馬糞鷹
後書きとして、時代背景や年代を中心に解説を加えています。
アブラゼミ。ミンミンゼミ。ニイニイゼミ。ヒグラシ。最近は朝夕に鳴くヒグラシの声はあまり聞こえなくなってきた。
ノコギリクワガタ。コクワガタ。ミヤマクワガタ。山の方に行かなければミヤマクワガタは滅多に捕れない。
けれど、正二は知っている。街の中でミヤマクワガタが捕れる樹を。横浜正金銀行の裏手の小さな公園のような森にある、巨大なシラカシの樹だ。正二たち子どもには想像もできない年月を生きてきた樹だ。周りの樹やツルを巻き込んで、もはやどこまでがシラカシの幹なのかさえ分からない。樹液が何か所か出ていて、運が良ければたまにミヤマクワガタを見ることができる。夏から秋にかけて、毎日朝と夕にそのシラカシを見回るのが正二の日課となっていた。
その日、夏休みが始まったばかりだったが、正二はいつものようにシラカシに向かっていた。夏休み中はいつもの朝夕に昼過ぎを加えた一日三回見回っている。正二の秘密の虫捕り場所は、他の子どもたちには決して教えることはない。正二以外の子どもたちは、クワガタがクヌギやコナラにしか集まらないものと信じている。オニグルミやヤナギ、ハンノキ、クリやシラカシにまでクワガタが集まると言っても、誰も信じないだろう。
シラカシの側まで来て、正二は人影を認め、警戒心を抱いた。秘密の虫捕り場所を誰かに知られてしまったのだろうか。しかし、その人影に見覚えがあり、それが尋常小学校で同じ学級の女子であることも確認し、好敵手の出現ではなかったと胸をなでおろしながら声をかけた。
「お前、千代か?」
少女は少し動揺しながら正二の方を振り返り、すぐさま頭を下げた。正二の父は陸軍の軍医将校だから、その辺の子どもたちは誰でも頭を下げる。
「何してんだ? ここで。虫捕りか?」
言ってしまって、正二はしまったと後悔したがもう遅かった。ここで虫が捕れることを自ら暴露してしまったようなものだ。
けれど、千代は頭を振り、否定を意志表示する。身体を一歩後ろに退き、怯えを消せないでいる彼女の姿を見て、正二は笑いながら言った。
「こわがんなくて、いいよ。俺、お前のこと、殴ったりしないからよ」
生まれつき、千代は口がきけない子だった。学校ではいじめられることもあったし、端正な顔立ちをしているせいで、近所の悪い大人にいたずらをされかけたこともあるという。
「俺、こわくねえよ。父ちゃんは軍医だけど、俺は別に何でもねえからよ」
再び歯を出して笑う正二の日焼けした顔を見て、千代はいくらか警戒心を解いたように見えた。
「ここで、何してんだ?」
正二の問いかけに、千代は躊躇しながらも、ゆっくりと人差し指を頭上に向けた。指先に視線を凝らすと、一羽の鳥が静かにシラカシの枝に止まっている。
「ああ。馬糞鷹か」
その鳥は、馬糞のようにどこにでもいる鷹なので馬糞鷹と呼ばれていた。本当の名前があるそうだが、正二たち子どもには興味がないことだった。
「お前、馬糞鷹が好きなんか?」
千代は肯定の意味で頭を振る。上目づかいに正二を見つめる視線に、正二は一瞬胸を突かれたような妙な痛みを感じた。
「変なやつだな。あんな鳥の、どこがいいんだよ」
そう言ってから、クワガタ捕りに夢中になっている自分も、興味がない他人からしたら同じように見えるのかもしれないと、正二は思った。
二人はしばらく、じっとして動かない馬糞鷹を見つめていた。軍医の息子ということで、街の子どもたちは、正二に対して対等に接してはくれない。一歩距離を置いた、遠慮がちな付き合いとなってしまう。子どもどころか大人たちも、すれ違えば「ぼっちゃん」と呼びかけてくるような、どこか他人行儀な態度ばかりだ。軍医である父親は、一年の多くを軍務で不在にする。病弱で寝たきりの母親と、お手伝いの女中しかいない家にいても少しも面白くはない。だからこそ、正二は一人でもできるクワガタ捕りに没頭せざるを得ない。父親に買ってもらった難しい専門書を読み漁り、クワガタに関しては教師以上の知識さえ手に入れてしまっている。
この子もそうなのだろうか。正二はすぐ横に立つ千代のことを思った。この子も友達がいないから、こんな取るに足らない鳥のことをじっと見ているのだろうか。薄汚れた着物と、浅く土の色がついた肌、櫛の通っていない髪、それに似合わぬ鼻筋の通った顔立ち。変な子だと思いながらも、千代のことが気になって仕方がないことが、正二には不思議でならなかった。
突然、馬糞鷹が翼を広げて飛び上がった。夏の強烈な陽光に、広げられた翼と下っ腹の白さが透けて見えた。まぶしさに正二は腕を目の上にかざした。目だけ横に向けると、千代も全く同じような仕草をしているのを見て、何故だか無性に気持ちが高揚した。
それから毎日、正二と千代はシラカシの前で会うようになった。待ち合わせをしているわけではない。秘密の約束事をしているように、いつのまにか同じ時間に同じ場所にいるのだ。妙な気分を抱かないことはなかったが、悪い気はしなかった。
たまにミヤマクワガタが見つかると、正二は自慢げに千代に見せた。虫はあまり得意ではないのか、千代は身構えている。その仕草が可愛らしく思え、正二はわざとクワガタを千代の目の前に差し出した。千代はたまらず、尻もちをついて落ち葉の上に倒れ込んだ。
「わりい、わりい」
これ以上やってしまうと千代に嫌われてしまうと思い、正二はクワガタをつかんだ手を引っ込めた。千代に嫌われるのは嫌だが、何故だか意地悪をしたいと思ってしまう。
ある時、飛び立った馬糞鷹を、急いで二人で追いかけたことがあった。馬糞鷹は身体を斜めにしながらしばらく旋回し、急降下した。少年雑誌で見た飛行機という物は、ああいうふうに飛ぶのだろうか。正二は興奮を押さえながら馬糞鷹の飛翔を見守った。
馬糞鷹は、横浜中心部に残った数少ない畑の一角に降り立ち、くちばしの先を土の中に突き刺したかと思うと、すぐさま再び飛び立った。シラカシの枝に舞い戻った馬糞鷹は、捕まえてきた獲物をついばんでいる。
「なに、捕ってきたんだろ?」
正二の問いかけに、千代は両の手の指で、細長い何かを形作る。
「ミミズ……か?」
大きく千代はうなずく。千代の細く長い指を、正二は見つめた。小さい爪は先に泥がつまって黒くなってはいるが、葉陰の間からたまに射す陽光を反射して、鈍く光沢を輝かせている。
巨大なシラカシや周りの樹木に覆われて、正二と千代がいるこの場所はひっそりと物音もせず、まぶしいような明るさもなく、じりじりと焼かれる夏の暑さも感じることはない。世界に、自分たちだけが存在しているような錯覚を覚えて、正二は生まれて初めて生きる場所を得た気がしてならなかった。千代も同じ気持ちでいてくれているのだろうか、正二は真横にいる彼女を盗み見つつ、心の中まで覗き見ることはできないだろうかと、今まで思ったこともない考えを巡らせていた。
「あ! 馬糞鷹だ!」
予想もしなかった大きな声に、正二と千代は声の方向を振り返った。尋常小学校で同級の高橋三郎、小池武雄、佐々木茂の三人が、馬糞鷹を指さしながら大声を出している。あまり素行が良くない三人組だ。その内の一人、リーダー格の高橋が、馬糞鷹にパチンコを向けている。
「!!」
声にならない声を出しながら、千代が両手を広げて高橋たち三人の前に飛び出した。それに驚いた高橋が放ったパチンコ弾は、目標の馬糞鷹を大きくそれたシラカシの枝に命中した。枝がきしみ、葉がこすれる音が響き、馬糞鷹は飛び去って行った。枝から落ちた葉が数枚、音もたてずに舞い落ちている。
「何すんだよ! おし野郎!」
高橋が怒鳴り散らしながら拳を振り上げて迫ってくる。千代は逃げ場を失い、地面にへたり込んだ。小さな身体を縮こませ、ただ怯えるに任せている。
普段だったら、正二はこういう場合、決まって見て見ぬ振りをする。揉め事や面倒事に巻き込まれるのは嫌だからだ。けれど、千代がガキ大将に痛めつけられるのを傍観することは、どうしてもできなかった。一人っ子の正二が、初めて守るべき妹を持ったような、そんなどうしようもない気持ちの沸騰をどうにも押さえられなくなった。
「やめろ!」
おそらく生まれて初めてだろう、正二は自分が発した大声が、本当に自分が出した声だろうかと信じられなかった。高橋たち三人も、目ん玉が飛び出そうになりながら、ありえない物を見るかのように正二に視線を向けている。いつも物静かで感情を表に出さない正二しか知らない周りの者からすれば、当然の反応だろう。
「やめろ! 聞こえないのか!?」
やっと高橋は、振り上げた拳を下ろした。一瞬、ほんの一瞬だけ、高橋は正二を睨むように見据えたが、すぐに表情を和らげ、口元を歪めながら言葉を絞り出した。
「すいませんね、ぼっちゃん。ぼっちゃんが特別目をおかけになっている娘でしたよね、失礼しました」
三人は同じように薄ら笑いを浮かべながら、ゆっくりとした足取りで去って行った。地面にへたり込んだままの千代を立たせようと、正二は彼女の肩に手をかけた。しかし千代は、正二の手から逃げるように立ち上がろうとする。まだ震えが止まらない足がもつれ、何度も転びそうになったが、何とか立ち上がった。千代は数え切れないほど何度も何度もお辞儀をしながら、高橋たちが去って行った方向とは逆の方に走り去って行った。小さくなる千代の後姿を見ながら、正二はどこにもぶつけることができない感情の塊を、自分の拳で握りつぶしてやりたい衝動に駆られた。もう夏が終わろうとしている、大正十二年八月の終わりだった。
* * *
「あなた、これ見てくださいよ」
妻が指さす記事は朝刊の文化面だ。
「いいよ。俺は読まない」
正二は決まって文化面、社会面を飛ばして読む。戦後十年が経とうとしているが、どこどこの島でどこどこ部隊の生き残りが見つかっただとか、両目を失った傷痍軍人の上等兵某は按摩師として第二の人生を歩んでいるだとか、戦争の傷跡をいたずらにほじくり返される気がしてならないからだ。正二は陸軍軍医大尉として硫黄島戦を戦い抜き、昭和二十一年になってやっと祖国の土を踏んだ。正二の父は軍医少将にまで昇りつめ、関東軍管轄の陸軍病院の長を務めていたが、戦後ソ連軍によってシベリアに抑留され、その地で命を落とした。
「戦争のお話じゃありませんよ。面白い記事なんですよ。あなた、横浜のお生まれでしょう?」
大正十二年九月一日、関東地方を大地震が襲った。地震に伴い派生した大火災によって、横浜は廃墟と化した。家を焼かれた正二一家も親類を頼って栃木の宇都宮に転居し、正二はその後、二度と横浜を訪れてはいない。
「横浜? 横浜がどうしたというんだい?」
夫が興味を持ったことを嬉しく思うように、妻は自慢げに自分が見つけた記事を夫の目の前に差し出す。
「女の鷹匠ですって。珍しいと思わない?」
目の前に突然出現した白黒写真に、正二は三十年の年月を一気に飛び越えた衝撃を受けた。自らの腕にとまらせた鷹を、今にも飛び立たせようとする目つきの鋭い女は、千代に間違いなかった。関東大震災で離ればなれになってしまった、千代に。
「ノスリっていう鷹だそうですよ。口がきけない女の鷹匠だから、面白がって記事にされてしまったのでしょうね」
ノスリ……ああそうだ。馬糞鷹の正式な名前だ。随分ひどい名付けだな。こんなに賢そうな、人間に忠実な鷹であるのに。「ノスリ」と呼ぶ方がよっぽど似合っている。正二はたまらず、滅多にしない口答えをした。
「この女の表情を見てごらんよ。生き生きとしているじゃないか。自分が好きなことをやっているという、満足感に満ちているよ」
正二の言葉を聞いて、妻は元から丸い瞳を余計にまん丸にした。妻の言うことに対して、普段の正二なら一切言い返さないからだ。
「あら。随分と鷹匠の肩を持つこと。確かにこの女なら、綺麗な着物を着せれば随分見栄えがするでしょうからねぇ」
女の嫉妬心を煽ってしまったことを後悔しながら、正二は災いの元の口をつぐみ、新聞をちゃぶ台に広げた。三十年振りの千代に対して、目の力だけでもって語りかけたが、勿論返事が来ることはなかった。
軍隊時代に味を覚えてしまい、これ以外は吸えなくなった「さくら」を一本取り出し、正二はマッチを擦って火をつけた。居間の天井に立ち昇る煙を見上げながら、どこかで馬糞鷹が高く鳴く声を、正二は確かに聞いた気がした。
まず、文中に差別的表現があることをお詫びいたします。
この物語の主人公、正二はその名のとおり大正2(1913)年生まれです。正二が千代と出会ったのは関東大震災が起こった年なので大正12(1923)年です。最後の回想シーンは、昭和29(1954)年を想定しています。つまり、この時の正二は41歳ということになります。
この物語の大正時代の舞台は横浜市中心部です。作中に「横浜正金銀行」という名称が登場しますが、この建物は現存し、現在は神奈川県立歴史博物館となっています。ちなみに、横浜正金銀行は後の東京銀行、現在は三菱東京UFJ銀行です。
この作品の題名でもある「馬糞鷹」と呼ばれる鳥は何種類かいます。ノスリの他にもチョウゲンボウやサシバもこう呼ばれたそうです。「馬糞鷹」は使えない鳥の総称だったようですか、本当にそうなのでしょうか。そういった疑問が、この作品を作り上げる原点となりました。