばかりの笑みを向けてくる相棒から視線を逸らし、珈琲を啜る。事実宝の持ち腐れだったからぐうの音も出ないのは間違いないのだが、やはり人から言われるとぐさりと心に刺さるモノがある。
「い、いいんだよ。俺は簡素な生き方が似合ってるし……」
「貧乏性だもんね!」
ささやかな抵抗を試みるも逆にカウンターを盛大に決められる。ふふんっ、と鼻を鳴らしながらどうだと言わんばかりの表情を向けてくるフィン。俺はぐぬぬっと情けなく返すしか出来ない。
「まあまあ、お二人とも。それくらいにして食事にしましょうよっ!」
「そうっすよ!熱いうちに食べてください」
俺たちのじゃれ合いを微笑ましそうに見守っていたルナがそう言いながら俺の右隣に腰を掛ける。俺の対面の長椅子にはレイアードが座り、その隣では椅子の上でツルキがミルクを飲んでいる。全員が据わったところで、改めてテーブルに並べられた食事に視線を向ける。柔らかそうなパンに彩り豊かなサラダ、焼いて薄切りにされたオークの肉、そして香草のスープ。どう見ても過分で、ほかの天幕とは雲泥の差もいいところである。心なしか周囲から妬ましそうな視線が飛んでくるが、やはり昨日の出来事のおかげで誰も文句を言いに来ない。
(魔石を渡しておいてよかったな)
珈琲を啜りながら、しみじみと思ってしまう。もちろんアレ以外にもおそらく恐れと言うか畏敬の念的なモノがあるのだろうが、それでも人間は欲が優先する生き物。つまり賄賂がこの均衡を作っているのである。
だからと言って全員が全員近づいてこないと言うわけでも無く、今も背後からとある人物の気配を感じる。
「あら、ずいぶんと豪華な食事してるわね。さすがルナってとこかしら?」
「おはようございます、フィリアさん。この食事が用意できたのはマフユ様とレイさんがいたからこそですよ」
紫の長い髪を右肩から垂らしながら現れたのは戦闘狂のフィリアーナだった。今は朝だからなのか、いつもの踊り子装束ではなくオレンジのワンピースだった。だが、もちろん普通のではなく右肩から先の袖がなく、胸元からは谷間が見えてしまうような独特のものだった。これで水晶なんかを携えていれば占い師のようにも見えるかもしれないな、とどうでもいい感想を抱く。
「そうだっ!お食事がまだでしたらご一緒しませんか?良いですよね、マフユ様!」
「ん、ああ、別に良いんじゃないか。どうせ食料は無駄にあるし」
両手を顔の近くで合わせながら、笑顔で提案してくるルナに俺も問題ないと賛成の意思表示する。一応恩もあるし、彼女は昨夜の関係者だから食事を一緒にするのは好ましいとも言える。何よりルナがフィリアーナに懐いている節があるので追い返すのも悪いだろう。
その提案に対し、フィリアーナは俺の表情を多少伺ったあと、ふむ、とその薄く艶のある唇を触りながら思案するそぶりを見せた。恐らくは俺に気を使っているのだろう、俺は問題ない、といつも通りに振舞う。
「うーん……お邪魔じゃないかしら?」
「何も気にする必要はないが?」
「そうですよ!大勢の方が食事もおいしいですし!」
「そう、ならご厚意に甘えさせてもらうわね」
フィリアーナはそう言うとレイアードがいつの間にか俺の左隣に用意した一人掛けの椅子に腰かけた。
「まさか野営でここまで美味しい物を食べれるとは思わなかったわ」
薄切りのオークの肉をフォークに刺して口に運びながら、驚いたようにフィリアーナは呟いた。その口に運ぶまでの一つ一つの動作は洗礼され、気品が漂っていた。俺の横にいるルナにも引けを取らないレベルのテーブルマナーである。
(……どこぞの貴族出身なのか?)
そこ眼で彼女を観察しながらそんなことを感じる。以前から彼女にはどこか気品のようなものを感じていたが、今回の所作を見て疑問が余計に膨らんだ。王族であるルナと同等の作法が身に付いているなど、まず一般家庭で身に付かない。
「あら、なにかしら?」
「いや、別に何でもないさ。……それより後で昨日のことも含め今後の話をしよう」
俺の視線を鋭く察知したフィリアーナ。その口元は妖艶で獰猛さを感じさせる笑みが浮かんでいる。まるで詮索はしないでと言わんばかりである。俺としても無用な詮索をする気はないので、すぐさま話題を昨日のことに切り替えた。すると、向こうも察したように一瞬だけ真面目な表情をして、すぐさまいつもの微笑を浮かべ食事に戻った。俺もそれに釣られるようにして、空腹を満たすべく食事に手を伸ばした。




