年下の男の子
「ねえねえ、涼ちゃん、もう起きて、起きてよ・・」
遠くで誰かの呼ぶ声がする。朦朧とする意識の中で、朝の眩しい光と鳥のさえずりが、諒子の気だるい体を優しく包む。
(そうか、眠ってしまっていたんだ、私)
「はい、コーヒー。ブラックでよかったよね。」
一口すすると、体中の細胞がちょっとづつ覚醒していく。
「あーおいしい。ありがとう、誠くん」
諒子はいつも誠のこんな優しいサービスを受ける。そのたびに諒子は幸せな気分に浸る。
「もう帰らないといけないわね。」
「うん、そうだね。」
誠は、ベッドに横たわる諒子のそばに腰を下ろして、何度も髪を撫でては、時折そっと額に口づけをする。
(なぜ彼はここにいるのだろう。どうして私のそばにいるのだろう)
何度もその意味を考える。でも今だによくわからない。こんな関係がもう2年以上も続いている。
目と目が合うと、二人とも笑みがこぼれる。誠は甘えたように諒子のベッドにもぐりこんでくる。肌と肌を合わせる。体温を感じる。心臓の鼓動も聞こえる。
「だめよ、もう」
「いいの、もう一回だけ抱きたい。ね、いいでしょ?」
そう言いながら、誠は諒子の体のいろんなところにキスをしてくる。くすぐったくてたまらない。でもそんな彼を、諒子はいつも愛おしく思う。
誠には同い年のガールフレンドがいる。諒子と付き合ったこの2年の間、もう何人のガールフレンドとくっついたり離れたりしたのだろうか。そのたびに諒子は、誠の恋の相談相手をさせられる。確か1ヶ月しか続かなかった恋もあった。大体長くて6ヶ月くらい。1年続いたためしは今の今まで一度もなかったと思う。
でも今度の彼女はちょっと違うらしい。誠もそろそろ身を固めなければいけないと思い始めているみたいだった。
「ねえ、涼ちゃんどう思う?」
「うん、いいんじゃない?彼女ならきっと。」
「じゃあ、今度会ってくれる?」
誠はなぜなのか、必ず諒子に自分のガールフレンドをを会わせて、諒子の了解を得ようとするのだった。
「そんなことできるわけないじゃないの。」
そう涼子が断ると、必ず誠はこう言ってきた。
「じゃあ、涼ちゃん、僕と結婚してくれる?」
「それは困るわ。」
決まって諒子は断った。すると誠は駄々っ子のように、どうしても彼女と会ってほしいと迫ってくる。仕方なく諒子は、誠の義姉のふりをして、彼女たちに会うのだった。
諒子も、実は少し興味があった。誠の選んだガールフレンドは一体どんな子なのか。自分と比べてどうなのか。自分の愛した誠は、どのくらい女の子に好かれるのか。いろいろと興味があった。そしてそのうち、なんだか楽しみになってしまった。
諒子はひとつのルールを作った。誠が本当に一人のガールフレンドを好きになったときには、もう彼とは寝ない、というルールだった。誠も了解済みだった。そんな日はいつやってくるのだろうか。ほんのちょっと寂しさを感じるが、そんな思いなど、もう、すぐにそよ風のようにすっと消えていく。なぜなら、諒子は誠と結婚するつもりはまったくなかったからである。
「きっと彼女とならうまくいくわよ。」
今回は本当にそう思った。今まで誠が連れてきた女の子の中では一番誠に似合っていると思った。とても素直で優しい子だった。誠の彼女を見る目もまんざらではなかった。(これでやっと『お役目ごめん』だわね)彼女と会った日、諒子はそう強く感じた。もうすぐ誠が去っていくのだ。それとも自分が去っていこうか。どちらにしても、もう誠は諒子のものではなくなる。
その日は、諒子が誠との別れを決意し始めた日でもあった。別れ話のタイミングをうまく見つけなくてはいけないと思い始めた日であった。だから、余計に諒子は誠を早く帰さなければいけないと思っていた。理性を持って、彼女の元へ早く帰さなければいけない。そう思いながら、本当は、ずっとこの愛おしい彼をこの手の中に抱きしめていたかったし、誰にも渡したくなんかなかった。でも、そんな気持ちを諒子は、誠の前ではおくびにも出さない。
だんだん気温が上がってくるのがわかる。梅雨も終わり、初夏の空気がとても爽やかに感じる。バスローブを脱ぎ捨てた彼のたくましい体は、もううっすらと汗ばんでいる。
「ふふっ。」
「どうして笑うの?」
「だってかわいいから。」
「あ、またそうやって子ども扱いするんだから。」
「だって仕方ないわ、本当にかわいいんだもの。」
そう言うと諒子は、誠の首筋に両腕をまわし、彼のすべてを優しくそっと抱きしめた。たくましい誠の肩に諒子の唇が触れる。そっと短いキスをする。
「いつになったら大人に見てくれるのかな。」
「さあ?ふふふっ」
「やだな、涼ちゃん、いつもそうなんだから。ねえ、いつになったら結婚してくれるの?」
「そうね、誠くんが大人になったら。」
「もう僕は大人だよ。結婚しようよ、ねえ。」
もう何回そんな会話を交わしただろうか。でも諒子には、誠を大人の男性として見ることなど到底できそうになかった。10歳も年下の彼を、どうして同等に見ることなどできるだろうか。
誠は本気で諒子を好きだった。愛していた。でも諒子はその気持ちをまっすぐ受け止めてはくれなかった。いつの間にか誠は、諒子のペースで、二人の関係を続けることを選んだ。そしていつしか、結婚願望の強い誠は、いつまでたっても結婚してくれない諒子を心の底で諦め始めるしかなかった。
「涼ちゃん、きれいだよ、とっても。」
耳元でささやきながら、誠は諒子の首筋にそっとキスをする。柔らかい朝の日差しの中で、切なくちょっぴり寂しい気持ちのまま、諒子は誠を優しく抱いた。
「僕を忘れないでね。」
「うん、わかってる。でもね、誠くん、それは・・」
誠は諒子の唇を少し乱暴なキスでさえぎる。
(もうそれ以上何も言わないでよ、涼ちゃん)
誠は泣きたいくらい切なくなる。でも、それ以上何もいえないのはむしろ誠のほうだった。
とても自然な二人だった。身も心もすんなりと重なり合う。この上ない安心感が漂う優しい時間だった。
「そろそろシャワーを浴びてらっしゃい」
「そうだね」
誠はポツリと呟き、少し淋しそうな表情でバスルームに向かう。その後姿を諒子はぼんやりと目で追う。
(これでいいのよ、ね、誠くん)
諒子は一人布団の中に顔をうずめた。
「じゃ、またね」
「うん」
「涼ちゃん」
「なあに?」
「ううん、なんでもないよ」
「そう。今度彼女とデートするのはいつ?」
「え?どうして?」
「その前に一度、また会おうと思って」
「わかった、決まったら連絡するよ」
いつものように爽やかな笑顔を振りまきながら、誠は諒子の部屋を出て行った。諒子は誠の笑顔が本当に大好きだった。
誠を見送り、ドアを閉めると、すっと諒子の心は開放された。ただ一人だけの空間に、初夏の匂いがうっすらと漂う。コーヒーメーカーのスウィッチを入れ、CDをかけると、シンディー・ローパーの歌声が、まるで応援歌のように諒子の背中を押してくれる。窓辺に目をやると、もうきらきらと夏の光が輝いて見えた。両手で思いっきりカーテンを開けると、まぶしさに諒子は目を細めた。その明るさに戸惑いながらも、また再び自分の日常の生活を歩み始める。諒子は思いっきり背伸びをしながらバスルームに向かうと、熱い熱いシャワーを全身に浴びた。