スクワイア (第11話、短編(未完))
第十一話
しかし、その時。
突然階段の下から声がして、俺の言葉は遮られてしまった。
一人の男が古びた石階段の下から俺のことを見ていた。
俺はその格好を見て驚く。
その男は黒い長丈のローブ、つまりは牧師の服を着ていたのだ。
首元から下がっている三角形をかたどったペンダントはまさにその証。
左手には乾燥させた蔓で編まれたカバンを提げている。
見た目からして三十歳かそこらと言ったところだろうか。
少し首をかしげた男は、また俺たちに呼びかける。
しかしまたそれは意味のない音。
先の一つは虫の羽音のように思えたが、今度のそれは樽を槌で叩いた音に近い。
けどそれは、もしかしたら彼の言葉なのかもしれないと俺は思う。
俺の使っていない、アピオフで何回かは聞いた『外の』世界の言葉なのかもしれない。
──だが、そんなことが何だというのだ。
予期せぬこの介入で、もう俺は完全に、サラに俺の気持ちを伝えるタイミングを失っていた。
サラの視線がなければ俺は今すぐにでも、近付いてくる男に飛びかかっていただろう。
一度大きく息を吸い、俺は切り替える。
俺の記憶によれば階下の男は未知の人物。
ゆっくりと階段を上って来ている。
格好からして彼はおそらく聖職者であるはずだから、彼を警戒などする必要はないとも思えたが。
用心に限度なんか無い。
そう俺は口中呟いた。
フェアレラで、安全だと信じ切っていたフェアレラで、あの日何があった?
相手の思惑が分かるまでは気を抜いてはならない。
俺が、サラを護るんだ。
俺はサラと彼との間に位置を取りポケットに手を突っ込むが、その空虚な感触に舌打ち。
「魔法は使えないか」
頼れるのは自分だけだということを、改めて俺は認識した。
彼が階段を上り切って、俺とその目が合う。
俺はサラを左手でかばうように制しながら半身で一歩前へ進み、隠した右手で拳を用意する。
癖のついた黒い前髪の下、朝日の光を反射している丸い眼鏡が彼の周囲に温和な雰囲気を漂わせている。
俺はただその茶色の目を見る。
眼鏡越しのそれは濃くて深い色だった。
色は違うけど、フィリアのそれと似ている。
そして俺がそんな余計なことを考えてしまった一瞬。
サラが俺の手をかわしてすっと彼に歩み寄る。
「サラ!?」
慌てて俺は腕を伸ばしたが、それは虚しく空を切って。
サラは男の眼前に立ちはだかると、彼の目を見て声を張り上げた。
「あの、どうかしましたか?」
その言葉の直後、彼の手はすっとサラに向かって伸ばされる。
瞬間、最悪の事態を思い描いた俺はその手を掴もうとして。
「おはようございます!」
しかし、彼はそう言ってきた。
満面の笑みを浮かべて。
サラの手を取って握手をしながら。
「え?」
それはあまりに唐突でありすぎて、俺は事態を把握しきれず固まってしまった。。
まさか、それをずっと言いたかっただけなのか?
サラもまたそうだったのだろう、いつもならすぐに返事をしているはずだろう彼女も完全に目を丸くしてしまっている。
数秒の空白。
彼はそれを丸めて投げ捨てるように、俺の方を向いて口を開く。
「あなたたちは北の方から来たんですね。いや、気付けなくて申し訳ありません。これなら何を言ってるか分かりますよね?
おっと失礼しました。すいません。まだ名乗っても居ませんでしたね。改めてはじめまして。私はレフォム=エンウォルドと申します」
「あ、えっと、私はサラ=ノーヴェルです。はじめまして。……ほら、ディア」
「え? あ、ああ。ディア=ローランドと言います。はじめまして」
サラの言葉に俺は思考停止の状態から引きずり戻された。
立て板の上を流れるようなその言葉にはどこにも嘘は感じられず、俺の心配はまったくの取り越し苦労であったようだった。
となれば、神に仕える方に名乗らないわけにはいかない。
しかも彼──レフォムは相当な高位の聖職者であるように思われた。
陽光を受けて輝く眼鏡がその証左。
本屋の爺さんが、俺が生まれる前からフェアレラの雑貨屋に並んでいたあれをどれだけうらやましがっていたか。
爺さんの孫娘のユーリンには買ってちょうだいと言われたが、俺だってあんなものを手に入れることはできない。
あれを得るだけの価符を溜めようと思ったら、俺は一年間は飲まず食わずで居なければならない。
「でも驚きました。アピオフは教会はありませんけど、牧師様はいらっしゃったのですね」
調子を取り戻したサラはそう言うと、神に対する時と同じように手を組み、レフォムに深く祈りを捧げる。
俺も習慣的にそれに同調する。
ところが、レフォムは肩をすくめて苦笑いしていた。
俺が怪訝な顔をしたのが分かったのだろう、彼はこう言った。
「サラさん、ディアさん、いいんですよ。そんなことしないで下さい」
「でもその格好は、あなたは牧師様ですよね?」
「僕は教会とはもう何の関係もないんです。だから確かにあなたの言うとおりこんな格好ですけど、僕は牧師でもなんでもないんです」
そんな不思議なことをレフォムは言った。
多分冗談のつもりなのだろうけど、あまり面白いとも思えない。
もう教会と関係がない、繋がりがないと言っているのに、彼が着ているのは明らかに牧師だけが身に着けるのを許されるものだったからだ。
彼の靴もすり減ってはいたが、それもやはり神の教えに従った安らぎの黒。
唯一、三角をかたどったエンパルの紋章──通常は銀色なのだが──も黒いのがひっかかりはしたが。
「じゃあ、何でまだそれを着てるんですか?」
「それはですね……そうですね、ディアさん、あなたのベルトと同じ理由ですよ」
「え?」
俺は言われたことをすぐ理解できなかった。
俺のベルト?
「君は従者ですね?」
彼とは初対面なのにも関わらず、俺が従者だと言いあてられ当惑する。
反射的に自分の肩に手を伸ばしたが、やはり俺は今サスペンダーは着けていない。
「どうして、それを?」
その同様を押し隠そうと噛みつくように俺は言った。
それに対してレフォムはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは明らかに僕のことを警戒していた。いや、それは別にいいんです。でもですね、普通だったらそこで一定の距離を保とうとする。つまり僕が近付けば、その分後ろに下がるはず。
ところがあなたは違った。むしろ一歩前に出た。それもただ僕を威圧する為に出たわけじゃない。サラさんと僕の間にずっとあなたは居続けた。しかも右手はずっと隠したまま。
万が一の時には自分を捨ててでもサラさんを護ろうとしたんですよね? そんなことを何の迷いもなく出来る人はそうそう居ません。まあ騎士か従者か、それくらいでしょう。まさか廷臣はここにはいないでしょうし。
でもあなたがもし騎士だったら、多分もっと早い段階で僕を呼び止めるなり攻撃するなり、何かはしたはず。けどあなたはあくまでも受け身でした。だからあなたは従者なんだろうと思ったんです」
レフォムの言葉に俺は絶句した。
微細にまで及ぶ観察力、それに基づいた完璧な推理。
一転の曇りもそこにはない。
「決め手はそのベルトでしたがね。その夏空のような青は教皇が定めた従者の証、まぁつまりはサスペンダーの色と同じです。それを好んで着けるのは今や教皇派の従者くらいですから。
主教派だったらあそこの山みたいにくすんだ緑ですし、皇帝派だったら黄色で派手に縁取った黒です。流石に間違えようもありません。ああそれと、サラさんも」
「はい? 私が?」
「ええ。さっきのその祈り方。それもやっぱり教皇派のものです。久しぶりに見ましたよ。やっぱりシンプルな方がいいですね。
しかしそこまでして従者のディアさんに護ってもらえているとなると、サラさんは騎士の娘でしょうか? それとも騎士の妻、あるいは恋人ですかね。それともサラさん自身が騎士でしょうか?
あまり剣が似合う方にも思えませんし、教皇派で女性の騎士は珍しいですが、どうなんでしょう?」
彼の問いに、俺たちは何も答えられなかった。
出会って一分も経っていないというのに、俺たちの挙措から彼に素性をほとんど見抜かれてしまったのだ。
驚くなという方が無理がある。
そんな俺たちの様子にレフォムも流石に気付いて、しまったという表情を浮かべる。
「すいません。いきなり一方的にあれこれ言ったりして。謝ります。失礼しました」
「い、いえ、そんな。謝ることではないと思います。でも」
「何でしょうか?」
「何というか……凄いですね。観るだけで、そこまで分かってしまうなんて」
「いえ、悪い癖です。必要ない時もやってしまう」
「そうなんですか?」
「口に出さなければいいんですけど、いやはや、なにぶん喋らないで考えるのが苦手なもので」
レフォムはサラにそう言ったが、俺は未だに状況と情報を整理するため苦労している最中だった。
彼が最初に言った言葉。
あれはどういう意味だったんだろうか?
レフォムはもう牧師ではないが、牧師の格好をしている。
その理由が、俺がこのベルトを着けているのと同じ理由だと言う。
従者の証のサスペンダーと同じ色のこのベルトを。
「そうだ、タカカゼって人を知ってますか?」
「タカカゼさんですか? はい、知ってますけど」
ということは、つまり。
もしかしたら彼は、俺がかつては従者であったが、今は従者ではないと思っているのか?
俺はそれを確かめようとした。
「どこに居るか分かります?」
「いえ、分かりません。というより、全然見てないんです」
でも、その寸前に、俺は怖くなった。
彼がもし本当にそう思っていたとして、俺はそれを否定しきれる自信がなかった。
俺は自分のやってきたことを、そしてやろうとしたことを考えたとき。
今の俺には、ディア=ローランドは紛れもなく従者であると、そうは言えそうになかった。
「居ないんですか? じゃあ、最後に見たのはいつですか?」
「たしか、一週間くらい前です」
「そうですか。じゃあもうじき帰って来るでしょうかね」
そしてまた幾つもの始めて聞く言葉が、俺を混乱させていた。
教皇、主教、皇帝。
彼はさも後ろのふたつも教皇猊下と同じ存在のようにして言っていた。
エンパル神の地上における代理人の教皇猊下と。
唯一無二の存在であるはずなのに。
一体どういうことなのだろう?
「何か、あったんですか?」
「分かりません。でも何かあったんでしょう。彼に呼ばれたんです。ここに来てほしいと言われたんですが」
「タカカゼさんは何をしてるんです?」
「さあ、何でしょうね。僕も全部は知りません。それと、そうだ。タカカゼさんを知ってるってことは、ユウラのことも分かりますよね。彼女は居ますか?」
「ユウラさんも同じです。今はここには──」
「居るわよ」
背後からいきなり声が聞こえて、サラとレフォムのやりとりを傍観していた俺は仰天した。
振り向くと果たして、開け放たれたドアに背を預けて銀髪をたなびかせる少女が立っていた。
「久しぶり。レフォム」
「お変わりないようで。何ひとつ」
「うらやましい?」
「いえ、全然」
ユウラの体で型を取ったかのようにぴったりな紺色の長ズボンと灰色のシャツは、前に会ったときと同じもののようだった。
まるで冬の山肌みたいに飾り気のないその中で、彼女の蒼い目は宝石のように深く煌めいていた。
「タカカゼに呼ばれたんだって?」
「おや、立ち聞きしてたんですか?」
「人聞きの悪いことを言わないで頂戴。こんなところで喋ってれば誰でも聞こえるわ」
「なるほど。では、中に入らせてもらえます? それと、少々食べ物も頂きたいですね。一昨日から何も食べてない」
「それならサラ、貴方の出番ね。ついでに私の分も頼めるかしら?」
「え? あ、はい。分かりました。今、すぐにやります。ディアも食べるよね?」
「ああ、よろしく」
思いがけない申し出もサラは快く承諾し、レフォムに一礼を残して家の中へ駆けて行った。
「サラさんは料理がお得意なのですか?」
「はい、それはもう。レフォム様もきっと気に入ると思いますよ」
「それは楽しみです。しかし、そうなると……おっと失礼、先程反省したばかりでしたね」
レフォムはバツの悪そうに肩をすくめる。
「ああそれから、僕のことはレフォム様なんて呼ばなくていいですよ。レフォムで構いません」
彼はサラの後を追って小走りで家の中へ。
レフォムは今一体何を言おうとしたのだろうか、と考えそうになるが、俺は首を横に振ってそれから離れる。
実際問題、俺も空腹を感じてきていたし、今考えなくても別にいいと思ったからだ。
サラに結局思いを伝えられなかったことを俺は改めて悔やんだが、それももう仕方なかった。
きっとまた機会は訪れるはずさ。
しかし、戸をくぐろうとしたそのとき、さっきからずっとドアに寄りかかったままで居たユウラのことが気にかかった。
「ユウラ、ちょっと聞いてもいいか?」
「何かしら?」
「いつの間に、そこに?」
「あなたが気付かないうちに」
「魔法でも使ったのか?」
「どう思う?」
彼女はこちらに視線も寄こさず短く答える。
その姿には威圧されるものさえ俺は感じて。
「いや……分からない」
「そう。話はそれだけ?」
ユウラは俺に向き直る。
首を上に傾け、彼女は俺の目を真っすぐに見つめてくる
その目が金色に見えたのは、やはり俺の勘違いだったのだろうか?
「ユウラ、あんたはいったい……何者なんだ?」
すると彼女はくすりと鼻を鳴らし、幼い弟をあやす姉のように笑って言った。
「私は、私よ」
大小不揃いのそら豆に、丸く切られた人参に、丁寧に細かく刻まれた薬味の野草。
スープの味付けは俺には細かいことは分からないけれど、大急ぎで作っていたことを思えば十分すぎるくらいの出来だと思う。
だが、それでも問題はあるのだ。
なぜか二つも転がり込んでいた人参をどう片づけようかということが、俺の今の心配事だった。
「はい! たくさん食べて下さいね」
「ありがとう、サラ」
一つなら我慢して食べられるが、二つとなると工夫が必要になる。
サラが作ってくれたからには何が何でも残すなんてことはしたくはないが、どうしたものか。
「……ディア、どうしたの? 何か変だった?」
「いやいや、そんなことないよ。うん、おいしいよ、本当に」
覚悟を決めた俺はひとつめの人参を口に放り込む。
俺がそれとひそやかな苦闘を繰り広げていると、あっという間に一杯を飲み干していたレフォムが俺の横で声を上げる。
二日間何も食べていなかったというのは本当のようだった。
あるいは、細い体つきに見合わず結構食べるタイプなのかもしれない。
「これはおいしい! サラさんのこのスープ、私が今まで食べた中で一番です」
「そんなことないですよ。でも、喜んで頂けてよかったです」
「いくらでも食べられそうです。もう一杯頂けますか?」
「ええ、どうぞ」
サラもこの手の言葉に対する返答が随分と上手になった。
かといってその笑顔はまだまだ本物。
褒められて当然と思わないのがサラらしい。
鼻歌交じりにスープをよそうその姿にはこっちも楽しくなる。
「まだ一週間だけど、アピオフにはもう大分慣れたようね」
「はい、おかげさまで。皆さん本当に親切で。ね、ディア?」
「え? あぁ……そうだな、うん」
「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめんごめん、ちょっとまだ眠くてさ」
人参と入れ違いに飛び出した嘘を糊塗しようと、口を手で隠して欠伸のふり。
そのついでにこっそりと視線を動かし、ユウラの様子を窺った。
スプーンを右手に持ち、一杯すくっては口元に運ぶ。
髪を気にして時折指先でその毛先をもてあそんでいる。
彼女くらいの年ならば誰もがするようなその動き。
何も奇妙な所などない。
だけど、俺はどうしてもユウラが普通の人とは思えなかった。
先程いきなり現れたことや、向き合うときに感じる名状しがたい雰囲気もそうだが、何よりもあのとき、重傷の俺を一瞬で回復させたことが俺にその疑いを持たせ続けた。
ユウラは何もしていないように振る舞っていたが、きっと強力な魔法で俺に何かしたのだろう。
そうでもなければ、アンプリファイアさえない俺があそこまで魔術の性能を引き出せはするはずがない。
「レフォム」
「何ですか?」
「早く食べた方がいいわよ」
と、ユウラの出し抜けな言葉にレフォムはきょとんとした顔を見せる。
ユウラ自身は彼に目を向けることもなくそれからも一定のペースで食べ続け、それ以上何も言わなかった。
だから特に何でもなかったのだろうと思って、俺が二つ目のパンに手を伸ばした、その時。
レフォムは突然スプーンを机に置いた。
と、彼はまだ半分ほど残っていたパンをいきなり口一杯に頬張り、そして更に鍋から移したばかりでまだ湯気の立つスープを一息に飲み干してしまった。
明らかに熱いのを堪えている表情だったが、彼は早々に口の中のものを全て嚥下すると、皿に残ったスープの具をかき集めてそれも一気に食べてしまう。
「サラさん、ごちそうさまでした」
丁寧なお辞儀と共にそう言うとレフォムは、椅子の背に掛けておいたローブを身に着けた。
俺はサラと呆気にとられて互いの顔を見合わせるばかり。
その時どこからか、がしゃがしゃと金属の擦れる耳障りな音が近づいてきた。
俺がそれは廊下の方からやって来ていると理解した時には、もうレフォムはカバンから取りだしたハンカチで口元を拭き、すっかり準備万端といった感じだった。
ドアが荒々しく開けられる。
そこに現れたのは切り立つ崖のように背の高い鎧の男。
その背には彼よりも大きく長い一本の槍。
少し身をかがめて穂先が天井を傷つけないよう努力をしているのが見受けられた。
その姿を待ちかまえていたレフォムは満面に喜色を浮かべて言う。
「タカカゼさん! お久しぶりです!」
「ああ、やっと来てくれたか。レフォム、お前を待っていた」
「何があったんですか?」
「途中で話す。いいから来てくれ」
タカカゼは相変わらずの低い、しかも鎧越しのくぐもった声で手短に告げた。
その後ろには更に二人ほど男が居る様子。
手には投げ槍を持ち、腰には短刀を提げている。
彼らの様子に何か喫緊の事態が迫っているのだろうことは俺にだって分かった。
レフォムもそう思ったのだろう、彼は何も言わずにカバンを掴むと踵を返したタカカゼについて行く。
「待って頂戴」
しかし再び、ユウラは唐突に口を開く。
タカカゼは彼女に向かって唸る。
されど無視しなかったということは、ユウラの方がタカカゼよりも上なのだろうか?
「何だ」
「私にも話を聞かせてくれるかしら?」
「ユウラ、俺は急いでるんだ」
「なぜ?」
「終わったら教える」
「今聞かせて」
タカカゼは振り向いてユウラと相対する。
沈黙というには、二人の間はあまりにも鋭すぎていた。
それは二人の横で座っているだけの俺にも伝わってくる。
まるで氷の針を全身に突き立てられたような感覚。
それが何秒続いただろうか。
ふと、タカカゼはすぐにまた元の方向へと向き直ってしまった。
彼も俺と同じものを感じたのだろうか?
そしてより小さな、静かな声で彼は言った。
聞き取れたのは僥倖としか思えないほどの。
「グレテニアで戦争が起きる。レフォム、行くぞ」
タカカゼは来た時と同じように二人の男を引き連れて、鎧を鳴らして去って行った。
レフォムは一瞬だけ、眉をひそめてユウラのことを見やった後、俺とサラに会釈をしてタカカゼの後を追っていった。
「……戦争?」
ドアが彼らの後を追って閉まった時、俺はそう呟いていた。
「ユウラ、何の話なんだ?」
「何の話も何も、文字通りよ」
「だけど戦争なんて、そんな言葉、お話の中だけのものじゃないのか」
「あなたがそう思うなら、そうね」
「教えてくれ、ユウラ」
「あなたは」
ユウラはそこで言葉を切り、スプーンから手を離す。
「騎士団が何をしていると思ってるの?」
「異端者の征討じゃないのか?」
「その通り。サラ、ありがとう。ごちそうさま」
「どこへ?」
「私も行かなくては。タカカゼの言ったことが本当なら」
「待ってくれ!」
ユウラが立ち上がったのを見た俺は、声を張り上げて彼女にに寄りすがった。
彼女は、いや彼女たちは俺の知らない何かを知っている。
それは明らかとしか言い得なく、そして同時に、俺にはもう耐えられないことだったのだ。
フェアレラに居た時俺は何も知らなくて、フィリアに護ってもらってばかりだった。
彼の従者でありながら、傍に居ながら、俺は彼を支えることもできず、サラを護ることさえもひとりでは出来なくて、本当に無力な存在だった。
「俺も……行かせてくれ」
これまでずっとそうだった。
これからもずっとそうでなくてはいけないのか?
ユウラ達に助けられて、彼女たちに護られて、自分では誰の力にもなれないままで。
だからサラを護れなかったんじゃないのか?
サラに俺の傍に居てもらうことが出来なかったんじゃないのか?
そんなことはもう嫌だった。
俺は変わりたかった。
ほんの少しだけでも、一歩だけでもいい。
ユウラはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「来たいのならば来ればいいわ。でも忠告はさせて。あなたはきっと後悔する」
「何でだ」
「いつだって現実というのはそういうものだから。百年前も、百年先も変わらない」
「それでも構わない。今を逃したら、多分……俺は変われない気がする。たとえ百年かかっても」
「……そう」
俺は彼女の視線に耐え続けた。
一時間にも思える三、四秒。
「なら行きましょう。だけど、少し寄り道をさせて頂戴。それが貴方には必要だから」
「構わない」
そう言ってユウラは部屋を去り、後には俺とサラの二人が残された。
俺はそこでようやく、サラがじっと俺のことを見つめていることに気がついた。
彼女は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ディア……」
俺の心は再び揺れる。
ここにサラを一人残していってしまっていいのだろうか?
「ごめんね、サラ。ちょっと一人にさせちゃうかもしれないけど──」
「ねえ、どうして?」
「どうして、って?」
「変わりたいなんて……私は、ディアはディアのままでいいと思うのに」
サラの言葉は嘘ではないだろう。
俺までも泣きたくなってくる。
それでも、俺は決断したのだ。
俺はもう無力な自分を許せなかった。
今少し、彼女を悲しませてしまうかもしれない。
でもいつか、彼女を笑わせられるようになるために。
「もう、護られてばかりは嫌なんだ。護れるようになりたい。誰かを頼るばかりじゃなく、頼られるようになりたいんだ。だから……」
「そんなことない! 私も、フィリアも、みんなディアのこと──」
「行くの? 行かないの?」
俺が来ないので戻って来たのだろうか、ユウラの短い問いがサラの言葉を遮った。
「ああ、行く」
「急ぎなさい」
「大丈夫だよ、サラ。心配しないで。あとできればビュレットの奴に謝っといてくれないかな? 今日は行けない、ってさ」
何かを言わずにはいられなくて、彼女の両肩に掌を添えて俺はそう伝えた。
未だ目の端に雫をたたえていたが、サラは小さく頷いた。
「早く戻って来てね」
「分かった」
「それで、一緒に帰ろうね」
「ああ」
「ディア、約束して」
「……約束する」
俺は遂に、掌に爪を食いこませてサラを振り切り、ユウラに続いて部屋を出た。
「偉大なる神エンパルよ、どうか、彼の者を三つの垣根で護りたまえ。どうか、彼の者に……」
半身で閉じたドアの向こう側で、サラは両手を組んで祈っていた。
(以下短編。全体の半分くらいまでしかサルベージできず)
そろそろ、雪が降る頃だろうか。
吐く息の白さを試しながら、俺は数十枚の書類を抱えて尖塔の螺旋階段を上っていた。
上着を着込んで来たがそれでも寒い。
本来仕事中はサスペンダーが見えるようにしていなければならないのだが、そんなことは言っていられないくらい。
フィリアなら多分それで構わないと言ってくれるだろうと踏んで、俺はこの真新しい上着を持ってきた。
「フィリア?」
俺は彼の名を呼び扉を叩く。
「ディアか。うん、入っていいよ」
許可を得た俺はドアを押し開き、中に入る。
大きな窓からの朝日が目を差す。
それを背負ってフィリアは既に机の前に構えていた。
「おはよう。ディア」
「おはよう」
「あれ? 君、そんな上着持ってたっけ?」
「この前買ったんだ。前のがもう小さくてさ」
「何だ。言ってくれれば僕の前のをあげたのに」
「お前のじゃ大きすぎる」
「そっか、それもそうだね。てことはそれ、ランカシェが作ったのかな?」
「いや、これはファンドレの」
「ファンドレが? 珍しいね」
「だな。あいつもこれだけ作れるんだから、もっと普段から真面目にやればいいのに」
「そうだね。でもそこは人それぞれじゃないかな」
「まあ、だろうな」
仕立屋の兄弟の顔を思い浮かべて俺は頷いた。
兄のランカシェと弟のファンドレ。
本当に兄弟かと疑いたくなるほど性格が真逆なあの二人。
ランカシェが働き者だからファンドレがほとんど働かないのか、ファンドレが怠け者だからランカシェがあくせく働かなければならないのか。
どちらが真実かは本人たちの間でも結論が出ていない。
「じゃあ、始めようか?」
「ああ、頼む」
俺が束になった書類を見せて言うとフィリアは机に向かい、ペンとインク壺を取り出す。
彼はインク壺を開けようとしたが、冷えてしまったからだろう、なかなか開こうとしてくれない。
「開けようか?」
「いいや、大丈夫」
フィリアと向かいあう位置の俺は、ポケットの中の手袋に手を伸ばしてそう訊くが、彼はその手元を見つめながらそう言った。
彼は目を閉じると、両の掌で優しくインク壺を包み込む。
「巡れ、炎。我が手の中<うち>に。温<ぬく>き恵みをここにもたらせ。『ジカロリア』」
炎魔法は何も火を操ることだけが取り柄ではない。
火が放つもの──つまり、熱を制御することもできるのだ。
もちろんそれは単純に火を扱うことよりも遥かに難しく、自由自在に、微細に至るまで御しようとなると相当な熟練を要求するらしい。
フェアレラに百余名居る正騎士の中でも出来るのは十名に満たないと言う。
そしてフィリアは、その僅かなうちに含まれている。
俺は何も言わずにポケットから手を出した。
「これでよし、と」
少し経って、呟いた彼はぐっとその手に力を込める。
ぽん、と小気味さえいいほどの音が部屋に響いた。
「それじゃ、ディア。まずは何があるかな」
「まずは……そうだな、東門の城壁が一部壊れかけてるらしい。直してほしいんだそうだ」
俺は紙束の一番上にあったその内容をかいつまんで説明すると、それをフィリアの目の前に置く。
内容を一瞥したフィリアはすぐに決断を下す。
「ああ、それはこの前見てきたよ。確かにひどかったね。あれは早く直した方がいい」
「じゃあ、誰に頼むかだけど」
「カルペたちにしよう。場所も近いし、明日中には始めてくれるだろう。ディア、印章を」
フィリアに促された俺は手元の書類を机上に置き、フィリアに向かって右側にある戸棚の最上段に手を伸ばす。
奥まった所にある、褪せた朱色の箱を持ち出した俺はそれを慎重に机に置き、蓋を開ける。
署名と押印を除いては既に俺が仕上げておいた令書を前に、フィリアは箱の中身を取り出した。
水晶だろうか、何か透明な素材で出来た四角い印章。
フェアレラの歴史が始まった頃からずっと、騎士団長の令書の証として使い続けられているのだという。
今はフィリアだけが使うことが許されているそれは、町では何か強力なアンプリファイアに違いないだなんてまことしやかに噂されているが、そんなことはないと彼は言っていた。
フィリアは印章の向きを確認すると、先ほどインク壺にしたのと同じようにそれに熱を込めて紙に押し付ける。
そして彼が手を上げると、そこには騎士団の旗と同じ、二つの雲の上に輝く太陽が浮かび上がっていた。
「いつも思うんだけどさ」
「何?」
「よく焼き切らないよな、それ。焼印みたいなものなんだろ?」
「いや、やってみると結構簡単だよ、これ。僕もよく分かってないんだけど、昔からずっと使われてきたからかな、うまい具合になってくれるんだ」
「そういうもんなのか」
「多分ね。やってみる?」
「遠慮しとく」
そもそも炎魔法の心得が全くない俺がやったところで、フィリアと同じように出来る気はしなかった。
ましてそのことを抜きにしても、俺は従者だからそんなものを触ることさえ畏れ多いというのに。
フィリアもやはり冗談のつもりだったのだろう、俺の反応にふっと笑みをもらすと、すぐにまた団長としての表情<かお>をしていた。
「ディア、次は」
「次は……アレイの区長からの請願だ」
「アレイ? また何かあったのかい?」
「冬が本格化する前に森に入って木の実と薬草を集めてきたい。その許可が欲しいと言ってる」
「ああ、そういうことか……そんなことしなくていいのに。だって今回の税の滞りはアレイ地区の人の罪じゃない。夏に用水路が壊れて、それで畑が水浸しになったせいだよね?」
「まあ、そうだな」
「壊れたのに気付けなかった僕も悪いし、大体畑が駄目になって辛い思いをしてるのはあっちなんだ。僕たちじゃない」
「じゃあ許可しないということでいいか?」
「ああ、それで──いや、ちょっと待ってくれ。やっぱり許可しよう。日にちは今月の十五日。日が昇り始めてから沈みきるまで」
「今月の十五日。日が昇り始めてから沈みきるまで」
数少ない、俺の活躍できる瞬間。
フィリアの言葉を復誦しながら俺は令書に書き記す。
「それから、そこで得たものは全て彼らのものにするように」
俺はその言葉に耳を疑った。
俺とフィリアの、どちらが正しいか。
そんなことは分かり切ってる。
「本当にそれでいいのか?」
それでも、そう尋ねることは従者としての俺の責務。
「ああ。構わない」
「分かった。……そこで得たものは、全て彼らのものにするように」
俺の手はそれを丁寧に、一言一句違わぬように書き留めてゆく。
令書を渡されたフィリアは既に水晶の印章を持っていて、手早く押印を済ませた。
「念の為に、そうだな、二人くらい騎士を一緒に行かせよう。それは僕が頼みに行くとして、ディア、次を」
俺が考えつきもしないことを思いつき、俺が出来ないと思っていることを出来ると感じている。
これでいったい何度目だろう。
それでも思わずにはいられなかった。
俺が何をしても、こいつには及ばないんだって。
「ディア?」
「あ、ああ。次か、次はな」
不自然な空白を補おうと俺は慌てて書類の山に手を伸ばすが、慌てすぎた。
あっと声を上げたときにはもう遅く、それらは耳障りな音を立ててばらばらと床にこぼれ落ちていた。
「悪い。すぐ拾うから」
自分を責めながら床に散らばった請願書と令書をかき集める。
そのとき、ノックの音。
どちらを優先するか。
俺が少し迷った間に、いつの間に立ちあがっていたのだろうか、フィリアがドアを開けていた。
「おはよう、フィリア」
サラの声。
俺は真っ青になる自分が見えた。
必死になって腕の動きに拍車をかける。
「おはよう、サラ。どうしたの?」
「食事の用意ができたから。どうぞ、温かいうちに」
「ありがとう。すぐに行くよ。じゃあ、あと一つだけ済ませたらね」
「分かった。ディアもそこに居るのかしら?」
「ディアも居る。二人で一緒に行くから、そうだな、五分もかからないと父上たちには伝えてくれる?」
「うん、ちゃんと伝えておく。早く来てね。寒いから、温かいものじゃないと身体に悪いわ」
「大丈夫。君こそ、城の中でもきちんと上着は着た方がいい」
「フィリアもね。ありがとう。じゃあ、また後で」
幸いなことに、サラはその言葉を残して去って行った。
ちょうどドアが閉まると同時に俺は書類を集め終え立ち上がり、机の端でその容姿を整えてやる。
そこで気付いた。
迅速な結果の代償に、その順序まではまったく気が回ってなかったことに。
さっき一番上にあったものを捜すが、正直言ってそれがどれかなんて分からない。
「もうそんな時間だったんだね。とりあえず、あとひとつやったら今は終わりだ。さ、ディア」
促され、俺は諦めた。
どうせ全部やるんだから、順番など大した問題ではないだろう。
むしろサラにさっきの不甲斐ない姿を見られてしまったかどうか。
結局そのとき一番上にあった請願書に目を落とし、俺は言う。
「えーっと……商店街の方から。今度の降臨祭の準備についての会議をいつやるか、だそうだ」
「いつやるか、か。そこには希望は書いてないのかい?」
「書いてない」
「僕はいつでも構わないんだが、それだけじゃちょっとあれだな。ディア、あとで商店街まで行って、向こうから都合のいい日時を聞いて来てくれないか? それから正式な返事をしよう」
「ああ、分かった。午前中にやっておこう」
「いやディア。午前中は僕につきあってもらわなきゃ困る」
「え? 何かあったか?」
「君が来てくれなきゃ誰が僕の剣を持ってくれるんだ」
「練場に行くのか? 腕の傷はまだ治ってないだろう」
「大丈夫大丈夫。やっているうちに治るさ」
「だったら、俺はいいけど」
「悪いね。そう休んでも居られない。というわけでさ、まあ今日中にやってくれればいいからさ」
「分かった。それはそうと、準備の責任者は持ち回りだよな。誰の所に行けばいいんだ? 雑貨屋のキールか?」
「それは去年だよ。今年は本屋のヴィッテンベルク。ほら、君のよく行ってる」
「ああ。分かった分かった」
フィリアにそう言われて、俺はぱっとふたつの顔を思い浮かべる。
ふたりともよく知っている。
だから『従者』として振る舞わずに済むだろうと思い、俺は途端に気が楽になった。
「頼んだよ。ディア」
「了解」
「じゃあもう行こうか。しかし駄目だね、すっかり寒いや。雪でも降りそうだ」
「積もるくらい降ればいいけど」
「そんなに降ったら大変だよ」
「一回くらいは見てみたいんだ」
「ディアは見たことなかったっけ。でもずっと願っていれば、神様がいつか叶えて下さるよ」
「そうだな。……いつか、な」
寒風が差し伸べる手を振り払うように、俺は後ろ手でドアを勢いよく締めた。
ドアに着けられた鈴がそれに抗議するように鳴り響く。
「はいはい、いらっしゃいませ。今うかがいます」
しゃがれ気味の声の持ち主は鈴の音を聞きつけ、一段ずつ、踏み外さないようゆっくりと階段を降りてくる。
俺は上着のボタンを外し、内ポケットに請願書が在るのを確認すると、彼がカウンターの所まで来るのを待った。
その白髪をきちんと一方向に揃えてくしけずった老人。
サンシェ=ヴィッテンベルクの小さな目が俺をとらえていた。
「おぉ、ディアじゃないか。いらっしゃい」
「こんにちは。サンシェ」
「今日はどうしたんじゃ? もう仕事は終わったのか?」
「いや、そんなことないさ。むしろ仕事で来たんだ」
俺は請願書を取り出し、サンシェに見せる。
「今年の降臨祭の準備担当、あんただよな?」
「そうじゃ。まだ何も始まっとらんがな」
「準備についての会議だけど、フィリアはそっちの都合のいい日でいいと言っていた。いつくらいがいいか、教えてくれないか?」
「何? こちらの都合のいい日じゃと?」
「ああ。フィリアはそれでいいと」
「……弱ったの。こちらとしては上が仰った日時に全員の予定を合わせるつもりじゃったから、その辺りの話は何もしとらんのじゃ。
さて、どうしたものか。ディア、上は本当にそれ以外何も仰ってないのか?」
俺は頷く。
サンシェは短くため息をついた。
「分かった。今から商店街の連中で集まって話をしてくる。なるべく早く結論を出してくる。それでも大丈夫か?」
「大丈夫だ。ありがとう。サンシェ」
「しかし、上も本当に不思議なお人じゃな。あれほど才に恵まれておられるのに、出来るだけは我々に任せて下さる。
正直、上に決めて頂いた方が万事首尾よく行く上、我々同士で揉めたりせずに済むのじゃがな」
俺は苦笑せざるを得なかった。
サンシェの言うことももっともだったから。
フィリアの判断はいつも的確で、それはフィリアが団長でなかったとしても、誰も間然するところのないもの。
それどころか、フィリアは団長であるのだから、いよいよそれに従う方が楽なのだ。
だけどフィリアはそれを望んではいない。
「僕は今まで正しいことをやってこれたと思う。だけど、これからもそうである保証なんてどこにあるんだい?」
かつてサンシェと同じことを言った俺に、フィリアはそう答えた。
確かに保証はない。
でもそう思わずにはいられない。
俺だけではなく、フィリア=インスカイと言葉を交わしたものはみなそう言うのだ。
「サンシェ、俺も行った方がいいか?」
「いや、大丈夫じゃ。それより……ここに居てくれんかの?」
「いいけど、何で?」
「ユーリンのやつが心配でな」
「ああ……」
サンシェのトーンを落とした声に、俺は彼女の顔を思い出しながら頷いた。
「分かった。ここで待たせてもらうよ」
「よろしく頼むぞ。さて、ユーリン! おーい、ユーリン!」
階上に向けてサンシェは呼ばわる。
と、ガラガラとドアが開く音、数回咳込んだ音が聞こえた後に女性の声が返って来る。
「何? おじいちゃん」
「ちょっと用ができてな。出かけてくるから、その間店を見ててくれ!」
「分かったわ。今行くから」
階段を降りてくる音。
意識しなければ分からない程それは小さかった。
「じゃあ行ってくるぞ。ユーリン、気をつけてな!」
「おじいちゃんの方こそ。気をつけて。行ってらっしゃい」
サンシェはそう言い残すと店を出て行った。
再び鳴る鈴の音。
背中に吹き付ける風は相変わらず。
吹き飛ばされかけた請願書を慌てて押さえ、なくさないよう内ポケットにしまいこむ。
俺がポケットのボタンをかけ終えると同時に、彼女が姿を現した。
高価なインクで描いたように艶のある、腰のあたりまで伸ばした黒髪。
細い眉の下で光る小さな茶色い目はサンシェとよく似ている。
薄黄色した大きめのトレーナーに、あちこち継ぎのある踝までの長いオレンジ色したスカート。
上質の絹と同様に白い肌は、その手先と顔ぐらいしか露出していない。
だがそれほどまでにしなければ、彼女は無事に冬を過ごすことなどできないだろう。
「あら、ディアじゃない。何で居るの?」
「居たっていいじゃないか」
「お客様ならね」
「悪いな。今は仕事中だ」
「本当に?」
「本当だ。……何だよ、その顔は」
「何だと思う?」
「分からないから、聞いてるんだけど」
「せっかくだから何か買ってってもらえないかなーって」
「はいはい」
「ん、その返事は買ってくれるってことよね。ありがとー、ディア。おねーさんは嬉しいわっ」
その声は心の底から嬉しそうな響きを持っていたが、耳を疑った俺が改めて彼女の顔を見やると、やはり、その口元は意地悪そうに緩んでいた。
今の彼女の表情は、悪戯好きの子供が大成功を収めたときのそれと同じと言っても構わないだろう。
決してユーリンは口を開けば人をからかうような、そんな奴ではない。
だが俺に対してだけは、こうなのだ。
理由を聞いたことがある。
その答えを聞いて俺は諦めた。
「……楽しそうだな、ユーリン」
「ええ、楽しいわよ。ほんっとに楽しいわ」
そしてどうやら、まだそれは変わってないようだった。
「まったく。まあいいけどさ。でも今は一枚も価符を持ってきてないから、また今度な」
「忘れちゃダメよ。ふふ……あ、そうだ、ちょっと待ってて。何かあったかいの淹れてくるから」
「あ、待って。いいよ、俺が行く」
「いいわよ、お客さんはお客さんらしくしてなさい」
「いや、俺がやる。お前は座ってろって」
「あらあら、どうしちゃったのかしら。こんなに優しいディア、初めて見た」
「馬鹿にするんじゃない」
「冗談よ、冗談……ありがと。そうさせてもらうね」
ユーリンは俺にそう言うと、カウンターのそばに置かれた木の椅子に腰を下ろした。
俺はその傍を通り抜け、店の奥──ヴィッテンベルク家の生活空間へ足を踏み入れる。
何度も来たことはあったので、記憶を手繰り寄せながら俺は居間と思しきところを捜す。
幸い俺の記憶力はまだ衰えてなかったようで、一発でそこへとたどり着く。
「まだ、お湯があるんだろうな」
ユーリンの口ぶりから俺はそう判断。
フィリアがやるならいざ知らず、普通の人がお湯を沸かそうとすれば時間がかかる。
周囲を見まわした俺は、熾火<おきび>が最期を迎えようとしているかまどと、その上に堂々と置かれた、まだ蒸気が残っている鍋を見つけた。
昼食の片づけはまだだったのだろう、ご丁寧に鍋の横にはお玉も置いてある。
俺は食器棚からカップをふたつ調達すると、それでお湯を注ぎ入れる。
それから棚の隅の方を捜し、三段になった小さな引き出し箱に手を伸ばす。
確かユーリンが好きなのは一番上の奴だったなと思いつつ、そこから乾燥した、細かく刻まれた葉をひとつまみお湯の中へ。
この葉はさして味があるわけでもないのだが、ユーリンが言うには香りがもっともいいらしい。
どれも一緒だろ、と言ったら人でなし呼ばわりされて泣きたくなったのを思い出した。
俺は慎重にコップを持って、ユーリンの元へと戻った。
「ユーリン、はい」
「あ、ディア。ありがとう」
彼女はすぐにはお茶に口をつけず、しばらく口元にカップを寄せて香りを楽しんでいる様子。
俺はそんなユーリンを見やりつつ一口飲む。
丁度いい熱さだった。
「うん、ちゃんとこれにしてくれたんだ。えらいえらい」
「そりゃあどうも」
「ねぇそうえいばさ、ディアそんな上着持ってたっけ?」
「この前買ったんだ。ファンドレ謹製の貴重品だ」
「ファンドレ……ああ、弟の方ね」
「そう、あの怠惰将軍ファンドレ」
「大分上等ね。高そう」
「まあ、それなりかな」
「じゃあ、なんでその分をうちの本に使ってくれなかったのかしら?」
「だってこの前買ったじゃん」
「まだいっぱいあるわよ、ほら」
「無い方がおかしい」
「半分くらい買ってきなさいよ。ここからあそこまで」
「どうやって持ってくんだ。それより、薬飲んだのか?」
「あ、そうね。今から飲むわ」
歳はユーリンの方がひとつ上。
だから彼女は俺に対してはどこか姉のように振る舞おうとしている節がある。
しかし、俺は無条件に──それこそ言うなれば弟のように──彼女に甘えてみるわけにもいかない。
ユーリンは生まれつき病を患っている。
心臓の病を、だ。
そのために外で駆けまわることなどおろか、外出さえも満足にできないし、普段の生活の中でも身体に負担をかけないよう種々の制約が課せられている。
俺なんかよりも遥かに土魔法に通暁した牧師様が、薬草の粉末に魔力を込めて作って下さる薬を飲み続けなければならないことも、そのひとつ。
好きなだけ本を読んで暮らせる本屋の娘として生まれたことは、彼女にとってはひとつの救いだったのかもしれない。
「そういえばディア、仕事って?」
「サンシェが帰って来るまでここで待機、かな」
「さぼってたらフィリア様に叱られるわよ」
「大丈夫。あいつも知ってる。大体さぼってないし」
「こんな美しいおねーさんと二人っきりでお茶しててさぼりじゃない、なんて言われてもねえ」
「事実だからしょうがない」
「あたしが美人ってことが?」
「さぼってないってことが」
「ふふ……ねぇ、おじいちゃんは何しに行ったの?」
「まあ、大したことじゃないよ」
「ね、何? 教えてよ」
だから、ユーリンは生まれてこの方お祭のような、普通の連中ならおおはしゃぎできるイベントに参加できたことは一度もない。
ゆっくりに歩けしかしない彼女が雑多な人ごみの中に紛れたならどんなことが起きるか分かったものではないし、そこで発作など起こされたら誰がどうするというのだろうか。
そしてお祭りの中でも、とりわけこの降臨祭については、サンシェが責任者のひとりとして祭中家を空けなくてはならないので、ユーリンが好いているわけがなかった。
俺は少し間をおいて、手元の水面に視線を落として答えた。
「降臨祭についての話し合いだよ」
「ああ……そっか、もうそういう季節だもんね」
案の定、言葉が途切れてしまった。
どうしようかと思うが、なかなかいい案もない。
「ねぇ、ディア」
何、と言おうとしたとき、勢いよく鈴が鳴り響いた。
ぱっと振り向けば、十数人ほどの子供が我先にと店に入って来るところだった。
「こんにちはー!」
「あ、ユーリンお姉ちゃん!」
ユーリンはその声を聞くと座ったまま軽く手を振り、小さな客人を笑顔で迎え入れる。
「みんな、こんにちは」
「今日は何のお話してくれるの?」
「楽しいのがいい!」
「牧師様のお話みたいなのはやだ!」
「大丈夫よ。ほらみんな、騒がない騒がない。……何してんのよディア、どきなさいよ、そこ」
彼女は俺を睨みつけて言ったが、俺が動く前に子供たちが俺の周囲に、つまりユーリンにもっとも近い位置に集まって来ていたのだ。
この子たちは学校から帰る途中にここに寄り、ユーリンから様々な話を聞くのを楽しみにしている。
少しだが、俺の知っている奴も居る。
「ディアお兄ちゃんも居る! こんにちは!」
「ああ、こんにちは。悪いな、ちょっと通してくれ」
「ねぇお姉ちゃん、この人誰?」
「リエンは会ったことなかったっけ? ディアっていうのよ。お姉ちゃんの友達。ほら、あいさつしなさい」
「はい。はじめまして、ディアお兄ちゃん」
「はじめまして。よろしくな」
ぺこりと自然に頭を下げた姿に、俺はなんとなく安心できるものを感じていた。
俺は子供たちから離れて、少し下がった所に。
「さ、みんな居るわね。今日のお話は、竜と戦った騎士様のお話よ。それじゃ、始めるね」
子供たちはそれに大きな拍手でこたえた。
それが落ち着いてくると、ユーリンはゆっくりと語り始めた。
「ある晴れた日のことです。王様は国中の騎士を城に集めました。集められた騎士は、きらきら光る冠をかぶった王様に言われました。
『今日はこの国でもっとも勇気のある者を決めてもらう! そしてその者は私の娘と結婚して、私の次の王となるのだ!』
それを聞いた騎士たちはわあっと歓声をあげました。なぜなら、王様の娘はこの世の誰よりも美しい人だったからです」
「どれくらい綺麗だったの?」
「ばか、お話の邪魔するんじゃないの!」
「でも気になるよ」
「こらこら、リエン、クロス。二人ともケンカしないの。そうね、きっとお姉ちゃんくらい綺麗だったんじゃないのかな?」
俺はとっさに口が動きそうになったが、店から追い出されかねないので黙っておいた。
我ながら立派な自制心を持っていたものだと感心していると、ユーリンはお話を再開する。
そのうちに俺自身も、彼女の朗々たる声の調子や抑揚をつけた節回しに引き込まれていった。
「さて、歓声がおさまってくると、王様はこう言いました。
『自分が一番だと思うものは、北の山へ行け。そして勇気の証に竜の牙を持ちかえって来るのだ』
それを聞いて、騎士たちは真っ青になってしまいました。泣き出す者も居ました。
なぜなら、北の山の竜は鋭い爪と黒い炎で人を殺す、恐ろしいものだったからです。
今まで多くの騎士が挑んできましたが、誰ひとりとして帰ってはきませんでした。
しかしそのとき、一人の騎士が大きな声を上げました。『王よ、我に一振りの剣を授けたまえ! その剣で我は竜を撃ち破って見せよう!』
王様は騎士の勇気に深く感動して、なんと、自らの宝物の銀の剣を騎士に与えました。
鋼の鎧を身に付けた騎士は王様に深く礼を返すと、他の騎士が止めるのも聞かず、北の山へと急ぎました。
騎士は遂に山頂までたどり着きました。そこには邪悪な竜が居ました。
竜は翼を広げ、騎士を脅しました。『小さな人間が何をしに来た。我に食べられに来たのか』
しかし騎士はひるみません。『竜よ、今日こそ貴様の最期の日だ。この剣に貫かれるがいい!』
騎士は剣を抜き、きらりと刃が光りました。竜は邪悪な炎を騎士に吐きかけましたが、銀の剣はその炎を切り裂きました。
竜は鋭い爪で騎士に襲いかかります。騎士は見事な剣さばきでそれを払いのけます。互いに一歩も譲りません。
でも、騎士の方が勇気がありました。
疲れ果てた竜が油断した時、騎士はその一瞬を見逃さないで、高々と掲げた剣を振りおろしました。
竜の鱗は引き裂かれました。雲の上まで絶叫が響きました。噴き出る血はまるで雨のように、そこらじゅうに降り注ぎました。
騎士は勝ったのです。騎士は竜の牙を一本切り取ると、それを懐に入れ、山を下って行きました。
王様は騎士から竜の牙を渡されると言いました。『お前こそ真の勇者だ! さあ、娘よ、お前の夫に顔を見せるのだ!』
王女様は騎士の前にやってきました。騎士は噂よりもずっと美しい王女様にすぐに心を奪われ、王女様もまた勇敢な騎士を一目で好きになりました。
二人は皆に祝福されて結婚し、竜が居なくなったその国は誰もが幸せになりました。
騎士と王女様はいつまでも互いに愛し合いました。もしかしたら、二人は今でもまだ、生きているのかもしれません」
ユーリンはゆっくりと、余韻を残すようにして物語をしめくくった。
そして一拍置いて、空間を押し広げるような拍手が響いた。
「ねぇ、面白かったね」
「うん、面白かった」
「騎士様はやっぱり強いんだ」
「王女様、王女様かあ……」
子供たちは或いは互いの顔を見て、或いはユーリンに向かって口々に感想を言い合っている。
まだ拍手は鳴りやまない。
そんな彼らにユーリンは莞爾として笑っていた。
その表情を見れば、その表情だけを見れば、ユーリン=ヴィッテンベルクは紛れもなく二十一歳の年頃の女性だ。
だけど彼女の病は、彼女にそうあることを許していない。
俺は気付かれないようこっそりと床を蹴りつけた。
神は彼女から幸せを奪いすぎだ、と俺は心の底から思っている。
生まれた時には母方の祖父母は既に亡くなっていて、物ごころつく前に父方の祖母も病に倒れた。
その上、彼女の両親もまた若くして死んでしまった。
ユーリンは五つになる頃には、既にサンシェを除いて血縁の者は居なかったのだ。
そして治る見込みのない病。
本人はそんな自分の境遇を不幸だと思っている気配は見せない。
だけど本当は、どうなのだろう?
ユーリンは本を通して多くの喜劇と悲劇に知り合っている。
そんな彼女が、自分を主人公にした物語を作った時、それがどんな話になるか分かっていないとは俺にはどうしても思えなかった。
しばらくの間子供たちは喋ったり騒いだり、俺にはルールの分からないゲームで遊んだり、好き勝手に過ごしていた。
俺とユーリンはその様子を見ながらたわいないことを話していたが、ユーリンは窓の外が朱に染まり始めたのを認めると、ぱんぱんと手を鳴らして彼らに呼びかける。
「さ、みんな。もう日が暮れるわよ。そろそろ帰りなさい」
「じゃあ、最後にもう一個だけお話して!」
「私も聞きたい!」
「だめよ。今日はもうおしまい。一日ひとつって約束でしょ?」
「でもお姉ちゃん、お願い!」
「だめったらだーめ。遅いとお父さんとお母さんが心配するわ。ほら、早く行きなさい。風邪ひかないようにね」
最初は渋っていた子供たちも、ひとりが外に出て行くと、それに続いてあっという間にみんな居なくなった。
「……連中、元気だな」
「そうね。だから、あの子たちはこんなところに長々と居るもんじゃないわよ」
鈴が鳴り終わり、いきなり閑散とした店の雰囲気に俺はふとそんなことを呟いていた。
「あーあ、あたしが出来ればいいんだけどね」
「何が?」
「縄跳びの縄を回してあげるとか、他にも、色々さ……」
ユーリンの言葉に俺は心臓を掴まれたような気持ちになる。
彼女は笑いながら、伸びをさえして言っていたけれども。
そうだな、出来たら楽しいだろうな。
思いはしたけれども、彼女の表情の前には言葉にできそうもない。
「どうかした? ディア。人の顔そんな見て」
「え、いや、何でもない」
「本当に?」
「本当だよ」
「あ、あんたがすぐに返事するってことは怪しいわね」
「何でそうなるんだよ」
「ほらっ、今も」
「……それにしても、サンシェはまだかな」
「ディア、ごまかそうとしても──」
そのとき、ゆっくりと店のドアが開いた。
サンシェが俺たちに向かって軽く手をかざしてくる。
助かった。
「ユーリン、ただいま。店番ありがとうな」
「おかえりなさい、おじいちゃん。よかったね、ディア」
「ん、どうかしたのか?」
「いや何でもない。こっちの話。サンシェ、話はついたのか?」
「心配無用じゃ。ディアも悪かったな。早い所済ましてしまおう。居間に行って待っててくれ」
「え? ここでいいだろ」
「こっちとしては上の代理人であるお前さんに、一対一できちんと伝えねばならんのじゃよ」
「じゃああたしが奥に行くよ。おじいちゃんたちはここで──」
「駄目じゃ! お前がここに居れ!」
突如、ユーリンの提案を遮ってサンシェは大声で言った。
サンシェは誰よりも、それこそきっと神なんかよりもずっと、ユーリンのことを大切に思っている。
そのことはユーリンだって当然分かっている。
「……うん、分かったよ」
だから彼女も笑って言えるのだろう。
俺はすっかり冷えてしまっていたお茶を飲み干すと、サンシェの後を追って居間に向かった。
「……ありがとう、サンシェ。ちゃんとフィリアに伝えておく」
煩瑣な形式などすべて省略したが、それでも必要な事項をすべてメモし、それらが誤りのないことを確認していれば二十分ほどの時間はかかった。
とはいえ、俺の仕事としてはこれは驚異的な早さではあるのだが。
形式なんて誰が最初に考えたのだろうとよく思う。
「頼んだぞ、ディア」
「ああ、それじゃ今すぐ戻って伝えなきゃ。またそのうち来るよ」
サンシェの記した公式の返書をきちんと折りたたみ、自分でまとめたメモを最後にもう一度確認。
そして俺は立ち上がり、その場を後にしようとした。
「ディア」
「何だい?」
「もうひとつ、頼まれてはくれんか? ああいや、上に何か伝えてほしいというわけではない。単にお前に頼みたいんじゃ」
サンシェは小さな声でそう言ってきた。
話の方向性が見えず俺は多少困惑する。
しかし、サンシェの頼みなら俺は受けてやりたいと思った。
「ああ、いいよ。何をすればいいんだ?」
「降臨祭の日、ユーリンと一緒に居てやってくれんか?」
「え?」
「一緒に居てやってくれるだけでいい。頼めるか?」
少しだけ、俺は迷った。
どんなお祭りのときでも抱く望み。
それはサラと俺が一緒に過ごすということ。
でも、少なくとも今回は、あの二人の間に俺が入ることは出来ないだろう。
フィリアが居る時に開かれるお祭なんて、あいつが騎士になってからは何回あっただろうか。
数えられる程度しかない。
だったらサラはフィリアと一緒に居た方が、きっと楽しいだろうし、嬉しいだろう。
俺なんかと一緒に居るよりも。
「ああ、いいさ」
「そうか。ありがとう」
「でも、何で?」
「心配なんじゃ。今年はわしが全体の責任者だから、あいつに何かあっても行ってやることが出来ん。だから代わりに見ていてやってほしい」
確かにその通りだとは思ったけど、まだ疑問はあった。
「分かった。けどさ、俺じゃなくてもいいんじゃ? 俺なんかより、ランカシェあたりの方がちゃんと見てくれると思うぞ」
「何を言ってる。そうじゃない。お前自身がどう思ってるかは知らんが、わしはお前が一番ユーリンのことを分かってくれてるように思うんじゃ」
「どういうこと?」
「あいつもお前のことをよく話しているし、何よりお前と喋っているときが、あいつは一番嬉しそうなんじゃがなあ」
「サンシェ、それは──」
違う、誤解だよ。
そう言おうとして、俺はその言葉を押しとどめた。
俺は、ユーリンは俺と喋るのが楽しいんじゃなくて、俺をからかうのが楽しいんだと思っている。
でも俺の考えとサンシェの考えと、どっちが正解だったとしてだから何だと言うのだろう。
何であったとしてもユーリンを一人にしておくことより、俺が居てあげる方が彼女にとっていいことのはずだ。
それに俺が誰かの役に立てるんなら、俺だって嬉しいことだ。
「それは、何じゃ?」
「いや、何でもない。分かったよ。ユーリンのことは俺に任せて」
「ありがとうな、ディア。わしもなるべく急いで戻りたいんじゃが、おそらく祭の後、騎士団の方にも顔を出さねばならんのでな」
「構わないさ。そっちは存分にお祭り楽しんでくれよ。よし、それじゃ」
俺はメモの紙の端っこに小さく『ユーリン・降臨祭』とメモを書き入れ、部屋を出て行った。
店の方に行くとユーリンはパラパラと何かの本のページをめくっているところ。
「おーい、ユーリン」
「あ、ディア。仕事は終わったの?」
「終わった。そろそろ帰るからさ、また今度な。お茶ありがとう」
そう言って俺はカウンターの横を通り抜ける。
と、そのとき。
「待って」
「ん、何だよ」
二人してまったく。
そう思いはしたが、無視するのは流石に出来ない。
「あのさ、その……もうそろそろさ、降臨祭だよね」
「ああ」
「その日はあんたは何か、そう、仕事とかあったりするの?」
俺は再び困惑した。
フィリアだって丸一日遊ぶ日なのに、俺に仕事なんてあるはずない。
しかし俺は閃いた。
ついさっきのサンシェとの約束を思い出し、それで少しユーリンをからかってやろうと思った。
普段やられているんだから、少しくらいやり返しても神は怒るまい。
「そうだな……ないはずだったんだが、急にしなきゃならないことが出来て。ちょっと忙しいかな」
「え? そうなの?」
「そうなんだ。その上、一日中やらなきゃならないみたいでな」
「ああ、そうなんだ……てことは、全然暇じゃないんだね」
「そういうこと」
俺は可能な限り自然な演技を心がけたが、頬が緩むことだけはどうにも抑えられなかった。
きっと俺の表情を見ればユーリンも気付いただろう。
だけど、彼女はうつむいてしまい、俺の方を見る素振りなどかけらもなかった。
あまりの様子に俺は何かとんでもないことを言ったのかと不安になり、彼女に呼びかける。
「ユーリン? 俺、変なことでも言ったかな?」
「え、ううん! そんなことないよ。それじゃお仕事頑張りなさいよ、ディア。何か困ったら言いなさい。おねーさんが助けてあげるからねっ!」
しかし、顔を上げた彼女はいつも通りの笑顔だった。
事態の推移を呑み込みきれない俺は、話を仕切り直すタイミングも掴めず、そのままフィリアの元へ向かってしまった。
次に会ったときに言えばいいと思っていたが、その日以降は日々の従者としての仕事に追われてしまい、商店街を通ることはあってもヴィッテンベルク書店には寄れなかった。
結局本当のことを、つまり降臨祭の日はユーリンと一緒に居るつもりだということを言いそびれてしまったまま、俺は降臨祭の当日を迎えることになった。