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Act.1 出現


 眩しい朝日の中、紺の学生服に身を包んだ黒髪の少年は、ゆっくりと通りを歩いていた。

 彼の名は神藤巧。どことなく落ち着いた雰囲気を漂わせる、前髪が少しだけ左に長い髪形をした彼は、つい先月高校に入学したばかりの、言わば新入生だ。

 歩道の整備された通学路には、巧の他にも通勤を急ぐサラリーマンや、他校の学生の姿が見られる。

 春の温かい陽光を浴びながら、巧は左手の腕時計に目を向ける。デジタルの時計に表示されている時刻は、午前八時十分。始業のベルが鳴るまでにはまだ若干余裕がある。

(この春から高校に通い始めて、もう一ヵ月か。早いなぁ……)

 腕時計に表示されている日付を見て、ぼんやりとそんな事を思った。

 何事もない、平凡な日常。それは巧が一番大事にしたいと思っている事だ。家族や友達と楽しく過ごして、今はいないけれど彼女だって作りたい。そんな当たり前な日常を過ごしていけるんだろうなと、そう思っていた。


 少なくとも、この瞬間までは――。


 それは横断歩道で信号待ちをしている時だった。

 パキッ。

「……?」

 ふいに、何か固い物が割れるような音が聴こえた気がして、巧は後ろを振り向いた。だが特に目立った物は何もない。巧と同じように信号待ちをしている茶色いスーツを着たサラリーマン風の男性がいるだけだ。

(気のせいかな?)

 そう思って再び前を向こうとしたその時。

 パキッ。パキキッ。

 また同じような音が聴こえた。しかもさっきより、音が大きくなっている。

「何だ? この音、一体どこから――」

 パキパキッ。パキパキパキパキッ。

 連鎖するに連れて大きくなっていく謎の音。さすがに不審に思ったのか、サラリーマン風の男性もキョロキョロと辺りを見回している。と、その時だった。

 バキンッ。

 明らかに、何かが完全に割れた音がした。その音源を探して、巧が何気なく頭上に目を向けると――。

「……え?」

 そこには何もないはずだった。正確に言えば、遥か上空にある青空が見えるはずだった。だがそこにあったのは、虚空に浮かぶ巨大な穴だった。まるで洞窟の入口が宙に浮いているかのように見える。ぽっかりと開いた穴の内部は暗く、はっきりと見通す事が出来ない。そしてその穴の周囲には、無数の亀裂が入っている。

「なっ、何だよこれ……!?」

 驚愕する巧の視界の中。穴の奥の暗がりで、何かが動いているように見えた。

(! 穴の奥に何か――)

 そこで唐突に、巧の意識は途切れた。




 ◆  ◆  ◆




「……ん」

 頬に何か温かい物が触れた感触がして、巧はゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした頭で、自分が今地面に横になっている事に気付いた。

「あれ? 俺、どうして……」

「目が覚めたかい?」

「え……?」

 意識が徐々にハッキリとしてくる。体を起こしながら声のした方を見て、巧はポカンとなった。

 おかしな格好をした青年が、ニコニコしながらこっちを見ている。

 童話やおとぎ話に出てきそうな西洋風の服の上から、身長とほぼ同じ長さの黒いマントを着て、顔の左半分にだけ、ピエロのメイクをした仮面を付けている。薄藍色の瞳に銀髪という容姿から、一瞬外国人かと思ったが、先程聴いたのは確かに日本語だった。あるいは何かのコスプレなのかとも思ったが、生憎そんな催しは巧の住んでいる街では行われていない。

 呆けている巧を意に介した様子もなく、青年は楽しそうに話し始める。

「それにしても久しぶりだなぁ――」

 青年の姿に気を取られていた巧は、


「ここに人間が落ちてくるなんて」


 その台詞を聞き逃す所だった。

「え?」

 今この青年は何と言った? 青年の言葉に巧は一瞬固まった。

(今の台詞だと、まるで自分が人間じゃないみたいな――)

 青年はニコニコしながら巧の顔を覗き込み、

「ようこそ。愚かで哀れな子羊さん」

 そんな台詞を口にした。

 言葉の意味がわからず首を傾げそうになった時、巧は唐突に思った。


(ここはどこだ!?)


 巧は辺りを見回した。

 人がいないどころか、人の気配すら感じない。

 自分の周囲にあるのは見覚えのない住宅街のような場所。歩道沿いに植えられた木々は枯れ果て、立ち並んでいる建物は、窓が割れ、屋根は崩れ、コンクリート製の壁にはヒビが入り、とても人が住めるような状態ではない。どの建物を見ても、皆同じように朽ち果てていた。

 確実に、さっきまで自分が立っていた場所ではない。ならばここは一体どこなのか。

 巧は茫然として周囲を、そして空を見上げる。

「空が……」

 見上げた先にあったのは、血を塗りつけたかのように紅黒い、現実味のない空だった。

 夕焼けの色などではあり得ない。まして今は午前中、青空が見えているはずの時間帯だ。気を失っていたにしても、こんなに時間が経っている事があるものだろうか。

 嫌な予感がして、左手の腕時計を見る――。


 デジタルの腕時計には、時刻はおろか日付すら表示されていなかった。


「そんな……。一体――」

「本当はもう気付いてるんだろう?」

 腕時計から目が離せずにいる巧に青年は言った。

「ご察しの通り、ここはキミがいた世界じゃないよ、神藤巧くん」

「!?」

 驚いて巧は顔を上げる。

 キミがいた世界じゃない。

 その台詞よりも先に、青年が自分の名前を知っている事に驚いた。自己紹介などしていない。どこかで会った事もない。正真正銘、初対面のはずだ。にも関わらず、青年は巧の名前を言い当てた。

「どうして――」

「キミの名前を知ってるかって?」

 巧の言葉を遮るようにして青年は続ける。

「そりゃ知ってるさ。キミの事なら何でも知ってる。なんなら生年月日も答えようか? あ、それよりもキミの家族構成の方がいいかなぁ?」

「な……」

 質問を先読みした割に、答えらしい答えになっていない。しかも余計に謎が増えた。相変わらずニコニコとした表情を崩さない青年は、戸惑う巧を見て楽しんでいるようだ。

 巧は乱れた気持ちを落ち着かせるため、軽く深呼吸をした。そして切り出す。

「――教えてくれ。あんた何者なんだ? それに、ここが俺のいた世界じゃないと言うなら、ここはどこなんだよ?」

 巧に問われ、青年は顎に手を当てて悩むような仕草を見せた。が、特に熟考した様子もない。すぐに返答は返ってきた。

「そうだねぇ。じゃあとりあえず自己紹介しておくよ」

 青年は軽くターンすると、右手を胸に当てて軽くお辞儀をした。

「ボクの名前は、幻影の道化(ファントム・クラウン)。この世界、『鏡界』の案内人さ」

 いきなり妙な単語が出てきたので、巧は首を傾げるしかない。

「ファントム? キョウカイって……、何だよそれ?」

 青年の名前は明らかに偽名としか思えない。ゲームのRPGに出てきそうな名前だ。おまけにこの世界の名前とやらも、言葉で聴いただけではどんな字を書くのかわからなかった。

 理解不能な顔をしている巧を見ても、青年は気にした様子もなく続ける。

「だからこの世界の名前さ。いや、世界というより空間だね。そんなに広い場所じゃないよ。半径三キロメートルくらいかな」

 ファントムやらキョウカイやらと訳のわからない言葉を並べる割に、物凄く現実的な事を言う。ならばと思い、巧は自分にとって今一番肝心な事を聞いてみた。

「……出口はあるのか?」

「あるよ。入口は一方通行だからすぐ閉じちゃうけど」

「あんたさっき、自分の事を案内人って言ったよな。じゃあ、出口の場所も知ってるのか?」

「もちろん。じゃなきゃ案内人なんて名乗れないでしょ」

「……」

 正直な所、全く訳がわからない。嘘臭い名前を名乗ったかと思えば、出口という現実的な話にもスラスラと答えるおかしな格好をした青年。

 それに眼が覚めていきなり、「ここは別の世界(空間)です」とかなんとか言われて、それを「はいそうですか」なんて鵜呑みにできる奴は頭がおかしいんじゃないかと思う。残念ながら、巧は鵜呑みにできる方の人間ではない。悪い夢だと思った方が気が楽だった。

「じゃあ、出口まで案内してくれ」

 別に現実だと認めてしまった訳ではない。これが夢なら早く覚めてしまいたいと心底思っただけだ。

 すると青年・幻影の道化は意外にも、その言葉に素直に応じてくれた。

「了解~。でもその前に――」

 幻影の道化(ファントム・クラウン)の言葉に被さるようにして、それは突然頭上から降ってきた。


 グシャッ。


 柔らかい物が潰れるような不快な音と共に、生温かい液体が巧の頬に飛び散った。

「――え?」

 頬に飛び散った液体を指で拭い、それが人間の血だと気付くのに、三秒掛かった。頭上から落下してきた物体が人間の身体だと認識するのに五秒掛かった。それが降ってきた頭上を見上げるのに、二秒掛かった。そこで巧の眼は留まる。

「何なんだ、あれ……」

 硬直する巧の耳に、おどけた声が届いた。

「あれをなんとかしないとね」

 視線の先にあったのは非日常。現実にはあり得ない存在。

 それは、異形の姿をした、化物だった。




 ◆  ◆  ◆




「――お前の一番大切な物って何だ?」

 急に真面目な雰囲気でそう問われ、巧は眼を瞬かせた。

 その言葉はクラスメイトで友人である、高橋(たかはし)和真(かずま)に言われた事だった。中学二年の頃、昼休みに学校の屋上で二人で昼食をとっていた時の事だ。

 巧と和真は昔からの長い付き合いで、お互いに何でも語り合える仲だ。大抵はバカな掛け合いになる事が多いのだが、和真はたまにこうして真面目な話を振ってくる。長年の付き合いで慣れているとはいえ、直前まで笑い話を続けていたのだから、急な話題転換には少々戸惑う。

「何だよ突然。そんな事聞いてどうするんだ?」

「いいから答えろよ。ホレホレ」

 屋上の手すりにもたれながら、和真は手を振って会話を促す。

 巧としても、その問いに対する答えがあるにはある。だが、それを口にするのは躊躇いがあった。いくら真面目な話をしている最中だと言っても、笑われる確率の方が高いように思えたからだ。

「……笑うなよ」

「そりゃ内容によるな」

「……」

 念を押しても和真の答えはそっけない。たっぷり十秒間を開けて、巧はポツリと呟いた。

「……日常」

「は?」

 わざとらしく耳に手を当てて聴こえないと訴える和真。観念して巧は声のボリュームを元に戻した。

「だから、日常だよ。何にもない日常。学校通って勉強したり、お前や他の奴らとバカな話したりとか、そういう何でもない事が、俺が一番大切だって思う事だ」

 自分でも言っていて照れ臭くなっているのが、頬の熱さでわかる。だがそれが正直な気持ちだった。

 そんな様子を見て、隣りにいる和真は声を殺して笑っているんじゃないかと思った。ところが、意外にも和真は真剣な顔でそれを聞いていた。

「なるほどね。お前らしいや」

 そう言って和真は、ニカッと快活に笑ってくれた。




 ◆  ◆  ◆




 なぜ今になってそんな昔の事を思い出したのか。

 自分はもう夢と現実の区別がつかなくなっているのかと、巧は思った。

 見上げた先にいたのは異形の化物。人間のような身体の形をしているが、顔の部分は鰐になっていて、体中が蛇のような鱗に覆われている。手や足には猛禽類のような鋭い爪があり、体長三メートルはあるかというその化物は、背中に翼を生やして空中に浮かんでいる。

 そして、その化物の口から滴る紅い液体――。

 巧は恐る恐る、もう一度自分の傍に落ちてきた物体に目を向けた。血溜まりに沈むそれは判別しにくくなってはいるが、間違いなく人間の身体だった。そしてもう一つ、ある事に気付く。

(……! この服)

 ボロボロになって血に染まっている布切れは、原形を留めていないが、茶色いスーツのように見えた。そして思い出す。そういえば自分が気を失う前、誰かがこれと同じ色のスーツを着ていたはずだ、と。


(まさか……。俺の後ろにいた――)


「ウッ」

 胃がねじ切れるような感覚を覚えて、巧は口を押さえて膝をついた。とてつもなく気分が悪い。

 確かに意識を失う前、信号待ちをしていた自分の後ろには、サラリーマン風の男性が立っていた。その男性が着ていたスーツも、確か茶色だったはずだ。

 でも確証がない。同じ色のスーツなんてこの世にいくらでもある。その男性だという証拠などどこにもない。

 だが、だからといって確認しようという気にもなれない。死体がそこに転がっているという事実だけで充分だった。

「大丈夫かい? 顔が真っ青だよ」

 軽い調子で聴こえた声に、巧は信じられない物でも見るかのように、その声の主を見た。

「あんた……、何とも思わないのか?」

「? 何がだい?」

「――!」

 巧は言葉を失った。気にしていないとか、そういうレベルの話じゃない。何の問題があるのかわからないと、こいつは、幻影の道化は言っている。この惨状を目の当たりにして。

「ホラホラ。そんな事より、早く逃げた方がいいんじゃないかな?」

 幻影の道化(ファントム・クラウン)に言われて、巧はハッと頭上を見上げた。

 化物が低く唸りながらこちらを見ている。

 今の今まで奴が動かなかったのは、巧の存在に気付いていなかったからか。それとも、口の中に残る獲物の味をクチャクチャと反芻していたからか。

 どちらにせよ、化物は次の標的を巧に絞ったらしい。爬虫類の特徴的な眼が巧を捉えた。

「グオォォォ!」

「う、うわぁぁ!」

 その咆哮にようやく恐怖を覚え、巧は一目散に走り出した。

 周りにあるのは人気のない、すでに朽ち果てた住宅街。まるでゴーストタウンに迷い込んでしまったかのようだ。どこまで走っても、どれだけ走っても、すれ違う人間など一人もいない。助けを求められる相手など、どこにもいない。

 追ってくる化物には翼が生えている。いくら全速力で走ろうとも、追い付かれるのは時間の問題だった。追い付かれたら最後。次は自分が血溜まりに沈む事になる。

(何なんだ! 何でこんな事になってるんだよ!)

 現実なのか夢なのか未だに判別できないが、だがさっきの死体は限りなく現実味を帯びていた。そして今、自分に死を齎すであろう存在が、すぐそこまで迫ってきている。

 最初は理不尽だと思った。

 いきなり訳のわからない空間に落とされて、訳がわからないまま自分が死ぬとしたら、こんな理不尽過ぎる事はない。自分はただ、何の変哲もない日常を過ごしていければ、それでよかったのに。

 次に感じたのは怒りだった。

 なぜ自分がこんな目に逢わなければならない? 自分を殺そうとしているのは誰だ? 自分が一番大切だと思っていた日常を、自分が過ごしていきたいと願った日常を、奪おうと、壊そうとしているのは誰だ?

 怒りが沸々と、巧の体の中で湧きあがっていく。

 抗いたいと思った。自分に迫る死の運命に、抗いたいと。

 いつの間にか、巧は走るのを止めていた。化物に背を向けるのを止めていた。自分の中の何かが、そうさせていた。

「――邪魔するなよ」

 ポツリと呟いた巧の顔には、恐れなど全くなかった。

 化物に向かって一歩踏み出す。それだけで力が湧いてくるような気がした。

 化物に向かってもう一歩踏み出す。それだけで、何かが生まれようとしていた。

 翼を広げて向かって来ていた化物は、地響きと共に地面に降り立った。低い唸り声を上げながら、逃げるのを止めた獲物を捕えるために、まっすぐに突き進んでくる。

「俺が過ごす日常を――」

 巧の目の前まで歩いて来た化物は、その鋭い爪を容赦なく振り下ろした。

「邪魔するなぁぁッ!!」

 それは一瞬の出来事だった。

 振り下ろされた化物の右腕の肘から先が、何の前触れもなく不自然な方向に吹き飛んだ。化物の右腕が、いとも容易く切断されていた。

 大きく弧を描いて巧の後方に切り飛ばされたそれは、灰のようにボロボロと崩れて風化していく。

「ギャアァァッ!」

 悲痛な叫び声を上げながら、化物は後ろへと倒れこんだ。

 轟音を響かせて倒れる化物の姿を見て、巧は今更のように我に返った。自分の目の前に、大きな物体が浮かんでいる。

「これは――」

 目の前に浮かぶそれは、自分の身長と同じ長さはあろうかという、巨大な片刃の長剣だった。

 剣の先端はカッターの刃のように鋭く尖っており、刀身は磨き込まれた鏡のように、薄らと巧の顔を映している。刀身の根元には紺碧に輝く玉が埋め込まれており、その直下、鍔の部分は片側が柄頭まで枠状に繋がっていて、丁度サーベルの護拳のようになっている。淡く光を放っているそれは、とても神々しい物に見えた。

 一体どこからこんな物が現れたのか。

 しかもその剣は、まるで自分を掴めと言っているかのように、刀身部分を上に向けて、柄の部分を巧の胸の辺りにして浮いている。

 巧はゆっくりと、柄の部分に手を掛けた。すると淡い光が消え、手に固い感触が伝わってくる。しかも自分の身長とほぼ同じ長さがあるにも関わらず、それほど重みを感じない。何とも不思議な感覚だった。

 しばらくその剣を眺めて巧は呆けていた。しかし、剣の向こう側で何かが動くのを感じて意識を戻す。

「グオォォッ!」

 化物は右腕の切断面を左手で押さえながら、それでもなお鋭い眼光で雄叫びを上げた。切断面から血は出ていないようだが、やはり痛みがあるのだろう。先程より動きが鈍くなっているのがわかる。

「痛みがあるのか。意外だな」

 自分でも驚く程に冷静さを取り戻していると、巧は思った。今目の前には異形の姿をした化物がいると言うのに、微塵も恐怖を感じていない。それどころか余裕すら感じていた。

 負けるはずがない、と。

「悪い。お前は俺にとって邪魔な存在なんだ。だから――」

 手にしていた長剣を水平に構え、振り抜く体勢に持っていく。

「消えてくれ」

 それだけを冷酷に告げ、巧は長剣を一気に振り抜いた。

「ギィヤァァッ!」

 真一文字に体を両断された化物は、断末魔の叫びを上げながら見る見る内に灰となり、肉片の一つも残す事なく完全に消滅した。

 その途端、辺りに静寂が訪れる。後に残ったのは紅黒い空に覆われた空間と、人の死を体験したという、言いようのない虚しさだけだった。

「――ッ」

 糸の切れた操り人形のように、巧は力なくその場に跪いた。

 支えをなくして地面に落ちた長剣が、ガシャンと鈍い音を立てた。するとその長剣は、役目を終えた事を理解したかのように、淡い光を放ちながらスゥーと消え去った。

 だがそれすらも、視界に入れようとはしなかった。

 今はもう何も考えたくない。それが正直な心境だった。

 考えようとすれば、さっき起きた出来事を嫌でも思い出してしまう。そして思い出したからと言ってどうする事も出来ない。あそこにあるのは、すでに死んでしまっている人なのだから。

 すると、俯いている巧の耳にコツコツと足音が聴こえてきた。足音の主は一人しかいない。巧にはもう、それを確認する気力すらなかった。

「いや~凄いね、キミ。まさか『心羅』に目覚めるなんて思いもしなかったよ」

 案の定、聴こえたのは幻影の道化(ファントム・クラウン)の声だった。

 ついさっきまでの一連の出来事をどこかで見ていたのだろう。声に一層の明るさが混じっていた。

「ここに落ちてきた人間は今まで何人もいたけど、キミみたいに落ちてきてすぐ『力』に目覚める人間は珍しいんだ。ホント久しぶりに良い物見せてもらったよ」

 顔を見る気もないが、恐らくまたあのニコニコとした笑顔で話しているのだろう。

 そう思うと、巧は心がざわめくのを感じた。さっき化物に追われている時に感じた、怒りに似ている気がする。

「あれ、どうしたんだい? 気分でも悪いの?」

 膝を付いたまま顔を上げない巧に、相変わらず軽い調子で幻影の道化(ファントム・クラウン)は声を掛ける。本気で心配していない事など、顔を見なくても容易にわかった。

 だからこそ余計に、怒りを感じる。

 なぜこの状況でそんな軽い調子を保つ事が出来るのか、と。

「――さっきの人はどうなったんだ」

 答えは自分でもわかりきっている。それでも聞かずにはいられなかった。

「さっきのって――。ああ、そういえばキミの他にもう一人いたんだったね。すっかり忘れてたよ」

 ギリッと、巧は奥歯を強く噛み締めた。

 全く意に介した様子がない。それどころかこいつは今何と言った? 忘れていただと?

「さっきの人は、どうなったんだよ?」

 同じ質問をしているのに語気が強くなっている事を、巧は自分でも感じていた。間違いなく怒りを感じている。目の前の青年に対して。目の前の青年の、態度に対して。

「さぁ? もうとっくに死んでるんじゃないかな? キミだって見ただろう、あの血の量を。大体、頭からパックリいかれてるんだ。無事な方がどうかしてる――」

「ふざけんなッ!!」

 巧は思い切り、幻影の道化(ファントム・クラウン)の胸倉を両手で掴んだ。胸倉を掴んだ手が、微かに震えている。

 もう我慢の限界だった。幻影の道化(ファントム・クラウン)があと一言でも発しよう物なら、顔面を思い切り殴ってしまいそうだ。

 しかし、必死の形相で息を荒げる巧を見ても、幻影の道化(ファントム・クラウン)はニコニコしている。ニコニコしながら言う。

「何をそんなに怒ってるんだい、神藤巧くん」

「人が死んだんだぞ。一人の人間がついさっき死んだんだ! なのになんでお前はそうやってニコニコしてられるんだよ!? なんとも思わないのか!」

「――ああ、なんだ。それで怒ってるのか」

 胸倉を掴まれたまましばらく考え込んだ幻影の道化は、ようやく納得したというような表情を見せた。そしてまた、笑顔を見せながら言う。

「悪いけど、ボクにキミ達人間みたいなマトモな感情を期待しても無駄だよ。だって、ボクは人間じゃないんだから」

「!?」

 突然の言葉に驚きながらも、巧は心のどこかで納得している自分がいる事に気付いた。

 考えてみれば、何もおかしな事はないのかもしれない。自分が今いる、このあり得ない空間。そしてそこに、この青年はいた。まるで当たり前だと言わんばかりに。

 それにこの青年は言っていた。「人間が落ちてくるのは久しぶりだ」と。それはつまり、元々ここには人間なんて一人もいないという事ではないか。

 巧自身、最初にそう思ったではないか。「この男は人間じゃないのか?」と。

「わかるかい? ボクはキミ達人間の言葉で言う所の化物って奴さ。そんな存在に、マトモな感情が備わってる訳がないだろう? だからボクはこんな状況でも、こうして笑ってられるのさ」

 そう言って笑ってみせる彼の顔は、恐ろしい程に冷徹だった。冷笑という言葉は、この男の表情に当てはまる言葉だと実感した。

 先程までの怒りを失ってしまった巧は、幻影の道化(ファントム・クラウン)の胸倉から手を離した。

 その途端、幻影の道化(ファントム・クラウン)の表情は、また元通りのニコニコ顔に戻ってしまった。

 ついさっき見た冷笑の後にこの表情を見ると、なんだかとても不気味な物を見ている気がして、何とも言えない気分になる。

「さてと。じゃあ約束通り、道案内をしてあげるよ。キミは化物と戦える力を手にしたんだ。それをうまく使えば、この空間から脱出できるかもね」

 今の場の空気に全く不釣り合いな明るい声で、幻影の道化(ファントム・クラウン)はそう告げた。




 ◆  ◆  ◆




『鏡界』内にある街並みは、巧が住んでいる街には存在しない。現実にこんなゴーストタウンが存在していたら、すぐにでも取り壊されてしまうだろう。

 つまりここは、現実の世界とは全く別の世界という事だ。

 重苦しい気分のまま、巧は出口までの道すがら、状況を整理するために幻影の道化に色々と質問をしていた。

 まずこの空間、『鏡界』について。

 この空間『鏡界』は、内部が半径三キロメートル程の広さで、端の方には触れられない不可視の壁のような物がある。つまり空間の端っこまで行くと、そこから先は行き止まりになっている。そして空間自体が現実世界と断絶されているため、出口以外の場所から脱出する事は不可能なのだという。

「それに気付いてるだろうけど、この空間には生物が一切存在しない。存在しているのはさっきキミが倒した、『災魔』という化物だけだ。あとそうだ、キミがいた現実の世界とこの空間とでは、経過する時間に差異がある。これも結構重要だね」

 とは言う物の、説明している者の口調が軽いため、あまり重要な事を言われている気になれない。

 ところで、今会話の中にあった『災魔』とはどういう存在か。もちろんそれについても巧は質問している。

『災魔』とは巧が体験した通り、『鏡界』内に存在している異形の化物の事だ。

 獣のような姿をした者から人型に近い者までと、その姿形は多種多様である。人型に近い者もいる、という話だが、だからといって『災魔』は言語機能を持っている訳ではない。

「まぁ、ここにこうして言葉を話す化物がいるんだから、そういう期待を持ってもおかしくはないよねぇ。だって、言葉が通じれば『食べないでください』ってお願い出来るんだから」

『災魔』は『鏡界』内に落ちた人間を喰らおうと襲ってくる。

 巧はさっきの惨劇を思い出して、また気分が悪くなった。

 なぜあの化物は人間を喰らおうとするのか。そんな質問に、幻影の道化(ファントム・クラウン)は当たり前のように言った。

「キミ達人間の常識が通じる相手じゃないんだよ。だって、化物なんだから」

 でも、と幻影の道化(ファントム・クラウン)は続ける。

「キミなら多分、これから先奴らに襲われても平気だよ。力に目覚めた人間なんだから」

「力って、さっき出てきたあの剣の事か?」

「そうだよ。あれは『心羅』という名の、『災魔』に対抗するための特別な力さ。そう、特別な力。誰でも発現できるような代物じゃない。まさしく、選ばれた人間にしか扱えない力だよ」

『心羅』――。選ばれた人間にしか扱う事ができない特別な力。それはさっきの一連の出来事で何となく理解できた。

 ではなぜ自分がそんな力を発現できたのか。そう巧が問うと、

「そればっかりはボクにもわからないよ。そういう素養があったって事なんじゃないの?」

 そう言ってニコニコとするだけだった。

 どうもこの男、自分にとって都合の悪い内容に話が及ぶと、「わからない」「知らない」と言ってとぼける節がある。

 現に、「何であんたはここにいるんだ?」とか、「自分の事を化物だと言うが、じゃああんた自身も災魔なのか?」といった質問をすると、

「わからないし知らないよ。キミの事ならなんでもわかるけど」

 と言ってはぐらかすばかりだった。

(これ以上質問しても無意味か……)

 本人が答えようとしない限り、いくら聞いても無駄だという事を巧は知っている。答えないならそれでもいいと、巧は質問をするのを止めた。

 すると今度は、幻影の道化(ファントム・クラウン)の方が巧に問い掛ける。

「それにしても、随分熱心に質問するね。さっきまで夢か現実か測りかねてるって感じだったのに。どういう心境の変化だい?」

「……」

 巧はすぐには答えなかった。

 確かに自分でも、これが現実だと受け入れ始めている事には気付いていた。

 だがその一方で、今でもできるなら、これが夢であってほしいと思っている自分がいる。しかしそれは、単なる現実逃避だ。なぜならあの光景は、あの血に染まった光景は、自分が感じた恐怖は、間違いなく本物だったのだから。

 今もあの場所に戻らずに出口に向かっているのは、確かめるのが怖いからだ。確かめたらその瞬間、自分はもう戻れなくなる気がした。自分が過ごしたいと願っていた、日常という明るい世界へ。

「責任を感じてるのかい? さっきの人間に対して」

「!」

 幻影の道化(ファントム・クラウン)の言葉に、巧はギクリとした。

 気が付くと、幻影の道化(ファントム・クラウン)は無表情でこちらを見ている。たったそれだけで、全てを見透かされている気がした。

「自分の特別な力が、もう少し早く覚醒していれば、あの人間を助けられたんじゃないか。もっと早くあの人間を見つけていれば、あんな結末にはならなかったんじゃないか――とかそんな感じかい? そう思っているなら、それは全くの見当違いだよ、神藤巧くん」

「何だって?」

 険しい顔をする巧を見て、幻影の道化(ファントム・クラウン)は煩わしそうにため息をついた。そして巧の方に向かってゆっくりと近付いてくる。

「キミはさ、神様にでもなったつもりなのかい? 確かにキミは特別な力に目覚めた。そういう意味では、キミは他の人間と一線を画す存在になったと言っていいだろう。でもあの時は違う」

 巧の周囲をゆっくりとした歩調で歩き回りながら、幻影の道化(ファントム・クラウン)は続ける。

「キミが生きている現実の世界では、キミが関わりない場所で、色んな理由で人が死んでいくだろう? キミはその全てを、自分の手で止められるとでも言うのかい? ――それと同じ事さ。あの時こうしていればとか、こうなっていればとか、そんなのは結局、ただの後付けなんだよ。あの場面でキミにできる事は何もなかったんだ。それが全てさ」

 そう言って右隣で立ち止まり、肩を軽くポンと叩いた。

 依然として険しい表情の巧を無視するかのように、再び幻影の道化(ファントム・クラウン)は、出口があるのであろう方向に向かって歩き始める。

「そんな無駄な事考えるよりも、キミは自分の日常に戻る事だけを考えた方がいいんじゃないかな?」

 肩越しに告げられた言葉には、何の感情も籠っていなかった。

 慰めている訳ではない。彼はただ事実を告げているだけだ。

「――くそ」

 全てをわかった上で、それでも巧はそう呟いた。

 簡単に認める事など、できる訳がなかった。



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