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各種旧作  作者: 坂本 晴人
剣と魔法のファンタジー オリジナル
10/12

スクワイア (プロローグ~第5話)


『スクワイア』



 プロローグ


その背中が俺から遠くなったのは、いつからだろう。

煉瓦造りの城壁の上。

壁に腕を乗せ、空に体を預け。

彼女は遠くを見つめて待っている。

俺はその背を見つめて待っている。

彼女が待っているものがやって来るまで。

どうしてかって、俺は、彼女を護るようにと命令されているから。

だから、俺はいつでもこうやって彼女のそばに居る。

ただそれだけで、そばに居られるだけで俺は幸せだった。

つまり彼女は俺にとって、特別な存在だっていうこと。

上等な絹で織られた、赤い刺繍が映える純白のローブ。

彼女のまとうその白さはまるで、彼女だけのために用意されたもののようだった。

「来た」

彼女は口を開く。

その声音はここしばらく姿を現さなかった喜びに溢れている。

振り向いてくれないかな、と思う。

彼女はきっと笑っているはずだ。

まるで誕生日のケーキを前にした子供のように。

無邪気に笑っているはずだ。

その笑顔が見たい。

俺は一歩前に出る。

彼女の背中が少し近づく。

けれど、それに触れることはできない。

もう一歩を踏み出すこともできない。

二人並んで、彼女の肩に手を回すことができるなら。

俺には、そう考えることしかできない。

彼女は何かに向かって懸命に手を振っている。

その先。

遥か遠くに見えるのは、誇りを背負った空色の旗。

それを囲むようにしながら、たくさんの人が歩いていた。

彼らは騎士。

愛すべきものの平穏と世界の秩序の為に戦う、気高き者たち。

その凱旋は、何よりも華々しく迎えられるべきもの。

「行こうか。サラ」

「うん、行こう」

体の内側から溢れた力に弾かれるようにして、サラは振り向いた。

その顔は、やっぱり笑っていた。



城門の回りはたくさんの人で溢れていた。

俺とサラは城壁から降りる階段の途中で足を止め、その喧騒に巻き込まれないようにする。

別に下に降りなくても、ここからなら城門の辺りはよく見えたし、

それに何より、あんな所に居たら彼女とはぐれてしまいそうな気がしたから。

「ねぇ、正門が開いてるの、久しぶりだね」

「ああ。そうだな」

正門とは、あの無愛想な鋼鉄の城門のこと。

高さ10メートルはあるだろう。

それが今、帰還する騎士たちを歓迎するために大きくハの字の形に開けられている。

そこの周りに無秩序にむらがっていた人々も、いつの間にか一本の道を形作るように分かれていた。

その道はこの城門から真っすぐ伸び、城の中心に位置する広場を通り、大小二つの尖塔を有する天守へ続いている。

あの勇壮な建造物は、この世界の中ではどれだけ大きいのだろうか。

そのことは昔から気になっていたが、俺には知るすべがない。

なぜなら、俺は騎士じゃないから。

城を離れ、遥か遠い異邦へ行けるのは騎士だけ。

だから俺はこの城の中のことしか知らない。

騎士たちの帰還をこうして迎えることも、当然だと思っている。

でも、他の城ではどうなんだろう?

そもそもここの他に城なんてあるのだろうか?

そのとき、割れんばかりの拍手と、地を埋め尽くさんばかりの歓声が湧きあがる。

白と黒との雲の上。

澄んだ空の中に輝く太陽。

その輝きをかたどった大きな騎士団旗が、その歓声を受けていた。

緊張した面持ちの旗手を先頭に次々と騎士たちが入城していく。

腰に佩いたそろいの長剣と、騎士団旗と同じマークが背に描かれた深紅の外套。

それらは騎士の証。

それらは余程の信頼がない限り、その騎士の従者にさえ触れることが許されていないもの。

彼らは笑いながら手を揚げたり、あるいは振ったりして歓声に応えつつ、ゆっくりと広場へ向かって歩いていく。

みな、喜びと安心に満ちた表情をしていた。

俺は拍手を続けながら視線を横に向け、サラの様子をうかがった。

サラは俺の何倍も頑張って拍手をしていた。

そしてさっき城門の上で見たよりも、ずっと嬉しそうな表情<かお>をしていて。

でも、俺は、

そんなサラの顔を見るのが悲しかった。

俺ひとりでは決して見ることのできなかった、サラの心の底からの笑顔。

それを見ることは、嬉しいよりもむしろ、辛い。

でも俺はその笑顔を目に焼き付けておきたかった。

この口元が同時に、もう俺がしばらくサラのそばにいられなくなるということを表しているのだとしても。

俺のサラを護るという任務は、騎士たちが戦争に行っている間だけのもの。

騎士たちが還ってくれば、俺はサラのためではなく、俺の主君の騎士のために尽くさなくてはならない。

俺は騎士の従者。

そしてその騎士こそが、サラが本物の笑顔を見せる者。

歓声がひときわ大きくなる。

俺は前を向く。

騎士たちの列の最後尾。

背中に自分の背丈ほどもある大剣を背負った若い騎士が、そこに居た。

彼は周囲を見渡した後、俺の方を向いて、大きく手を振った。

サラの高い声が喧騒の中でもはっきりと聞こえた。

「フィリア!」

フィリア=インスカイ。

その名は、この騎士団をまとめる長のものにして、サラの恋人のものにして、俺の主君のものだ。



「みんな、よく戦ってくれた」

フィリアは石畳の広場の中心に据えられた、木の台の上に立ってそう言った。

彼の横には騎士団旗が高々とはためいている。

その前には行進を終えた騎士たちが列をなしていて、フィリアの言葉に耳を傾けている。

俺とサラはその騎士たちの列を取り巻く群衆の中に居た。

今は誰も物音を立てず、水を打ったように静かになっている。

そこにフィリアの張りのある声が響く。

「これ以上の言葉はない。しかしいつ、また征<ゆ>かねばならないか分からない。だから、それぞれ、今の時間を大切に過ごしてくれ。私からはそれだけだ」

ここに居る者全員が、フィリアの言うことをすべて噛みしめるようにして聞いている。

フィリアはこの城の誰からも敬愛されている。

俺は改めてそのことを感じていた。

「それでは、解散。神のお気に召されんことを」

「神のお気に召されんことを」

いつから使っているのか、誰も思い出せないほど古いこの挨拶を騎士は好んだ。

列をなす騎士がフィリアに続いて復誦する。

そしてそれが終ったとき。

騎士たちはみな家族のもとへと走った。

よかった、帰ってきたよ、無事でよかった、久しぶり、遠かったな、寂しかったか、お疲れ様、どこまで行ったのかい、子供の様子は、怪我はしなかったの、ただいま、おかえり。

俺はフィリアを見る。

台の上からフィリアは騎士たちの様子を眺めているようだった。

その口元は満足そうに笑んでいる。

「ね、私たちも行こう」

「……あ、ああ」

サラは俺の右手を握り、フィリアの方を指差した。

俺の返事より先にサラは走り出し、俺はサラの小さな手に引っ張られる形で人々をかき分ける。

少しだけ、俺はその手を握り返した。

サラが気付くか気付かないかの力で、ほんのちょっぴり。

もし、俺が騎士だったならば。

その仮定は卑怯すぎるものだと分かっていても、つい思ってしまう。

どうして卑怯かって?

だって俺が騎士だったら、俺は今ここにいないかもしれない。

でも。

フィリアはいつだってここに還ってきた。

そう、今も。



広場の中心に出た。

そこはまるで台風の目。

ちょうどフィリアは台から下りているところ。

サラは俺の手を振りほどき、フィリアのもとへ走って行く。

「フィリア!」

その声でフィリアは振り向き、走りこんできたサラを正面から受け止める。

自然、抱き合う形となる。

「サラ!」

「還ってきてくれて、嬉しい」

「必ず還るさ。君をひとりにはしないって言ったろう?」

「うん。私、信じてた」

「信じててもらえて、僕も嬉しいさ」

俺は一度、自分の右手に視線を落とす。

そこに向かって言い聞かせた。

分かっているだろう、俺は誰だ?

顔を上げ、俺は二人のもとへ出来るだけゆっくりと歩いてゆく。

フィリアが俺の存在に気付いた。

俺は深く腰を曲げて礼をする。

フィリアはサラと自然に離れ、俺の方を見る。

「あぁ、ディア。久しぶり」

「よくぞご無事で。団長。嬉しい限りです」

「大丈夫。僕はまだ死にたくないからね。そうだ。ちょっと持っててくれないか?」

フィリアはそう言うと巨大な剣を体にくくりつけていたベルトを外し、慣れた手つきでそれを手に執った。

長いだけでなく幅もあり、並の騎士では扱うことなどできないと聞く。

今はその刀身は薄汚れた布で巻かれていて、不用意に人を傷つけないようにされている。

フィリアはその大剣を俺に渡した。

俺の右手は久しぶりに感じるその重量に一瞬戸惑いながら、地につけないよう気をつけてそれを受け取る。

さらにフィリアは深紅の外套を脱ぎ、簡単にたたむとそれも俺に渡す。

戦塵を浴び続けたそれを俺の左手は受け取り、抱きかかえるようにして固定した。

「ありがとう、ディア」

「いえ、団長。畏れ多いお言葉です」

「『団長』はやめてくれよ。今の僕は剣も持ってなければ、ローブも着ていない。もういつも通りでいいさ」

「……分かった。『フィリア』」

「うん。ありがとう」

俺はフィリアの従者で、

それでいて、友達でもある。

そういう役割を、俺は子供のころから課せられている。

そのことに不満はない。

だけど。

「ねぇ、フィリア?」

「何?」

「また聞かせてよ。外国のお話。今度はどこまで行ってきたの?」

「ここからずっと南の方さ。山の奥で、あちこち綺麗な花が咲いててさ──あ、そうだ!」

フィリアはズボンのポケットを探り、小さな袋を取り出す。

「サラ。手、出して」

その袋の口を開けると、フィリアはサラの手の上でそれをひっくりかえした。

ぱらぱらと小さな黒い粒がいくつも現れた。

「これって、種?」

「そうだよ。少しだけだけど、分けてもらえたんだ」

「城の中庭に植えてもいいかしら?」

「もちろん。そのためさ」

フィリアの言葉を聞いて、サラはくすりと笑った。

すっと背伸びをし、サラはフィリアに口づける。

俺はその光景を見ていても、もう辛くなんてなかった。

だって、俺は誰だ?

そう、俺は騎士の従者だ。

空の中の太陽は、俺を照らすためには光ってないんだ。

主君をうらやみこそすれ、うらむ従者など居るはずがない。

分かり切ったこと。

でも、

それを何度も何度も繰り返しても、

俺はサラのことを諦めることができないんだ。





 第一話


俺が目を覚ましたとき、まだ太陽は昇っていなかった。

すっかり体に染みついたものだと、我ながら思う。

俺は騎士の従者。

概して従者には、主君がひとつの不自由なく生活できるように、その万事にわたって気を配ることが求められる。

つまり、主君より早く起きるなんていうことは従者の仕事にも入らないっていうこと。

フェアレラ城の天守の二階。

そこの一角に、俺にあてがわれた部屋がある。

俺は寝る前にアイロンをかけておいたワイシャツに袖を通す。

それから従者の証とも言える青いサスペンダーを丁重に取り出し、それで黒い長ズボンを吊って穿く。

騎士の証に比べると、この従者の証は大分安っぽいものだ。

どういうことかといえば、この青いサスペンダーは皆々共通して着けているとはいえ、たとえば騎士の剣のような精神的な意味合いは何も持っていない。

着ける理由があるとすれば、それはただ昔からそうだったからということだけ。

フィリアはそれを因習だと言って激しく嫌っていて、俺にそんなものは着けなくていい、とさえ言ったことがあった。

でも、現実としてそうはいかない。

フィリアは特別であるとしても、俺まで特別ではあれないことを、あいつは分かってない。

俺は靴紐を結び、部屋を出る。

木の床が騒がしい廊下を歩く。

しばらく歩き、角を曲がった辺りでひとりの召使いに会う。

老いたこの召使いは俺より遥かに長くインスカイ家に仕えている。

彼女は足下のバケツに八分に水を張り、雑巾片手に手早く窓や燭台の掃除をしている。

俺はその皺だらけの手に向けて挨拶する。

すると彼女は掃除の手を止め、俺に向かって慇懃に礼を返してきた。

俺がフィリアに讒言でもすると恐れているんだろうか。

もし俺がそんな人間だったら、まず俺がこの家を追い出されてるだろうというのに。

このインスカイ家には召使いと呼ばれる人々が10人ほど居る。

ちなみに、サラもそのひとり。

インスカイ家の召使いの人数は、フェアレラ城の騎士の家の中でもっとも多い。

普通は従者と召使いがそれぞれひとりも居れば十分なのだから、このことはあの勇壮な天守とともに、インスカイ家が群を抜いて強大な家であることの証拠であるといえるだろう。

天守のエントランスに出る。

ここはかなり広いためか、廊下よりも涼しい。

俺はその空気を胸いっぱい吸い込みながら考える。

フィリアの部屋に向かうには、俺の部屋からは結構長い道のりを経なくてはならない。

普通に歩けば十分ほどだろうか。

普段はこのまま大人しくエントランスの二階を真っすぐ進み、そこから更にぐるりと城の廊下を半周するのだが、今日は違う道を通って行ってみたかった。

よし、中庭を突っ切ってみよう

この城の中はもうとっくに探険してしまっていたけども。

俺は絨毯の敷かれた石造りの正面階段をゆっくりと降り、中庭の方へ向かう。

古めかしい木の扉を押し開ける。

空はそろそろ白み始める頃。

だからまさか誰もいないだろうと思っていたが、その予想は外れた。

色とりどりの花が咲き誇る広い中庭。

最近土を入れ直したばかりの花壇の近く。

誰かいる。

誰だろう。

俺はわざと足音を立てながら近づく。

相手も気付き、顔を上げて、俺と目が会う。

深い緑色の目。

そこに居たのは、サラだった。



「サラ。おはよう」

「おはよう。ディア? どうしたの?」

「そっちこそ──」

こんな時間からいったい何をしているんだ?

そう聞こうと思ったが、途中で止めた。

サラの手に、昨日彼女がフィリアからもらったあの袋が握られていることに気付いたから。

気を取り直して俺は言う。

「いや、フィリアのところに行くんだけど……それ、蒔くの?」

「え? うん。そうだよ。昨日聞いたらね、蒔く時季は違うだろうけど、こっちの方が涼しいからもしかしたら咲くかもって」

「フィリアが?」

「ええ」

サラは指で土をいじりながらそう返してくる。

俺は早くフィリアのところに行かなくてはならない。

でも。

少しくらいならと俺は思う。

俺は周囲を確認。

俺とサラ以外、誰も居ない。

「サラ」

「なに?」

「今、その花を咲かせてあげようか?」

「え? 本当に?」

「その代りさ、咲かせるのはひとつだけにして、残りのやつはまた来年蒔こう」

「どうして?」

「だって今蒔いても、多分満開にはなってくれない」

「……やっぱり、そう思う?」

「うん。なんて言うかさ……それじゃ、可哀想じゃないか」

「ふふっ。そうだよね」

サラは微笑んで立ち上がる。

一瞬にして花を咲かせること。

俺にはそれが出来る。

満開にならない花だって、別に可哀想なわけじゃない。

でも、俺はサラの喜ぶ顔が見たかった。

俺だけに微笑むサラが欲しかった。

こんなチャンスは滅多にない。

俺はズボンの左右のポケットから茶色い革の手袋を取り出し、両手にそれをぐっとはめる。

俺が手袋を着け終わったのを見たサラは、袋の中に指を入れて種を一粒取り出し、俺に手渡す。

そして俺は種を土に開けた人差し指大の穴に落とすと、そこを覆い隠すように右手をかぶせる。

大丈夫、ここの土は元気だ。

水も栄養も申し分ない。

俺は手の甲の向こうの姿を強くイメージする。

種が芽を吹き、

芽が根を張り、

根が茎を支え、

茎が葉を茂らし、

葉が蕾を養い、

蕾が花となる姿を。

花を見てサラが喜び笑う姿を。

「育め、土よ。自ら変わるその勇気を。空へと向かうその意思を! 『フォルスロラ』!」

そのイメージを俺は種に向かって叩きつけた。

掌に鼓動を感じる。

ひとつ。

ふたつ。

強くなる。

俺は手をどかした。

サラがわぁ、と感嘆の声をあげる。

俺のイメージした通りの世界が、そこにはあった。

またたく間に頼りなかった種はしっかりと土に足を付き、天に向かってその背を伸ばしていく。

その動きを止めることはない。

サラはしゃがんで目線を下げ、その生長を目に焼き付けている。

俺はそのサラの姿をじっと見ていた。

もう蕾は開き始めている。

大きく伸びをするようにそれは開き、美しい白い花を咲かせた。

中心に鮮やかな黄色もたたえるその一輪を見て、サラは嬉しそうに言った。

「ありがとう。ディア」

俺はそれに微笑んで応える。

ああ、よかった。

俺の願いは、どちらも叶えられた。

「それにしても、すごい。綺麗な、花だね」

「ああ、綺麗だ」

「ねぇディア。これ、押し花にしても構わないかしら?」

「その方がずっと綺麗なままだから、いいんじゃないかな」

「うん、ありがとう。それでさ、一緒にフィリアにプレゼントしよう。きっと、喜んでくれるよね」

「……あぁ、きっと喜ぶさ」



サラと別れた後、俺は全速力で走ってフィリアの部屋に向かった。

中庭を抜け大広間を経由し、大きい方の尖塔の螺旋階段を二段飛ばしで駆け上がる。

尖塔の最上階。

そこがフィリアの私室。

歴代のインスカイ家当主の空間。

俺は着装を整えてからドアをノックする。

それから一歩下がって待つ。

そのとき俺は気付いた。

茶色い手袋をまだ着けたままだったということに。

俺はフィリアにさっきのことを悟られたくなかった。

慌てて手袋を外し、ポケットにしまう。

その直後、ドアが開いてフィリアが出てくる。

既にフィリアは着替えていた。

のりの効いたシャツに浮かぶ折り目が、居心地悪そうに見える。

彼の大きな青い目はすっかりと開いていた。

「やぁ、ディアか。おはよう」

「すみません。遅くなりました」

「いいや、構わない。僕もさっき起きたところだし」

「申し訳ありません」

遅刻したことを、つまり主君に対して礼を失したことを俺は詫びる。

昨日のフィリアの言葉は覚えていたが、俺は無視した。

口調を改めたのは、自分の中で顕然とけじめをつけるためで、そして同時に、自分のしたことを戒めるためでもあった。

「だからいいんだって。気にしないでいいよ」

「はい。ありがとうございます」

しかしどうやら身勝手すぎたようだった。

俺の言葉にフィリアは少し顔をゆがませる。

フィリアもなぜ俺がこういう口調なのかは分かっているようだったが、やっぱり嫌なのだろう。

彼の名を呼び捨てに出来るのは、彼の肉親を除けば何人いるのだろうか。

「あぁ……それとさ、ディア。昨日も言ったじゃないか。今ぐらいはそうやって喋るの、やめてくれ」

「……ごめん。そうだったよな。気をつけるよ」

「できれば、そんなことで謝るのも」

今度は苦笑しながらフィリアは言う。

その表情には、さっきまで醸し出していた不機嫌さはもう見当たらない。

この屈託のなさは彼の魅力だ。

まったく天性のものだろう、と俺は思う。

「ディア。とりあえず部屋に入って。どうせ朝食はまだ準備できてないだろうし」

「そうかな? ちょっと走って見てこようか?」

「いいさ。それより、今のうちに話を聞かせてくれ」

俺はフィリアに続いて部屋に入る。

音を立てないよう気を付けてドアを閉める。

フィリアは寝台に腰かけつつ、俺に椅子に座るように促す。

木製の椅子は思いのほか温かく感じた。

俺はフィリアと正面から向き合う形になる。

「ディア。城の様子はどうだった?」

「どこから話せばいい?」

「全部」

彼は、フィリアは俺の主君にして、

友達にして、

そしてこの城全ての者から尊敬される騎士団長。

だがその尊敬でもあがない切れないほど、騎士団長とは大変なものだ。

当然、敵と戦う時はすべての騎士を統率し、先陣を切って戦わなければならない。

しかし、彼に課せられた役目はそれだけではない。

平時も訓練のかたわら、この城を統べる者としてあらゆる政務を処理しなければならないのだ。

今、齢二十歳。

俺と年齢はひと月も違わない。

フィリアはじっと俺を見ている。

俺は知っている。

フィリアは昨日も夜遅くまで城に戻らず、死傷した騎士たちの家族の慰問をしていたということを。

俺は彼の体のことが心配だった。

時には主君の命令に逆らうことも従者には認められている。

それが、従者と召使いの違いでもある。

ただ媚びへつらい、ご機嫌取りをする者は本当の従者ではないと、俺は教えられた。



「……なぁ、フィリア。もう少し休んでからにした方がいいんじゃないかな」

「まさか。心配ない。僕はこの通り元気だよ」

「でも、やっと昨日城に帰ってきたばかりじゃないか。そんなに慌てなくても」

「そんなことはない。いつまた征討に行くか分からないからね。時間が惜しいんだ」

「え? 何言ってるんだよ。まだ帰ってきたばかりじゃないか?」

「あぁ、まぁね……」

フィリアは小さく肩をすくめる。

やっぱり疲れているんだ、と俺はその様子で確信する。

「……皆には言わないで欲しいんだけどね。どうやら、反乱軍が数を増やしているみたいなんだ。全体としての戦況があまりよくないと聞く」

「そうなのか?」

「まぁ、僕も詳しくは知らない。ただ、ここ半年間で征討指令が届く間隔がかなり短くなってるのは確かだ」

「敵の詳細な戦力とか、そういうのは教えてもらえないのか?」

「ああ」

「団長のお前でも?」

「きっと、知らない方が幸せなこともあるんだよ」

フィリアは俺をさとすような口調で話す。

だけどそれには納得がいかなかった。

俺はうつむき、自分の握りしめた拳を睨みつける。

騎士たちは命をかけて世界のために戦っているのに、そんな安い理由の欺瞞を許していいものなのだろうか?

だけど、俺がいくら憤ったところで、俺は騎士じゃない。

分かっているだろう、俺は誰だ?

迷った時は何度でも自分に問えと、こう教えられた。

ノックの音。

俺はすぐに立ち上がりドアのもとへ。

部屋の外には背の高い騎士が居た。

騎士団副長を務めている騎士だと俺は気付く。

俺が挨拶をするよりも早く、彼は口を開いた。

「従者殿。朝早くから申し訳ない。団長はいらっしゃるか?」

「はい。ここに。用件はなんでしょうか?」

「司牧殿から今朝一番で届いた。これを渡して頂けるか?」

「了解しました。ご苦労様です」

「そちらこそ。では、失礼する」

歴戦の風格漂う、節くれ立った手から渡されたもの。

封緘された一通の書状。

見覚えがある。

それも何度も。

俺は一礼して下がり、ドアを閉める。

すぐフィリアのもとへ歩み寄る。

フィリアは俺から書状を手渡されると、一度小さくため息をついた。

「考えもしなかった」

「いくらなんでも、これは」

「今開ける。ちょっと待って」

フィリアはそう言うと正六角形の形をした封緘に指で触れる。

どうやってるのかは知らないが、この不思議な封緘はフィリアの炎でしか破れないようになっている。

フィリアの指がマッチのように動いた。

ぱっと青白い火が点き、次の瞬間それは消えていた。

封緘もまた、自身があった形跡ひとつ残さずに。

これぐらいの火を点けることは、フィリアにとってはまさに朝飯前だ。

イメージを強固にする呪文だって必要としていない。

解放された折り目が勢いよく開いた。

フィリアは中から文書を取り出す。

三つ折りにされたそれ。

見なくても内容はもう分かっていた。

なぜなら、あの銀色の封緘は騎士団に出動を命じる文書の証。

読み終えたフィリアは俺を見る。

その目は既に騎士のもの。



「ディア。出発は明後日の朝だ。すぐにみんなに通達を出そう」

「明後日でいいのか?」

「本当は明日にしたい。でもそれじゃあまりにも急すぎる。みんなに、一日だけでもちゃんと家族と過ごさせたい」

「そうじゃなくて……フィリア、それならなおさら……もっと遅らせてもいいんじゃないか?」

「そうはいかない。期日までに行かなければ」

「でも……」

「何?」

「こんなに急に指令が出るなんて……おかしいじゃないか」

「それでも、従わなくちゃならないんだ」

「理由も知らないのに、どうして?」

「僕は騎士だからね」

まるでそれ以上の理由はない、といった口ぶりだった。

世界の秩序を守るため、神に仕える騎士。

この世界はすべて神のものであり、人々は神に慈しまれながら生きている。

しかし時には神に逆らう者も現れる。

そんな異端者らを打ち滅ぼすのが騎士だ。

フィリアの言ったことは何の間違いもない。

ひとりの騎士として、また騎士団長として、疑問をさしはさむ余地のない思考。

神に仕える者としての純然な言葉。

それに引きかえ、俺は。

フィリアがこんなにも立派にやっているのに、俺には何も出来ない。

俺は従者で、

剣を執ることも、広い世界を知ることも、許されていない。

俺に出来ることはと言えば、フィリアを支えることだけだ。

それが俺の役割だと分かっていたけれど。

フィリアが立派であればあるほど、俺は自分がちっぽけな存在に思えてならない。

無力な自分が嫌だった。

だから、俺はフィリアと共に戦いたい。

僭越だろうと何だろうと、そうすることが、フィリアを助ける一番の手だと信じた。

「……なぁ、フィリア」

「ん?」

「やっぱり、戦いは、激しくなっているんだろう?」

「ああ」

「それでも俺は……俺は、お前を助けられないのか?」



「何言ってるのさ、ディア」

フィリアは目を丸くする。

意外だと言った調子だったが、俺にはそれこそが意外な反応だった。

フィリアは一度目をつむった後に、静かに言う。

「僕が城を離れている間、安心して戦えるのは、君がサラを護っていてくれているからなんだ。

 いつだって心配で、心配で、しょうがないけれども、君に任せておけば心配ないさって思える。

 もう十分、僕は君に助けられているよ。もちろん今も。君だけだ。僕の身を案じて、無理をしないよう言ってくれるのは」

俺に向かって、慎重に選びながら述べられた言葉。

でも、その言葉に俺の心はざわめく。

フィリアはこう言った。

俺がサラを護っているから、フィリアは俺に助けられていると。

違う。

そうじゃない。

違うんだ。

俺がサラを護っているのは、フィリアのためでも、サラのためでもないんだ。

俺のためなんだ。

サラを護っている間、俺はサラと一緒に居られる。

俺はサラが好きで、

それは昔からのこと。

でも今のサラはフィリアの恋人で、サラ自身もフィリアと一緒にいるときが一番幸せそうに見える。

ならば当然、俺はサラのことは綺麗さっぱり諦めて、サラのためにもひとりの従者としてフィリアに尽くすべきだと、分かっている。

分かっていても、俺は諦められない。

忘れ去るには美しすぎるから。

いくら認められざる行為だと分かっていても。

俺なんかじゃフィリアの代わりにさえなれないことは分かっていても。

「ディア? 大丈夫かい?」

フィリアの声。

いつの間にかフィリアは寝台から立ち上がり、俺の顔をのぞき込むような姿勢になっていた。

「どうしたんだ?」

「あ、あぁ。ごめん。何でもない」

「あんまりそうは見えないな。何か、あるんだったら言ってくれ。僕だって、君の助けになってもいいだろう?」

そう言ってフィリアは笑った。

また、俺の心はさざめく。

それを気取られないうちに、俺はどこかに行きたかった。

どこに?

どこでもいい。

俺はフィリアを制しながら立ち上がる。

「ありがとう。でも大丈夫だ、フィリア」

「ディア、どこに行くんだ?」

「剣を、お前の剣を見てくる」

「剣を? 後でもいいじゃないか」

「従者として、お前には万全の状態で征ってもらいたい。だから、出来ることは今のうちにやっておきたいんだ」

「うん、そっか。なら任せる。それじゃあ、それが終わったら、城の様子を聞かせてくれないか?」

「ああ、分かった」

「神のお気に召されんことを」

「神のお気に召されんことを」

フィリアは深く頷く。

俺はドアを開け、すぐ走り出す。

馬鹿野郎。

俺は自分を罵る。

フィリアもサラも、あんなに優しく接してくれているのに、俺はそれに応えていない。

なんて卑怯な人間だ。

嘘ばかりついて。

俺は悪くないと思いたがっている。

こんなに汚い心を持つ自分を、俺は憎んだ。




 第二話


ゆっくりと正門が開く。

どうにも眠い目をこすり、我慢できなかったあくびをしつつ立ち並ぶ人々もしかし、決して余計な声などはあげない。

それはせめてもの守るべき礼儀というべきものか。

門の前に粛々と整列した騎士たち。

その先頭に立つのはやはりフィリア。

あの大剣を誇らしげに背負っている。

口を真一文字に引き締め、回る歯車に急かされて渋々と開き始めた門を睨んでいる。

その向こう側にいる敵のことを考えているのだろうか。

俺とサラは、三日前フィリアたちが帰って来るのを見た、あの門の横の階段の踊り場からその様子を見ていた。

大きな音をあげて正門が完全に開く。

フィリアはくるりと騎士たちに向き直ると、言った。

「みんな、聞いてくれ。久しぶりに帰ってきた家をすぐに去り、また家族としばらくの間離れるのは辛いだろう。

 だが我らは今、神に必要とされているのだ。神のために、神に刃向かい、世にはびこる異端者を打ち払わねばならない。

 その求めに応じないということは、それは騎士の道に背くことだと思わぬか!」

フィリアの声が風に送られて響く。

暦の上ではそろそろ夏とは言え、まだ月の光が残っている早朝では風が冷たい。

「神のため、この世界のためならば、いつ、いかなる時でも剣を執るのが我ら騎士。そうであるな!」

そんな泣き虫の風をはねのける熱い喚声があがる。

激しい圧<あつ>。

騎士たちを囲んでいた人々が拍手する。

当然、俺も同じように。

「出陣!」

フィリアはあの大剣を振りかざした。

まるでここへ集えと叫ぶように。

城の外へ足を向け、彼は歩き始める。

五列縦隊を組んだ騎士たちも、振り返ることもせずに進む。

人々の拍手は一層大きくなる。

出陣のとき、昔は楽隊の演奏もあったのだが、フィリアが団長になったときそれはなくなった。

詳しい理由はなんだったか、思い出せない。

けれど、きっと俺のこのサスペンダーと同じような理由だったはず。

だから今では、この拍手が唯一の戦いに赴く騎士への贈り物。

でも、サラは拍手をしていなかった。

サラは手を組んで、もう城の外へと行ってしまったフィリアをまだ見ている。

雪を欺くあのローブを身にまとう彼女は、今にも泣き出しそうな顔で祈っていた。

「どうか、無事でありますように」

機嫌が悪そうに閉まり始めた正門に向かって拍手を続ける人々の中に、サラのように手を組む人は居ない。

みんなこう教えられて育つからだ。

騎士の方々が未練を残されないように、出陣の際は心を込めた拍手で送り出してあげましょう。

それなのに、サラが拍手をしないのは理由がある。

サラはフィリアが騎士として活躍することよりも、無事で還って来ることを願っている。

毎朝起きた後と、寝る前にも祈っているのだから、その気持ちは本物だろうことは誰も疑ってない。

誰も責めもしない。

もしそんなやつが居たら俺が殴ってやる。

「神よ、願わくば、かの人に御加護を与え給いますように」

俺はサラの言葉を思い出す。

あの言葉。

それは一人前の騎士となって、初めて城から離れるフィリアを見送った日のこと。

ねぇディア、私、思うんだ。

騎士のみんなに拍手して、どこかも知らない遠くに送り出して、それじゃあ頑張ってきてね、なんておかしいよ。

頑張って、頑張って、頑張って……。

それで、みんな死んじゃってもいいの?

みんなが頑張っていたら、還って来なくっても、もう二度と会えなくなっても、それでいいの?

そんなの……私は嫌だよ。

「また会えますように」

俺はなんて答えたんだっけ?

分からない。

何も言えなかったのかもしれない。

ただ、あの日、サラはずっと泣いていた。



正門が閉まり、かわりにその左右にある副門と呼ばれる小さな門が開かれる。

正門が開くのは騎士団の出陣と帰還のときだけと決まっている。

次第に集まっていた人々もぱらぱらと散ってゆく。

城下町の人々も朝市を目当てに城へ集まりだし、もう正門前は普段通りの賑やかな様子。

それでも、サラはまだ祈っている。

俺はじっとその姿を見ている。

涙は流れていなかったから、俺は安心していた。

今はフードをかぶっていないので、サラの薄茶色したポニーテールの髪は風に揺れている。

風に抱かれながら風を抱くその様子はどんな花よりも美しい。

その美しさに涙は似合わない。

だから俺は、サラが泣くのも、泣きそうな顔をするのも嫌だ。

いつでも笑っていてもらいたい。

楽しげに、その幸せを疑うこともせず。

「サラ」

返事はない。

でも俺には、もう耐えられなかった。

「サラ。もう、そろそろ……」

「……うん」

か細いその声。

その顔は見る人までも哀しくさせるほど、哀しい顔だった。

サラは一段、一段、足下を確認しながら階段を降りる。

俺はサラと歩調を合わせて階段を降りる。

「どうして」

風の音よりも小さく俺は呟いた。

どうしてサラが、こんなに悲しまなくちゃいけないんだ?

それはもしかしたら、きっと、フィリアのせいじゃないだろうか?

フィリアは、確かに我らがインスカイ騎士団の団長だ。

この世界のために、戦わなくてはならない。

この人々のために、護らなくてはならない。

でも、一番大切な人の幸せも護れないのに、世界の幸せを護ることなんてできるんだろうか?

あるいは、一番大切な人の幸せを犠牲にするほど、世界の幸せは価値のあるものなんだろうか?

どっちも、俺には分からないこと。

俺は世界なんてものは言葉しか知らないから。

だから俺にはフィリアの気持ちは分からない。

でも、今ここにある現実として、サラは悲しんでる。

俺はフィリアのように世界を護ることはできない。

だけど、サラの幸せなら護れるはずだ。

きっと護って見せよう。

サラの幸せが、俺の幸せなのだから。



「ディア」

「ん?」

「私は戻って昼食の用意をしなくちゃいけないんだけど……あなたはどうするの?」

「そうだな……」

子供たちが駆け回って遊ぶ広場の端。

そこで俺は考えた。

今は、サラをひとりにしておいたほうがいいだろうと。

「俺は本を見てから戻るよ。そろそろ教会の許可が下りる頃だろうから、新しいのがあるかもしれない」

「うん、分かった。それじゃあ、また」

「あとで」

「あ、ちょっと待って」

ふとサラは思い悩むような顔をする。

「……ねぇ、私のも何かひとつ買ってきてくれない? 今、お金持ってないけれど……」

「いいよ。どういうのが読みたい?」

「うーん、何でもいいわ。でも、すぐ読み終わらないように厚い方がいいかな」

「了解。任せて」

「ありがとう」

断る理由なんてない。

持ち合わせなど確認せず俺は承る。

もし足りなければ、俺の本を諦めればいいだけだ。

手を振ってから、俺は商店街の方へ足を向けた。

商店街といってもそんなに何でも揃っているというわけではない。

本屋、仕立屋、食べ物屋がそれぞれ一軒に、雑貨屋が二軒。

もうちょっと何かあったような気もするけど、俺が覚えてるのはこれくらい。

そもそも、一週間に一度開かれる朝市で生活に必要なほとんどのものは揃うのだから、商店街には行く必要がそんなにないのだ。

俺が行くのは本を買いに行く時か、服を新調するときか、それくらい。

食べ物屋に行くのはいつもフィリアにつき従っての時だから実際に食べたことはないし、雑貨屋に行くのも外の世界の珍しいものをただ眺めに行く時だけだ。

商店街の通りは、やはり他の通りに比べて人が多かった。

すれ違う人々にぶつからないように気をつけながら俺は思う。

サラは変わった。

ひとりで枕を濡らすようなことはもうないだろう。

彼女は強くなった。

困った時、自分でいったいどうすればいいのか、何をするのが一番いいのか分かっている。

ただ、まだまだ時間がかかるだけ。

だから今はひとりにしてあげて、ゆっくりと気持ちの整理をさせてあげたい。

それに比べて、俺は。

何も変わってない。

自分から変わらなければ何も変わらないのに、その勇気を持とうとしない。

そうすることで、今ある関係が壊れてしまうのが怖いんだ。

いい方向に壊れるかもしれないけど、悪い方向に壊れてしまうかもしれない。

なら、今のままでいいとなんて思っている。

あの花よりも、俺は弱い。

左から衝撃。

何かにぶつかった。

一歩足を下げて倒れそうになるのをこらえ、俺は即座に敵を見る目で左を見る。

そこに居たのは男。

「おい、気をつけ──」

男はそこまで言いかけた。

だが、続けなかった。

既に男は目線を下げ、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。

青いサスペンダー。

男は従者だった。

互いに顔は知っている。

俺はできるだけ表情を柔らかくして言う。

「すまない。トロット。考え事をしていたんだ。そんな急いでどうしたんだ?」

「ローランド……いや、何でもない」

それだけを言い残し、彼は足早に俺から離れた。

振り返ってその姿を目で追えば、四軒先の店の前に十人ほどの従者が集まっていた。

トロットが何か言っている。

他の従者連中が一斉に俺を見る。

そして、どこかに姿を消した。

ぶつかった相手が俺だと分かったときの、あの表情の変化。

あいつは、トロットは子供のころから横柄な奴だった。

もし俺じゃなければ、どういう態度を取っていたんだろうか。

まったく何も面白くない話だ。

俺は他の従者たちから嫌われている。

理由なんてものはいくつもあるだろう。

フィリアは俺が孤立してしまわないよう手を尽くしてくれていたが、かえってそれが悪影響をもたらしてしまったのだから何とも言えない。

でも、俺は何も気にしてない。

俺は再び歩き出す。

むしろ悪くないと言いたい。

あんな付き合いで時間を無駄にすることもないから、何の気兼ねもなく自分のしたいことだけをやれる。

もし、サラと本を読んで一緒に時間を過ごせるなら、いつまでもそうしていたい。

その本が本当か嘘かもわからない、外の世界の話ならもっといい。

真っ白に染まる山。

地平線まで広がる花畑。

いくつもの表情を持つ海。

どこまでも風に乗って行く砂子<いさご>。

いつか知りたい。

それが本当の事なのかを。

それが本当に在るのかを。

空を羽ばたく鳥のように、こんな小さな城を離れて外の世界を見てみたい。

俺には、翼はない。

だけど、足がある。

一歩ずつでも歩いていけば、いつかはたどり着く。

それくらいの夢は、見てもいいだろう?




 第三話


それから一時間近くかけて本を吟味してから、俺は城に戻った。

思った通り、今日の朝に教会の許可が降りていた。

というわけで店先には新しい本が十数冊あり、俺は選ぶのにかなり苦労した。

なんで苦労したかって、当然、どれもこれも面白そうに見えるから。

許されるならば全部買ってしまいたいと思うくらい。

でも俺が全部買ってしまったら、みんながあの面白さに触れられないだろう?

なんて出来もしないことを考えながら、結局俺が選んだのは薄い小説と分厚い伝記。

本屋の爺さんに聞いたらこう言われた。

どちらも悲しいほどにハッピーエンド。

幼から老まで安心して薦められる一冊だと。

つまりは学校で飽きるほど読み聞かせられるのと同じ内容じゃないか、と思いながらも、俺はその二冊を手に取った。

別段、今更似たり寄ったりの内容に文句を言うわけじゃない。

でもこれは、毎日パンにジャムを塗って食べていれば、ある日急に生のトーストだけで食べたくなるようなもの。

俺の望みはそれほど叶えやすいものじゃないけれども。

「いつか、きっと」

あの鳥みたいに。

そう言って、自分で笑う。

夢は言葉にするもんじゃない。

突然俺は思い出す。

いつか読んだ本にこう書いてあった。

きっと鳥から見れば、翼が欲しいなどという我々の望みは、馬鹿馬鹿しいの一言で片づけられうるものだろう。

なぜなら翼があったところで、つらい現実というものからは飛び去れないのだから。

空を飛ぶことしか出来ない翼なんかよりも、様々なものを生み出せる腕<かいな>の方がずっと素晴らしいものだと鳥は言うかもしれない。

鳥よりも人間の方が恵まれていると彼らは訴えるかもしれない。

だがそれでも、人間が翼を欲しがるのは、自分が飛べないと分かっているからなのだ、と。

ましてや、俺は土の魔法使い。

この『土』とは、この世界を構成するとされる四元素のうちのひとつで『成長』を象徴するもの。

土魔法とは土に感謝し、土の力を借りて、たとえば花を咲かせるといった自分の願望を形にする魔法。

俺は土から離れられない。

空は眺めるだけのもの。

正午を告げる鐘が鳴る。

いい頃合いだ。

俺は開け放たれた天守の門をくぐり、紐でくくった本を脇に抱えたまま食堂へ直行する。

食堂に入ると、サラともうひとりの召使いが食事の準備を整えているところだった。



俺は台拭きを精力的に動かす召使いの方に挨拶をしながら、テーブルにお皿を並べるサラに近付く。

サラが俺に気付く。

すると彼女は手を体の前で合わせて丁寧な一礼。

俺はそれに対してちょっとだけ頭を下げる。

俺のこの態度は決してサラを軽んじたからではない。

ただ他人行儀になるのが嫌だったからだ。

サラは顔を上げると言う。

「ごめんなさい。まだ出来てないの」

「いや、大丈夫。それよりほら。本、買ってきたよ」

「うん。ありがとう。その分厚いのが私の本?」

「本屋の爺のお勧めさ。神を信じる心で奇跡を起こした巫女たちの話だって」

「それじゃあ、そっちの薄い方は?」

「生き別れた二人の王女が辿った数奇な運命を描く、冒険譚だね」

「へぇ、そっちも面白そうね」

「もしかしたら、こっちの方がよかった?」

「そうねぇ……難しいところだわ。でもどっちかって言うと、両方読みたい、かな」

「ははっ、そりゃよかった」

大真面目に悩むサラ。

彼女はいつもの格好で働いていた。

黄色の三角巾で薄茶色の髪を隠し、橙色の無地の長袖に、膝丈の長さをした栗色のスカート。

その上から羽織る感じの料理番の制服、もとい白衣のボタンは、真ん中のひとつだけがかけられている。

特にこれからすることがない俺は、何となく提案する。

「なぁ、サラ。手伝おうか?」

「ううん、平気だよ」

「本当に?」

「本当に。だってこれは、私の仕事だもの」

そう言うサラの顔は、笑いながらも本当にしゃんとしていて。

サラがこの役目に心から誇りを抱いているのがよく分かった。

俺はサラの言葉をもっともと思い、頷く。

それから立ち去ろうと扉の把手に手をかける。

だが、そこに一抹の不安。

勃然と起こった恐怖心。

サラは強くなった。

でも、そう見えるだけじゃないだろうか?

本当は無理をしているんじゃないんだろうか?

それこそ、フィリアのように。

俺は彼女の名を呼ぶ。

「サラ」

「何?」

「無理、しないでね」

そんな俺の言葉に、サラはほほえんだ。

それは心の底からのものに感じられて。

思い過ごしだ、と俺は自分をなじった。

けど、俺は嬉しかった。

サラは強い。

次は俺が強くならなくちゃ、だ。

逆に元気づけられてどうする、と思ったけれど。

それでも、嬉しかった。



俺は食堂を離れ、自分の部屋に向かう。

ひとまずこの重い本を置きに行こうと。

その途中であの老召使いに出会う。

彼女は燃え尽きた蝋燭を新しいものに交換していた。

今は雑巾を持っていない。

かわりにその左手にたくさんの蝋燭を持っている。

燃えカスにまみれていた燭台。

彼女がそこに右の掌をかざすと、突然バケツからコップ一杯分程度の水が伸びあがり、燭台の上を満たす。

その水は燃えカスを瞬く間にすべて取り除いたと思うと、そのまま老召使いの足下のバケツへと飛び込んで行った。

彼女が使ったのは水魔法。

魔法は俺たちの生活に浸透していて、そして楽にしてくれている。

しかしもちろん十全なわけではない。

共通のルールが魔法にはある。

それは『自分が経験してきたこと』をもとにしたことしかできないということ。

要するに、長年燭台の掃除をしていた彼女だから、この程度の汚れだったらどう掃除すれば簡単に取れるかを知っている。

その経験から作り上げたイメージをもとにしてはじめて、あの魔法が使えるのだ。

逆に言えば、見たことないような酷い汚れの時は魔法を使っても汚れは落ちないし、

経験のない者ではいくら魔法の使用に才能があろうと掃除ひとつできないということ。

また、魔法ばかりに頼っていては基本の経験を忘れてしまうので、

熟練の技術を維持したければ魔法だけに頼らず、きちんと自分自身で動き、経験を積み続けなければならない。

俺はいつものように立ち去ろうとした。

だが、彼女は俺を見てすっかりしゃがれた声をあげる。

「おや、また本ですかい?」

「ええ。好きなもんで」

「そんなに分厚いのまで。高いでしょうに」

「これぐらいにしか使いませんから」

「殊勝なもんですねえ。うちの孫にもローランドさんを見習わせたいですよ」

「褒められたものでもないですよ」

「またまた。そうやって謙遜なさって」

「そう言わないで下さい」

「従者として、非常に立派であると思いますよ、ローランドさん」

「それは、ありがとうございます」

大抵、この老召使いは当たり障りのないところから話を始める。

そしてその中で必ず人を褒めるのだが、毎回毎回違うところを褒めてくる。

まるで人の長所を引き出すのを自分の生き甲斐にしていると思えるぐらいだった。

この前は何だったか。

いつも体を鍛えてるのはいい心がけだ、と言われたっけ。

だから決して悪い人物ではない。

少なくとも俺だって褒められて悪い気はしないし、またそれ以上に、彼女には歳を重ねた者だけが持ちうる独特の優しい空気を持っている。

そんなわけで、彼女は俺が安心して話ができる数少ない人物だった。



「しかし、ローランドさん」

「何ですか?」

「上<しょう>は、無事でありましょうか」

「大丈夫です」

彼女の問い。

俺はその問いに即答する。

しかし彼女の皺の影は増す。

「私は、上を産湯に使わせた頃からずっと見ています。……まるで、もうひとりの孫も同然です」

「ならばこそ、信じましょう」

「信じております。ですが、心配なのです」

訴えるようなその声音。

それに俺は既視感を覚える。

どこでだ?

「上が団長に就任されてから五年経ち、もうすっかり立派な騎士なられましたが、それでもまだ上は二十歳です。

 私の目には、無理をしているようにしか見えません。人の上に立つ者は、人を慈しむばかりで、人から慈しまれることはないのですから」

「けどフィリアは、いえ、団長はそれを理解しています」

「頭で理解していても、気持ちの整理はつけられているでしょうか? いえ、上という人間を疑っているわけではありません。

 ただ……いくらなんでも、こうまで急きたてられるように政務に征討にと忙殺されていては、いつどこでどんな目に会ってしまうか……心配せずにはいられないのです」

「心配要りません。俺が居ます」

ああ、分かった。

彼女のフィリアを慕う気持ちは、サラのそれと何も変わらない。

言うなれば、満ち満ちて赤心から溢れて零れたような純粋な気持ち。

その前で、俺はいい従者であろうとした。

つまり、自分の本心が何を言いたいかよりも、目の前の人に安心してもらうためには何を言えばいいかを一番に考えた。

「俺が支えます。その為に、俺は居るんです」

だから心を込めて俺は言う。

老婆の表情は柔らかくなる。

「……それを聞いて、安心しました。ローランドさん」

「はい」

「上を、しっかりと支え上げて下さい」

「はい。分かっています」

短く答え、俺はいつもよりは深く頭を下げる。

彼女は会釈で返す。

俺は足早にその場を離れた。

今、俺は嘘をついた。

いや、フィリアを支えたいということに関しては、嘘をついてない。

自分自身に、嘘をついた。

俺が一番欲しいもの。

もし俺がそれを手に入れたなら。

それは、同時に、フィリアの一番の心の支えを奪うことになる。

俺はそのことをきっと誰よりも、頭では理解している。




城に戻ったディア。

中庭に行き、あの花を見る。

そこで魔法の説明。

サラのもとへ。

夕食後、食堂でサラと一緒に読書。

「どうして神に逆らうのかな?」

「きっと、神が居ることを信じられないんだよ」

「どうして?」

「分からないけども、きっと」

本当は答えはあった。

神の恩恵にあずかれない人々は、神を信じなくなっても不思議じゃない。

俺はもう信じていないも同然。

だって、もし神があまねく人々に恩寵を授けているならば、

騎士は騎士、従者は従者、なんていう風に生まれた時から役割を決めることはないだろう。

俺に出来て、フィリアに出来ないことはほとんどなくて、

逆に、フィリアに出来て、俺に出来ないことは数えきれないほどある。

それなのに、サラさえも俺から取り上げて。

もし俺が騎士だったら、あるいはフィリアが騎士じゃなかったら。

対等の立場だったら、サラは俺のものだと言えるのに。

最初から勝負の決まっている戦いを与えるなんて、あんまりじゃないか。

でも、俺はそれを言おうとしなかった。

それを言うことで、自分がどう評価されるかわからないから。

自分の中に居る、自分の知らない自分というものを指摘されるのが嫌だった。

夜遅くなり、互いの部屋へ退散。

寝る前に遠くの空を見ていると、突如轟音。

立ち上る炎。

喧騒。

サラの顔が頭に浮かんでいた。


小説の方は生き別れた二人の王女が冒険の果てに再会する話、伝記の方は神を信じる心で奇跡を起こした巫女の話だと言われた。


要するに、叶えられない夢をこそ人は見る。

それはつらい現実から逃げるためなのだ、と言いたいらしかった。

そこまで悲観的になることはない、と俺は思うけど。

しかし間違いではないな、とも思う。


その巫女は子供のころからとっても信心深くて、神に仕えて、ある神殿の長となった。

彼女はある時からその神殿で人々を助け始めた。

戦争のせいで家を失って、あちこちから流れ着いた人々を。

食べ物をあげて、寝る場所を分けて、着る物も縫って……。

そうやって、すさんだ人々の心を救おうとした。

そのうち人々がその神殿に集まると、誰も気にしないような場所にあったそこは、いつしかひとつの城以上の規模になった。

畑を拓<ひら>き、市が立ち、人々はそこで辛かった過去と決別し、新しい生活を始めた。

でも、そのせいで、その神殿は望まずして力を持ってしまった。

そして、戦争をしている者たちから、憎まれることになってしまった。

ある夜、神殿は槍で武装した兵士に囲まれ、彼女のもとには使者が遣わされた。

その使者は彼女に、朝日を見たければ我々に協力しろ、と言った。




 第四話


日光だけしか灯りのない部屋に入る。

俺は傷つけないように気をつけながら、机の上に本を置く。

それから俺はサスペンダーを外し、シャツのボタンをふたつ開けて、ベットの上に寝転がった。

俺は迷っていた。

自分の気持ちに整理がつけられない。

俺の主君の恋人であるサラを、自分のものにしてしまいたいというこの気持ち。

俺は普段この気持ちを『従者』という仮面を着けるで押し隠していた。

フィリアの影となって生活し、日々を忙しなく過ごすことで忘れてしまおうとしていた。

でも今、三日前に還ってきたフィリアは俺に従者としての仕事を何一つさせないまま、征ってしまった。

それでももちろん、俺が従者であることには何の疑いもない。

当り前の話。

けれど今、なぜか俺の心は風にあおられた木の葉のように動き回って、その当たり前を疑え、とあるいはささやき、あるいはさざめく。

俺は思い出す。

あの老召使いが言っていた言葉。

改めてゆっくりと口にする。

「人を慈しむばかりで、人から慈しまれることはない」

それは、どんな苦しみだろうか。

それは、どれだけの心の孤独を味わわなければならないのだろうか。

誰からも最大級の敬意を向けられるが故の孤独。

みんな誰かがやってくれると思っている。

でもそれは自分じゃないと思っている。

あまりにも滑稽で、皮肉な話だ。

その辛さは、俺には分からない。

分からなくても、支えなければならない。

それこそが俺に課せられた役目。

俺は忘れていたそれを、あの言葉で思い出した。

思い出したと同時に、疑ってしまった。

もし俺がこのことをフィリア自身の言葉で思い出していたならば、疑いはしなかったろう。

だけど、既に疑ってしまった。

俺に課せられた、主君の孤独を癒すべき、従者にして友達というこの役目。

それはもう、俺では果たせなくなってきてるんじゃないか、と。

なぜって?

きっとフィリアと俺は、もう友達ではない。

言いかえれば、フィリアはもう俺を必要としていないだろうということ。

俺はフィリアに遠く及ばないから、彼に何ひとつ与えることも出来ない。

その俺がフィリアを支えるなんて言っても、それは虚しいだけだろう。

まるで両手を高く掲げて、俺が天を支えているんだぞと言うようなもの。

俺とフィリアを比べた時、サラはどっちを選ぶだろうか?

そんなことは、分かっている。

「サラ」

彼女の背筋は真っすぐだった。

サラさえいれば、フィリアは十分立派にやっていけるはずだ。

彼女だけは違うと俺は思っている。

少なくとも、これだけは確信して言える。

フィリアの孤独を癒せるのは、俺よりも、サラだ。

俺が支えられるのは騎士としての、あるいは団長としてのフィリアだけ。

でもサラが支えられるのは、紛れもないフィリア=インスカイ。

だからきっとフィリアにとって、サラは特別な存在なんだろう。

だけど俺にとってもサラは、特別な存在なんだ。

サラとふたりで居る時の俺は、紛れもないディア=ローランドなんだ。

そのふたつの意識に板挟みになった俺は、どうすればここから抜け出せるのかを必死で考えた。

しかし考えれば考えるほどに堂々巡り。

「もう、やめよう」

俺は呟く。

頭だけで考えるからこんなことになるんだ。

ぎゅっと目をつむる。

思考をリセット。

真っ暗な空間に文字を描く。

俺は呪文のように唱える。

「迷う前に動け」

それは俺の信じる言葉。

「前だけを見ろ」

自分で押した言葉に押されるようにして、俺は決意する。

そうだ。

サラを護ること。

今はそれだけに集中しよう、と。

そうすれば、きっと俺はフィリアにも胸を張れる。

それが、今取りうる一番いい選択だと俺は思った。

ふと、疲れが急に押し寄せてくる。

考え疲れたのかな。

とりあえず、眠ろう。

目が覚めた時には、このぐちゃぐちゃの気持ちもちょっとは綺麗になっているはずだ。

この願いは口にしなかった。

心の底からそうであってほしかったから。



気がつくと、俺は子供だった。

ベッドから起き上がって周囲を確認。

昔住んでいた家。

俺の部屋だ。

誰もいない。

ここには俺しかいない。

机の上に目を向ける。

茶色い革の手袋がそこにあった。

俺は机に歩み寄り、それを着ける。

サイズが合わないことなんて気にしない。

魔法というもの。

それは思う力の強さによるもの。

いったい何がどうなって欲しいのか。

どれだけ自分がそうなるかを望んでいるか。

その望みを叶えるにはどうすればいいのか。

それら全てをどれほど強くイメージできるかで、その術者の力量は決まる。

でもそれだけではない。

俺はぶかぶかの手袋をはめた手をぎゅっと握りしめる。

ある物質は、特定の魔法の威力を飛躍的に増幅する。

その性質を利用するために、そのある物質を用いて作られたものがある。

たとえば俺のこの手袋や、騎士たちの長剣や外套といったもの。

それは増幅器<アンプリファイア>と呼ばれるもの。

こいつはいつも俺に力をくれる。

遠くからノックの音。

玄関からか。

あ、そうだ。

今ここには俺しかいない。

俺が行かなくちゃ。

数を重ねるノックに急かされ、俺は走る。

体当たりする勢いで俺は扉を押し開けた。

その向こうに居たのは、少女。

俺より少し背が低い。

じっと見つめあう。

その深緑の目に吸い込まれそうになる。

そんな俺に彼女はほほえんだ。

「お名前、何ていうの?」



「ディア」

「ん?」

「聞いてもいい?」

「うん」

「どうして、神を信じられない人が居るのかな」

うつむき気味のサラは俺の方を向き、上目遣いでそう言った。

その膝の上にはあの伝記が開かれたまま。

夕食の片付けも済んだ後の食堂には、俺とサラと蝋燭しか居ない。

「どうしてって?」

「神なんか居ないって言う人は、どうしてそんなことを言うのかなって考えたんだけど……分からなくって」

「そんな人が居たの?」

「たくさん居たって、書いてある。酷いことをしてた、とも」

俺とサラは隣り合わせに座って本を読んでいた。

俺はもう三回読み終えてしまった小説を閉じる。

今まで互いに言葉を交わすこともなく二時間はこの状態だったのだから、はたから見ればさぞかし奇妙な光景だったろう。

それでも、この二時間は俺にとっては最高の二時間だった。

あと一秒だけでも長く続いてほしいと永遠に願ってしまうような、そんな心地よい時間の中に俺は居た。

サラはじっと俺の答えを待っている。

「きっと、そもそも神が居ることを信じられないんじゃないかな」

「でも、その理由は?」

「理由?」

「だってそんなことを考えるってことは、何かそう考えるキッカケになった理由があるはずでしょ? それが何か、すごく気になって」

「あぁ……そうだな、そういうことか。ちょっと、考えさせて」

軽い気持ちで返答した俺に対して、サラは顔を上げて素早く切り返してきた。

サラの目はじっと俺を見つめてきて、くぼみにちょうどはまってしまった岩のように、頑としてそこから動かない意思を映している。

本当に昔と変わってないな、とその顔を見つめながら俺は思った。

「……どう? ディア。分かる?」

「え? ああ、うん。多分だけどね。神を信じられないのはさ、きっとその人が神の恩恵にあずかれていないからじゃないかと思う」

「とんでもなく不幸な目にあったからってこと?」

「いや、一口にそう言うのも何か違うかな。

 なんていうか……神はすべての存在に平等なはずなのに、どうにも平等じゃないこの世に絶望したから、っていうことだと思うな」

「それはおかしいわ。……おかしいと思う」

「そうかなぁ」

「そうよ」

「その割には──」

俺は喉まで出かけたそれを、

慌てて胸の奥にそれをしまいこむ。

心の中で従者としての仮面を着けて。

二度と出てこないように。

「え? その割には?」

「あ、いや、なんでもない。分からないや。ごめん。自信なくなってきた。忘れて」

俺はサラから視線をそらし、蝋燭の炎に目を向ける。

「そうだよね。神は平等さ。俺は何を馬鹿なことを……」

空疎な笑いで俺はごまかそうとする。

心臓が高鳴るのをさとられまいと、必死で。

綺麗になったと思ったのに。

まだ俺の心はささやき、ざわめいている。

「……あのさ、ディア。聞いて欲しいんだ」

俺は蝋燭の炎に焦点を合わせたまま、無言でうなずく。

「私ね、怖いんだ」

「怖い?」

「うん。私は、こう思うの。神は、この世界は、間違いなく平等だよね。でも、平等でありすぎるんじゃないかって。

 だって、誰にも平等ってことは……神を信じて、神の為にすべてを犠牲にして戦うフィリアたち騎士にも、神を信じず、秩序を乱す異端者にも平等だってことでしょ?

 それだともしかしたら、フィリアはあんなに頑張ってるのに、神の御加護を与えられないかもしれない。すると……帰って来てくれないかもしれない。

 フィリアのお父様は足を失って戦えなくなってしまい、おじい様も病が篤くなってる。その後を継いであんなに頑張ってるフィリアが、もし報われない運命だったらなんて考えると……」

その言葉が紡がれるにつれて、サラは嗚咽を抑えきれなくなっていった。

俺はサラの膝の上に視線を向ける。

開かれたままのページの上に、ぽつりぽつりと涙の跡。

小さな拳はぎゅっと握りしめられ震えている。

「ディア……もしそうだったら……そんなの、ひどいと思わない?」

俺はその涙を拭えなかった。

それどころか、サラに何も言葉をかけられなかった。

頭の中でたくさんたくさん優しい言葉を考えたけど、考えていたけど、そのどのひとつも、俺は言えなかった。

俺は気持ちの十分の一も表にできない。

俺は自分を呪った。

でも、せめてと。

俺は手を伸ばして、サラの手を握り締めた。

「大丈夫だよ」

サラの涙が俺の手に当たった。

俺はより一層強く手を繋ぎながら言う。

「俺が護る。護ってみせるよ」

護ると、俺はただそう言った。



部屋に戻った俺は、また考えていた。

サラが言った言葉の意味。

神は平等でありすぎではないのか。

どうして神を信じていない人が、神を信じている人より、神に愛されることがあるのか。

神を信じているが故の感情。

救われるべき人を救わない神への疑問。

しかしサラは神を信じないということはしないだろう。

フィリアが神に仕える騎士である限り。

フィリアの祖父は、九年前に病に倒れ、今では髪もすっかり白くなり、この城から一歩も出ない生活を送っている。

容態は小康を保っていたが、最近はかたい食べ物がのどを通らないほど悪化していると聞いた。

また、先代インスカイ騎士団団長だったフィリアの父は、五年前の乱戦の最中、敵に右脚を斬られてしまった。

口髭をたくわえたあの雄姿は、あれ以来戦場に赴いていない。

二人とも、身を削って神に仕え、神の為に戦ってきたのに、それに見合うべき恩寵を授かってない。

むしろ人並みよりも不幸な目に遭っていると、俺だって思う。

それなのに、異端者たちの中には今ものうのうと大手を振っている奴もいる。

だからサラから言わせればこんなところだろう。

奴らはあんなに恩寵を授かってるのに、幸せなのに、どうして神を信じようとしないのだろうかと。

「それはおかしいよ、サラ」

俺はそれには迎合できなかった。

俺から言わせれば、神は平等でもなんでもない。

だって、もし神があまねく人々に平等であったなら、生まれた時から人の役割を決めて与えるなんてことはしないだろう。

俺に出来て、フィリアに出来ないことはほとんどなくて、

逆に、フィリアに出来て、俺に出来ないことは数えきれないほどある。

その間にあるものは何か。

埋めようのない懸隔。

縮めようのない距離。

俺が手を伸ばしたって届かない。

もし俺が騎士だったら、あるいはフィリアが騎士じゃなかったら。

対等の立場だったら、サラは俺のものだと言えるのに。

最初から勝負の決まっている戦いを与えるなんて、あんまりじゃないか。

俺は窓を開ける。

乾いた夜風。

耳元をくすぐる。

フィリアは今、どこにいるんだろうか。

俺の見るこの先に居るんだろうか。

その時だった。

暗闇に、赤い閃光が走った。

立ち昇る炎の柱。

遅れて轟音。

二発、三発。

数えきれない。

城の中で起きている。

必死で俺は目を凝らし、遠くに焦点を合わせる。

瞬間、愕然とした。

開くはずのない正門が、開き始めている。

「サラ」

サラの顔が、頭に浮かんだ。

護らなくては。

俺は、誰だ?

答える前に、俺は茶色い手袋をはめ、走り出した。




 第五話


もっと早く。

もっと、もっと。

俺は必死になって走った。

今はもう真夜中近い。

こんな時間に、一体何が起こったんだ?

遠くからの爆音は散発的に続いている。

ありえない。

でも、現実はここにある。

俺は廊下を飛び出し、エントランスの階段を二段飛ばしで駆け下りる。

転倒しそうになるその勢いさえも利用して俺は進む。

ひたすらに、サラを探して。

「サラ!」

食堂に走り込む。

が、そこには誰も居なかった。

真っ暗な部屋に目を凝らす。

もしかしたらサラが隠れてはいないかと。

二度、三度、彼女の名前を呼ぶ。

それは結局無駄な努力だった。

ここに居ないとなると、どこだ?

「中庭だ」

確証はなかったが、有力な可能性の一つには違いない。

俺は食堂を飛び出す。

町と天守を隔てる門はまだいつも通りの姿。

俺はその雄姿に頷く。

しかし空はいよいよ明るい。

それはまるで太陽が砕け散ってしまったように。

俺は先ほど降りたばかりの石造りの階段のそばを過ぎ、中庭への扉の前に。

把手に手をかける。

扉は動かない。

鍵がかかっていた。

俺は力任せに拳を扉に叩きつける。

「何でこんな時に!」

邪魔だ。

こんなもの、壊してやる。

そう思った俺は、頭の中でイメージを創り始める。

どこを、いかに、どの程度壊すべきか?

俺は意識を集中させる。

大きく息を吸い込んだ。

その時、背後に人の気配。

「サラ?」

俺は即座に振り向いた。

でもそこに居たのは、あの老召使い。

声に出してまでした期待はあっさり裏切られた。

やっぱり、願い事は口にするものじゃない。

そんな俺に蝋燭を手に持つ彼女は言う。

「ローランドさん、どうしましたか?」

「え?」

「何回か呼んだのですが、聞こえませんでしたか?」

「あぁ、それは、すいませんでした」

「逃げるのでしたら、そちらではありません。地下の倉にみな逃げています」



みな逃げています。

その言葉に俺は問い返す。

「いったい、何があったんですか?」

「異端者です。異端者どもが、城の中に忍び込んでいたようです」

異端者。

神を信じない者たち。

この世界の秩序を乱す者たち。

今まで言葉や文字の上での記号としてしか捉えてこなかったそれら、いや、そいつらが、この城を攻撃しているという。

「よりによって騎士たちが居ないこの時に、いや、もしかしたらこの時を狙ったのかもしれませんが……」

彼女はそこまで言うと、いったん言葉を切る。

そして、じっと俺の目を見て、哀願するように言った。

「とにかくローランドさん。とにかく、今は、早く逃げて下さい」

俺は彼女の懸命さという名の刃で刻まれたような表情の前に首肯しかける。

が、同時にそこで疑問を持った。

「待って下さい。みな逃げているのであれば……どうしてあなたはここに居るのですか?」

「心配しないで下さい。私もすぐに行きます」

彼女は答えなかった。

いつものようで、しかしどこか違う。

彼女はそんな笑みを作って言うと、俺に会釈し背を向けようとする。

俺はその肩を掴んで止めて尋ねる。

「待って下さい。どこへ?」

「すぐに戻ります」

「何をしに?」

「心配しないで下さい」

「答えて下さい」

「サラを捜してきます」

「何?」

予想もしなかったその答えに、俺の胸は高鳴る。

骨ばった肩を掴む腕に力が入ってしまう。

彼女の表情の変化を見た俺は慌てて手を離し、一度すばやく深呼吸。

そして続けて訊く。

「すいません。……でもそれは、つまり……サラはまだ逃げてないのですか?」

「ええ、十中八九は」

「どこに居るかも、分からないのですか?」

「はい、あとはサラだけなのですが……あの……もしや……いえ……」

そこで彼女は言い淀む。

俺はできるだけ静かに彼女を急かした。

「何ですか?」

彼女は答えない。

何故だろうか、明らかに迷っている。

うつむきながら二言、三言、何事かを呟く。

俺はそれを聞き取れず、聞き返そうとしたが、その前に彼女は迷いを振り切っていた。

「もしかしたら、ローランドさん。サラがどこに居るか、分かりますか?」

老召使いは自分の足を見ながらそう言った。

彼女がどうしてそう思ったのかは分からない。

だけど、

その瞬間、俺は決断する。

「分かります」

「本当ですか?」

「はい」

「どこに居るのですか? 教えて下さい」

「いえ」

俺は彼女の意志を突き返す。

それは彼女の身を案じたためでもなく、

彼女のことを信じなかったためでもない。

「俺が行きます」

ただ、俺のためだった。



もう、何度この名を呼んだことだろう。

扉を開けるたびに、角を曲がるたびに。

でも、彼女はどこにも居ない。

もう地下の倉に逃げたんじゃないだろうか?

そんな思念が一瞬だけ頭をよぎったが、俺はその間も走り続けた。

後悔はいつでも出来るけど、行動は今しか出来ないのだから。

城の西側の一階をすべて見回った俺は、そのまま北側へ、つまりあの尖塔を有する北の棟へと向かう。

ふたつの棟をつなぐ渡り廊下に出る。

そこには壁はない。

腰丈の高さの手すりが進むべき道を示しているだけ。

しかし俺の目は大広間へ繋がる扉ではなく、その手すりの向こう側を見る。

そこには、たくさんの花が咲いている。

「もしかしたら、やっぱり、中庭に──」

そう呟き、俺は手すりに手を突いて跳び越えた。

昔は下をくぐっていたのに、今じゃそんなこと考えもしない。

成長したというわけか?

いつの間にか俺は、俺よりも大きかった花々を見下ろすようになり、

日がな一日向き合っていても飽きなかった虫を、一瞥するだけで満足するようになってしまった。

成長することは、もしかしたら、土から離れることなのかもしれない。

でも最後は、土に還っていく。

草も木も虫も獣も人も。

これは真理と言っても過言じゃないはず。

教会だってそう教えている。

どんな鳥だって死ぬまで飛び続けることはできないし、どんな花だってしおれずに咲き誇り続けることはできない。

まして人間がどんなに知恵を絞ってこの真理に抗おうとしたところで、どうして避けられようか。

あの尖塔の高さだって、百年後はもう無いかもしれない。

あんなものは偽物の安心の為の姑息な手段なんだから。

いつだったか、そうフィリアがサラに言っていたことを俺は思い出した。

そのフィリアは、高い所に居る。

あるいは騎士団団長として、あるいはこの城を統べる者として。

元々、それは彼が望んだことではない。

でも彼は、それが神の望んだことならばと受け入れた。

驟雨を遮る大樹のように、あらゆる不幸から皆を護ろうと。

揺るぎない決意をもって、すべての人の寄る辺となろうと。

だけど、皆が平等に幸せになる方法なんてないように、皆を平等に護ることなんてできはしない。

だって、そうだろう?

たくさんの人を護るには、高い所に行かなければならない。

しかし高い所に行けば行くほど、ひとつひとつのものは小さくなり、やがて見えなくなる。

見えないものをどうやって護るというのだ?

彼は本当に平等だ。

だから、護れない。

でも、俺は彼と違う。

俺は高い所には行けない。

つまり多くのものは見えないけれど、その分護るべきものを見失うことはないということ。

俺は信じている。

今こそ証明するんだ。

サラは、俺が護る

中庭を抜けた俺は、南の棟に繋がる扉を開けた。

エントランスに出る。

一体サラはどこに居るんだろうか──。

「え?」

俺はそこで、気がついた。

「さっき、この扉は……」

鍵が掛かっていた。

でも今、鍵は掛かっていなかった。

それがどういうことかを結論づける前に、俺は動く。

この選択が、俺に更なる動揺をもたらした。

階段の手すりに手をかけた俺の目に飛び込んできたもの。

エントランスに繋がる正面入り口の扉。

そしてその向こうにある、町と天守を隔てる門。

そのどちらも、開け放たれている。

それが意味すること。

理解すると同時に、血の気が引いて行く。

悲鳴が聞こえた。



俺はその場にひざまずき、両の掌を地面に押し広げる。

土から力を得て、その力を頭で思い描いた自らの姿に混ぜ合わせる。

そして混ぜ合わせた幻想は、呪文を唱えて一気に増幅させることで、現実のものとなる。

今必要なもの。

それは疾<はや>さ。

「集まれ、細石<さざれいし>。我に供<とも>せよ。風に揺られるその軽さと! 『ブリダスト』!」

体を包み込む浮遊感。

言い訳と泣き言は、ここに置いて行く。

立ち上がり、俺は走り出す。

悲鳴が聞こえたのは二階から。

十段以上あるあの階段を二歩で昇り切る。

壁にぶつかった反動を利用して右に曲がり、勢いを殺さず駆け抜ける。

突きあたった所でもう一度壁に激突した。

さすがに今度は足がもつれる。

体勢を整えるために、次の一歩までに一瞬、間があいた。

その一瞬。

俺は見つけた。

「サラ!」

仰向けにくずおれた体。

その喉元に向けられているものは、血に染まった槍の穂先。

彼女を見下ろす形で、覆いかぶさるように誰かがそこに立っている。

槍が振り上げられる。

そのとき、俺はもう動いていた。

大きく右手を振りかぶりながら。

五歩、

突き進む。

最後の一歩で大きく飛び込み、全身の体重と勢いを右手に乗せる。

槍がサラの首を貫く前に、俺の拳が敵の鳩尾を撃ち抜いた。

重たい感触。

短く、濁ったうめき声。

敵は廊下を真っすぐ吹き飛んで行った。

主から離れた槍が壁にぶつかり、大きな音を立てる。

中空に飛び出ていた俺はそのまま床に突っ込む。

「痛ッ……!」

体を捻って背中から落ちられたものの、それでも全身への反動が凄まじい。

『速さ』だけを強化する魔法だから、効果が切れた後押し寄せる反動は抑えられないのだ。

痛む体を叱咤して無理やり起こすと、俺はサラに駆け寄る。

「サラ! サラ!」

首元に手を回して、サラの頭を上げさせる。

「ディ……ア……? ディア?」

サラの顔は蒼白で、怯えきったその目で俺を見つめながら、震える声を絞り出す。

少しでも早く彼女を安心させたくて、俺はたくさんの言葉を考えた。

でも俺は分かっていた。

俺は、言葉じゃこの気持ちの十分の一も表にできないことを。

だから、

何も言わずに、

俺はサラを抱き締めた。

強く。

それはもう二度と離さないほどに。

困惑の一瞬。

その後、堰を切ったようにサラは泣き始めた。

俺の背に手を回し、俺の胸に顔を埋めて泣き続けた。

見やれば、右の腿から鮮血が流れている。

そこまで深くはないようだったが、傷の程度が問題なのではない。

反動の痛みが本格化するにつれ、置き去りにしてきた言い訳と泣き言が、後悔という形で追いついてきた。

彼女が傷つけられてしまった。

俺はそれを阻止できなかった。

そしてサラは今、泣いている。

それはつまり、俺が彼女の幸せを護れなかったということ。

俺は唇を噛みしめる。

自分の血をすすりながら、俺は自分に誓った。

二度と、サラを傷つけさせはしない。

もしサラを傷つけようとする者がいるなら、俺が滅ぼすと。

たとえ、それが何であっても、誰であっても。



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