エピローグ Boy & Girl
午前八時十五分。
暖かさが徐々に暑さへと変わり始めている日差しの中、暁奈はゆっくりと通学路を歩いていた。
あの『鏡界』が消滅した日から、今日で丁度二週間。その間、朝倉高等学校は完全休校となっていた。
消滅の際、幻影の道化こと森宮悠の言っていた通り、『鏡界』に多くの人間が囚われていたという事実は、現実世界において別の形にすり替わっていた。
その内容としては、ずばり『集団食中毒』。
学校内にある食堂で食事を取った職員や生徒が、次々と中毒症状を訴え入院する者まで現れた、という事故。当初は何者かによる毒物混入ではないかと騒がれ、マスコミが学校に押し寄せるという事態にまで発展した。
結局、入院する者が現れた事と、マスコミが沈静化するのを待つ意味も込めて、学校は二週間の臨時休校を決定した。
そして今日、漸くその休校が解かれる日を迎えた、という訳である。
当事者である暁奈にとっては、妙な展開にすり替わった物だな、という感じだった。
だが一人も死者が出ていないという事は、森宮悠の言っていた通り、『鏡界』から帰還出来なかった人間は一人もいないという事だ。
(喜んでいい事だよね、これは)
二週間経った今でも、あの少年に指摘された通り、後悔に似た感情があるのは確かだった。
自分は、望んでいた世界を手に入れて、そして自分の手でそれを捨て去った。
後悔しているのか? あの少年はそう問い掛けてきた。
あの時はわからないと答えたが、今ならハッキリとわかる。自分はやはり、後悔しているのだと。
ただそれと同じぐらい、自分の行動が間違っていなかったんだという確信もある。
もしも自分が、あのまま非日常を求めていたら、間違いなく現実世界は大変な事になっていただろう。多くの死者を出し、しかもその全てが、死の内容を改竄されていたに違いない。
それほどの犠牲を出してまで、あの非日常の世界を守る価値は無いと思う。例え自分がどんなに、非日常の世界に憧れを抱いているとしても。
それを気付かせてくれたのは森宮悠であり、そしてあの少年、神藤巧だ。
彼らの存在があったからこそ、自分は判断を誤らなかったのだ。
非日常の世界に憧れる気持ちは今でもある。
だがそれでも――。
「歩いて行かなきゃ、だよね。神藤くんと同じように、自分の日常を」
自分に言い聞かせるように声に出して、暁奈はフッと笑う。
少女の足取りは軽い。
◆ ◆ ◆
自分はちゃんと、日常を守れたのだろうか?
そんな自問を、巧は心の中で繰り返していた。
非日常の世界と接触して、手に入れた物より、失った物の方が多いと思う。
ならば自分は何のために戦っていたのか。守り切れなかった者がいるというのに、自分の戦いに意味はあったのだろうか。
(いや、そうじゃないよな)
失った物の方が多い。
だがきっと、意味ならあった。
とある青年と出会い、その青年の魂を解放する事が出来た。それに、彼は最後に言ってくれた。
ありがとう、と。
例え、自分の日常が多少変化を起こしていても、彼を救った事で、結果として多くの人間を助ける事が出来た。巧が願っていた日常は、確かに守られたのだ。
「こんな事ばっか考えてたら、あいつに笑われるよな」
忘れないと誓った青年、森宮悠の最後の笑顔を思い出して、巧は顔を上げた。
すると後ろから聞き慣れた声がした。
「おはよう、神藤くん」
「おう、おはよう水嶋」
何気ない挨拶。だが自然と、何かが通じ合っている気がした。
「あのさ、神藤くん。今日もし良かったら、一緒にお昼ご飯食べない? せっかく晴れてるんだし、屋上行こうよ」
「ああ、別にいいけど――」
返事をしかけて、巧は背後からもう一人、自分に近寄ってくる人物がいる事に気が付いた。そして苦笑混じりに暁奈に提案する。
「なぁ、もう一人連れて行ってもいいか? そいつずっと前から、あんたと友達になりたいって言ってたんだ」
「うん、全然いいよ。じゃあ昼休みに屋上でね」
そう言って手を振ると、暁奈は軽い足取りで駆けて行った。
それと入れ違いになる形で、自分の許に駆けてくる人物がいた。親友の高橋和真だ。
思った通り、暁奈と会話しているのを遠巻きに見ていたようだ。その顔は驚き半分、羨ましさ半分という変わった表情になっていた。
「おい巧! さっきのって水嶋さんだろ!? お前、いつの間に水嶋さんと仲良くなったんだよ!?」
酷く興奮した様子の和真に、巧は涼しい顔で言い放つ。
「さぁ? 非日常の世界でもあったんじゃないのか?」
「は……?」
意味がわからないといった顔をする和真を見て、巧は可笑しそうにクスッと笑った。
少女は『非日常』を求めた。
少年は『日常』を求めた。
互いに違う物を求めた二人は、それによって失った物と、得た物があった。
それが良い事だったのかどうか、今はわからない。
それでも、少年と少女は、再び『日常』を歩き始めた。
了