スクワイア (第6話~第10話)
第六話
あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。
多分、何十秒と経っていない。
でもそれが俺にとっては、今まで生きてきた二十年間に勝るほど大事な何十秒だった。
ああ、どれだけ望んでいたことだろう。
サラが、サラが、俺の腕の中に居る。
白いローブの柔らかな手触りと共に感じる、彼女の温もり。
その薄茶色の髪を撫でいつくしむように俺は抱きしめる。
彼女はまだ嗚咽をかみ殺していたが、大分落ち着いてきた様子だった。
「……ありがとう。ディア。もう、平気だから……」
サラはか細い涙声で俺に告げる。
俺は何も言わなかった。
サラと、離れたくなかったから。
このままずっとサラのそばに居たかった。
少しでも彼女を癒してあげたかった。
護れなかったことを償いたかった。
「……ディア?」
だけど、
サラも俺と同じことを望んでいるかどうか訊かれた時、俺は自信を持って頷けるだろうか。
認めたくなんてなかった。
でも、それがまだ出来ないことを、俺は知っている。
「……うん、分かった」
サラの耳元で囁くように言い、俺はゆっくりと互いの距離をあける。
彼女の顔色はさっきよりもよくなっていたが、かわりにその目は真っ赤に充血していた。
無理もない。
今まで暴力的な争い事とはほとんど無縁だったサラに、あの槍はどれほどの恐怖をもたらしたか、想像するに余りある。
そうだ。
そこで、俺は思い起こす。
サラを殺そうとしたあの男。
俺がさっき倒したあいつは、どこだ?
槍はすぐそこに落ちているのだが。
立ち上がり、俺は廊下の遠くに焦点を合わせる。
見つけた。
大体十メートル離れた辺りで、うつぶせになって倒れている。
革で仕立てられた上下揃いの黒。
飾りも柄も何もないそれは、明らかにこの闇夜に乗じるためのもの。
途端に、俺の心に憎悪の念が湧き起こる。
俺は手袋をしっかりと着け直す。
「ちょっと、ここで──」
待っていて。
俺がサラにそう言おうと振り向いた、その時。
「サラ!?」
俺はとっさに手を伸ばした。
彼女は壁に体を預けながら、立ち上がろうとしていたのだ。
当然、まだその腿の傷は痛むはず。
手で押さえたところで痛みが和らぐはずも、出血が止まるはずもないのに。
辛そうなその表情。
サラが体を支えきれずに倒れようとするその直前で、俺はその腕を掴んで引き寄せた。
再び、サラが俺のそばに。
目が合う。
潤んだその緑の瞳。
俺が護らなくて、誰が護るんだ?
俺は、誰だ?
「サラ。無理しちゃだめだ」
「ごめん。でも……」
「いいから。座って。手当しよう」
俺はサラに肩を貸してゆっくりと座らせる。
異端者のことなんかは後回しでいい。
俺はサラと向き合うようにひざまずくと、そこにあった槍の穂先で着ていたワイシャツの左袖を切り裂いた。
しかしそのままでは長さが足りそうになかったので、更にそれをぎりぎりまで縦に裂き、長さを倍にした。
槍を放り投げ、俺は包帯代わりのそれでサラの傷口の辺りを縛る。
「あっ……!」
サラがあげた短い悲鳴。
俺は一度手を止め、顔を上げてサラに声をかける。
「ごめん。痛かった?」
サラは首を横に振って否定する。
その言葉を証明するように強張った笑顔を俺に見せてくる。
「ううん、大丈夫。大丈夫だから……」
それはきっと自分の為に。
そして同時に、俺の為に。
そんなサラの表情を見て、俺は笑い返した。
だってそうしないと、俺が泣いてしまいそうだったから。
こんなに優しいサラが、何でこんな酷い目に遭わなくちゃならないんだ。
神はいったいどれほど不平等になれば気が済むんだ。
「すぐによくなるよ。だから、今は我慢して」
俺は血行を止めてしまわないよう気を付けながら、ほどけないようにしっかりと結び目を作る。
もし俺に治療の魔法の心得があればと思うが、今更そんなことを思っても何にもならない。
今できることを、今するしかない。
「はい、出来上がり」
結び目の強度を確認すると、これでもう悪い話はおしまいだとばかり、俺は励ますように明るく言った。
「ディア! 後ろ!」
その直後だった。
真っすぐ指を突き出したサラの叫び声。
俺は首を回してサラの指差す先を見る。
いつの間にか、あの異端者がそこに立っていた。
構えた槍の穂先は真っ赤に光っている。
魔法で熱せられたその赤さ。
恐怖を感じる前に、俺はサラをかばいながら右に体を倒れこませた。
そうして、突き出された穂先を紙一重でかわそうとした。
しかしかわしきれず、俺の左の頬に鋭い痛みが走る。
傷から感じる熱さはまるで直に火に触れたよう。
歯を食いしばって絶叫するのを耐える。
「ディア!」
サラの切迫した声。
俺を心配出来るということは、無事だったんだ。
だが、サラが無事だったからと言って、それで終わらせていいものか。
槍が壁に突き刺さる音。
一歩踏み出した相手は下がれない。
つまり、この距離は十分に俺の間合い。
異端者は呪文を詠唱して、その左手に種火を作り出していたが、もう遅い。
立ち上がりざま、俺は再び鳩尾を狙って拳を振り上げた。
今度は魔法で強化していないから、一撃で吹き飛ばすことはできない。
だがそれでも、短い間隔で二度も急所への直撃を受けたのだから、まともに立つことさえ苦しくなるはず。
俺の予想通り、異端者は後ろに数歩よろめく。
これにつけこまない手はない。
俺は一気に間合いを詰めると、異端者の右手をひねり上げ、同時に左手も俺の体で抑え込み、そのまま全身を壁に押し付け自由を奪う。
こいつには聞きたいことがいくつもあった。
しかしどうやって切り出すのがもっとも効果的か、そんなことを俺が考えてしまった一瞬。
その僅かな間に、異端者は口を開いていた。
「茶の手袋のアンプリファイア……そうか、お前が、ディア=ローランドか?」
最初、聞き間違えたのかと思った。
だがどうやらそうではない。
はっきりと異端者は俺の名を口にしていた。
俺は狼狽する。
どうして、俺の名を知っている?
ディアという名前はさっきからサラが何度も口にしてたから分かるとしても、なぜ名字まで知っている?
「となると、やはりそこの女はサラ=ノーヴェルだったというわけか……」
サラの本名も知っている。
なぜなんだ?
訳が分からない。
だが、今は細かいことはどうでもいい。
俺はもう一度強く異端者を壁に押し付けて怒鳴りつける。
「答えろ! 何でサラを狙った! お前は何者だ!」
「くっ……あと、少しだったのに……。やはり、功を焦ったか……」
「もう一度言う。答えろ」
「いや、だが、どういうことだ? なぜお前がここに居る? お前はここにはいないはずだ」
「俺の言葉が分かるか? 答えろ!」
「あいつは……いったい、何をしていたんだ? ここにお前が居ていいはずがない」
再三の催促にも応じず、といってさしたる抵抗もせず、意味不明なことを言い続ける異端者の態度。
このままじゃ埒があかない。
そう思った俺は、はったりをかましてこの状況を打ち破ろうとした。
「答えろ! 答えないなら──」
俺は足を使って槍を拾い、それを手に執る。
その冷たく鋭い穂先を異端者の首に突き付ける。
サラが何か言っているのが聞こえたが、無視した。
殺すつもりなんてもちろんない。
ただ、生殺与奪の権を俺が握っていると理解すれば、きっと俺の言うことに従うだろうと思った。
槍を突き付けた一瞬、異端者はひるんだような素振りを見せた。
いける、と俺は思う。
でも、それは本当に一瞬だった。
「……殺すのか? この俺を」
そう言った異端者は、口元を歪めて嗤っていた。
殺せるものなら、殺してみろ。
異端者の言葉の底にあるのは俺に対するそんなあざけり。
向こうも虚勢を張ってるのだろうと俺は判断。
世の中で生きる上で一番面倒で無価値なもの。
それは見栄の張り合いだ。
俺はそう思っているから、そんなことは見るだけでも、まして自分が当事者になるなど当然嫌だ。
だが、今、俺の後ろにはサラがいる。
まして俺から仕掛けてしまった以上、どんなに嫌であっても、先に引くことなどできなかった。
「この状況で、まだ分からないか?」
「くくく……出来ないことは言わない方がいいぞ。人を殺したことはないのだろう?」
「ああ。だが、できるさ」
「やめておけ。お前には無理だ。こんな閉ざされた世界で安穏として、本当のことを何も知らないお前にはな」
「どういう意味だ?」
「さぁな。どういう意味だろうな。分からないな」
一向に異端者は俺の脅しに屈する気配を見せない。
むしろその口元は更に歪み、その口ぶりは増長していく。
「自分で言ったことが分からないのか?」
「ああ、分からないな。俺は自分が誰かも分からないし、何をしたかったのかも分からないな」
奇妙な節をつけておどけたその口調。
このままでは駄目だ。
仕方ない。
一瞬だけ感じた迷いを振り切り、俺は決断する。
「ふざけるな!」
俺はそう叫ぶと、突き付けていた穂先を異端者の首筋に突き刺す。
ひとすじ流れる血の滴。
俺に向けられる恐怖の視線。
歪む唇。
あと、ひと押し。
そう思った。
「やめて!」
そのとき、再び聞こえたサラの声。
はっきりと聞こえてしまった。
だから、俺は無視できなくて。
俺は槍を持つ手を戻してしまっていた。
「……どうした?」
俺が自分の行動に気付いた時には、もはやどうしようもなかった。
自分が勝ったと言わんばかりに目を剥く異端者。
「ほらな、殺せない」
それに俺は敗北を悟る。
俺はまた唇を噛んだ。
何をやってるんだ、馬鹿野郎。
どうして最後まで貫けないんだ。
俺はもう何の価値もなくなった槍を投げ捨てる。
「所詮お前などその程度だということだ。人一人殺せない、そんな甘っちょろい覚悟で何が出来る? どうやって運命に逆らう気だ?
さぁ、その槍を俺に返せ。そして今ここでふたりとも死ね。それが貴様らの運命だ。せめて苦しまないよう綺麗に殺してやろう!」
そう言うと同時に、異端者は俺の拘束から抜け出そうと暴れ出した。
俺に残されたカードは悪手ばかり。
それでも、何もしないよりはましだろう。
俺は抜け出されないよう、より一層の力を込めて異端者を抑えつける。
異端者の口はその動けない体のかわりにか更に速度を増す。
「どうせお前は何も出来ない。結局は運命を拒否して逆らえば逆らうほど、最後はその絶対的な力に絶望するだけさ。
それよりは運命を受け入れるのが賢明だ。何も考えずに済む。何も知らずに済む。なんと幸せじゃないか、え?」
早口に異端者はそうまくしたてる。
何が運命だ。
神の教えに逆らっているくせに、何を偉そうに言っている。
お前みたいな奴の言うことが正しいはずがない。
そうに決まっている。
お前の言っていることは、違う。
「違う!」
俺が言おうとした直前、サラがそう叫んでいた。
初めて聞くサラの怒号に、俺は驚いて振り向く。
「あなたは……間違ってる!」
サラはそう言いながら痛みに耐えて立ち上がろうとしていた。
その姿は伸び出したばかりの新芽のように弱々しかったが、目に宿された光は太陽のように輝いている。
「そんなものは幸せじゃない! 運命だからって死ぬのが幸せ? いいえ、違う! 絶対に違う!」
サラは泣いていた。
その涙を俺は見たことがある。
初めてフィリアを見送ったあの日。
あの日の涙とまったく同じだった。
「だって……死んでしまったら……死んでしまったら、何もかも終わってしまうのよ! 後には悲しみしか残らない!
もう何も話せない。もう何も分かち合えない……どんなに後悔したって、帰って来るはずもないのに、出来ることはああすればよかった、こうすればよかったってだけで……。
それだったらそんな運命なんて知らないわ! そんなものはなくっていい!」
サラの渾身の言葉。
それは神の教えとは違うものだった。
与えられた運命とそれに基づく役割に従って生きて、そして死ぬべきだと神は言うが、サラは、運命に逆らってでも生きるべきだという。
神を誰よりも深く信じながら、神よりも愛する人を大切に思う彼女だからこその言葉。
だが、異端者はそれにすら嘲笑を向けた。
「ずいぶんと好き勝手なことを言うな。だったら騎士どもはどうなのだ? 他人の幸せを奴らはどれほど奪っている?」
「それは……」
皆から絶対的に信頼される存在。
それが騎士。
騎士は神の教えに従い、神に逆らう者を撃ち滅ぼしているだけだ。
そして神に逆らう者に幸せなど与えられてはならない。
つまり、誇り高き騎士と貴様ら異端者を同列に扱うなどがそもそも間違っている。
そう答えればよかっただろう。
でもサラは、言えなかった。
俺にはその理由が分かる。
彼女は本当に平等だから。
神なんかよりも平等だから。
彼女は口ごもり、ひどく悲しそうな顔をしてうつむいてしまう。
このとき、俺は迷ってしまった。
サラをかばう言葉を言うべきか、異端者を否定する言葉を言うべきか。
その迷いが、致命的だった。
「都合が悪ければすぐに泣いて。泣けばどうにかなると思っているのか? いつまで貴様は子供のつもりだ!
貴様は何も分かってない! 何も知らない! 残酷な真実など知らないまま、自ら築いた壁の中で死ぬのがお似合いだ!」
俺はその瞬間、全身の血液が逆流するのを感じた。
何だと?
今、何て言った?
サラに向かって何て言った?
何も分かってないのはどっちだ。
お前なんかにサラの何が分かる。
何も知らないのはお前だ。
俺を誰だと思ってる。
俺の体に熱が宿る。
その熱は俺の意志に火を付け、俺自身に問いかける。
そして俺は答える。
そうだ。
俺はディア=ローランドだ。
何をもたもたしているんだ。
サラを護るために、俺はここに居るんだ。
彼女を悲しませてはならない。
誓ったばかりじゃないか。
サラを悲しませる者は、なんであっても、誰であっても、滅ぼしてやるって。
俺は異端者の方に向き直る。
拳を強く握りしめながら。
今度ははったりなんかじゃない。
明確な意思を俺は拳に乗せる。
殺してやる、と。
「貴様らの知る世界はその程度のものだ。大きな世界から壁で隔てられた小さな世界。
その中で貴様らは護られて、幸せに暮らしているつもりか? それがどれだけの他人の幸せの犠牲の上に成り立っているか知らないで!」
「黙れッ!」
俺は拳を振り抜いた。
それは異端者の顎を正確に撃ち砕き、その体は芯を抜き取った積み木のように崩れ落ちた。
第七話
崩れ落ちた異端者を俺は見下ろす。
意識は失っているようだったが、まだ息がある。
俺はその襟首を掴んで体を引き起こした。
こいつは絶対に許さない。
「償わせてやるよ」
異端者の顔面に真正面から拳を入れる。
ぱっと広がる鮮血。
人形のように床に転がるその四肢。
俺は間を置かないでまた引き起こす。
そもそもこいつは、何も悪くないサラを殺そうとしたんだ。
だったら、俺がこいつを殺して何の問題があろうか。
あるはずがない。
俺は再度拳を振るい、間髪をいれずにまた引き寄せる。
奇妙に折れ曲がった鼻。
次は、肋骨だ。
「ディア!」
その時、サラの両手が、俺の拳を包み込んでいた。
それはまるで神に祈る時のように、どこまでも優しく。
涙を拭うこともせず、彼女は首を横に振りながら俺の名を呼ぶ。
「ディア、やめて。殺しちゃダメ」
「どうしてさ。こいつは君を殺そうとしたんだ。まして、あの物言い……君のことをあんな風に……」
「ううん、いいの。もう、済んだことよ」
「だけど……」
「私のことなんかはどうでもいいの! でもディア、私は……貴方に人を殺して欲しくなんてないのよ……」
ゆっくりと感じ始めた右手の痛み。
殴った時の反動だと分かっていたが、それは同時にサラの手を通して感じる、彼女の心の痛みのようにも思えた。
「この人にだって、きっと帰るべき場所がある。そこには多分私たちがフィリアの帰りを待つみたいに、待っている人が居る。
この人を殺してしまったら、その人たちはどうなるの?
悲しみと憎しみは終わらないわ。それはこの世界を巡り巡って、多くの人を傷つけて膨らんで、それでいつかきっと私たちに返って来る。
だから、どこかで断ち切らなきゃならない。ねぇ、それを、今、ここにしよう? ディア……私は、大丈夫だから……」
サラは涙を流したままそう言った。
俺は異端者の体を解放する。
それから、自由になった手でその涙を拭ってあげた。
サラが今言ったことは彼女の本当の言葉なのだろう。
俺がサラを護るのは、彼女に悲しんでほしくないから。
彼女の幸せを護りたいから。
だったら、彼女の願いに逆らうことをする必要はない。
「分かったよ。サラ」
「うん。……ありがとう」
サラは俺の拳から手を離し、俺の目を見て笑ってくれた。
その表情に俺はもう一度サラを抱きしめたくなって。
手を伸ばし、サラの肩に手をかけて、引き寄せようとする。
「待って」
だが、サラは短く言う。
俺は一瞬戸惑ったが、すぐに異変に気付いた。
「……何の音なの?」
どこからか、足音と声がする。
具体的には分からないが、近い所。
答えは一つしかない。
「異端者だ」
「早く逃げなきゃ」
「うん。あ、でも……」
俺は走ろうとしたが、今サラは走れないことを思い出す。
どうするべきか?
俺はこの状況を解決する名案を思い付いた。
それを実行するのはためらわれたが、もう、迷えない。
ためらいを捨てて、俺はサラの肩に手を置く。
「サラ、ごめん」
そう言うと俺は、サラの肩と膝の辺りに手を差し入れて抱き上げた。
童話の中の王子様がお姫様にしてあげるようなこの行為。
きっと想像もしてなかっただろう。
サラは声もあげず驚いている。
その表情に、心配になった俺は聞かずにはいられなかった。
「……やっぱり、嫌かな?」
「ううん。びっくりしたけど……全然、そんなことないよ」
「本当に?」
「本当だよ。……変なこと、心配するね」
サラは自分から俺の方に体を寄せて、まるで赤子が母親にすがるように俺の服をぎゅっと掴む。
その行動に俺はよかった、と安堵する。
サラに嫌われること。
それが俺のもっとも恐れること。
彼女に嫌われてしまったなら、もう俺はこの世界に何の価値も見出せないだろうから。
でも、そうじゃないなら。
「行くよ!」
俺は走り出す。
「居たぞ!」
背後から聞こえたその声を、置き去りにして。
俺は、自分でも信じられないくらいの勢いで走り通し、すぐに異端者を振り切った。
きっと火事場の馬鹿力っていうのはこういうものなんだろう。
地下の倉に向かうにはエントランスの方に逆走しなければならない。
つまり、更に敵に遭う危険性が非常に大きい。
だから皆が居るだろう場所には向かえない。
そんなわけで、俺はひたすら敵の居なさそうな方向に向かって走った。
そうしたら、いつの間にだろう。
俺はあの長い螺旋階段を登っていた。
北の棟の大きな尖塔。
辿りついた最上階の部屋。
今日はノックをせずにドアを開けた。
サラをベッドの上に降ろす。
俺は肩で息をしながら鍵をかけ、ドアに背を預けると束の間の休息に体を浸す。
「ディア……」
ベッドの上に座るサラは心配そうな顔をして俺を見る。
その表情を見るだけで、何が言いたいか分かる。
どうしてこんな塔の上に来たのか訊きたいのだろう。
もちろん、俺は何の考えもなしにここまで来たわけじゃない。
「大丈夫。サラ。心配しないで」
「でもどうするの? このままじゃ、すぐに……」
「奴らがここに来たところで無駄な話さ」
「無駄? そんな、この部屋の出入り口はそのドアしかないのよ。階段を抑えられたらもう逃げられないわ」
「いや、そうでもない」
そう言うと俺は部屋の奥へ。
そこにあるのはドアと同じくらい大きな窓。
フィリアは、この窓越しに見る朝日が好きだって言ってたっけ。
もしかしたらそれは、サラと一緒に見てたんだろうか。
何度か訊こうとしたけども、結局まだ訊いてない。
多分、これからも訊くことはないだろう。
俺は窓を開け放った。
部屋に風が流れ込む。
俺はその風を背で受けて、サラの手を取った。
「ここから飛び降りる」
地上30メートル。
ここから見える物は星と炎と、あとは闇。
「……本当に?」
「ああ」
「死んじゃうよ? こんな所から飛び降りたら」
「大丈夫。俺の魔法でなんとかする」
「……それでも、飛び降りるなんて怖いよ」
「俺を信じて。俺に任せて」
「自信は、あるの?」
「ある」
俺は断言する。
また嘘をついた。
本当は百パーセントの自信なんてなかった。
だけど、俺は自分の中に在るマイナスの可能性をすべて排除した。
魔法の力を最大限引き出すためには、全力でそれが『できる』と思いこまなくてはならない。
自分自身を疑っていては、本当はできることもできなくなるだろうし、
逆にとことん信じ込めれば、本当はできないことだってできるかもしれない。
俺はその可能性に賭けた。
数秒の後、サラは俺の手を握り返す。
無言の返事。
俺は一度頷くと再びサラの体を抱き抱え、窓際へと向かい、窓の縁に足をかける。
心臓の鼓動がどんどん激しくなる。
失敗は許されない。
頼りになるのは、十年以上前の記憶だけ。
サラに格好いいところ見せようとして、二階の窓から飛び降りたんだよな。
あのときは着地に失敗しても膝をすりむくだけで済んだけど、今度はそうはいかない。
「サラ、ひとつだけ、お願いしてもいいかな」
「何? 私にできることだったら……」
「『信じてる』って、言ってくれないかな?」
「え? そんなこと?」
「うん」
サラは拍子抜けした顔をしたが、すぐに調子を取り戻すと、ゆっくりとこう言った。
その言葉は、俺の心に何よりもの力をくれた。
「ディア。私、あなたのこと、信じてるよ」
「……ありがとう」
俺はその瞬間、無傷で着地する自分の姿を鮮明に思い描けた。
もちろん、俺の腕の中に居る人も一緒に。
ドアが激しく叩かれる。
さぁ、飛ぼう。
「聞け、大地。我に恵みを。すべてを育むその美しさを! 『ディアグレイス!』」
心臓の鼓動が速くなり、全身の筋肉が隆起する。
呼吸は小刻みながらも、体の内から熱が溢れる。
「目を閉じて! しっかり掴まってて!」
「うん!」
俺は息を止め、夜闇の中へと飛び出した。
耳元の風音は絶えずがなり立てる。
重力に逆らう臓腑は違和感を訴える。
俺は叫び声を歯で抑え込みつつ、
乾いて限界寸前の目をみはり続ける。
失わないように、サラをこの腕にしっかりと抱きしめながら。
着地予定場所は北の棟の大広間の屋根。
石造りの平らな屋根だから、問題なく行けるはずだ。
足の高さを揃えて肩幅に開き、息を止め、着地に備える。
大丈夫さ、
信じろ、
大丈夫だ。
証明してみせるんだろう?
足が地に触れ、
全身に響く衝撃。
それは幾百もの手が俺を一斉に押しつぶすよう。
踵が、膝が、腰が、肩が、首が、あらゆる部位が限界を叫ぶ。
経験したことにない激痛。
抑えきれずに声が漏れた。
だがその後一瞬で、痛みは既に癒えていた。
それは大地の力。
すべてを育む美しさ。
この術は俺の持つあらゆる身体的な能力を劇的に上昇させる。
筋力や体力をはじめ、視力を主とした五感や、更に自然治癒力にまでもその影響は及ぶ。
もちろんその分、術後の反動も尋常ではない。
さっき使った速度を強化する術の何十倍もあると、俺がこの術を知った本には書いてあった。
今まで一度も使ったことはなかったのだから、それが実際にはどの程度のものかは分からない。
だから恐怖はもちろん感じている。
でも、それがどうした?
今大事なことは何だ?
俺は視線を落とし、サラの無事を確認する。
彼女は乱れた前髪越しに俺を見上げる。
「サラ、平気?」
「わ、私は平気だよ。……怖かったけど」
「あぁ、それは……ごめん」
「ううん。私より、ディアは? 叫んでたけど、すごく痛かったんじゃ……」
「大丈夫だよ」
そう。
まだ大丈夫。
魔法の効力は残っている。
やろうと思えば家の屋根くらい楽に飛び越せるだろう。
だけど、それは今だけ。
時間はない。
俺は左の手の甲を見る。
茶色の生地の上に、まるで花が咲いたように六本の白い光の条<すじ>が放射状に広がっていた。
そのうちの一本は今まさに、ゆっくりとその色を薄れさせている。
急がなければ。
「サラ。走るから、このまま、もうちょっとだけ我慢して」
「ねぇディア。どこに向かうの?」
「フィリアたちの所に向かう」
「え? それって……」
「こんなにあちこち燃えていちゃ、どこに隠れても安全じゃない。今はここを離れてフィリアたちの所に行った方が、きっと安全だ」
城の中は安全ではない。
ならば城の外へと向かおう。
だが、もちろん俺は城の外のことについて、厳密にいえば境界線を越えた先のことは何も知らない。
いくら本で読んだことがあると言っても、そんなことが実際に役に立つ確証などはどこにもない。
ならば、知っている人のことを頼ればいい。
このまま屋根の上をつたって天守を離れ、街中を突っ切り、城壁を越える。
そして、フィリアのもとへ向かおう。
フィリアが今回もまた南へ向かうことになる、と言っていたのを俺は覚えている。
目的地は分からないが、俺の脚で駆け通せばきっと追いつくだろう。
「だけど、そんなことは……」
それは同時に、外の世界に行くということ。
騎士だけが許されたその行為。
分を定めた神の教えに反することも甚だしい。
思っていた通り、サラは言い淀んで、うつむいてしまう。
だけど、俺はもう決意していた。
サラを護るためならば、なんだってすると。
だから、俺は逡巡するサラに囁くことができた。
あまりにも卑怯なこの言葉を。
「サラ、きっとフィリアがここに居たら、君に生きて欲しいと言うはずだ」
その効果は覿面。
サラははっと顔を上げる。
俺は見逃さなかった。
彼女の口が彼の名を呼んでいたことを。
「行こう、サラ」
揺れたその心に俺はつけこんだ。
数秒。
果たして、サラはその唇を震わせ、言葉を紡いだ。
「……信じてるよ、ディア……」
その声は、俺の心の中で何度も繰り返し響き続けた。
「ああ。大丈夫、俺に任せて、サラ」
でも、こうするしかないんだ。
俺はサラの顔を見ないようにして、燃え盛る町へと走り出す。
多分、もうここには帰れない。
穏やかな日々には、戻れない。
進むしかないんだ。
だから俺が、サラを護るんだ。
だって、俺は誰だ?
俺は、ディア=ローランドだ。
俺はこの世界でたったひとりの、俺なんだ。
だったら──。
まだ燃えていない屋根を伝って進む。
炎が激しくて進めそうにない場所は跳び越える。
サラはずっと目をつむりながら、俺の服を強く握りしめている。
その手ははっきりと震えていた。
俺がフィリアの名を出した、あのときから。
分かっていたからこそ、考えないようにした。
開け放たれた正門のもとに俺はたどり着く。
そこで俺は少し息をついた。
そして、振り返る。
俺の視界一面に映り込む紅蓮の炎。
人影などは見当たらなかった。
もう逃げたのか。
あるいは、殺されてしまったか。
父さんと母さんは無事だろうか。
俺がフィリアの正式な従者になってからはほとんど会う機会もなかったけど、もっと会っておけばよかった。
どうか無事であってほしい。
そう思うと、ふと、涙が流れた。
俺の身の回りには、嫌なことばかりしかないと思っていた。
そしてその中でサラとフィリアだけが違うと思っていた。
だけどそれは単なる思い込みだって、今やっと分かった。
本屋の偏屈な爺さんと、客に文句を言う図々しい孫娘。
文字通り寝食を忘れて仕事をする仕立屋の兄と、それとは真逆の性格の弟。
朝の通りの騒がしさ、昼下がりの広場の和やかさ、夜の中庭の静けさ。
あれだけ嫌いだった従者仲間たちでさえ、死んでいて欲しくないと思っている。
大切なものはもっと、ずっと、たくさんあった。
それをこの期に及んで思い知らされた。
でもまだ、一番失いたくないものは、失ってない。
「失うものか」
俺はそう呟き、正門をくぐり抜けた。
城下町まで火は燃え広がっている。
やはり人は居ない。
収穫まであと少しだった畑までは燃えてないことを俺は祈る。
そして、一気に駆け抜けようと、足に力を込めた。
その瞬間だった。
「逃げて! ディア!」
突如、サラが叫んだ。
背中に、何か当たった気がした。
俺の感覚が気のせいではないと気付いたときには、同じものが二度、三度と、当たっていた。
「やめて! ディアを傷つけないで!」
走り出した時にはもう遅かった。
経験したことのない熱さ。
治るそばから傷を焼かれて。
叫んでもこの苦痛が和らぐはずはない。
それでも、俺は叫ばずにはいられなかった。
前に進むために。
サラを護るために。
振りきれそうになる意識を繋ぎとめたのは、両手に感じるサラの存在。
体中を焼かれながら、一歩でも遠くへと、俺は走った。
それからのことは、よく覚えていない。
ここはどこだろうか?
分からない。
いつ、どうやって境界線を越えたんだろうか?
分からない。
異端者はどうなったんだろうか?
分からない。
ただ言えることは、サラは無事だということだった。
「ディア……」
また彼女は泣いていた。
サラ、大丈夫だよ、泣かないで。
そう言おうとした。
でも、声が出なかった。
喉が焼けるように熱い。
いや、焼かれたのか。
俺はちらりと左手の甲を見る。
光の条の最後の一本が消えかかっていた。
もう、潮時か。
大きな木があった。
あの根元なら、多分、何もない所よりは安全かな。
サラをゆっくりと、その木の根元に下ろしてあげた。
それと同時に、俺は倒れた。
「ディア!?」
立ち上がることは出来なかった。
もう魔法の効力はほとんど残っていない。
この一本がなくなれば、今までの反動も全部やってくる。
それに、耐えることは出来るだろうか。
今更、神に祈ってみようかな?
「ねぇ、しっかりして! ディア、ディア……」
ああ、まったく。
あれだけ格好つけといて、結局この様か。
サラを泣かせてしまった。
悲しませてしまった。
でも──。
サラのこの涙は、俺のためのものだ。
俺だけのためのものなんだ。
それが、どれだけの価値をもつものなのかは、俺にしか分からないだろう。
サラが俺の手を握る。
力任せに、強く、強く握りしめていた。
「偉大なる神エンパルよ、どうか、どうか……」
サラの祈りの言葉を聞きながら、俺は目を閉じた。
その直後、俺の中で何かが切れた。
決定的な、何かが。
※サラに肩を貸して立ち上がらせるディア
異端者Aの首に槍を突き付け詰問するディア
その物言いに激昂して殺そうとするが、サラに止められる
闖入してくる異端者たち。サラを背負って逃げるディア
北の棟、最上階の尖塔(フィリアの部屋)に
飛び降りて逃げる
屋根の上を走り、燃え盛る街に
背中から焼かれる。頬に傷を負う。
両親のことを思うのを振り切りながら線を越え、森の中に。
焚き火を用意したのち、意識を失うディア。
前に倒れまいとしすぎた俺の体は後ろに傾き、手を使えない俺はそのまま倒れてしまう。
慌ててサラをぎゅっと抱き寄せたが、そのかわり俺は頭を思いっきり打ち付けた。
信じられないくらい痛かった。
けど、その痛みは明らかに現実のもの。
つまり、俺は生きている。
うまくいった。
やったんだ。
今度こそ、証明したんだ。
と、痛がる俺を見てサラは言う。
「デ、ディア! 大丈夫!?」
「……痛いけど、大丈夫。そっちは?」
「な、なんとか……怖かったけど、大丈夫だよ」
「そっか。うん、よかった……」
俺は安堵の息をつく。
サラも笑ってくれた。
今はほとんど顔を突き合わせた状態で、互いの鼻から鼻まで十センチもない。
その唇に、俺の唇を重ねることだって──。
「行こう。サラ」
俺はその思いを自ら抑え込もうと、そう言ってサラを抱き上げつつ立ち上がった。
まだここは安全じゃない。
むしろ、さっきよりも危険かもしれない。
だから安全な所に辿りつくまで、この感情は保留だ。
今大事なことは、俺の願いをかなえることじゃなくて、サラを護りきることなんだから。
第八話
俺は、俺を見ていた。
口を閉じ、うつむき気味に歩く俺を。
俺の前を並んで歩いているのは、フィリアとサラ。
サラはフィリアと手を繋ぎ、フィリアはサラに歩幅を合わせてゆっくりと歩いている。
沈みゆく西日は道に影を落とし、俺は二人の影を見つめ続ける。
楽しげに交わされている会話。
「ねぇ、フィリア」
「何?」
「腕<ここ>の傷、平気? 痛くない?」
「ああ……大丈夫だよ。あれくらい、よくあることさ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも、私だったらあんなの絶対に耐えられないよ。あんなに酷く打ちすえられて……見ているだけでも痛かったわ」
「まぁね。サラ、もちろん僕だって痛くないわけじゃないよ」
「そうでしょ?」
「だけど、みんなを護るためさ。耐えてみせる。それで、もっともっと強くなるんだ」
耳にタコが出来るほど聞いたフィリアの言葉。
いつ聞いても褪せずに聞こえるのは、彼の覚悟の証とも言えるんだろう。
「でもそんな、何もフィリアだけが辛い思いをしなくっても……」
「いいや、僕だけじゃない。辛い思いをしているのはみんなもさ。それにね、もし君が誰かに傷つけられるくらいなら、僕はどんなに辛くても──それこそ死んだって構わない」
「……やめて。死ぬなんて、簡単に言わないでよ……」
「あぁ、ごめんね、サラ……そんな悲しい顔しないで。安心して。ステファス様をはじめとして、多くの人が僕を支えてくれてる。彼らが居る限り、僕は大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「信じていい?」
「信じていい。僕は何があっても絶対に生きて還る。そう約束したよね?」
「……そうだね、そうだよね。私の好きなフィリアは、誰よりも強いんだもんね」
「あははっ……そんなことはないけども、君がそう思ってくれてるだけで、僕は嬉しいよ」
「うん。誰がなんて言ったって、私はフィリアが一番だよ」
サラはそう言うと、ぎゅっとフィリアの腕を抱きよせて、その頬をフィリアの肩に押し付ける。
その顔がどんな表情をしてたのか、分からなかった。
「ああ。僕も、君が一番さ」
フィリアの顔もサラの顔も、白く塗りつぶされたようでまったく分からない。
でも、俺の表情だけははっきりと見えた。
「フィリア」
「サラ」
まるで自分に何か言い聞かせるように唇を噛んで、影を睨んで。
自分じゃなければ、目が合ってしまうのを恐れて視線をやらないほどだろう、なんて思う。
『そんな顔してたら、幸せだって逃げてっちゃうよ』
ふと誰かに言われた言葉を思い出す。
誰だったっけ?
次の瞬間、俺は別の俺を見ていた。
本に囲まれた空間。
俺が最も安心できる場所。
ここはフェアレラ城にある唯一の本屋。
ひとりの少女が物憂げそうな顔をしてカウンターに突っ伏している。
手持ち無沙汰にその髪を指にからめたりしていたが、明らかに退屈そうな様子が見て取れる。
そこに俺が入ってきた。
途端に少女は背筋を伸ばして甲高い声を上げる。
「いらっしゃいませ! ……って、なーんだ。ディアか」
「何だ、とは何だよ。一応客だぞ、俺は」
「ま、細かいことは気にしない気にしない。それで、何かご用でしょうか?」
「そんなの分かるだろ。本を買いに来たんだよ」
「あら、昨日も買ってったじゃない。もう読み終わったの?」
「あれはサラの。俺のじゃない」
「あぁ、そうなんだ。ふーん、どうりで……なるほど、なるほど」
「何が?」
「いや、ね、あんたが詩集なんて買ってくから世界の終わりの前兆なんじゃないかと心配してたのよ」
「……いや、そんな心配しなくていいから」
「でもむしろ今日の方が心配ね。羽をもぎ取られたトンボみたいな顔して。何かあったの?」
「どんなだよ……そんな顔はしてないって」
「悩みがあるなら相談乗るわよ。このユーリン=ヴィッテンベルク様にまっかせない!」
ユーリンは満面の笑みを浮かべ、自分の胸をぽんと叩いてそう言った。
ああ、なんてすがすがしくて明るいんだろう。
それに比べて俺は、自嘲するように口元を歪めてこう言っている。
「相談するだけで解決するんだったら、いくらでもやってるさ」
「またそういうこと言わない。どんだけ暗けりゃ気が済むのよ、あんたは」
「自覚してるよ」
「開き直ってもダメ。ディア、もっと笑ってみたら? 意外と何でもうまくいくぞ! って思えるかもよ。ね、どう?」
「これでも笑いたいときは、笑ってるつもりさ」
「もう……どこがよ。そんな顔してたら、幸せだって逃げてっちゃうよ。あんた頭いいんだから、それくらい分かるでしょ?」
「俺にとって何が幸せかは、俺が決めることさ。ユーリン、お前もそうだろ?」
「うん、あたしは毎日幸せだよ」
「よく言うよ。まったくそりゃよかった。……ああ、俺もお前みたいに生まれたかったねぇ」
「お、何かな、それは? 新手の告白?」
「……どこをどうしたら、そうなるんだか……」
「あ、ほら」
「え?」
「今、笑ったでしょ。よかったね、ディア。これで今日一日幸せだよ」
「笑ってなんかない」
「その表情<かお>、サラにも見してあげなよ。きっと、振り向いてくれるよ」
「まさか、そんなことは……」
俺は、うつむいてもごもごと呟いた俺を見ながら、思い出していた。
この後に続けたはずの言葉。
そんなことは、ない。
なんて言っておきながら、でも本当は、俺の思いは、違った。
そうあってほしかった。
だけど結局は、一度もなかった。
俺がどんなに頑張っても、サラを俺の方に振り向かせられなかった。
だってサラはいつも、あいつを見ていたから。
木の下で雨宿りをするように寄り添って、光り輝く太陽を仰ぐように見上げて。
そしてフィリアは、その視線に堪えうるだけの人物で。
何度も何度も言い聞かせたさ。
俺は同じように視線を向ける側で、向けられる側ではないんだ。
フィリアは俺とは違うんだ。
俺はフィリアのようにはなれないんだって。
それでこの頑迷固陋な考えをあっさり変えられたならば、どれだけよかっただろうか。
また、景色が変わる。
窓を開けたままの小さな部屋。
10歳くらいの俺は、部屋の大きさに見合ったベッドの上に寝転んで本を読んでいる。
その様子はまさに一心不乱。
何でも新しいことを知るのが嬉しくて、一ページめくるたびにまた自分がひとつ大人になれたような気がして。
物語ってのはいいもんだぞ、文字とちょこっと気持ちを通わすだけで、何千回もの人生を生きられる。
そう本屋の爺さんに言われたのも、確かこの頃だったっけ。
「ディア! ディア!?」
と、家の外から聞こえてくる声。
子供の俺はしおりも挟まず本を置くと、跳ね起きて窓際に駆け寄る。
俺がその視線の先を見やると、そこには両手を口元に添えた少女が一人。
「やあサラ! どうしたの?」
「何言ってるのよ! ディア、早く教会に行かないと! 司牧様のお話が始まっちゃうよ!」
「え? 嘘でしょ!?」
「本当だよ! 急いでディア!」
サラに大声で促された俺は、大慌てでクローゼットに駆け寄って着替えを取り出す。
毎週日曜日、朝昼晩の三回に分けてフェアレラ城に住む者はみんな教会に行き、牧師の話の聞く。
そして一年の中で一回か二回かだけ、牧師よりも偉い司牧がやってきて話をしてくれるのだ。
大人も子供も、司牧という人が具体的に何をしているのかはほとんど知らないのだが、
少なくとも神の意思を伝える者として、騎士に剣を授ける牧師よりも偉いということは、つまり凄い偉いんだという程度の理解をしている。
さて、もし俺がその司牧の話を聞きに行かなかったならば、それはローランド家にどれだけの悪影響をもたらす羽目になるか。
そして今俺が急がなければ、せっかく俺を呼びに来てくれたサラにどのような結果を返すことになってしまうのか。
そのことがが分からないほど、俺は分別のない子供ではなかった。
ボタンを掛け違えているのに気付かないまま、小さな俺は部屋を飛び出し、階段を全力で駆け下りる。
その後ろを俺はついて行き、肩を並べて戸口をくぐった。
そこで、サラは俺を待っていてくれた。
彼女はまだ髪を伸ばしていない。
着ているのは白地にほんのり薄い青が射したワンピース。
それは彼女の眼の色と対照的で。
どちらの色もとても綺麗で、互いに互いをたたえあっている。
「待たせてごめん。わざわざ呼びに来てくれてありがとう、サラ」
「もしかしたらって思ってね。何してたか当ててあげるよ。ディア、また本読んでたんでしょ?」
「うん。そうだけど」
「ふふっ、やっぱりね。そうだと思った」
「な、何さ」
悪戯っぽく笑いながらサラは言う。
俺はそんな彼女の様子を見て少し口を尖らせていたが、それは上辺だけの仕草。
だって、気付かれたくなかったんだよな。
「ううん。気にしないで。それより急ぎましょ!」
「うん、急ごう!」
「あ、ちょっと待って。ディア、こっち向いて」
「何?」
「ボタン、掛け違えてるよ」
「え? ……あ、うわっ、本当だ」
「直してあげる。じっとしててね」
サラはそう言うとすっと俺のもとに近寄り、俺のシャツのボタンに指をかける。
「あ、いいよ、それくらい自分で……」
「動いちゃダメ」
俺の反論はあっさり却下。
簡単に六つあるボタンは全部外されてる。
なんらの淀みもない彼女の指先であっという間に俺の衣服は整えられる。
小さな俺はサラの言葉に従い石になって、その間呼吸さえも完全に忘れていた。
「これでよし、っと。さ、それじゃあ行きましょ。もう本当に遅れちゃうわ」
サラはそう言って、顔を真っ赤にしている俺に一転の曇りもない笑顔を向けた。
ああ、この笑顔こそ、俺が愛したものだ。
思えばこの頃の俺は本当に幸せだった。
騎士の従者としての煩瑣な義務もなく、完璧なフィリアと自分を比べて嫌になることもなく。
家に帰れば親が暖かく迎えてくれ、本屋に行けば一日中でも爺さんが面白おかしい話をしてくれて。
そして何よりも、サラが俺の一番そばに居てくれた。
子供の付き合いだったけれども、手を繋いで、歩幅を合わせてふたり歩いて。
教会に行く時はいつも隣同士に座り、俺は幾度となく彼女に肩を叩かれて起こされた。
「次は起こしてあげないからね?」
そんな言葉を何回聞いたか、数えきれない。
その彼女も一度だけ、牧師の話の途中で寝てしまったことがある。
もし寝ちゃったら起こしてね、とあらかじめ頼まれていたけれども、俺の肩に頭を預けて眠るそのあどけない表情が、俺にそうさせなかった。
帰り道もいつもふたり一緒。
明日も晴れるといいねなんて、他愛もない話をして。
また明日、とお互いに軽く手を振って。
この日々がずっと続けばいいと思っていた。
今日がもう一回繰り返して明日になればいいと思っていた。
それが崩れ去ってしまったのは、いつだったっけ?
「ディア、聞いて。私ね──」
その声の続きを思いだそうとした時、視界が崩れる。
見渡す限り積み重なった瓦礫。
そのひとつひとつに飛び散った血痕と肉片。
人の油を燃やして昇る煙は数えきれない。
煙の先に広がる空には暗雲が立ち込め、人や獣を驚かす叫び声をあげ身をよじっているが、地上の汚れを洗い流す涙は流してない。
360度、どこを捜しても動いているものは、まして生きている人間などは見当たらない。
俺は戸惑う。
ここはどこだ?
少なくとも絶対にフェアレラ城ではない。
こんな酸鼻を極めた景色なんて、明らかに見覚えのないもの。
それなのに俺が感じる血の臭いや、火の熱さや、煙の息苦しさはまるでつい昨日感じたもののようで。
すぐそこで震えている炎を俺は見つめる。
そのとき、まるで暗闇に一条の光が差し込んだかのように、俺の記憶が蘇った。
闇夜の中に立ち上った炎、蝋燭で皺を照らす老召使い、槍を突き出す異端者。俺の拳を掌で包んだサラ。
「そうだ、俺は」
彼女と一緒に飛び出した窓、彼女を抱き抱えたまま走り抜けた屋根。
数秒の気の緩み、避けられたはずの異端者の攻撃、治るそばから傷を焼かれる絶望的な痛み。
消え去った最後の一条、サラの捧げた祈りの言葉。
どこからか声が聞こえて。
俺は振り向いた。
そこには、一ヶ所だけ瓦礫の積まれてない空間が。
円形に広がったその小さな領域の中で、膝をつき、両手で顔を覆い、地に伏せっている者が一人。
泣いている。
誰だろうか?
近付こうとしたそのとき、また声が聞こえた。
途端に、俺の見ている世界は真っ暗に。
俺は目を開ける。
全身を包んでいる柔らかな感触。
それが真っ白な布団と枕だと気付くのには時間がかからなかった。
ここはどこだろうか。
気になって体を動かそうとしたが、全身にまんべんなく激痛が走り、指先さえほんの一センチも動かせなかった。
その痛みは完全に現実のもの。
つまり、これは夢や幻想なんかじゃない。
逆にいえばさっきまで見ていたものは全てその類のもの。
でも、最後に見たあの光景。
知らないはずなのに、記憶に、いやむしろ心に刻み込まれていたかのような、あの鮮明さ。
不思議に思ったが、どう頑張っても分かりそうにない。
そのとき、段々と近付いてくる足音と話し声。
「……ユウラ、俺は何もお前のしたいこと全部に反対しているわけじゃない」
「じゃあ、つべこべ言わずやってちょうだい」
「だけどな、お前だって気付いているだろう? あの女が着ているローブ……『雲の流れ』の生地に『妖蛾の涙』の刺繍だぞ?」
「おまけに刺繍はエンパルの紋章、ね」
「明らかに怪しい」
「でも、それはあの娘の願いを足蹴にする理由にはならないわ」
重々しくドアが開く音。
俺は瞳だけをなんとか動かしその方を見る。
そこには男と女がひとりずつ。
腰丈まで伸ばした白銀の髪、鋭く光る切れ長の蒼い目。
顔立ちはまるで17、8歳の少女のようだが、しかし尋常でない雰囲気を漂わせる女。
その向こう側には、これまた異様な装いの男。
何が異様かと言えば、男はその顔を龍をかたどった恐ろしい形相の鉄の仮面で覆っていたのだ。
しかもその二メートル近い、鎧<よろ>われた巨躯の山のような背中には、それよりも長い槍が背負われているのだから。
「それにね──あら?」
俺は部屋に入ってきた女と目が合う。
じっと俺は見据えられる。
俺は女の考えていることを読み取ろうとしたが、その瞳は深く、何も見えなかった。
そのまま、数秒。
「あなたは、ディア=ローランドね?」
そうだ、と答えようとしたが、なぜか声が出ない。
仕方なく、俺は頷く。
「私の言っていることがちゃんと聞こえる? 何を言っているか分かる?」
俺はもう一度頷く。
と、女はくるりと振り返り、男に向かって言う。
「タカカゼ、お嬢さんを呼んで来てあげて。パーティーのクラッカーのように目いっぱい明るくね」
そう言われた男は何も言わずに、少し不服そうにして部屋を出て行く。
女は俺のベッドの傍まで歩み寄り、しゃがみこんで俺と視線の高さを合わせた。
「私はユウラ。ユウラ=モンメント。あなたの命を助けたのは私よ。感謝しなさい」
笑みを浮かべて、ユウラはそう言った。
何故かはわからない。
母が子に見せるような、暖かい微笑。
そう感じたし、そうとしか思えなかったけど。
その表情に、俺の心は一瞬にして凍りついていた。
「それよりユーリン、最近はどうなんだ?」
「おじいちゃんなら大丈夫よ。今は寝てるけどね」
「いや、違う。お前がだよ」
「……そうね、あいかわらず、かな」
「よくならないのか」
「ま、しょうがないわよ。おじいちゃんにも頼ってばっかじゃいられないしね」
大きな窓から差し込む陽光。
尖塔の上、フィリアの私室だ。
「カーテン閉めとかないと、まぶしくてどうしても起きちゃうんだよね」
笑いながらそう言ってるフィリアが、少なくとも週に半分は朝日よりも早く起きていることを、俺は知っている。
もちろんこの俺が、騎士よりも早く起きて準備をするという従者の仕事を欠かしたことは八年間一度もない。
けど、無駄に早起きをするフィリアに何度か辟易したこともある。
うっかり本を読みふけって寝るタイミングを失って、仕方なくそのまま徹夜したことだってある。
それでも耐えてきたのは、俺自身が『従者である』という、抗いがたい力の存在の為。
「さ、ディア。まずは何からやればいいのかな? 教えてくれ」
だけど、フィリアは違う。
騎士であるだけでなく、団長で、他の騎士の模範にならなければならないといえどもまだ二十歳。
多少の失態や不徳は大目に見られる立場なのに、フィリアは完璧に自らの果たすべきことをすべてこなしていた。
誰に強制されたわけでもない。
誰かに見栄を張りたいわけでもない。
それなのに──。
「この前の大雨で東の城壁の一部が少し崩れかけてる、危ないから直してほしい、と昨日一日で五十人くらいから陳情された」
「城壁が? そりゃあ一大事だよ。今日中にでも工事を始めなきゃならないね」
「誰に頼むんだ?」
「カーペとエンテルに頼もう。忘れないうちに手紙を書いておこうか」
「そうだろうと思って、もう大体作ってある。ここにあの二人の名前と、それからこっちにお前のサイン。それですぐに持ってける」
「お、ありがとうディア。えーっと、ペン、ペンは……」
「これ」
「いやぁ、何から何までありがとう」
「そりゃあよかった」
それはどれほど凄いことなんだろうか?
多くの人には、フィリアを『団長』としてしか見ていない連中には、多分、分からないだろう。
彼らのひとりひとりがフィリアと接している時間は短い。
だから、その僅かな間だけフィリアが『団長』を演じているのだと思ってしまうだろう。
本当は全然違うのに。
「……っと、はい、これでいいかな?」
「うん、大丈夫だ」
「ちょ、ちょっと待ってよディア、確認する前にポケットに入れないでくれ」
「別にいいだろ。お前のやることはいつだって正確だから」
「そんなことはないよ」
「でも、今までずっとそうだったしさ」
「だけど、これからもそうである保証はどこにもない。いつ僕が間違うかなんて、それは神だけしか知らないんだ。
だから僕は常に努力し続けなきゃならない。間違わないように……と言うのはあまり好きじゃないな、そうだね、よりよい方向に向かうために、かな。
そのためにさ、僕は君に助けて欲しいんだ。僕が今まで間違ってなかったからって、それは僕への信頼の証になんかならないよ。それにさ……」
「……それに?」
「そうやって何でもかんでもひとりでやるのなんて……なんか、寂しいじゃないか」
この時俺は確信した。
何をって、つまりフィリアは決して意識して、役割を演じているんじゃないんだっていうこと。
彼はあくまでも、ありのままの彼で居るだけなんだと。
だからこそ、彼は何をするにしても、それこそ日々笑うにしても怒るにしても悲しむにしても、常に真剣で。
真っすぐ伸びる背筋に人は羨望と感嘆の眼差しを向け続け、その中に時折見える弱い部分さえも、人の心を強く掴んで離さなくって。
もちろん俺も例外でなく。
もしもそれに気付かなければ、俺はもっと楽にして生きられただろう。
でも、あまりに長い時間、俺はフィリアと共に居すぎた。
だから気付かずにはいられなかった。
常に尊敬の中心に居る彼の孤独に。
だから俺は、フィリアの苦しみを和らげられるなら、他の何も惜しくない。
そう思っていたし、今でも思っている。
たったひとつの例外を除いて。
「そういえば、フィリアとステファス様って、どっちの方が強いの?」
「……どっちが強いか、ねぇ」
「どっちなの? 気になるなぁ。教えてよ」
「いや、気にすることなんてないよ、サラ。僕がステファス様にかなうわけないさ。まだまだ僕は弱い」
「えー、そんなことないって。絶対フィリアの方が強いと思うな」
第九話
「ああ、ディア!」
部屋に入るなり、サラは指の間から涙を零して膝をついた。
「よかった、ディア……もう、駄目なんじゃないかと……」
嗚咽とともに言葉を絞り出す彼女を見て、俺の心は痛んだ。
もう大丈夫だよ、心配しないで。
そう言おうとしたけども、声が出ないのがもどかしい。
「サラ、そう泣かないの。せっかく彼が彼岸から還ってきたのに、そんな悲しい顔をするものじゃないわ」
ユウラはサラの肩に手を置き、優しく彼女に言い聞かせる。
「分かって……分かって、ます。でも、でも……嬉しくて、私……」
「うん、そうね。大丈夫、もう彼は無事。だから落ち着いて」
ユウラはサラを助け起こし、部屋の隅に置かれた丸椅子に彼女を座らせる。
「さぁタカカゼ、早く全部治してしまいましょう。いつまでも喋れないのは気の毒だわ。彼の意識は戻ったんだから、あとは簡単よね?」
「言うだけならな」
すると、タカカゼと呼ばれたあの鎧の男が俺の方にやって来る。
ベッドに寝そべったまま、まったく動けない俺からすれば、その背姿は本当に切り立つ山や崖のようなものに思えた。
「まぁいい。だがだったらユウラ、その女を一旦外に出してくれ」
「ああ、確かにその方がいいかもね。あなたにしては気が効くじゃない」
「邪魔はされたくない」
「さ、サラ。ちょっと出てましょう」
「え? どうしてですか?」
「えーっとね……うん、とにかく、一旦出ましょう。大丈夫。タカカゼも、まぁ一応人間だから。彼を食べたりはしないわ」
「お前よりかは十分人間だ」
「はいはい、ちゃんと治しなさいよ」
「……タカカゼさん、お願いします」
理由は分からなかったが、タカカゼの提案に従う形でサラとユウラは部屋から出て行った。
なぜかということは俺が一番聞きたかったが、生憎その為の手段は失われている。
ドアが閉まったのを確認すると、タカカゼは右の小手を外し、耳障りな金属音とともにそれを手挟む。
その下からは白い手袋が現れた。
「すぐに終わる。我慢しろ」
俺を見下ろしタカカゼはそう言う。
手袋の表と裏には緑の染料で呪文が描かれていて、これがタカカゼのアンプリファイアなのだろうと俺は思った。
土魔術士はそれに最適なアンプリファイアの素材の関係上、手袋やブーツといったものをそのアンプリファイアにすることが多い。
最適な素材とは動物の革や、麻や綿などといったものがあてはまり、見る限りはタカカゼのそれもその範囲から逸脱してはいない。
彼はおもむろに俺の喉元にその手をかざした。
そしてゆっくりと、一言一句、確かめるようにして呪文を唱える。
「枯れし木の葉よ、倒れし幹よ。苔むし朽ち果て、清き新たな芽の糧になれ。『リィヴァクル』」
彼が、唱え終えた。
その次の瞬間、俺の喉は彼の手に締め上げられた。
大きな手は無慈悲な万力となり、俺の喉を圧迫する。
息が、出来ない。
抵抗しようにも、体は痛くて動かない。
叫ぶことなどもともと不可能。
視界がぼやけていく。
頭が内側から締めあげられる。
尋常ではないほどに喉が熱くなる。
まるで火を呑み込んだように熱くなって。
やめろ、やめてくれ。
薄れかけている意識でそう思ったときだった。
何の前触れもなく、タカカゼは手を離した。
解放された俺は驚くより先に精一杯息を吸い込む。
数回咳込んだ後、はっきりしない目でタカカゼの方を見ると、彼はもう青い小手を着け終えていた。
まるで食事の前にちょっと手を洗った、という感じのその態度。
俺は出来る限りの憎悪を込めてタカカゼを睨みつけるが、再び襲ってきた咳の発作にそれは途絶される。
「終わったぞ」
「あら、もう?」
「言われたことはやった」
タカカゼに呼ばれて二人が部屋に入って来る。
しかしここまで俺の方を全く見ず、俺のことを全然気に掛けないタカカゼに、俺の怒りは頂点に達していた。
「いったい、何を──」
そして、その怒りは驚きにすべて置き換わった。
何にかって、普通に声が出ることに。
それもかすれてるとか、しゃがれてるとかいうわけではなくて、ちゃんとした俺の声が出せる。
驚きすぎて言うべき言葉も忘れてしまった。
気付けば、喉の熱さはもうどこにもない。
「ディア! 治ったの!?」
「サラ」
「もう平気なの? 大丈夫?」
「あ、ああ。たぶん、大丈夫だと思う」
「よかった……うん、また話せて、うれしいよ」
再びこぼれそうになる涙を、白いローブの袖で拭うサラ。
でもそのひと雫は、さっきのそれとは違うものだっただろう。
「まぁちょっと、苦しかったけど」
「え?」
「荒療治に痛みはつきものだ。だから我慢しろ、と言ったはずだが?」
せめてもの反撃を試みた俺にタカカゼはぴしゃりとそう言ってのけた。
まさしく上から見下ろしているその物言いに俺は忘れかけた怒りを思い出すが、いまだに体の自由は効かない。
「はいはい、そこまでそこまで。ディアの喉は治った。また喋れるようになった。それでいいじゃない、ね?」
俺の感情を察知してか、ユウラがぱんぱんと手を叩きながら俺とタカカゼの間に割って入る。
「少なくとも、ディア=ローランド、全身を焼かれる痛みよりはマシだったはずだ」
「何?」
「タカカゼ、もういいわ。後は私がやる」
「その方がありがたい」
感情の起伏のない言葉を残し、タカカゼは去って行った。
「まったく。悪いわね、ディア=ローランド。あいつ、多分嫉妬してるのよ」
「誰に?」
「あなたに」
「何で?」
「さぁ、何でかしらね。分からないわ。でも、分かるの」
「なんだよ、それ」
「女の勘ってやつね」
「……便利な言葉だ」
「サラには、分かるかしら?」
「あ、えっと……分かりません。ごめんなさい」
「そんな、謝ることじゃないわ。ま、そうなると、うん、勘じゃなくて、経験かもね」
ユウラは笑ってそう言った。
子供のような表情だったけれども、なぜだろうか、子供のような無邪気さはそこになかった。
その背丈や体型からして、それほど歳をとっているようにも見えない。
むしろサラと比べてみれば、どちらかといえばサラが年上に見えるほど。
それなのに経験、と彼女は言った。
俺はその意味を訊こうとした。
だが、その前にユウラは俺の顔を真正面からじっと覗き込んできて、俺は口を開くのをためらった。
生まれて初めて見る蒼い双眸。
まるで真夏の雲ひとつない空のよう。
明るいようで暗くて、近いようで遠くて。
もしかしたら、俺なんかはそこに踏み込んではならないのではないか。
そんな気配を帯びた色だった。
「さあそれじゃ、あなたの体も治しましょうか」
その言葉に俺は思考をリセット。
ああ、そうだよ。
これは気になることだけども、必要なことではない。
今、必要なことが何かは分かり切ったこと。
俺はこの動かない体はもう嫌だった。
ほんの少し動かすだけでもどうしようもなく痛む。
きっと異端者の炎で焼かれたせいだろう。
だが、先のタカカゼの行動にはどうにも合点の行かないところがあった。
「分かった。頼む。でも、タカカゼのやつは何で俺の体までは治してくれなかったんだ?
あれだけの呪文詠唱で俺の喉を全部治せたってことは、あいつは相当な術者だよな。それなのに俺の体の火傷を放っておく理由が何かあったのか?」
タカカゼが少なくとも俺の喉を治してくれたことは事実なのだから、俺は正直もうそこまで怒ってはいなかった。
しかしできるんならやってくれていいじゃないか、という怠惰な意識が俺にその問いをさせる。
あるかないかのどちらかをその意識は期待していた。
だが、ユウラはそのどちらでもない回答を提示する。
「さぁ、何でだと思う?」
「分からないから、聞いてるんじゃないか」
「私はこの前サラに説明したわ。というわけでサラ、説明してあげて」
「えっと……あのね、ディア。タカカゼさんは治さなかったんじゃないわ。治せなかったの」
「治せない?」
「ディア、あの日のこと、どこまで、覚えてる?」
「どこまでって……」
俺は目を閉じて思い出す。
何回か試してみるが、やはり最後のカットはすべて同じ。
「大きな木の下にお前を置いて、それまでだ」
「うん、やっぱりそうだよね。じゃあ、その前のことは……分かるよね」
「……ああ」
俺は頷く。
多分一生忘れないだろう。
「ディアが倒れちゃった後ね、私、どうすればいいか分からなくって……。
いろいろやろうとしたんだけど、どれも結局意味が無くって……それで……」
「私がそこに出くわしたってわけ」
言い淀んでしまったサラに、ユウラが助け船を出す。
「私があなたたちを見つけた時、あなたはまるで木から落ちた蝉みたいに地面に倒れ込んでいた。
奇妙な光景だったわ。真夜中の深い森の中に男女が二人。女は男の手を握ってずっと呼びかけているのに、僅かな返事さえない。
私はサラに聞いた。『何があったの?』と。そうしたらサラは言った。『助けて下さい。彼は全身を焼かれてしまって、私にはどうすればいいか分からないんです』と。
一体全体何のことかと私は思ったわ。わけの分からないことを言って、この娘はちょっと頭がおかしいんじゃないかって思った。
だって私があなたを見る限りでは、体のどこにも火傷の痕なんてなかったんだから。
確かに上着はもう襤褸<ぼろ>同然で、ズボンのあちこちにも焼け焦げの跡がたくさん残っていた。
だけどね、その下には無傷の綺麗な皮膚しかなかった。つまり、サラが言ったような体を焼かれた痕なんて、どこにもなかった」
ユウラの言葉に、俺は耳を疑った。
しばらくの後、俺に何とか出来たのはそのまま聞き返すことだけ。
「どこにもなかった?」
「ええ」
「それは……嘘じゃないのか?」
「嘘じゃないわ。そうよね、サラ?」
「……う、うん。そうだよ」
「そうね、実際に見てみれば早いんじゃないかしら?」
そう言うやいなや、ユウラは俺の掛け布団をぱっとめくりあげる。
薄青色に染められた木綿の服に包まれている俺の体。
ユウラはその袖口を引き上げ、俺の腕を露出させる。
そして確かにそこには、肘の周りから五本の指先まで、火傷と思えるような痕はひとつもなかった。
「これは……!?」
俺は目の前の現実が信じられなかった。
傷がないのは、それはもちろん嬉しかった。
しかしそれだけでは話が終わらない。
火傷などしていないのならば、じゃあ今俺の身体を支配しているこの痛みは?
「聞け、大地。我に恵みを。全てを育むその美しさを」
ユウラの詠みあげるような声に、その瞬間、俺は日陰から日向に飛び出したような感じがした。
「『ディアグレイス』」
「そう、それ。そのおかげであなたは全身大火傷の致命傷を免れ、代わりに今指先数センチも動かせない程の痛みに襲われているわけ」
俺の左手が骨の髄から悲鳴を上げる。
ユウラがいきなり俺の手を握り締めたからだ。
その痛みは秋の小麦畑のさざめきのように寄せては返し、決して已むことなく繰り返される。
「あら? やっぱりこれでも痛いのかしら?」
「痛いに……決まってるだろう」
なんとか俺は言葉を返す。
「不思議な話ね」
「何がだ」
「あなたが使った魔法は、本当にディアグレイスだった?」
「そうだけど、それが何だって?」
「疑問はふたつ。まずひとつは、ディアグレイスのような中位の身体強化術法は、
全身の火傷をまぁ多少は治せるにしても、ここまで完璧に治すことはできない。まして、即座になんて。
そしてもうひとつは、私があなたたちを見つけてから──つまりあなたがそれを使ってからもう一週間が経つのに、
それなのにあなたの体には許容できない量の反動が残っている。どちらも普通じゃありえないわ」
「……そうなのか?」
「まさか、どんな術か知らずに使ったの?」
「ああ。単に俺が普段使っている術よりかは強い力を得られる、っていうくらいしか知らなかった」
「呆れた。でも、そのおかげかしらね。恐れを知らない心が、術の力を最大以上に増幅させたのかもしれない。
はたまたあなたの意志力の強さのたまものかもしれないけれども。いや、それとも……」
と、そこでユウラは言葉を紡ぐのをやめ、かぶりを振った。
「でも大丈夫。もうこれ以上苦しむことはないわ。今のあなたなら自分で癒せるはずよ」
「俺が自分で治すのか?」
「ええそうよ。だから最低でも喉は治したのよ」
「だったら、その手をどけてくれないか? アンプリファイアを着けないと、魔法が使えない」
「あ、あの……」
俺は声のした方を向く。
サラがおずおずと割って入って来た。
部屋に入ってきた時よりかは大分元気を取り戻していたが、どこか最初よりも、ものすごく居づらそうに見える。
十五年来の付き合いだから、おおよそのことは一見すれば分かる。
そして今の話の流れから、おそらくサラが次に言うだろうことも俺は推測していた。
それは出来るだけ当たってほしくないものであった。
だが悲しいことに、既に頭の中はそれ以外の可能性を生み出そうとはしなかった。
「ディア、あのね、私が気付いた時には、もう……こう、なっちゃってて……」
サラはローブの内ポケットに手を差し込むと、幾つかの真っ黒になった物体を取り出した。
俺は目の前に差し出されたそれらをじっと見る。
嫌な予感ほど当たりやすいというのは本当だ。
燃えつきて炭素の固まりになっていたその小さな欠片は、上手につなぎ合わせてやればきっと手袋ふたつくらいの大きさにはなるだろう。
つまりは、その真っ黒なものが俺のアンプリファイアだったのだということだった。
「これじゃ、もう使えないな」
そう口に出したとき、俺はしまったと思った。
「ごめんね、ディア。私がもっとしっかりしてたら……」
後悔先に立たず。
サラは泣きこそしなかったが、再びうつむいて暗い表情になってしまう。
「ああいや、サラは悪くないさ。うん、しょうがなかったんだ」
口ではそう言えたが、実際、あの茶色い手袋を失ってしまったのはものすごく悔しい。
アンプリファイアとしての質こそそこまで良くはなかったものの、あれは従者になった時のお祝いにと仕立屋の兄弟が本業をなげうって作ってくれたのだ。
俺の手にサイズを合わせたものだったから、そしてそれ以上に心を込めて作ってくれたから、本当に使いやすかったし、本当に思い入れもあったし。
だけど、それをサラに訴えるのはまったくの筋違いと言うものだろう。
少なくとも俺にその権利がないことぐらいは、分かっている。
「でも……」
「何さ、こんなもの、また作ればいい。それよりなんとかサラも、俺も、生きてたんだ。それでもう十分だよ」
理性と感情の狭間に投げ込まれた俺の言葉の半分は嘘だったけれども、もう半分はどこまでも本心から出たものだった。
「でも、これじゃ魔法の効果が出ないぞ。なぁユウラ、何か代わりを持ってないか?」
「このままでいいわよ」
「え?」
「だから、アンプリファイアなんて要らないわ。私が手を握っている間は、あなたは私以外の誰よりも強い魔法が使える」
「からかってるのか?」
「あら、心外ね」
「だって大体……そういう話は聞いたことはない」
「だからといって、それは否定の証明になり得ない」
まさかそんなはずがあるわけないだろう、と俺は思った。
アンプリファイアなしで強力な魔法を使えるだなんて。
しかし、それの真偽がどうであれ、自分で試してみることは決して無意味ではない。
何も動かなければ、何も変わらないのだから。
それはひるがえせば、何か動けば、何か変わるかもしれないということだ。
「分かった。とにかくやってみよう。普通に魔法を使えばいいんだな?」
「ええ。安心しなさい、途中で手を離したりはしないから」
「俺は大した治療の魔法は使えない。はっきり言えばアストーネがせいぜいだけど、それでもいいのか?」
「何でも大丈夫よ。ただ自分を信じていればね」
俺は目を閉じ、今持つべきイメージを描き出す。
うららかな陽気のなかで次々と芽を伸ばし始めた畑の傍を歩いた時。
春の太陽は優しい日差しを俺の上に落とし、俺は心地よい汗をかきながらあてもなく歩きまわっていた。
あの気持ち、あのときの感覚。
具体的にいつかなんかは覚えてないけど、あのときの体の気味の良い軽さだけは覚えていた。
それだけに俺は思いを集中させる。
そして俺は意識を研ぎ澄ますにつれ、ひとつの変化に気付いた。
ユウラに握られている左手から、力が湧き出てくる。
全身のすみずみまでその波動は行き渡る。
俺がイメージを作り終えたとき、俺はえも言えない充溢感を覚えた。
「小さき土よ、手を取りあい、光のもとに輝かん。『アストーネ』」
俺が唱えたのは本当に初歩の初歩の呪文。
つまずいてすりむいた時とか、指先を刃物で切った時とか、そんな程度の傷をようやく治せるくらいのもの。
それでも俺はユウラの忠告と、同時に俺の信条に従って、本気でこの痛みを消しされると信じて唱えたのだった。
そして、だった。
全身が沸騰するような感覚。
心臓は危機を知らせるかのようにうち鳴り、血液は逆流するほどの勢いを得る。
その激しさに押し出されるようにして痛みが去って行くのを、俺は驚くほどの静けさのなかで感じ取っていた。
身体はこんなにも激しく鼓動しているのに、意識はどこまでも整然としていて。
この感じが、強力な魔法を使っているということなのだろうか?
そうして痛みが全て消え去ると、その鼓動は途端におさまった。
俺はおもむろに上半身を起き上がらせた。
ユウラが手を離す。
俺は両手を引き寄せ、目の前で結んだり開いたりさせてみる。
もう、痛みなどどこにもなかった。
「信じられない」
「でも、治ったでしょう?」
ユウラの言うとおりだった。
あまりにあっさり過ぎて実感がなかなか湧かなかったが、完全に治っている。
それはユウラの言葉が正しかったことを証明していた。
「凄いよ。本当に。ユウラ、ありがとう」
「感謝なんてしなくていいわ。助けてあげたんだから、その分のことはやってもらうわよ」
「ああ、それは全然構わない。だけど、どうしてなんだ?」
「何が?」
「その、どうしてお前の手を握っているだけで、あんなに魔法の効果が強力になったんだ?」
「私はね、特別なの」
ユウラはさも当然のようにそう言ってのけた。
どこか面白がって言っているあたり、きっと今度こそからかっているのだろうと俺は思った。
そう思えたことが俺にとってはよかった。
特別という言葉は、俺が一番嫌いな言葉。
なぜならその一言は努力の放棄を伴う、無責任で無制限な羨望と嫉妬を肯定するのだから。
たくさんの騎士がフィリアに、そしてそれと同じだけの従者が俺に向けるようなものを──。
だけど俺に降りかかったこの現実は、なかなかそれ以外の言葉では説明できそうにない。
だから、俺はともかくもユウラの言葉をそのままに受け止めてみることにした。
少なくとも、今はそうしようと思った。
いずれ分かる時が来るだろう。
分からなくても構わない。
「さて、それじゃ私は失礼するわね。サラも今日はもう手伝わなくていいわ。戻って休んでもいいし、ここに居てもいいわ」
「あ、いえ、そんな。それじゃあ皆さんに悪いですし……」
「いいのいいの。あなた、ずっとディアに付きっきりでほとんど寝てないんでしょ? 目元に隈なんて作っちゃ、せっかくの美人が勿体ないわよ」
「でも……」
「サラはいいさ、休んでてくれよ。代わりに俺がやろう」
「あー、それは無理ね」
「大丈夫だ。もう動ける」
「あなた、料理できるの?」
「……いや、それは」
「じゃあ寝てなさい。あなたにふさわしい仕事はまた別にあるわ」
そう言うとユウラは立ち上がる。
膝に手をついて立ち上がったそのとき、ユウラと目が合った。
それは本当に一瞬のことだったから、確証はない。
でも俺にはそのとき、ユウラの瞳が金色の光を放っているように見えた。
「あ、そうだ」
俺がもう一度見ようと首を上げたとき、ドアを開けようとしていたユウラは口を開く。
「サラ、ディア。お互いにお互いを大切にね」
「はい。分かってます」
出し抜けなユウラの言葉にもサラは即答したが、俺はそうはいかなかった。
「それはよかった。ディアは?」
「あ、ああ。分かってるさ。だけど何で急にそんなこと──」
「分かっていれば、それでいいわ」
銀の髪を舞わせながら振り返ったその瞳。
その色は紛れもなく深い青だった。
「それだけでいいの。自分は他の誰にも換われない存在だっていうこと、たったひとりの自分なんだっていうこと、それだけは、忘れないで」
第十話
身体の自由を取り戻した次の朝、俺は新しい服を着た。
サラが見繕ってきてくれた赤いシャツと白い長ズボン。
手触りはそんなにいいものでもなかったが、俺は不満はなかった。
続けて渡されたのは薄い黄緑色したチェック模様の上着、紐だけが白の黒い靴、そして穴が3つしかない青いベルト。
「ごめんね。サスペンダー捜したんだけど、どこにもなくって。でも、色はちゃんといいのがあったから」
とサラは言った。
しかし俺は腰に巻くベルトは見たことはあったけど、一度も使ったことがなかった。
だからやり方を聞こうと思いかけたが、それはあまりに情けなさすぎるだろうと即座に却下。
その代償として、俺は五分にわたり革と金具とを相手に四苦八苦する羽目になったのだが。
なんとか仕組みを理解してベルトを着けた俺が部屋を出ると、サラは既に準備を整えてそこで待っていた。
薄茶の髪を黄色のゴムで一本に束ね、白い雲のようなあのローブを、胸元でボタンひとつだけ止めて羽織っている。
ローブの合間から除く水色のゆったりとした半袖の服、紺色の膝丈のスカート。
裾の下、腿のところまで黒いソックスが覆い、その細い足の先には軽やかな白い靴。
明るい緑色の目も、どこか違った光彩を放っているに見えて。
本当に綺麗な花は、周りにどんな葉を茂らそうと色あせることはないものだが。
俺はその姿にしばらく見とれていた。
いつの間にか手を離していたドアが大きな音を立てて、初めて俺はそんな自分に気付く。
サラは少し不安そうな顔。
「どうしたの? この格好、なにか変かな? やっぱり似合ってない?」
「いや。そんなことないよ。むしろ逆さ。似合ってるよ。本当に」
「本当? だったらいいんだけど。あんまりこういう色は着たことないから」
言いながら、サラはスカートの裾を確かめるようにつまみ上げる。
その仕草もまた俺の自制心を試すには十分なものだった。
「まぁ、いっか。あんまり贅沢なんか言ってられないもんね。ディアも今日から大変だと思うよ」
「え?」
「ほら、ユウラさんが言ってたじゃない。仕事をしてもらうって」
「ああ……そうだったな」
「嫌だなんてダメだよ。助けてもらったんだから、その恩返しはちゃんとしないと。神様はちゃんと私たちをご覧なさってるわ」
「いや、もちろん嫌じゃない。でもさ、何すりゃいいんだろう?」
「うーん、私も分かんない。でも大丈夫だよ。ここの人たち、みんないい人だから」
「そうなの?」
「ええ、そうよ」
俺は怪訝に感じて訊き返すが、サラは大真面目に頷く。
みんないい人だったら、いい人の基準は一体どこにあるんだ。
そう普段なら呟いていただろうけど、しなかった。
今の彼女の言葉で、俺の頭にはそんなことよりも重大な疑問が浮かんできたから。
すなわち、ここは一体どこなのだということ。
「なぁ、サラ、そういえば──」
俺が尋ねようとした、そのとき。
妙齢の歌声のような澄んだ金音が響き渡る。
サラははっと窓を見る。
「うそ、もう? 大変、どうしよう」
「え? 何?」
「鐘が仕事始めの合図なの。ディア、行こう!」
サラは本当に慌てているのだろう、言い終わるや否や俺を残して走り出す。
「ディア! 何してるの、早く!」
「あ、ああ。今行くよ」
その溌剌とした姿。
俺が彼女に言えるはずはなかった。
できれば、あの時みたいに俺の手を握ってほしかったんだ、なんて。
一羽の鳥が、雲ひとつない空を飛んで行った。
空気が違う。
玄関を出たとき、最初に思ったのがそれだった。
いつだったか、何かの本でこの表現を見た時、なんて陳腐な表現だろうなんて思っていたけれど、実際に体験した今ならよく分かる。
この感覚はこうとしか表現できない、絶対に余計な言葉を伴ってはならないものなのだと。
サラは飛び跳ねるように走って行った。
少しだけだからと俺は振り返り、さっきまで俺がその中に居た建物を見る。
あちこち剥がれてはいるが、白いペンキで壁一面が塗り込められている、翼を広げた鳥のような二階建ての館。
流石にインスカイ家ほど大きくはないけれども、たくさんの開け放たれた窓と、屋根の上の赤い風見鶏が漂わせる風格はあるいはそれ以上かもしれない。
ここは高台なのだろう、周囲は錆びついた鉄の柵で覆われている。
それが切れているのは一ヶ所だけ。
そこから曲がりくねった石造りの階段が、整理されていない本棚の中身のように雑然と並んでいる。
降り切った所には普通の家同様に門があり、そこからは一本の道が伸びている。
そしてその先には森が広がって、その更に向こうにはまだまだ緑を失わない山に周囲を守られた、ひとつの町が息づいていた。
「ディア!」
「ああ、今行くよ!」
また、綺麗な音が響いた。
俺は二段飛ばしで階段を駆け降り、門の所で待っていたサラに笑って謝る。
「ごめんごめん。じゃ、行こっか」
「うん、行こう」
サラも笑ってくれた。
彼女の指差した先は一本道。
傾斜こそきつくはないが、そこは当然ながら下り坂。
俺はペースを普段の半分程度に絞り、サラに合わせて彼女が無理をしてしまわないように走る。
道の左右では朝日を受けて煌めく黄金の波がうねっている。
収穫を目前にした畑はいつ見ても気分がいい。
しかし、十字路を踏み切った辺りから畑は消え去る。
周囲は鬱蒼とした藪に、茂みに、そしていつしか針葉樹の森になっていた。
フェアレラの周りの森よりも結構深いなと思う。
あまり人に分け入られた形跡も見当たらない。
そのうちに山の中へ入ってきたのか、傾斜も下りから水平へ、水平から緩い上りへと変わって行く。
道も段々と狭くなり、俺の肩が突き出す枝にぶつかってしまうほどの幅しかなくなる。
もう少しペースを落とした方がいいだろうか。
そう思ったときだった。
視界が太陽に覆われた。
森を抜けた俺は、ひらけた大地に立っていた。
俺のくるぶし辺りまでしかない草が日光浴を満喫している間を、人に踏み固められた道が申し訳なさそうに肩をすぼめている。
その先からは三回目の鐘の音。
ここが、上から見えたあの町なのだろう。
俺は一見して少し違和感を覚え、すぐにその理由に気付いた。
ここには城壁がない。
フェアレラとはまるで違う。
城壁のない場所に人が住めるのかと俺は思ったが、目の前の現実はそれが可能だとはっきりと示している。
布と木の棒だけで組み上げたような、家だと言えるかさえ怪しいものもあったが、それも含めれば、そこにはフェアレラの城内と同じくらい数の家があった。
そしてその間を縫い合わせて行くように、もっとたくさんの、活気あふれる人たちが居た。
「ああ、疲れたぁ……こんなに走ったの、久しぶりかも」
その声に振り向くと、手を膝についたサラが肩で息をしていた。
「大丈夫?」
「うん、たぶん。遅刻しちゃったけど、まあなんとかなるよ、きっと」
「いや、そっちじゃなくて……サラがさ。平気?」
「え? 私? 大丈夫だよ。ディアがペ-ス合わせてくれたから」
サラは身体を起こし、大きく深呼吸をする。
次にまたこういうことがあったなら、そのときはもう少し遅めに走ろう。
「あ、そうだ。そういえば、まだ言ってなかったね」
と、サラは俺の前に来て俺と向き合う。
そして半身を反らすと、パーティの主役を迎えるように誇らしげに手を伸ばす。
「ディア、ここがアピオフ。新しい、みんなで作ってる町なんだよ」
「アピオフ」
「そう、アピオフ。いい名前だよね。色々フェアレラとは違うから大変かもしれないけど、すぐに慣れるよ。みんな、いい人だから」
彼女の言葉が正しい事を、俺はすぐに知った。
この一週間で、既にサラはアピオフの一員として受け入れられていたのだ。
それも驚いたことに、道を歩けば声をかけられるほどの人気者として。
もちろんこれには理由があった。
サラはアピオフでたったひとつの食堂で働いていて、サラのつくる食事はおいしいと町じゅうでかなりな評判になっていたのだ。
特に彼女お得意のシチューが一番気に入られているのだそうだ。
「そんな、普段通りにやってるだけだよ」
なんて控えめに、しかしへりくだり過ぎずに言うサラが好かれないはずはない。
アピオフもフェアレラと同じで、そういう話はあっという間に広まるもののようで、『クレヴァ食堂のあの娘』といえばサラ=ノーヴェルのことだと知らないものは、今や誰も居ないという。
「まぁでも料理の味よりかは、サラさんその人自身にやられたってのが結構居るな。うん、俺も含めて」
と、その辺りのいきさつをそう締めくくったのは、俺に与えられた仕事──家の建築現場で知り合ったビュレットだった。
彼は三か月ほど前にアピオフに来たのだと言う。
俺が彼について知っていることは、今はそれだけ。
彼もまた、俺について知っていることは一つまみの塩程度。
でも、ここではそれで十分だった。
生まれてこの方ずっと俺を定義し続けてきた従者という概念は、ここでは何の力もなかった。
そもそも誰もそのことは聞いてこないし、誰もその手の、つまりここに来る前の話は口にしようとはしないのだ。
ここでは俺はただのディア=ローランドだった。
今は昼の休憩時。
決まった時間に休憩できることも、休憩時間を自由に過ごしていい事も、俺には多少以上の違和感をともなうものだった。
しかしこの暑い中、身体を休められることは相当に魅力的であり、周囲より早く食事を済ませて俺たちは木陰に座り込んで話していた。
「大人気なんだな」
「おう。今じゃ誰が一番にサラさんにお誘いかけるかとアピオフ中で熾烈な心理戦が繰り広げられてる」
「へぇ、そりゃ大変だ」
「お前はどうだい? 俺は負けないけどな」
「遠慮しとくよ」
「え? 興味ないのか?」
「ないと言ったら嘘になるけど、別にいいさ」
「そっか。まぁ構いやしないがな。ライバル候補が減ったんだ。そういうのは少ないに越したことはない。だろ?」
「どんなに少なくても、勝てなきゃ意味ないんだよ」
「んなことは言われなくても分かってるさ。お、昼の鐘だ。さっさと終わらせようぜ、ディア」
皆伸びをしたり欠伸をしたりしながら、それぞれの持ち場に戻って行く。
筋肉隆々とまでは言わないが、それでも十分に屈強な体つきをしたビュレットはえいやっと立ちあがった。
その汗の噴き出た背中は山のよう。
タカカゼのそれも山のようだったが、二人を比べればタカカゼの方はむしろ急峻な崖に近い。
サラの言ったことは嘘ではなかった。
みんな、いい人だった。
ビュレットたちは俺のこともすぐに受け入れてくれた。
それに、ここの人たちはみんな、たとえ俺と今しがた初めて会ったとしても、数年ぶりに会った友人のような調子で平然と接してくるのだ。
だからさっきの俺とビュレットのような多少ずれたやり取りが発生するのだが。
ただ、しかし、フェアレラでは絶対にこうはいかないだろうと思う。
十六年前、サラがはじめてフェアレラに来たとき、俺も含めてほとんどの子供が彼女を避けていたことを俺は思い出す。
もちろん一度遊んでしまえばそんなものは霧消してしまったが、
城の外から来た存在に、子供特有の理由のない純粋な恐怖心を抱いていたのだ。
今ではもう異端者に家族を殺された、憐れむべき者たちを助け保護するという教会の考えも理解しているが、当時はそうもいかなかった。
いや、むしろ、今でも俺はそうではないのかもしれない。
彼らの無警戒な好意にとまどっている自分を、俺は否定できなかった。
サラはその好意にきちんと応えているというのに。
「ディア、何やってんだ?」
「あ、悪い。今行くよ」
「疲れか? まあ最近暑いからな、休んでてもいいぜ。もちろん、後で一杯はおごってもらうがな」
「いや、大丈夫。大丈夫だから」
何が大丈夫なんだろうか。
自分で言っておいて、分からなかった。
それから、更に一週間が経った。
誰を起こしに行かなくてもいいのに、俺は太陽が昇る前には目を覚ます。
ほとんど無意識のうちに着替えを済まし、寝巻きをたたみ、ドアに手をかけて、そこでいつも気付くのだった。
ここはフェアレラではないんだと。
その現実は日が経つにつれて、俺の心に重くのしかかってきていた。
サスペンダーの感触を思い起こすたび、フィリアの顔が頭に浮かぶ。
あいつは今、どこに居るんだろうか。
まだ戦場なのだろうか、それとも、還って来たんだろうか。
還って来ていたら、なんて思っているだろうか。
炎に焼かれて、血を流したフェアレラ城。
それだけでも彼の心に大きな傷を刻むだろうのに、そこに、サラが居ないと知ったら──。
改めて俺は怯えていた。
俺がやってしまったことの意味の大きさに。
確かにサラを助けるためだった。
でもそれと同時に、俺はフィリアからサラを奪ったんだ。
彼の愛する人を。
彼の心の一番の支えを。
それにそもそも助けたこと自体彼女の為でなく、自分の為。
俺はフィリアを裏切ったんだ。
それをどうしてごまかせようか。
その事実は、もはや変えようの、逃れようのないもの。
でもまだ今ならひとつだけ、この恐ろしさから逃れる方法があった。
フェアレラに、サラと一緒に帰りさえすればいい。
そうすれば俺は再びフィリアに応えられる。
神の教えに背いた罰は当然受けるとしても、フィリアならきっと赦してくれる。
あいつならそうしてくれるはずだ。
だけど、それはできない。
俺を赦したフィリアは、サラもまた赦すだろう。
そして前よりも深く愛するだろう。
二人の間には他の誰も入れないほどに。
それは明らかに正しい事。
あるべき姿に、元の通りに戻るだけ。
それでいいとみんな言うだろう。
サラはフィリアのために、フィリアはサラのために。
互いにその想いを疑いなんてしない。
二人は枝のつながった二本の木のように深く結ばれているから。
そして、そこに俺は必要ない。
フィリアの心の真ん中にはサラが居て、サラの心の真ん中にはフィリアが居て、俺はそのどこにも居ない。
これまでずっとそうだった。
これからもずっとそうでなくてはいけないのか?
アピオフで過ごしたこの一週間は、違った。
ここではサラの一番近くに居るのは俺だった。
ディア、ありがとう。
そう彼女にほほえんで言われるだけで、どれだけ嬉しかったか。
彼女の力になれている、彼女に頼ってもらえているんだ、俺はここに居てもいいんだと思えるだけで。
でも、フェアレラに帰ってしまえば、サラの一番近くに居るのは俺ではない。
それでいいとみんな言うだろう。
だから、俺はフェアレラには帰れなかった。
わざわざ着替え直すのも気が進まず、俺はとりあえず外に出ることに。
うっすらと夜は明け始めている。
こんな時間だったがさして肌寒さは覚えない。
まばたきする度にうつろいゆく黒と白とのグラデーション。
かすかに残る星の光がそれを彩っている。
この一週間。
本当に色んなことがあった。
段々慣れて行けたけれども、驚かないで居られる日なんて一日もなかったように思う。
まず、アピオフには教会がなかった。
それにどれだけ驚いたか。
俺は生まれてこの方、教会や、聖書や、牧師様といった神にまつわるものがない状態を考えたこともなかった。
確かにお決まりの内容の聖書や教書なんて好きじゃなかったから、教会の授業とか日曜の集会なんてなければいいのにと思ったこともある。
でもそれがないことなんて想像できなかったし、あって当然とばかり思っていた。
つまり俺の思考のすべてのベースだった。
それが、アピオフではどこにもなかったのだ。
しかし鐘はあった。
ありはしたが、じゃあその鐘はどこにあったのかというと、なんと町の西の端に据えられた、小さな台の上に吹きざらしで置いてあった。
上に雨よけの幕は張られてはいたが、そもそも鐘というものは神の声を人に伝えるもの。
どう考えてもその役割に見合うだけの扱いではない。
こんな低い場所に置くべきではないし、もっと厳重に取り扱わなければならない。
だから、鐘はフェアレラでは教会の一番高い塔に吊るしてある。。
教会それ自体がないことも、神聖なはずの鐘を単に生活基準のひとつとしてしか認識していないことも、俺にはまったく理解できないことだった。
「何でここには教会がないんだ?」
「なくちゃ駄目か」
「だって、なくて不安じゃないのか?」
「じゃあ、あったら安心できるのか」
「いや、それは、けど」
「ここじゃあな、誰も主のお言葉とか、主のご意思がとか言ったりしないんだ。俺は、その方がいい。あんなものなくていいんだ」
ビュレットはそう言っていた。
彼の強い語気に俺はそれ以上聞くことが出来なかった。
「みんな、どうして教会がないのに平気なんだろうな」
「私も分からない。何でだろうね」
「鐘もあんな風に置いてるしさ。せめて周りを囲うくらいは……」
「そんなこと言っちゃダメだよ、ディア」
「え?」
「だって、それは私たちの考えでしょ? 私たちがおかしいと思うからって、それを押しつけるなんて身勝手だよ。
私たちとはちょっと違うけど、でもみんな普通に暮らしてる。それでもういいんじゃないかな」
「それは、そうだけど」
「だって、私たちが逆に言われたら? お前たちの信仰は無意味だから教会なんか壊してしまえ、祈りなんてもうささげるな、なんて言われたら?」
サラの言うとおりだった。
みんな、その中で日々を過ごしていた。
その様子はフェアレラの人々と何も変わりはしない。
中には何十人くらいか、言葉が通じない人が居たけれども、その人たちだってだから変だというわけではない。
いい人も悪い人も居て、それでどっちかといえばいい人の方がここでは多いかもしれない。
特に、ビュレットは俺に一番親切に接してくれていたと思う。
嫌がる俺を無理矢理食堂に引きずって行き、そこで俺とサラが既に知り合いだと知って大騒ぎしたりもしたが。
すぐに機嫌を直し、むしろ俺が黙っていたことを話の種にしてサラに熱烈なアプローチをかけていた。
客も俺たちだけになり、手のあいたサラが途中から一緒に食べ始めてからはなおさらに。
もっともよほど気を良くしたのだろう、二時間後にはすっかり酔いつぶれて眠ってしまった。
でも、その方が彼にとってよかったと思う。
サラの涙を見ずに済んだのだから。
机の上で手を結んだまま、彼女はうつむいて声もあげずに泣いていた。
さっきまで笑っていたのに。
ビュレットが寝息を立て始めて、俺がその姿に苦笑して彼女に目を向けた時、その涙はもうぽろぽろと零れていた。
「……サラ?」
「え? あ、ご、ごめんね。何だろう、なんか、ちょっと……」
「サラ、待って」
「あ、そうだ、片づけちゃうね。もう、遅いから」
彼女は涙を拭うとやおら立ち上がって食器を取り、奥に行ってしまった。
そして、しばらく戻ってこなかった。
その涙の意味。
俺には分かっていた。
それはいつか彼女が言うだろう。
本当は、俺が言わなければならないことだった。
でも彼女の涙を見た後でも、俺は言えなかった。
いつの間にか太陽がその姿を現していた。
また今日が始まろうとしている。
「あれ? ディア?」
声をかけられ、俺は振り向く。
「サラ。何?」
「いや、別に何でもないんだけど、どうかしたの? こんな時間に」
「いつもの習慣でさ。起きちゃったんだよ」
「ああ、そっか。いつもは……そうだったよね」
いつもは。
何気ないつもりだったその一言。
言うべきでなかった。
でももう遅い。
割り込んで止めることも出来ない。
だから俺はただ黙って待った。
彼女の言葉を。
「……ねぇ、ディア。私、フェアレラに帰りたいな」
サラがそう言うことは、分かっていた。
その先にある本当の願いも。
もう黙っていることは許されない。
だから俺は言った。
「フィリアに、会いたい?」
サラは数秒ののち、一回だけ頷いた。
分かっていた。
そうだろう?
いつかはサラがこう言うことは、分かっていた。
当り前のことだ。
元々そういうつもりだったんだから。
だけど、俺は戻りたくない。
それを言わなくてはならない。
俺は決めていた。
サラがはっきり望みを伝えてくれたのなら、俺も、俺の思いをはっきりサラに伝えようと。
サラ、ここでこのままずっと俺と一緒に居て欲しい。
だって、俺はお前のことを愛しているから。
サラの幸せは俺の幸せで、俺の幸せはサラの幸せではないけれども。
だけど、どれだけサラの願いに背くものであったとしても、俺はこの現実<いま>を手放したくなかった。
足が震える。
逃げ出したくなる。
サラの目。
潤んだ緑の目。
でもそこにたたえられた光は昇りゆく太陽のように煌めいている。
俺なんかじゃ欲することさえおこがましいほど気高くて、貴くて、美しくて、優しくて。
逃げてはならない。
もし本当にサラに愛されたいのならば、それに見合うだけの者でなければならない。
俺は彼女の目をじっと見つめた。
彼女も俺を見つめ返した。
足はもう震えてない。
「サラ、俺は──」