Act.6 真相
暗闇に光が訪れる。
徐々に意識を取り戻していく事を自覚しながら、巧はゆっくりと瞼を開いた。
首の後ろの部分に、鈍い痛みを覚える。そういえば背後から思い切り殴られたのだ。
首筋に右手を当てようとして、その手が自由に動かない事に気付く。まだ少しぼんやりとした頭で、巧は動かない自分の右腕に目を向けた。
するとその腕には、手首の辺りに銀の鎖が巻き付けられ、動かせないように拘束されていた。
右腕だけではない。
両足、腰、左腕、果ては首にまで銀の鎖が巻き付けられている。
漸く意識がはっきりしてきた所で巧は、少し前に見掛けた黒い十字架に、自分の身体が磔にされている事に気付いた。
「くそ……、何でこんな状態に?」
拘束を解こうと身体を動かしてみるが、銀の鎖は強固なまでに、巧の身体を十字架に張り付けて離さない。
しばらく暴れていた巧だったが、不意に自分の左隣に、磔にされている暁奈の姿を見つけた。首に巻き付けられている鎖を鬱陶しく思いながら、巧は何とか首を左に巡らせ、気を失っている暁奈に声を掛ける。
「水嶋! おい、しっかりしろ! 水嶋!」
何度か呼び掛けていると、暁奈の身体が僅かに動いた。端正な形の瞼が、ゆっくりと開いていく。
「う……。新藤、くん……?」
意識を取り戻した暁奈の虚ろな眼が、心配そうな顔をした巧を映し込んだ。
巧は少し安心して、身体を自由に動かせないながらも、暁奈の様子を確かめる。
「大丈夫か? 怪我は?」
「うん、多分平気……。神藤くんこそ、大丈夫なの……?」
暁奈のゆっくりとした声が返ってくる。どうやら自分以上に疲労しているようだ、と巧は思った。
「ああ、何ともない。こんな状態じゃ無ければな」
冗談っぽくそう言って、巧は笑ってみせた。
暁奈も、そんな巧の様子に軽く微笑んだ。と、その暁奈の表情が、前方の何かに気付いて怪訝な顔付きになる。
「神藤くん、あれ……」
「え……?」
暁奈に促されるようにして、巧は前方を向いた。そこで初めて、自分たちの眼の前にある巨大な物体の存在に気付いた。
黒い壁、に一瞬見えたそれは、よく見ると球体のように、上部に行く程緩やかな曲線を描いている。まるで地面の中に巨大な黒いボールが埋まっていて、その丁度上半分が地面から顔を出しているかのようだ。
「何なんだ、これ? ドーム型の丸い物体にしか見えないけど……」
首に巻かれた銀の鎖のせいで視界を巡らせ難いが、巧は何とか全体像を把握する事が出来た。だが拘束されっぱなし身体は、もっと自由に動きたいと悲鳴を上げ始めている。
いい加減この状態をどうにかしたいと思っていると、目の前の黒い球体の一部分で不思議な事が起こった。
丁度巧たちの目線と同じ位置。その辺りで黒い球体の表面に歪みが現れた。その歪みはやがて波となり、球体の表面に波紋を広げていく。それが治まったかと思うと、今度は波紋の中心がズブリ、という奇妙な音を立てた。
その音の直後、まるで粘着性のある液体の中から這いずり出ようとするかのように、整った形をした何かがこちら側に出てこようとしている。
「なっ……?」
巧は背筋に悪寒が走るのを感じた。こちらに何かが出てこようとしているのはわかるが、その工程が何とも気色悪い。ふと暁奈の方を見ると、彼女も同様に複雑な顔をしている。あまり注意して見ていたくないが、それでもやはり何が出てくるのか気になってしまう。
すると、ブシュッと言う不快な音と共に、新たな物体が姿を現した。少し縦長の巨大な物体。それはまさしく――。
「仮面……!」
巨大な仮面は水面から顔だけを出しているかのように、巧たちの目の前に浮遊している。
と、その仮面を見ていてある事に気が付いた。
仮面には中央に黒い線が引かれていて、右側と左側で表面に描かれている模様が異なっている。その仮面の半分、巧から見て右側の部分の模様に見覚えがあった。
おどけた表情を醸し出している、ピエロのメイクが施された、顔の左側を隠す仮面。
「幻影の道化の仮面と、同じ模様……?」
確かにそれは、彼が顔の左半分にだけ付けていた仮面と、模様が瓜二つだ。まさかと思い、巧はその仮面に向かって声を掛ける。
「あんたなのか? 幻影の道化!」
「――」
巧の呼び掛けに、仮面から返事が返ってくる事はない。勘違いなのかと思った瞬間、反対側の仮面に変化が起きた。
反対側の仮面の表面には、何かの記号を現したような不規則な形の模様がいくつもあり、眼の辺りに覗き穴らしき空洞が開いている。
その穴の中に、翡翠色の光が灯った。
まるで巧の呼び掛けに応じて、仮面の主が意識を取り戻したかのようだ。
「……神藤、巧。……水嶋、暁奈」
「「!」」
自分たちの名前を呼ばれて、巧と暁奈は驚いた。あの仮面は、明らかに意志を持って自分たちに語りかけている。
「あなたは、幻影の道化さんなの?」
巧に代わって今度は暁奈が呼び掛ける。その表情には、すこし安心したような笑みが浮かんでいた。
だがそれはほんの一瞬の事だった。
「――残念ながらあの者ではない」
「!」
「奴はもう用済みだ。今私にとって必要な人材は、キミたちだよ」
声の主はあっさりと否定した。しかも幻影の道化の事を用済みだと吐き捨てた。まるで使えなくなった道具を切り捨てるかのように。
眼の前の仮面は幻影の道化ではなかった。チラリと横を見ると、暁奈の表情が曇っているのがわかった。
巧は視線を戻すと、探るような調子で声を出す。
「お前、誰だ? 必要な人材って一体何の事だ」
仮面の覗き穴から見える翡翠色の光が、言葉を発した巧の方に向けられた。
得体の知れない何かが、自分の事を見つめている。それだけで巧は、全身に悪寒が走るのを感じた。
「私の名は、メシエ。キミたちの世界を観測する者。……必要な人材とは、これから私が成し遂げようとする事に必要な、『力』を持った人間の事だよ、神藤巧」
自身の事をメシエと名乗った仮面の眼が、陽炎のように揺らめいた。自らを観測者と表現するメシエの言葉には、望みを果たそうとする強い意志のような物が感じ取れる。
「観測だと? 成し遂げるって、何をするつもりだ」
「私はキミたちの住む世界とは別の世界の住人。私の住む世界に明確な名前など無い。敢えて言うなら『混沌』、と言った所か。その『混沌』から、キミたちのいる世界へ渡り行こうとしているだけさ」
別の世界の住人。
その言葉は俄かには信じがたいが、巧自身、すでに『鏡界』というある種現実とは違う別の世界を体感している。『鏡界』という物がある以上、自分たちが住む世界とは別の世界があるとしても不思議ではない。むしろ自然と言える位だ。
その別の世界、メシエの言う『混沌』から、現実の世界へと渡る。話を聞く限りでは、世界を渡り行くこと自体にあまり悪い印象はない。
だが何か、嫌な予感がする。
もうずっと以前から感じている、深い闇の中に取り残されたような不安感が。
「俺たちの世界に……? 一体何のために?」
「言ったはずだ、私は『観測する者』だと」
巧の不安からの問い掛けを、メシエは諭すようにして封じた。仮面の向こう側から聴こえてくる声は、先程まで戦っていた鎧の騎士とは違って、はっきりと聴こえる。
「私は長きに渡り、キミたち人間の住む世界を観測していた。別の世界という物に、そしてその世界に住むキミたち人間に興味があった。そして観測を続ける内、その興味は益々強くなっていった」
巧も暁奈も、ただ黙ってメシエの話を聞いていた。表情などという物が存在するのかわからないが、仮面の内側には歓喜に打ち震えて笑みを零している、そんな気がした。
「私が一番興味を持ったのは、キミたち人間の持つ『感情』という物だ。『感情』という物が生み出す力は素晴らしい。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。それが正であろうと負であろうと、キミたち人間がその『感情』という物の下、どう生き、どう行動しようとするのか。それを私はこの眼で確かめたいと思った。私自身の住む世界という遠方からではなく、実際にキミたちの世界に踏み入って、より詳しく観測したい、と」
本当に楽しそうに、そして嬉しそうに、メシエの声は弾んでいた。
ところが急に、その声の調子に陰りが見え始めた。
「……だが問題があった。キミたちの住む世界と、私が住む世界は相容れぬ存在。そう……、言わば水と油のような関係だ。キミたちの世界にとって『異物』である私が、キミたちの世界に渡る事は出来ない。それは双方の世界の法則であり、超える事の出来ない壁だった」
越えられない現実を目の当たりにした時の事を思い出したのだろう。メシエの声は深く沈んでいるかのようだった。
だがその調子も長くは続かなかった。まるで太陽が高く昇り始めるかのように、メシエの声は調子を取り戻していく。
「……だが私は思い付いたのだ。渡り行く方法が無ければ、自ら作り出せばいいと。キミたちの世界と私の世界、その境界線を取り払ってしまおうと。そのために私は、自身の望みを果たすための第一段階として、キミたちの世界と私の世界の間に、一つの空間を作り出す事にした。それが、『鏡界』だ」
「「!」」
もう充分に聞き慣れた単語を耳にして、巧と暁奈は眼を見開いた。この空間を作り出した張本人が、今目の前にいる。自分たちを非日常の世界へ引きずり込んだ、元凶が。
「『鏡界』とは、言わば合わせ鏡のような物だ。キミたちの世界の『現実』と、私の世界の『現実』が合わさり、このような空間を作り出している。そして『鏡界』には、双方の世界を司る『力』が混在している。だからキミたちの世界のような街並みもある。私の世界のような色の空がある。キミたちが化物と呼ぶ『災魔』がいる」
今、磔にされた自分たちの周りに見える景色は、虚構の物では無かったのか。現実にある街並みが『鏡界』内で具現化され、そこにメシエの世界の『力』が合わさる事で、このような廃墟と化した街並みが作られていたのか。
妙な納得と共に、巧は自分の中にある不安が、より大きくなるのを感じた。紡がれていくメシエの言葉が、爆発寸前の爆弾のタイマーのように思えた。
「そして世界の境界線を取り除くためには、双方の世界の『力の影響』を受けた生物が必要だと、私は考えた。……もうわかるだろう。そこでその生物に選んだのが、キミたち人間だ」
「「!」」
爆弾が爆発した気がした。
実際巧たちの衝撃は大きい。メシエは自分の欲望を叶える為の材料として、自分たち人間を選んだのだ。
「私は、双方の世界の『力の影響』を受けた人間を作り出す事と同時に、『鏡界』に落ちた人間がどういう行動を起こすのかも観測しようと思った。『鏡界』の入口をキミたちの世界に作り、人間を引きずり込み、『災魔』にキミたちを襲わせるように仕向ける。……するとどうだ。その人間たちの中に、『災魔』に対抗する力を覚醒させる者たちが現れた。その力というのが、『心羅』だよ」
「じゃあ『心羅』の力は……」
「そう。『心羅』とは、私の世界の『力の影響』を受けた、キミたちの世界の『人間』が稀に覚醒させる特別な力だ。そしてこの力を扱う者こそ、私が求めていた存在。境界線を取り除くために必要なのは、双方の世界の『力の影響』を受けた生物。つまり……、『心羅』を覚醒させた人間」
それはつまり自分たちの事だ。
メシエは驚愕する巧と暁奈を差し置いて、淡々と続ける。
「あとはその人間と、この『鏡界』を同時に消滅させ、その瞬間に生まれる膨大なエネルギーをぶつければ、双方の世界を隔てている境界線は無くなり、私は自分の本来の望みを達成できるはずだった。だが……、見込みが甘かった」
「どういう事?」
暁奈が問い掛けると、メシエの陽炎のような翡翠色の瞳が見つめ返してきた。
「人材が足りなかったのさ。『心羅』を覚醒させた人間を生贄に捧げれば、境界線を打ち消せるという私の考えは間違ってはいなかった。実際私は以前、『心羅』を覚醒させた人間の一人を捕え、自身の仮説を証明するために実験を行った。……だがその実験は失敗に終わったよ」
「何だと……!?」
実験を行い、そして失敗した。ならばその人間はどうなったのか。
考えるまでもない、と巧は苦虫を噛み潰したような顔になった。メシエの言葉を聞いていれば、容易に想像出来る。生贄と称された者が無事で済むはずが無い。ましてその実験が失敗したのなら尚更だ。
「力を覚醒させた人間一人分のエネルギーでは、不足していたのだ。だから私は『鏡界』を存続させ、人間をこの空間に集め続けた。『心羅』を覚醒させた人間を集めるために」
だが……、とメシエは言い淀む。まるで説明するのが面倒だと言っているかのようだ。
「ここからが苦労の連続でね。一度に大量の人間を集めても、力を覚醒させるのはその内のほんの一握り。……しかもその人間が複数人存在する事は、今まで一度たりともなかった。実際、私がこの作業を始めてから集めた百四十三人の内、力に目覚めたのは僅か十一人。しかもその者たちは一堂に会する事なく、次々と『災魔』の餌食になっていった。御陰でどれだけ時間を無駄にした事か……」
「お前……!」
自分の勝手な欲望のために大勢の人を犠牲にしておきながら、メシエはそれを無駄と言った。磔にされている巧の手が、爪が肉に喰い込む程強く握り締められる。あんな非道な言葉を聞かされて、怒りを感じない訳がない。
だがメシエは気にした様子もない。その事に気付いてすらいないようだ。
「このままではいつまで経っても、私の望みは叶えられない。そこで思い付いたのが、キミたちもよく知っている『案内人』の存在だ」
「「!」」
巧は一瞬先程までの怒りを忘れてしまった。メシエが誰の事を言っているのか、すぐにわかったからだ。
「この空間に集めた人間に情報を与え、導くための存在。それを作り出そうと考えた。『案内人』なる者がいれば、この空間内で人間が死ぬ確率が少しは減る。それが『心羅』に目覚めた者なら尚更な」
メシエはただ淡々と告げる。自分が行ってきた事の全てを、躊躇う様子も全く見せずに。
「しかも丁度その頃、『災魔』に喰われて死んだ人間が一人いた。私はその人間の精神に入り込み、生前の記憶を奪って操り人形とし、名を与えた。それがキミたちの案内人、幻影の道化だよ」
「なんて事を……」
暁奈が悲痛な声を漏らした。巧にはその心中を察する事が容易に出来た。なぜなら、幻影の道化の過去を彼女に話して聞かせたのは、紛れもなく自分なのだから。
幻影の道化から話を聞いた時も、自分が暁奈に話した時も、巧はやりきれない気持ちになった。
それなのに眼の前の仮面の存在は、そんな事を全く感じている様子が無い。感じている訳が無い。
こいつには、自分の目的を果たす、という事しか頭に無いのだから。
「実際、あの男は非常に役に立ってくれた。現にこうして、私の前に『心羅』を覚醒させた人間が二人並んでいる。実に喜ばしい事だ」
「ふざけるなよ。あいつはお前の道具じゃない! それにあいつは、俺を日常に戻そうとしてくれていた。『災魔』の群れに襲われた時も、鎧の騎士に連れて行かれる時も。……それはつまり、お前の望みを阻もうとしてたって事だろ!?」
巧の強い否定の言葉に、メシエはさらに否定の言葉を重ねて返す。
「言ったはずだ、奴は私の『操り人形』だと。奴自身その事に気付いていたかは知らないが、私はあらゆる場面で奴の言葉や行動に制限を掛けていた。キミたちに不要な情報が漏れたり、キミたちが『鏡界』という非日常の世界から離れないようにな」
「! 何だと……!?」
「……一度もおかしいとは思わなかったのか? 奴の言葉や行動に、一貫性が無いという事に。現に今キミたちの目の前に、その証拠があるだろう」
巧はまさかと思う。自分がさっき感じた確信に近い物が、メシエの言葉によって現実味を帯びていく気がした。
「キミたちから見て右半分の仮面の模様。奴が付けていた仮面と、同じ模様だろう? これこそが、奴が私の操り人形であったと共に、奴隷であったという何よりの証拠。キミたちは『心羅』を覚醒させた瞬間から、ここへ導かれる運命だったんだよ」
「そんな……」
確かに仮面の模様は同じ物だ。そう認めてしまったのだろう。暁奈の口から、諦めたような言葉が漏れた。
「……ふざけるなよ。全部お前の思い通りだったって言うのか……?」
感情を押し殺そうとしても、出来なかった。巧は問わずにはいられなかった。
「幻影の道化がお前の思い通りだったって言うなら、何で俺が『災魔』の群れに襲われてる時、俺を現実の世界に押し戻したんだ! 赤褐色の騎士に連れて行かれそうだった時、どうして俺と水嶋を無理矢理現実の世界へ戻したんだよ!?」
「簡単な事だよ。『災魔』の群れから助けたのは、貴重な人材が失われるのを防ぐ為だ。赤褐色の騎士から助けたのは、貴重な人材を守ると共に、『儀式』を行う準備に入る為だ。幻影の道化にキミたちを助けるという意志があったかどうかは関係ない。全ては、私の意志によって行われていた事だ」
「お前ぇ……!」
ギリッ、という歯を食い縛る音が聴こえた。自分でも驚く程、怒りを感じている。
するとメシエの言葉を聞いていた暁奈が、怪訝な顔で尋ねる。
「『儀式』って、何をするつもりなの?」
彼女は巧とは違い、冷静に状況を確かめようとしている。その事に感心したかのように、メシエは「賢明な判断だな」と付け足した。
「さっきも言った通り、これからキミたちには生贄となってもらう。この『鏡界』とキミたちを一気に消滅させれば、その衝撃で境界線は消え去り、私はキミたちの世界へ渡り行く事が出来る」
「! 待って! ここにいるのは私たちだけじゃないわ! 他の人たちはどうなるの!?」
「当然キミたちと共に消滅する。……元々他の人間たちは、キミたち二人で失敗した場合の保険として引き込んだまでの事。こうしておけば、また力に目覚める者が現れるかもしれないからな」
「そんな……!」
メシエは本気でやろうとしている。例え巧や暁奈で失敗したとしても、世界の境界線を消し去る為なら成功するまで続けるだろう。
そうなれば、今この空間に捕えられている人たちだけではない。現実の世界にいる多くの人々が、真実を書き換え、捻じ曲げられる形で犠牲になる。
「そんな事、させてたまるかよ!」
自分が犠牲になるのもごめんだ。
ここで諦めて、誰かが犠牲になるのなんてもっとごめんだ。
(諦めてたまるか!)
巧は必死に自分の身体を束縛する銀の鎖を剥がそうと踠く。
暁奈の瞳にも、抗いたいと願う強い意志が、揺らめく炎のように煌めいている。
だがどれだけ踠き暴れても、身体を縛る枷は外れない。メシエはそれを諭すかのように告げる。
「無駄だ。キミたちを磔にしているその十字架は私の力で作った特別製でね。『心羅』の力を封じ込める作用があるんだ。……もっとも剣や弓を呼び出せた所で、腕を振り回す事が出来ない状態では、枷を解く事も不可能だろうがね」
「くっ、そ……!」
諦めるつもりの無い二人は必死に抵抗を続ける。と、その時だった。
ズブッ。
「!?」
突然奇妙な音が、目の前の仮面の右側辺りの黒い壁から聴こえた。見るとその部分にだけ、表面に小さな波が立っている。まるで水の中から何かが顔を出そうとしているようだ。
するとメシエが、感嘆したような声を上げた。
「――何だ、まだ意識があったのか。……しぶとい奴だ」
最後に忌々しそうに付け加える。その直後、小さく波立った部分の中心から、水面を叩くような音と共に、何かが勢い良く飛び出してきた。
「あれって……」
何かを悟ったかのように、暁奈がポツリと呟く。
飛び出してきた物は、人間らしい形をした右腕だった。恐らく壁の向こうで身体と繋がっているのだろう。その右腕は、見覚えのある服を纏っていた。
「まさか……」
その右腕は、周りの様子を確かめるように、黒い壁をペタペタと触っている。そしてその腕が、まるで腕立て伏せでもするかのように壁に手をつき肘を曲げ、目一杯力を込めた。
次の瞬間。水面が弾けるかのように黒い壁が飛び散り、中から人間の上半身が現れた。
ダランと垂れた上半身が持ち上がり、巧たちの方を向く。
そこには、二人がよく知っている者の顔があった。
「幻影の道化……!」
「やぁ……、二人とも。どれぐらいぶりだい? ……まぁとにかく、久しぶり」
少し疲労した表情の幻影の道化の顔には、以前付けていたピエロの仮面が無かった。青年の人間らしい素顔が、そこにはあった。
「まさか自力で出てくるとはな……。今更何をしに出てきた?」
表情があるのか無いのかわからないが、少なくとも今のメシエの声には、明らかに嫌悪の色が濃く出ていた。
それをいつもの調子で聞き流すように、幻影の道化はニコニコする。尤もその表情は、かなり無理しているように見えた。
「いやいや、二人が頑張ってるのに、ボクだけこんな所で休んでる訳にはいかないなぁと思ってさ……。ちょっとあなたに意地悪しに」
「……何だと?」
メシエが怪訝な声を上げた、その時だった。
突然何の前触れもなく、巧と暁奈を磔にしていた十字架が、身体を縛っていた鎖と共に粉々に砕け散った。
前兆も無いまま訪れた身体の自由と落下に、巧と暁奈は上手く着地出来なかった。
「痛ってぇ……」
「十字架が……、壊れた?」
「! 貴様、何をした?」
メシエの翡翠色の瞳が、幻影の道化を捕える。その眼の光は、怒りに揺らめいているようだ。
「簡単な事だよ……。あなたの力を利用して、彼らの枷を外しただけさ」
「貴様……! 私の力を利用するなどという真似……、一体いつの間に……!」
「あなたの存在に気付いた時からだよ。ボクはこの世界の『案内人』だ。力の流れなんかも熟知してる。……ボクにそうあるよう仕向けたのは、他でもないあなた自身でしょう?」
「おのれ……、操り人形の分際で……!」
激昂した口調で幻影の道化を見据えるメシエの眼が、眩しい翡翠色の光を一瞬放った。
すると幻影の道化の周りの壁の中から、無数の黒い触手が飛び出し、その身体に乱暴に巻き付いた。
「貴様は大人しく、私の中で朽ち果てろ!」
「ぐっ……、うっ……!」
幻影の道化の身体が、徐々に壁の内側へと沈んでいく。最早彼には、抵抗する力も残っていないようだ。
「幻影の道化!」
巧は叫んで駆け出し、それに暁奈も続こうとした。
だが幻影の道化は、沈んでいく身体から右手を伸ばして、二人を制するように言う。
「ボクの、事は……、気にしないで。思う存分……、暴れて、やりなよ……。巧、暁奈」
「!」
届かないとわかっていても、巧は手を伸ばさずにはいられなかった。その右手は、虚しく空を掴む。
幻影の道化の姿は、すでにそこには無かった。
巧は俯いて、伸ばしていた右手をゆっくりと下ろした。
彼は最後に、巧と暁奈の事を名前で呼んだ。それはもう、彼自身がメシエの操り人形では無くなった事を現しているかのようだった。
「――ありがとう、幻影の道化さん」
自分の少し後ろで暁奈がお礼を言い、微かに鼻を啜るのが聴こえた。多分、その眼は少し濡れているに違いない。
「チィ、人形風情が余計な真似を……。まぁいい。抵抗するというのなら、キミたちを戦闘不能にして生贄にするだけの事だ。私がいる限り、キミたちはこの空間から逃げられないのだから」
メシエの言葉に反応するかのように、黒い壁のいたる所に波紋が生じ、無数の鎧の騎士たちが次々と飛び出してきた。遠慮も加減も無いと言わんばかりに、鎧の騎士の大群は、二人の視界を埋め尽くしていく。
「あんたがいる限り、か。だったら話は早いさ」
もう出来る事は一つだけ。遠慮も加減もいらないのは、こちらも同じだった。
巧と暁奈の身体が光に包まれる。そしてその光が治まる頃には、少年の右手には身の丈程の長剣が、少女の左手には弦の無い三日月形の弓が、それぞれ握られていた。
「――メシエ。俺たちは、あんたを倒して日常に帰る!」
開始の合図はただ一つ。
向かう相手は大多数。
巧と暁奈は戦う決意の宿る瞳で、強く前を見据えた。