Act.3 遭遇
暁奈はただ退屈していた。
高校に通い始めてから一カ月も経った頃。暁奈は日に日に、そう感じる事が多くなっていた。
学業や私生活に不満がある訳ではない。むしろその全てが上手く行っている。そう、上手く行っているからこそ、退屈だと感じずにはいられなかった。
変化のない日常に。刺激のない毎日に。
暁奈の通っている学校は、県下でも名の知れた進学校だが、校則はそれほど厳しくない。スカートの長さは指定されていないし、あまりにも派手な色でさえなければ、髪を染めるのも自由だ。現に暁奈も、少し短めの髪を胡桃色に染めている。
だが、彼女はその外見とは裏腹に、かなりの優等生だ。
私立朝倉高等学校において、暁奈は常に学年のトップクラスの成績を収めている。運動においてもその能力は高く、まさに文武両道だった。
性格の面にしても、彼女は明るく、人当たりもいい。おまけに外見も、黒真珠を思わせる大きな瞳が印象的な、端正な顔立ちをしている。その為学校内、特に同学年の間では、彼女はかなりの有名人だ。
例え性格や外見を差し引いても、学校内で暁奈の問題点を探すのは、恐らく無理だろう。
その事は本人も、ある程度自覚していた。
自覚して、退屈な日々を過ごしていた。
学業において競争相手がいないから、ではない。おもしろいと思える事がないから、という訳でもない。暁奈が感じている退屈とはそういう類の話ではない。
毎日が同じ事の繰り返し。変化しない日常こそが、彼女が感じている物の原因だった。
何か変化が起きてほしい。
それも並大抵の事ではなく、自分の心を惜し気もなく高揚させてくれるような、劇的な変化が。
暁奈はそう――、非日常に憧れを抱いていた。
ところが、そんな彼女の願いは、ある日突然叶えられる。
それは下校途中の事だった。
その日の帰り道、暁奈はたまたま一人だった。
友達と一緒に帰る時以外、暁奈は特に寄り道をしない。いつも使っている通学路を通って、まっすぐ家まで帰るのが彼女の常だ。
それは丁度、家と学校の中間辺りにある商店街を抜けて、住宅密集地へと繋がる道を歩いていた時だった。
暁奈は何かが割れるような音を聞いた。固い物を足で踏みつけて砕いているような、不思議な音。不審に思い、暁奈が周囲を見回している時だった。
暁奈から少し離れた所を歩いていた買い物帰りらしき中年の女性が、眼の前で突然消えた。何の比喩でもなく、文字通り消え去った。あまりに突然の事に、一瞬何が起きたのかわからなかった。
「え……、何あれ?」
そんな暁奈の眼に映ったのは、虚空に浮かぶ巨大な穴だった。まるで空間その物が裂けたかのように口を開けているそれは、どう見ても物理的にあり得ない物だった。
「まさか、さっきの人もあの中に?」
何の確証もなく、暁奈はそう感じた。
普通の人間なら、目の前に得体の知れない物が現れれば、少なからず恐怖を感じるだろう。
だがそれに目を奪われた瞬間、暁奈が感じたのは全く別の物だった。
鼓動が高鳴っている。ずっと待ち焦がれていた物が、願い続けていた物が、すぐそこにあると。間違いなくあれは非日常の現象だと。自分の心がそう言っている。
「――おもしろそうね」
大好きなおもちゃを買い与えられた子供のように、暁奈は満面の笑みを作る。そして何の躊躇いもなく駆け出した。自分を手招きしている非日常へと向かって。
暁奈の意識が途絶えたのは、その直後だった。
◆ ◆ ◆
時間を僅かだけ遡る。
朝倉市と言う街の、東の外れにある住宅街の中の一軒家。それが巧の住んでいる家だ。
放課後、特に何事もなく家に辿り着いた巧は、重たい脚を引きずるようにして家の中に入った。
「――ただいま」
巧は力なく吐き出すようにそう言って、玄関のドアを閉めた。間もなくして、セーラー服にエプロン姿の可愛らしい女の子が、「お帰り」と言って巧を出迎えた。
軽く癖の入った黒髪のロングヘアーに、青い花柄のヘアピンを付けている中学生くらいの少女。
彼女は巧の妹で、神藤和菜恵と言う。歳は巧の二つ下で、現在中学二年生だ。訳あって家を空ける事の多い母親に代わって家事全般をこなす、年の割にしっかりした子だ。兄妹の仲はよく、巧は和菜恵の事を『カナ』と呼んでいる。
帰ってくるなりげんなりした様子の兄を見て、笑みを含んで和菜恵が言う。
「どうしたの? お兄ちゃん、何かやけに疲れてない?」
「いやまぁ、色々あってな……」
今日自分に起きた出来事を正直に話す訳にもいかず、巧はやれやれと溜め息をついた。
あの後結局、学校に登校出来たのは午後の授業が始まった頃だった。
どこかで失くした鞄をやっとの思いで探し出し(鞄はなぜか、通学路の道路の脇にある茂みの中にあった)、肘や膝の辺りの布が擦り切れてしまった学生服を着替えるため、一旦家に戻った。
巧の両親は共働きで、父親の方は単身赴任中。母親の方も仕事が忙しく、昼間に家にいる事は滅多にない。そんな訳で、着替えに帰っても特に問題はなかった。
学校に着いてからは、担任への言い訳には「風邪を引いた妹の看病」で事足りたが、親友の高橋和真や友人たちにはその程度では誤魔化せず、別の言い訳を考えるのにかなり苦労した。
そういう経緯を経て、本日二回目の帰宅。正直疲労感が半端ではない。すぐにでもベッドに倒れ込んでしまいたい気分だ。
「どうする? ご飯作ってあるけど……」
おずおずと躊躇いがちに和菜恵は尋ねてくる。彼女の眼には今の巧がかなり疲れているように見えるらしい。まぁ実際その通りなのだが。
「ああ、うん、食べるよ。先にちょっと着替えてくるから。ありがとな、カナ」
「うん、わかった」
巧の言葉でわかりやすいぐらいに顔をパァっと輝かせる和菜恵は、パタパタとリビングの方へ駆けていく。その背中を見送った後、巧は自室のある二階へと向かった。
階段を上りながら巧はふと、あの世界での出来事を思い出した。
人の死を体験し、化物に追われ、化物と戦い、そして帰ってきた。今でもあれは夢だったのかと不思議に思う。そう思える程、巧の日常は何の変化も起こしていない。
だがそれでも考えてしまう。自分を現実世界へと送り返してくれたあの青年は、あの後どうなったのだろう、と。
彼は戦う力を持っていないと言っていた。もしそれが本当なら、彼は今頃――。
巧は自室の前に辿り着き、ドアを開けて中に入った。
「やぁ、お帰り」
そして盛大にずっこけた。
自分が使っているベッドでゆったりくつろいでいるのは、紛れもなく幻影の道化だった。
部屋を勝手に物色したのだろう。幻影の道化の周りには、本棚に綺麗に整頓してあったはずのマンガや雑誌が、これでもかと言う程散らかっていた。
巧はその中から一番分厚そうな本を一冊拾い上げ、それで幻影の道化の頭を思いっきり叩いた。
「何であんたがここにいるんだよ!? って言うか人の部屋で何勝手にくつろいでんだ!」
「痛いなぁ……。キミが帰ってくるのを待ってたんだよ」
頭を摩りながらベッドから降りる幻影の道化。当然悪びれる様子など微塵も感じられない。
「何が待ってただ、ったく……。大体どこから入ったんだよ?」
「それは企業秘密って奴だよ」
「別に知りたくて聞いたんじゃない」
やれやれと、巧は勉強机の椅子に腰掛ける。
その巧と話をするためなのだろう。勉強机の右隣にある、ベランダに出るために設置された長枠のガラス戸に、幻影の道化は背を預けた。
この青年がこうしてここに存在しているという事は、やはり今日起きた出来事は全て現実だったという事だ。
それがいい事なのか悪い事なのか、巧には判断出来なかった。
「……無事だったんだな。あの後どうしたんだ? 戦う力は持ってないんじゃなかったのか?」
先に口を開いたのは巧の方だった。意外にも、自分は幻影の道化の身を案じていたらしい。
幻影の道化の方もこれには意外だったようで、眼を丸くした後、いつもの軽い調子で口を開いた。
「別に、何も術がないとは言ってないよ。ただ二人でいた時よりも、一人でいた方が都合が良かったってだけの話さ」
「……?」
言葉の意味がわからず巧は訝しげな顔をした。それを気に留めず幻影の道化は続ける。
「キミは早く現実世界に戻りたいって感じだったし、あの数の災魔を相手にするのは、今のキミじゃ荷が重すぎる。――まぁ、お互い無事だったんだから、それで良しとしようじゃないか」
この話はこれで終わりとばかりに、幻影の道化は右手をひらひらと振ってみせる。
「それにしても、キミが僕の身を案じてくれてたとはね~。てっきり嫌われてるものとばかり思ってたのに」
そう言ってわかりやすくニコニコとされると非常にバツが悪い。別に照れ隠しのつもりはなかったが、巧は露骨に顔を逸らした。
「別に、好き嫌いの問題じゃない。あんたにはまだ、色々と聞きたい事があったからな」
心から心配していた、という訳ではないが、少なくとも気になっていたのは事実だ。
この男にはまだ聞きたい事、聞き切れていない事が色々とある。それを解消しないまま二度と会う事がなくなるなんて、それこそ耐えられそうにない。
椅子の背凭れから身体を離し、巧は手を組んで仮面の青年を真っ直ぐに見た。
「教えてくれよ。あんたは一体何者なんだ? あの空間、『鏡界』って一体何なんだ? 何であんな物が存在するんだ?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる巧に、幻影の道化はしばらく無言を貫いた。その顔にあの作り笑顔はなく、ただ無表情のまま巧を見つめ返している。
「……わかったよ。どうやら話さないと納得しないようだしね」
まるで自分の隠していた犯罪を自供する犯人のように、幻影の道化は肩をすくめて溜め息をついた。
「キミはさ、運命って言葉を信じるかい?」
「え……?」
急な話題の転換に、巧は付いていけなかった。怪訝な顔をしている巧の前を通り過ぎ、幻影の道化は再びベッドに腰掛ける。その表情は、どこか切なさが混じっているように見えた。
「ボクはね、運命って言葉を信じてるんだ。……いや、違うか。多分自分の身に起きた事を認めたくないから、運命って物のせいにして誤魔化してるんだろうな」
「……どういう意味だよ?」
言葉の意図が読み取れない。一体彼は、自分に何を伝えようとしているのか。
質問の答えを待っていると、幻影の道化が自嘲気味に笑ってみせた。その顔は、今までに見たどの笑みよりも、彼の内心を明確に表現しているように見えた。
「ボクはね、元はキミと同じ、『人間』だったんだよ」
「!」
巧は言葉自体には驚いたが、同時に少し納得のいかない部分があった。
確かに眼の前の青年は、自分の事を化物と同じだと言っていた。だがそれは言葉だけで、彼が化物染みた姿になったりした訳ではない。あの異様な空間に存在していた事は事実だが、見た目だって、最初外国人かと思った程、人間その物の姿をしている。
ならば今の言葉はどういう事なのか。
巧は冷静に、幻影の道化が言葉を紡ぐのを待った。
「ボクは昔、キミのように『鏡界』に飲み込まれた。そしてそこで、『災魔』に喰われたんだよ」
「! 喰われたって……」
それはつまり死んだという事。
化物に喰い殺された、という事。
ならば今目の前にいる青年は何なのか。
言葉を詰まらせる巧から、幻影の道化は視線を外した。何かを思い出すように、その薄藍色の瞳は虚空を見つめている。
「確かにボクはあの時死んだ……。自分でもその自覚がある。でもそれが全てじゃない。その後があるんだよ」
「後……?」
「『声』がね、聴こえたんだ。『災魔』に喰われた後、自分が死んだっていう自覚があるのに、なぜか意識だけははっきりとあった。その時聴こえてきたのは、誰かの『声』だった」
今でもはっきりと覚えている。あの時の出来事を。
幻影の道化の表情には、そんな心の声が映し出されているようだった。
『鏡界』に飲み込まれたあの日、幻影の道化は『災魔』に喰われて死んだ。死んだと思った。だがそれで終わりではなかった。
視界が消え、何一つ見えない暗闇の中で、幻影の道化は『声』を聴いた。遠く木霊す雷鳴のような、重みのある深い『声』。それは彼の耳に聴こえた物か、それとも脳に直接響いた物か。
「現実世界から隔絶された、愚かで哀れな子羊よ。お前に役割を与えてやろう」
声の主はそう言って、幻影の道化を嘲笑うかのように、拒否する時間を与えなかった。
「これは盟約。これからお前は、この『鏡界』の住人であり、案内人となる。これから訪れるであろう子羊どもの、導き手となるのだ。今この瞬間から、お前の新たな名は――」
「幻影の道化。それがボクに与えられた名前だった」
自分に身に起きた出来事を語り終えた幻影の道化は、腰掛けていたベッドから立ち上がり、再びガラス戸の前に立って外の風景に目を向ける。
外は夕日に照らされ、何もかもが橙色に染められている。その眼は多分、何かを見つめている訳ではないのだろうなと、巧は思った。
「あの日、『鏡界』の案内人となった瞬間から、ボクは自分の過去を思い出す事ができない。……自分の本当の名前も、歳も、どこに住んで、どんな人生を送っていたのかも、もう何も思い出せない」
そう語る幻影の道化の背中は、見ている者の胸を締め付ける程、とても悲しげに見えた。
しばらく二人の間に沈黙が下りた。それを巧は、ゆっくりと打ち破る。
「じゃあ、あんたにもわからないのか? 『鏡界』がなんなのかとか、何のために存在してるのか、とか」
「残念ながらね。あの空間に関する知識は、案内人になると同時に頭に溢れ返ってきたけど、肝心な部分についてはわからないままだ。……あの『声』の主が誰なのかって事もね」
青年の伏し目がちな表情が、窓ガラスに映り込んでいる。その顔が、嘘や隠し事をしてはいないと語っているようだった。
謎が一つ解明されたかと思えば、また新たに謎が芽吹く。このままでは埒が明かない。
少し気分を変えるため、巧は違った質問をしてみる事にした。
「そういえば、俺の事何でも知ってるって言ってたけど、あれはどうしてなんだ?」
話題を変更した事で、幻影の道化も一段落ついたと認識したのだろう。巧の方へ振り返り、またニコニコとした顔で話し始める。
「あれは案内人であるボクの能力でね。『鏡界』内に落ちてきた人間の記憶を、覗く事ができるんだ。試しにキミの子供の頃の失敗談を話して見せようか? キミは小学校五年生の時に――」
「わかった、もういい」
有無を言わさず会話を断ち切る巧。小学校で、しかも五年生の頃の失敗談と言えば、思い当たる物は一つしかない。
古傷を抉られたような気分を変えるため、巧はもう一つ問い掛ける。
「さっき『鏡界』の住人って言ってたけど、今ここにいるって事は、現実世界に出て来られるのか?」
話題を黙殺された事に多少の不満を感じている様子だが、幻影の道化は軽い調子で答える。
「ああ、今ここにいるボクは『本体』じゃないよ。『思念』だけを飛ばしてキミの前に映してるだけだ」
「そうなのか? じゃあやっぱり現実の世界には――」
「うん、出られないよ。それに出られたとしても、ボクの姿や声は、キミみたいに『力』に目覚めた人間にしか見えないし聴こえないはずだから。この『思念』もね」
軽い気持ちで聞いた事が意外と重要な事だったので、巧は少々驚いた。
すると突然、何かに気が付いたように幻影の道化が顔を上げた。その眼は何もない虚空を見つめている。
「? どうした?」
「いや、ごめんよ。どうもお客さんが来たらしい」
「え?」
何の事かわからず巧が首を傾げた時だった。
部屋のドアが外から数回ノックされた。そのすぐ後に、聴き慣れた和菜恵の声が聴こえてくる。
「お兄ちゃん、何してるの? 早くしないと晩御飯冷めちゃうよ?」
「あ、ああ。悪い、すぐ行く」
幻影の道化との会話を聞かれていたのかと焦ったが、和菜恵は声だけ掛けると、また階下に降りて行ったようだ。
フゥと巧は息を吐く。
まぁさっきの話が本当なら、幻影の道化の声は和菜恵には聴こえていないはずだと巧は思った。だがよく考えてみるとそれは、自分が独り言を言っている怪しい奴、と思われる可能性を大いに含んでいる。
聴かれてない事を祈るばかりだと巧がドアから視線を戻すと、今まで目の前にいたはずの青年の姿がどこにもない。
「あれ? いつの間に……」
和菜恵が来るのに気付いて消えたんだろうな、と勝手に結論付け、ベッドに散らかされたままのマンガや雑誌を本棚に戻し、Tシャツとジーンズに着替えて、巧は部屋を後にした。
幻影の道化が消えた理由。
自分の予想が全くの勘違いだった事を巧が知るのは、もっと後になってからの事だった。
◆ ◆ ◆
暁奈が眼を覚ますと、そこにはおかしな光景が広がっていた。
夕焼けの色ではない、紅黒い色に染められた空。朽ち果てて廃墟となってしまった見覚えのない街並み。そして――。
「こんばんわ。愚かで哀れな子羊さん」
目の前に立っていたのは、童話やおとぎ話に出てきそうな西洋風の服の上から、身長とほぼ同じ長さの黒いマントを着て、顔の左半分にだけピエロのメイクをした仮面を付けている、銀髪に薄藍色の瞳をした青年だった。
だが暁奈は、大して驚いた様子も見せず青年に問う。
「あなた、誰?」
「ボク? ボクはこの世界の案内人、幻影の道化だよ。よろしくね、水嶋暁奈さん」
「!」
暁奈もさすがにこれには驚いた。青年はなぜか自分の名前を知っている。それだけで充分おもしろかった。
「スゴイ! 私の名前を知ってるなんて!」
嬉しそうなその反応を見て、幻影の道化はキョトンとしている。なぜそんな反応ができるのか、と言いたげな顔だ。
「……驚かないのかい?」
しばらく間を空けてから幻影の道化はそう尋ねてきた。それでも暁奈の反応は変わらない。
「驚いてるわよ? だからスゴイって言ったんじゃない」
「……」
さっきからどうも、目の前の青年は自分の事を不思議そうに観察している。何かおかしな事を言っただろうかと考えてみたが、暁奈には思い当たる節がない。
「どうかしたの?」
考えても理由がわからなかったので、とりあえず幻影の道化に尋ねてみる。すると返ってきたのは意外な言葉だった。
「キミ、随分と変わってるね。非日常の世界に憧れてるなんてさ」
「!」
今までの会話だけで、幻影の道化は暁奈の心の内にある物を見抜いていた。正直驚いたが、それでも暁奈は嬉しそうに明るく笑う。
「あなたって凄いのね。ちょっと会話しただけでそこまで見抜いちゃうなんて」
「それだけが取り柄みたいなもんだからね」
自嘲気味に肩をすくめる青年を見て、暁奈はクスッと微笑する。なんだか妙におどけていて、まさしく『道化』という感じだなぁと思った。
「ねぇ、幻影の道化さん。ここは本当に非日常の世界なの?」
暁奈は改めて尋ねた。
答えを聞かなくても、暁奈にはここが非日常の世界だという確信に近い物があった。間違いなく現実だという自覚もある。
それでも幻影の道化に尋ねたのは、自分がまだ、日常から抜け出せていないんじゃないかという不安が、心のどこかに残っていたからだ。
だが幻影の道化は、そんな暁奈の不安をニコニコとした笑顔で打ち払う。
「そうだよ。ここは『鏡界』と言って、キミがいた現実の世界とは違う、別の世界だ。そんなに心配しなくても、ここはキミが望んでいる通りの世界だよ」
その言葉を聴けただけで充分だった。本当に嬉しそうに、暁奈は眼を輝かせながら幻影の道化に頭を下げた。
「私をこの世界に呼んでくれてありがとう、幻影の道化さん! 嬉しくてたまらないわ!」
あの虚空に開いた穴に飛び込む時、暁奈はこの世界が自分を手招きして呼んでいるように感じた。それはもしかしたら、この青年が自分を呼んでくれていたからなんじゃないか。
そう考えるだけで、暁奈の胸は次第に高鳴っていく。
劇的な変化が訪れた、と。
「フッ――」
「!」
そんな暁奈の気分に水を注すかのように、突然目の前の青年が右手で自分の顔を覆った。よく見ると、身体が微かに震えている。
それが笑いを押し殺そうとしている動作だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「アハハハハハハ!」
ついに耐えきれなくなったのか、幻影の道化は身体を揺らして高らかに笑い始めた。
だが暁奈には、それがなぜなのかわからない。何がそんなに面白いのだろうか?
「全く……、同じ人間同士でここまで違うとはね、フフ」
笑いを含みながら何かを言った気がしたが、暁奈にはハッキリと聴き取れなかった。
「どうしたの? 何がそんなに――」
「キミは異常だよ」
「!」
何の脈絡もなく突然そんな事を言われた。異常? 自分が?
「さっき変わってるねってキミに言ったけど、どうやらあれは間違いだ。そんなレベルの話じゃない。キミの非日常に対する憧れは、最早心酔に値する物だよ」
そう言われて暁奈は初めて疑問を感じた。自分は異常なのか、と。
今まで考えた事もなかった。確かに、自分は他の人間と違って非日常に憧れている。
でもそれだけだ。
勉強にしたって運動にしたって、自分が他の者と比べられない程の能力を持っていると思った事はない。自分は考え方は違うが、他の部分は大多数の人間と変わらないと、そう思っていた。
だが幻影の道化は言った。
キミは異常だと。キミの思いは憧れではなく心酔だと。
暁奈はこの時初めて、自分が他の人間とは根本的に違いがあるんだと認識した。自分は変わってるんじゃない、異常なんだ、と。
「一体何がそこまでキミを駆り立てているのかな? 実に興味深い限りだよ」
暁奈の様子を眺める幻影の道化の表情は、身も凍るような冷たい笑顔だった。
「そんな『異常』なキミに、いい物を見せてあげるよ。付いておいで」
背を向けて歩き出す幻影の道化に暁奈は尋ねる。
「どこに行くつもりなの?」
「それは着いてからのお楽しみ」
振り向いた青年の顔は、元のニコニコとした笑顔に戻っていた。
◆ ◆ ◆
神藤家の夕飯は大抵、巧と和菜恵の二人だけで取る事が多い。
父親は単身赴任中で母親は多忙で家を空ける事が多い、という絵に描いたような共働きの家庭。
最後に一家四人で食卓を囲んだのは一体いつの事だったか。そんな事をぼんやりと考えながら、巧は和菜恵と向かい合って座り、箸を進めていた。
テーブルの傍に置かれた薄型のテレビからは、夕方のニュース番組が流れている。それをなんとなく見ながら夕飯のおかずの唐揚げを頬張っていた巧は、ふと視線を感じて向き直る。
向かい側の椅子に座っている和菜恵が、白米の入った茶碗と箸を持ったまま、穴が開く程巧の事を見つめていた。何か不満そうな顔をしている。
「な……、何だよ?」
別に大してやましい事がある訳でもないのに、自然と言葉が吃ってしまう。和菜恵に不満そうな顔をされると、なぜかいつもそうなってしまうのだ。
「お兄ちゃん、さっき部屋で誰と何話してたの?」
「……!」
やはり聴かれていたか、と思い、巧は少々焦る。
だが『誰』と『何を』という事は、会話の相手や詳しい内容までは伝わっていないようだ。どうやら幻影の道化が言っていた事は本当らしい。
「何だよ、聴き耳立ててたのか?」
「ち、違うもん!」
悪戯っぽく言うと和菜恵はすぐに反論してきた。頬の辺りがちょっとだけ紅い。
「お兄ちゃんが中々降りて来ないから呼びに行ったら、部屋からお兄ちゃんの声だけ聴こえて気になっただけだもん」
「ああ、そっか……」
巧はわざとらしく、テーブルの上の麦茶が入ったコップを掴んで口に運ぶ。さて、どう言い訳した物か。
(何か今日は言い訳を考えてばっかりだな)
学校での経緯を思い出してげんなりする。
不毛な事に脳味噌を使う余裕があるなら、少しでも自分の偏差値を上げる事を考えろ、という数学の担当教師の言葉が頭に浮かんだ。
しかしこの場合は別だろうと、巧は内心で意味のない弁明をする。
まさか本当の事を話す訳にもいくまい。信じてもらえないばかりか、下手をすれば病院送り、なんてバカみたいな展開もあるかもしれない。身内だからこそより一層の注意が必要、という物だ。
巧は麦茶を飲み干すと、コップをテーブルに置いて和菜恵の方を見た。
「あれだよ、ホラ、携帯電話。携帯に和真から電話が掛かってきてさ。ちょっと長話してたんだ」
「高橋先輩と?」
親友の高橋和真とは長い付き合いで、和菜恵も和真とは面識がある。和菜恵も昔は『和真くん』と呼んで親しげにしていたが、中学に入ってからは礼儀として『高橋先輩』と呼ぶようになった。
和真がそれを若干寂しがっている、というのは本人の強い希望で和菜恵には教えていない。
「そういう事。決してお前の兄貴は、ブツブツ独り言をしゃべっているような人間じゃないから、安心しろ」
「心配しなくても、そうなった時はいいお医者さん紹介してあげる。クラスの友達のお父さんが、そういう専門のお医者さんらしいから」
「どういう意味だよ」
そんな事を言い合って、結局最後は二人とも噴き出してしまった。
二人だけの夕飯も、こういう雰囲気なら悪くない。会話が弾めば楽しい物だ。
「――では次のニュースです」
しばらく笑っていた巧は、テレビから聴こえたその声に何気なく耳を傾けた。
「今日午前八時十分頃、朝倉市東部の路上で通勤中の会社員、桑名佳文さん三十六歳が、軽自動車に引かれて死亡するという事故が発生しました。事故現場となったのは――」
午前八時十分という時間が気になって、巧はテレビの方に目を向けた。
そしてそこに映っていた事故現場の映像を見て愕然とする。
映像の左下に出ていた顔写真は、巧と共に鏡界に飲み込まれたあのサラリーマン風の男性だった。
「な……」
しかも事故現場とされているのは、巧が『鏡界』に飲み込まれたあの横断歩道のある場所だった。
(どういう事だ!?)
巧は辛うじて、その言葉を声には出さずに飲み込む事が出来た。
訳がわからない。あの男性は確かに自分と共に『鏡界』に飲み込まれ、そして『災魔』に喰われた。現実世界には存在しない化物に喰い殺されたのだ。交通事故などという、現実的な理由ではない。しかもその遺体が、なぜ現実世界に出てきているのか。
(これも、あの『鏡界』が関係してる事なのか?)
疑問に思いつつも、巧には確信に近い物があった。
無関係なはずがない。こんなあり得ない現象が起きているのだから。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
和菜恵に声を掛けられ、巧は我に返った。和菜恵は巧と同じようにテレビのニュースに目を向け、驚いた表情になる。
「ここ、お兄ちゃんが通学に使ってる道じゃない。ひょっとしてお兄ちゃん、事故を目撃したの?」
「あ、いや……、違うよ。今日はたまたま違う道を通ったから知らなかったんだ。ホント、ビックリだよな」
多分自分は今、とても焦った顔をしているんだろうなと巧は思った。完全に動揺している。和菜恵を誤魔化しきれたという自信もない。現に和菜恵は、不思議そうな顔をして巧の顔を見つめている。
(ダメだ、落ち着け。落ち着くんだ)
そう内心で言い聞かせても、心臓の鼓動は一向に治まりそうにない。
聞かなければと思った。幻影の道化なら、必ず何か知っているに違いない。
その後とりあえず夕飯を平らげ、巧は自室へと急いだ。
普段なら食器の片付けを和菜恵と一緒に行うのだが、今日だけは和菜恵に頼み込んで任せる事にした。
今は一刻も早く真相を確かめる必要がある。
「やぁ、夕飯はおいしかったかい?」
ある程度予想して自室のドアを開けると、幻影の道化は勉強机の角に浅く腰を掛けていた。
「どういう事か説明しろよ」
ドアを閉めると同時に、開口一番で巧は言った。語気が若干荒くなっている。
「怖い顔だな。何があったんだい? 突然説明しろって言われても何の事かわからないよ。先に説明するべきなのは、キミの方なんじゃないかな?」
「……ッ」
苛立ち紛れに幻影の道化を睨んでみたが、確かに言い分は向こうの方が正しい。
巧は落ち着いて、順を追って説明した。
「――なるほどね」
話を聞き終えた幻影の道化は軽い調子でそう答えた。
「そういえばその辺りの事については話してなかったね。気を悪くしないでくれよ。別に隠していたつもりはないんだ。話せるタイミングがなかっただけで――」
「前置きはいいからさっさと教えてくれ」
巧の言葉には一切容赦がなかった。今は、彼の軽い調子に合わせる余裕がないのだ。
幻影の道化は表情を消すと、淡々と語り始めた。
「『鏡界』内で死んだ人間は、『異物』として現実世界に放り出されるんだ。その際、その人間の『死』という物の原因や経緯が、事実とは異なる形で現実世界に認知される。……今回の場合は、それが偶々交通事故だった、という事だよ。場合によっては事件になったり、病死になったりもする」
「何で、そんな事になるんだ?」
「『鏡界』という『非日常』の存在は、現実世界にとって『あってはならない』存在なんだ。その存在が現実世界に正しく認知されてしまうと、双方の世界が『融合』を起こしてしまう。それを防ぐために『存在の隠蔽』が行われているんだ。……それと同様に、自力であの空間から抜け出せた者がいたとしても、その人物の記憶からは、『鏡界内で起こった全ての事象』が消去される。つまり、何も覚えていない、という事になるのさ。尤も、キミのように『力』に目覚めている者は別だけどね」
現実世界に存在を認知されないために、『鏡界』は生き残った者にも死んだ者にも影響を与える。それは等しく改竄と呼べる行為だ。
だが巧には疑問が残る。そもそもそんな危惧を抱き、死因や記憶の改竄を行っているのは誰なのか、と。
「それはあんた自身がやってる事じゃないんだよな?」
「違う……、と言っても信じてもらえないだろうけどね。ボクはただ、知識としてそれを知っているだけで、誰が行っているのかまではわからない」
「……」
あの空間には、幻影の道化すらも知らない何かが潜んでいるとでも言うのか。
もしそうだとしても、それを確かめるためには、再び『鏡界』へ足を踏み入れるしかない。
逡巡するのもそこそこに、巧は顔を上げる。
「幻影の道化。もう一度俺を『鏡界』へ連れて行ってくれ」
「……いいのかい? キミはもう日常に戻ったんだ。これ以上関わる必要なんてないんだよ?」
自分の身を案じているから質問しているんじゃないと、巧にはわかっていた。
思えば『鏡界』の中でも似たような事があった。あの時も、幻影の道化はただ事実だけを告げていた。
それと同じだ。そこには何の感情も意図もない。あるのはただ、厳然たる事実だけ。それでも巧は答える。
「確かにそうだけど、あの空間が存在する限り、同じ事がまた何度でも起きる。それを見て見ぬふりするなんて、俺にはできない。そんなのは、俺の求めてる日常じゃない」
真っ直ぐに幻影の道化を見つめる巧の瞳には、強い意志の光が宿っている。今度は自分から、非日常へ足を踏み入れる。今の巧に迷いは一切ない。
「わかった。じゃあ案内するよ」
そう言って立ち上がった幻影の道化は、ふと思い出したように告げる。
「――ああ、そういえば忘れる所だった」
「? 何だよ?」
「『鏡界』に、また別の人間が落ちたから」
「!?」
今更になっての報告に、巧はただ言葉を失うしかなかった。
◆ ◆ ◆
暁奈は目の前の光景に絶句した。
化物が、人間を喰らっている。
彼の、幻影の道化の見せたかった物とは、これの事だったのか。
『鏡界』という名の紅黒い空の下、ゴーストタウンのような廃墟の街を歩き続け、辿り着いたのは朽ち果てたオフィスビルや雑居ビルが立ち並ぶ、片側二車線の交差点。
その交差点付近に辿り着いた時、前方の交差点中央で中年の女性が、今まさに化物に襲われそうになっていた。
あの中年の女性は、さっき自分が見かけた女性だ。
とっさに助けなければと走り出そうとした暁奈の二の腕を、幻影の道化が力強く掴んだ。まるで助けに行こうとする暁奈を遮るかのように。
「放して! あの人を助けなきゃ!」
「あの化物は『災魔』と言ってね。この空間に落ちてきた人間を喰らおうとするんだ」
「そうじゃなくて、あの人を助けないと――」
「助ける? 無理だよ。キミみたいなただの人間がどうにかできる相手じゃない」
「!?」
暁奈は自分の耳を疑った。この青年には、今の状況が理解できていないのか。
「それに、キミがあの人間を助ける事に何の意味があるんだい? キミは非日常を望んでたんだろう?」
「それは――」
確かにそうだ。自分は非日常の世界に憧れていたし、望んでいた。
だがこんなのは話が別だ。自分はただ変化を望んでいただけで、決して人の死を望んでいた訳ではない。
暁奈は幻影の道化の腕を振り払おうと、必死に抵抗する。
だが、すでに遅かった。
グシャッという生肉を引き裂いたような音が聴こえて振り向くと、そこにはもう女性の姿はなかった。
そこにあったのは、大量の紅い液体と、原形を留めていない肉片だけだった。
「――ッ」
暁奈は視線を逸らし、両目を固く瞑った。
なぜこんな事になったのか。何がいけなかったのか。そんな後悔の念ばかりが胸中を駆け巡る。
瞳を閉じた暗闇の中で、幻影の道化が自分の腕をようやく離すのがわかった。それでもまだ、暁奈は眼を開ける事ができない。
「都合がいい物だね。そうやって見て見ぬふりをするのかい?」
青年の声で、暁奈はようやく目を開けた。
だが正面を向く勇気はない。幻影の道化の顔を見る余裕もない。顔を逸らしたままの暁奈に、青年は淡々と続ける。
「非日常とはこういう物なんだよ。それまで当たり前のように続いていた日常が、ある日突然狂わされる。人の『死』という物は、それの最たる物だろう。それが別の者によって齎された『死』なら尚更ね」
「でも私は――」
「こんな事を望んでいた訳じゃないって? それはそうだろう。あの人間の『死』が、キミの責任という訳じゃない。責任と言うなら、助けに入ろうとしたキミを止めたボクにある。だけどせめて、現実を受け入れる事ぐらいしたらどうだい? キミは自分から望んで、非日常に足を踏み入れたんだから」
「……」
暁奈は黙ったまま顔を上げた。眼の前には、血に染まる光景と、異形の化物が佇んでいる。
「私は――」
「グアアアアッ」
何かを言おうとした暁奈の声は、化物の雄叫びによって掻き消された。すでに化物は、暁奈の存在に気付いている。
「ボクは逃げた方がいいと思うよ。キミは人間、あっちは化物だ。敵うはずがない」
「それでもいい。今の私は、逃げちゃいけない所にいる」
そう言って暁奈は、目の前の化物『災魔』を強く見据えた。
眼を背ける訳にはいかなかった。
◆ ◆ ◆
夕日が沈み、辺りはすっかり暗闇に包まれている。その闇を照らす街頭の明かりの下、巧は風のように疾走していた。
「ちょっと出掛けてくる」
キッチンで洗い物をしている和菜恵にそう告げたのは、ほんの十分程前の事だ。
「え、今から? 何しに行くの?」
当然のように和菜恵は振り向いて尋ねてくる。巧は快活な笑顔を見せてそれに答えた。
「和真からの呼び出しだよ。帰りは何時になるかわからないから、戸締りして先に寝てていいぞ。じゃあな」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん?」
呼び止めようとする和菜恵を振り切って、巧は家を飛び出した。
我ながらこの急いでいる状況で、よくあんな作り笑顔を引っ張り出せたものだなと思う。その辺り、幻影の道化から影響を受け始めているのかも知れない。……あまりいい影響とは言えないが。
「可愛い妹さんだね」
横合いから聴こえた幻影の道化の言葉を巧は無視する。
今見えている幻影の道化は、『思念』という言葉通り、身体が少し宙に浮いた状態で、疾走する巧の横を付いて来ている。巧自身、霊の類は見た事がないが、浮遊霊とは多分こんな感じなのだろうなと思う。
「それよりも、『鏡界』に落ちた人間がいるって、何でもっと早く教えなかったんだ」
巧は今になって思う。和菜恵が自分の事を部屋まで呼びに来た時、彼が言った「お客さん」とは和菜恵の事ではなく、『鏡界』に落ちた人間の事だったのか、と。
幻影の道化によれば、『本体』は『鏡界』から出る事ができない。ならばその『本体』が、『鏡界』内で新たな人間に遭遇したという事なのだろう。だからあの時突然、『思念』は姿を消したのだ。恐らく、その人間に意識を集中させるために。
「あの時はキミの方も、妹さんの登場で慌ててたみたいだったからねぇ。話を続けない方がいいかと思ったんだよ」
肩をすくめる青年の表情には、反省の色が見られない。
この男は本当に何を考えているのだろう?
何回目になるかわからないそんな疑問を、巧は頭を振って消し去る。
「それに、心配しなくても彼女は無事さ。まだ怪我一つしてないから」
「彼女? 今度は女の人なのか。……って言うかちょっと待て。『まだ』って事は、これからするかもしれない状況にいるって事か?」
「さすが。理解が早いね」
「感心してる場合か!」
呆れたように言うと、巧はさらに走る速度を速めた。
今巧が向かっている場所は、自分が『鏡界』の入口に遭遇した横断歩道のある場所ではない。そことは全く別の場所に、新たな『鏡界』の入口が出現しているのだ。
家を出る前、幻影の道化が告げた『鏡界』の性質。
それによると、一度『鏡界』を抜け出してその空間に人間が一人もいなくなると、自動的にその空間は消滅してしまう。そしてまた、現実世界の新たな場所に、『鏡界』の入口が姿を現すそうだ。新たに落ちた女性は、その入口から『鏡界』に入ったらしい。
新たに生まれた『鏡界』の入口は、巧が通っている学校から程近い場所にある商店街を抜けて、住宅密集地へと繋がる道のどこかにあるらしい。幸運にも、巧はその辺りの地理にも詳しかった。
速度を速め、走る事さらに十分。程なくして道の真ん中に浮かぶ、巨大な穴を見つける事ができた。その場所は街頭に照らされていないにも関わらず、巧にはその穴の存在をハッキリと視認する事ができた。
「ここだな」
巧は乱れた息を整えながら穴の方を見た。穴の存在自体を視認する事はできても、相変わらず穴の内部まで見通す事はできない。
「じゃあ、ボクは先に行ってるよ。早く彼女を見つけてあげてね」
「お、おい! ここからは道案内無しなのか?」
幻影の道化は言葉を聞かずに煙のように消え去った。
「くそっ!」
吐き捨てるように叫ぶと、巧は穴の方へと足早に踏み出す。
その直後、巧の視界は暗転した。
◆ ◆ ◆
暁奈の目の前にいる『災魔』は、まるで巨大な食虫植物のようだ。
だがこの場合、食虫ではなく食人の方が正しい。
全身に黒い斑模様があり、二足歩行だが、足は木の根のように、不規則な方向に生えてその巨体を支えている。腕と呼べる部分には、巨大な蔦が二本ずつあり、顔と呼べる部分には、朱色と黄色のグラデーションをした、毒々しい巨大な花があり、花の中心にある空洞の周りには、大小様々な形の牙がびっしりと並んでいる。
「グオオオオッ」
牙がびっしりと並んだ空洞から、『災魔』の雄叫びが響く。眼と呼べる部分は見当たらないが、確実に暁奈を標的に定め、徐々にこちらに詰め寄ってくる。
「――逃げられないし、逃げたくない。だから、戦う!」
そう叫んだ瞬間、暁奈の周囲に光が満ち溢れた。その光は暁奈の胸元に集束し、徐々に形を成していく。
「これは……?」
「やっぱりね。なぜかそんな気がしたよ」
驚く暁奈の少し後ろで、幻影の道化がそんな事を言った。自分自身に起きている現象から目が離せない暁奈は、振り返らないままその声に耳を傾ける。
「それは『災魔』を倒すための力、『心羅』だよ。心の力を具現化した、キミの特別な力だ」
「『心羅』?」
幻影の道化が語り終えると同時に、光の集束が治まった。
そこに形を成したのは、銀色の弓だった。半月を描くその弓には弦が存在しない。持ち手部分のみが存在し、その持ち手のやや上部に、牡丹色の玉が埋め込まれている。
暁奈は意を決してその弓を左手で掴んだ。その左手に右手を添え、弓を引く動作に持っていく。
すると不思議な事に、存在していなかった弦と矢が、牡丹色の淡い光を放って出現した。
そしてそのまま、暁奈は牡丹色に輝く矢を放つ。
「はっ!」
放たれた光の矢は、真っ直ぐ『災魔』へと向かって行く。
『災魔』はその矢を叩き落そうと、右手の巨大な蔦を振り上げ、一気に振り下ろした。
巨大な蔦が放たれた光の矢に触れた瞬間、その矢が牡丹色の爆発を起こした。
「ギャアアアッ!」
爆発を受けた『災魔』の巨大な蔦は、中間辺りから先が破裂したように吹き飛んでいた。その部分には黒く焦げ付いた跡があった。
暁奈は第二射を構え、そして躊躇う事なく放つ。
光の矢が、今度は『災魔』の右足の部分に命中する。その瞬間光の矢は炸裂し、爆発を起こす。片方の足が吹き飛んだ事で支えを失った『災魔』の身体は、轟音を響かせてコンクリートの地面に倒れ込んだ。
それを皮切りに、暁奈は続け様に三発の光の矢を『災魔』身体に叩き込んだ。身体のあちこちに光の矢の爆撃を受け、『災魔』の身体は消滅の危機に瀕している。
「グ、アアァァッ」
それでも尚、身体を引きずり起こそうとした『災魔』の顔部分の中心、牙が並んだ空洞の中目掛けて、暁奈は止めとばかりに光の矢を射ち込んだ。
空洞の内部で牙にでも触れたのだろう。身体の内側で起きた爆発の衝撃で、『災魔』の身体は文字通り破裂した。飛び散った『災魔』の破片が、少しずつ灰になっていく。
それを終わりと感じ、暁奈は構えを解いた。
少し緊張していたのか、額の辺りが汗で湿っている。それを右手で軽く拭って、暁奈は幻影の道化に視線を向けた。
「おめでとう。これでキミも特別な力を持った人間の一人になった訳だ。これで思う存分、非日常の世界を楽しむ事ができるんじゃないかい?」
「キミも……?」
ただその一点が気になった。その言い方だとまるで、自分の他にも力を持った人間がいるみたいに聴こえる。
暁奈の表情でそれを察したのだろう。幻影の道化がニコニコとした顔で言ってくる。
「気付いたみたいだね。その通り。『心羅』の力に目覚めているのは、キミだけじゃない。もう一人いるんだよ」
その言葉を証明するかのように、暁奈の耳に何者かの走る足音が聴こえてきた。それは『災魔』の物とは違う、人間らしい足音だった。
暁奈はゆっくりと、足音が近づいてくる方向に視線を向ける。
そして驚いた。その人物は、自分と同じ年代ぐらいに見える少年だった。向こうも酷く、驚いたような表情をしている。
「あなた、誰……?」
暁奈がそう問い掛けた人物は紛れもなく、神藤巧その人だった。




