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未来が見える俺は、学園一の美少女にキスをされた

作者: 黒子丸
掲載日:2026/10/17

1話完結の話を書いてみました

かなり長いですが,読んでくださるとうれしいです.

六月最初の金曜日。


窓の外では、梅雨入りを知らせるような灰色の雲が、街の空をゆっくりと覆い始めていた。放課後の教室には、部活動へ向かう生徒たちの声が響いている。


「じゃあ、また月曜日な!」


「おう。日曜の試合、絶対見に来いよ!」


「気が向いたらなー」


そんなやり取りを交わしながら、何人もの生徒が教室を出ていく。


俺はその様子を、机に頬杖をつきながら眺めていた。


別に、羨ましいわけじゃない。


友達と笑い合うことも、放課後に遊びに行くことも、以前の俺にとっては当たり前の日常だった。


けれど、今の俺には必要ない。


人と関わらなければ、余計なことを考えずに済む。誰かと仲良くならなければ、その人が傷つくところを見ずに済む。そして、俺自身が傷つくこともない。


それが、今の俺が選んだ生き方だった。


「……帰るか」


鞄を肩にかけ、教室を出る。


廊下を歩いていると、すれ違った女子生徒たちの会話が耳に入った。


「ねえ、今日の美羽ちゃん見た?」


「見た見た。やっぱり可愛いよね。あの髪型、どうやってるんだろ」


「男子、めっちゃ見てたよね」


佐々木美羽。


同じ一年三組の女子生徒だ。


明るい茶色の髪に、派手すぎないメイク。少し着崩しているように見えて、どこか品のある制服の着こなし。誰に対しても物怖じせず、自分の意見をはっきりと言う。


いわゆる、清楚系ギャルというやつだろう。


容姿が整っているだけでなく、性格も悪くない。そのため、男女問わず人気がある。


入学して二か月ほどしか経っていないにもかかわらず、彼女に告白した男子は何人もいるらしい。ただ、その全員が断られているという話も聞いた。


俺にとっては、同じクラスにいる有名人。それ以上でも、それ以下でもない。


向こうからすれば、俺なんて名前すら知らないだろう。


前髪が目にかかり、表情もわかりにくい。授業中に指名されれば答えるが、自分から発言することはほとんどない。休み時間は本を読むか、窓の外を眺めている。


クラスの中で目立たない人間を十人挙げろと言われたら、間違いなくその中に入る自信がある。


……まあ、そんな自信があっても嬉しくはないのだが。


昇降口で靴を履き替え、校門を出る。


自宅までは徒歩で十五分ほど。


高校に近い一軒家に引っ越してきたのは、俺がこの学校へ入学する少し前のことだった。


正確には、両親が俺のために引っ越してくれた。


電車に乗る必要がないように。


人混みの中で、知らない誰かに触れることがないように。


そして、俺が余計な未来を見ずに済むように。


「……過保護なんだよな」


小さく呟く。


けれど、その言葉に本気の不満はなかった。


父さんも母さんも、俺のことを心配してくれている。俺が持っている、このおかしな能力についても。


誰に話しても信じてもらえないような話を、二人だけは信じてくれた。


それだけで、十分だった。


住宅街を歩いていると、途中にあるコンビニが目に入った。


そういえば、母さんに牛乳を頼まれていた気がする。ついでに夕食のあとに食べるアイスでも買って帰ろう。


俺は進路を変え、コンビニへ向かった。


このときの俺は、数分後に自分の日常が大きく変わることなど、考えもしなかった。


もちろん、未来が見えたわけでもない。


未来を見る能力には、発動条件がある。


数時間以内に危機が訪れる人間と、数秒間接触すること。


それが満たされたとき、俺はその人間に訪れる未来を十秒間だけ見る。


自分の未来は見えない。


誰にでも使えるわけでもない。


見たいと思ったときに、自由に発動できる能力でもない。


そして何より――。


俺は、この能力で誰かを救えたことがない。


だから、できることなら二度と発動してほしくなかった。


心の底から、そう願っていた。


*


コンビニの自動ドアが開き、冷房の効いた店内へ入る。


適当に牛乳を手に取り、アイスのケースを覗き込んでいたときだった。


「……どこにいるのよ、もう」


入口の方から、焦ったような女の子の声が聞こえた。


振り返ると、見覚えのある顔があった。


佐々木美羽だ。


制服姿の彼女はスマートフォンを握りしめ、落ち着かない様子で周囲を見回していた。普段の明るい雰囲気とは違い、眉を寄せている。


「お願いだから、電話に出てよ……」


画面を操作して、誰かに電話をかけているらしい。


俺は一瞬だけ彼女を見たあと、視線をアイスへ戻した。


……関係ない。


何か困っているのかもしれないが、俺には関係ない話だ。そもそも、俺に何かできるとは限らない。


牛乳を持ち直し、レジへ向かおうとした。


「……お願い、どこにも行かないでよ」


その声が、妙に耳に残った。


思わず、もう一度振り返る。


美羽はスマートフォンを耳に当てたまま、唇を噛んでいた。電話がつながらなかったのだろう。彼女はスマートフォンを下ろすと、今にも泣きそうな顔で店を飛び出そうとした。


「……あの」


気がつけば、声をかけていた。


美羽が驚いたように振り返る。


「あ、はい?」


「何か……あったんですか」


敬語になった。


同級生だと知っているのに、こういうとき、どう話しかければいいのかわからない。


美羽は一瞬だけ俺の顔を見つめ、それから困ったように眉を下げた。


「妹が、いなくなっちゃって……」


「妹?」


「うん。五歳なんだけど、今日、保育園のお迎えのあとにちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったの。家の近くまでは一緒にいたんだけど、私が買い物袋を持ち直してる間に……」


早口で説明する彼女の声は、ところどころ震えていた。


「近所は探したし、何度も電話したんだけど、まだ見つからなくて。いつもなら、私が呼んだら返事してくれるのに……」


そこで美羽は、はっとしたように口を閉じた。


「ごめんね。いきなりこんなこと話して。知らない人なのに」


「……いえ」


知らない人。


確かに、俺たちはまともに話したことすらない。同じクラスにいるというだけで、接点はなかった。


俺は牛乳を持ったまま、彼女を見つめた。


困っている。


助けを必要としている。


それだけのことだ。


「……警察には連絡しましたか?」


「まだ。近所にいると思ってたから……でも、もう少し探して、見つからなかったら連絡するつもり」


「……すぐに見つからなかったら、連絡した方がいいと思います」


「うん……そうだよね」


美羽はスマートフォンを握り直した。


「ごめん。本当に急いでるから……」


そう言って、今度こそ店を出ようとする。


俺は、その背中を見送ろうとした。


いつも通り、何も見なかったことにする。


それが今の俺にとって、最も安全な選択だった。


他人の問題に関わらない。


誰かを助けようとしない。


自分にできることと、できないことを勘違いしない。


そうすれば、少なくとも、あの日のような思いをすることはない。


……なのに。


「……待ってください」


また、声が出た。


美羽が振り返る。


自分でも、何をしているのかわからなかった。


「俺も……探します」


「え?」


「この辺、よく知ってるので。公園とか、子供が行きそうなところを探してみます」


言いながら、内心では後悔していた。


何を言っているんだ、俺は。


関わらないと決めたはずだろう。


もし見つからなかったら?


もし、もっと悪いことが起きていたら?


もし――。


「……本当に?」


美羽の声で、思考が止まった。


彼女は信じられないというように目を丸くしていた。


「いいの? だって、君も用事があるんじゃ……」


「牛乳を買うだけなので」


「でも……」


「一人で探すより、二人の方が見つかる可能性も高いと思います」


自分でも驚くほど、冷静な声だった。


頭の中では、逃げ出したい気持ちが渦巻いている。それでも、目の前で困っている人を放っておくことができなかった。


本当は、ずっとそうだったのだ。


「……ありがとう」


美羽は、深く頭を下げた。


「本当に、ありがとう。私、佐々木美羽っていうの」


知っている。


同じクラスだから。


そう言いかけて、やめた。


「……永野です。永野武」


「永野くんね。よろしくお願いします」


彼女はそう言って、少しだけ笑った。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


誰かに感謝されること。


誰かの役に立つこと。


そんな当たり前のことが、ひどく久しぶりに感じられたからだ。


「じゃあ、連絡先を交換してもいい?」


「あ、はい」


俺たちはスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。


「見つけたら、すぐに連絡して。名前は紗奈。佐々木紗奈っていうの。ピンクのバッグを持ってて、白いカーディガンを着てる」


「わかりました」


「私は駅の方を探してみる。永野くんは公園の方をお願いしてもいい?」


「はい」


「本当にありがとう。気をつけてね」


美羽はもう一度頭を下げると、走って店を出ていった。


俺はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。


それから、手元の牛乳に視線を落とす。


「……何やってんだか」


小さく呟いて、俺も店を出た。


六月の湿った空気が、肌にまとわりつく。


公園は、ここから歩いて五分ほどの場所にある。


あそこにいてくれればいい。


そんなことを考えながら、俺は足を速めた。


今はまだ、何も起きていない。


そうであってほしいと、心の底から願いながら。


*


公園に着くと、まず入口から全体を見渡した。


滑り台、ブランコ、砂場。


遊具の周りには小学生くらいの子供が数人いるが、白いカーディガンを着た女の子は見当たらない。


「……いないか」


念のため、ベンチの下や遊具の陰も確認する。


当然、そんなところに隠れているわけもない。


俺はスマートフォンを取り出し、美羽にメッセージを送ろうとした。


そのとき。


「……おにいちゃん?」


背後から、小さな声が聞こえた。


振り返る。


公園の隅にある東屋。そのベンチの下に、小さな女の子がしゃがみ込んでいた。


白いカーディガンに、ピンク色のバッグ。


間違いない。


「……佐々木紗奈ちゃん?」


「……うん」


女の子は、警戒するように俺を見上げた。


「お姉ちゃんは?」


「今、探してるよ。すぐに連絡するから、ちょっと待っててね」


そう言って近づこうとすると、紗奈ちゃんは慌ててベンチの下から出てきた。


「おねえちゃん、いないの?」


「……うん。今、探してるところ」


「……っ」


みるみるうちに、その目に涙が浮かんだ。


ああ、これはまずい。


どうすればいい。


泣かせないようにするには、何を言えばいいんだ。


以前の俺なら、こんなことは考えもしなかった。子供の扱いなんて、適当に話しかけていればどうにかなったはずだ。


けれど、今は違う。


相手の気持ちを考えすぎて、何も言えなくなる。


「……大丈夫」


結局、口から出たのはそんな言葉だった。


「お姉ちゃん、きっとすぐ来るから」


「……ほんと?」


「うん。俺が見つけたって、ちゃんと伝えるよ」


紗奈ちゃんは、じっと俺の顔を見つめた。


それから、小さく頷いた。


「……おにいちゃん、だれ?」


「永野武。武でいいよ」


「たけるおにいちゃん?」


「……うん」


「たけるおにいちゃん、あそぼ?」


「え?」


予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。


「おねえちゃん、くるまで!」


紗奈ちゃんは涙を拭い、期待するように俺を見上げている。


……どうしたものか。


美羽にはすぐに連絡しなければならない。けれど、見つけたことを伝えたあと、ここに一人で待たせるのも心配だ。


「……少しだけなら」


そう答えると、紗奈ちゃんの顔がぱっと明るくなった。


「やった!」


その笑顔を見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。


スマートフォンを取り出し、美羽に連絡する。


『妹さん、見つかりました。公園にいます』


すぐに既読がついた。


『本当!? ありがとう!! 今すぐ行く!』


続けて、何度も感謝の言葉が送られてくる。


俺は短く返信すると、スマートフォンをポケットにしまった。


「……じゃあ、何して遊ぶ?」


そう聞くと、紗奈ちゃんは元気よく滑り台を指差した。


「すべりだい!」


「……わかった」


俺は鞄をベンチに置き、紗奈ちゃんと一緒に滑り台へ向かった。


五歳児の遊び相手なんて、いつ以来だろう。


いや、そもそも、こんなふうに誰かと遊ぶこと自体が久しぶりだった。


「たけるおにいちゃん、みててね!」


紗奈ちゃんが階段を上り、滑り台を滑り降りてくる。


「すごいね」


「もういっかい!」


「……うん」


何度も繰り返す。


そのたびに、紗奈ちゃんは楽しそうに笑った。


やがて、彼女は滑り台に飽きたらしく、今度は鬼ごっこをしようと言い出した。


「おにいちゃん、おにね!」


「え、俺?」


「うん!」


「……わかった」


五歳児相手に、本気で走るわけにもいかない。


適当に追いかけると、紗奈ちゃんは歓声を上げながら逃げ回った。俺が手を伸ばすと、彼女は楽しそうに身をひねってかわす。


「つかまらないよー!」


「……速いなあ」


「えへへ!」


そんなやり取りを繰り返しているうちに、気づけば俺も笑っていた。


本当に、久しぶりだった。


誰かと一緒にいて、こんなふうに何も考えずに笑ったのは。


「……あ」


ふと、胸の奥がざわついた。


笑っている場合じゃない。


今は、紗奈ちゃんを無事にお姉さんへ引き渡すことが先だ。


そう思い直した、そのときだった。


「紗奈っ!」


公園の入口から、切羽詰まった声が響いた。


美羽だった。


彼女は俺たちを見つけると、息を切らしながら駆け寄ってきた。


「紗奈……!」


紗奈ちゃんが振り返る。


「おねえちゃん!」


次の瞬間、美羽は妹を抱きしめていた。


「よかった……! 本当に、よかった……!」


小さな身体を強く抱きしめ、何度も頭を撫でる。


「ごめんね……ごめんね、紗奈……!」


「おねえちゃん、いたいよー」


「……っ、ごめん!」


慌てて腕の力を緩める美羽。


その目には、涙が浮かんでいた。


紗奈ちゃんも、ようやく安心したのだろう。美羽の胸に顔を埋めて、小さな手で制服をぎゅっと握っている。


俺は少し離れたところから、その様子を見ていた。


よかった。


本当に、よかった。


それ以外の言葉が思い浮かばなかった。


「……永野くん」


しばらくして、美羽がこちらを向いた。


目元を拭いながら、深く頭を下げる。


「本当にありがとう。私、一瞬、どうしようかと思って……」


「……いえ。見つかってよかったです」


「ううん。永野くんが探してくれなかったら、まだ見つかってなかったかもしれない」


美羽はそう言って、妹の頭を撫でた。


「紗奈、武くんと遊んでたの?」


「うん! たけるおにいちゃん、すっごくやさしいの!」


「……そうなんだ」


美羽が俺を見る。


少し、気まずい。


「……たまたまです」


「ふふっ。何それ」


美羽は小さく笑った。


それから、改めて俺の顔を見つめた。


「ねえ、永野くんって、何組?」


「……三組です」


「えっ、うそ。同じクラスじゃん!」


……やっぱり、知らなかったらしい。


いや、俺も彼女と話したのは今日が初めてだ。同じクラスにいるからといって、全員の顔と名前を覚えているわけではないだろう。


「私、佐々木美羽。知ってる?」


「……はい」


「そっか。じゃあ、改めて。助けてくれてありがとう、永野武くん」


彼女は、まっすぐに俺を見て笑った。


「これから仲良くしてね」


そう言って、手を差し出してきた。


握手。


ただ、それだけのことだ。


俺は一瞬ためらってから、その手を握った。


温かい手だった。


そして、その瞬間。


視界が、暗転した。


*


――何かが、地面に落ちる音。


湿ったアスファルト。


夕暮れの住宅街。


目の前には、美羽と紗奈ちゃんがいた。


二人は並んで歩いている。美羽が何かを話し、紗奈ちゃんが楽しそうに笑っていた。


その後ろから、黒い服を着た男が近づいてくる。


男の手には、鈍く光る刃物が握られていた。


「……え?」


声が出なかった。


男が走り出す。


美羽が振り返る。


紗奈ちゃんが、姉の服を引っ張る。


次の瞬間、男の腕が振り下ろされた。


美羽の身体が揺れる。


赤いものが、白いカーディガンに広がっていく。


「……っ!」


紗奈ちゃんが悲鳴を上げた。


男は止まらない。


刃物を振り上げ、今度は紗奈ちゃんへと向ける。


美羽が妹をかばおうとする。


けれど、間に合わない。


小さな身体が、地面に倒れた。


美羽の叫び声が、夕暮れの街に響く。


そして――。


視界が、元に戻った。


*


「……っ、はあ……!」


俺は、思わず手を離した。


呼吸が乱れている。


心臓が、嫌というほど激しく脈打っていた。


目の前には、心配そうに俺を見つめる美羽がいる。


「永野くん? どうしたの?」


答えられなかった。


今の光景が、頭から離れない。


血。


悲鳴。


倒れていく二人。


あの感覚を、俺は知っている。


忘れたくても忘れられない。


二年前、中学二年生の夏。


初めて未来を見た、あの日から。


「……武くん?」


美羽が、俺の顔を覗き込む。


「顔、真っ青だよ。大丈夫?」


「……」


大丈夫なわけがない。


未来が見えた。


美羽と紗奈ちゃんが、刃物を持った男に襲われる未来。


しかも、今まで見てきたものと同じだ。


どんなに避けようとしても、見えた現象そのものは必ず起きる。


俺は、それを知っている。


何度も経験してきた。


助けようとした。


必死に考えた。


それでも、結果は変えられなかった。


二人は軽傷だった。


一人は、重傷だった。


誰も死ななかった。


けれど、俺が助けたと言える結果ではなかった。


そして、何より。


あのとき、俺のせいで状況が悪化したのではないか。


そんな考えが、今も頭から離れない。


「……永野くん?」


美羽の声が、遠く聞こえる。


逃げろ。


今すぐ、この場から離れろ。


この二人と関わるな。


そうすれば、少なくとも、俺が何かを間違えることはない。


けれど。


目の前には、妹を抱きしめる美羽がいた。


さっきまで泣きそうだった彼女は、ようやく安心したように笑っている。紗奈ちゃんは、姉の腕の中で嬉しそうにしていた。


俺を信じて、手を握ってくれた人。


助けてくれたと、感謝してくれた人。


「……っ」


拳を握りしめる。


また、見て見ぬふりをするのか。


二年前のあの日から、俺は何度も自分に言い聞かせてきた。


もう、誰も助けようとしない。


もう、誰かの未来を変えようとしない。


それが、自分にできる唯一のことなのだと。


けれど。


「……家まで、送ります」


気がつけば、そう言っていた。


美羽が目を丸くする。


「え?」


「もう暗くなるので。二人だけで帰るのは、危ないと思います」


「でも……」


「……俺も、途中まで同じ方向なので」


嘘だった。


俺の家は、彼女たちの家とは反対方向にある。


それでも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。


「……お願いしても、いい?」


美羽は少し迷ったあと、そう尋ねた。


俺は頷いた。


「はい」


今度こそ。


今度こそ、間違えない。


そう自分に言い聞かせながら、俺たちは公園を出た。


見えた未来の場所まで、あと数分。


俺は、何度も周囲を確認しながら歩いた。


住宅街の角。


細い路地。


電柱の陰。


不審な人影はない。


けれど、安心できなかった。


見えた未来は、必ず起きる。


それが、俺の知っているルールだった。


やがて、あの場所が近づいてくる。


視界の端に、見覚えのある塀が見えた。


ここだ。


この先で、二人が襲われる。


「……佐々木さん」


「ん?」


「少し、急ぎましょう」


「え? どうして?」


「……いや、何となく」


苦しい言い訳だった。


美羽は不思議そうに俺を見たが、何も聞かずに歩く速度を上げてくれた。


そのときだった。


路地の向こうから、一人の男が現れた。


黒い上着。


俯いた顔。


そして、右手に握られた刃物。


「――っ!」


息が止まる。


未来で見た男と、同じだった。


男は俺たちを見つけると、ゆっくりと顔を上げた。その目には、尋常ではない憎悪が浮かんでいた。


「……お前ら」


低い声だった。


美羽が、紗奈ちゃんを自分の後ろに隠す。


「な、何ですか……?」


男は答えなかった。


ただ、刃物を握り直した。


そして、突然、走り出した。


「死ねっ!」


刃物が振り上げられる。


美羽が悲鳴を上げた。


紗奈ちゃんが泣き叫ぶ。


俺は、考えるより先に動いていた。


「――下がって!」


二人を突き飛ばすようにして、自分が前に出る。


次の瞬間。


腹部に、強烈な衝撃が走った。


「……っ!」


熱い。


何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


男の手に握られた刃物が、俺の腹部に突き刺さっていた。


痛みが、遅れてやってくる。


「武くんっ!」


美羽の叫び声。


男が刃物を引き抜こうとする。


俺は、その腕を掴んだ。


「……させるかよ」


声が震えていた。


怖い。


痛い。


逃げたい。


それでも、腕を離すわけにはいかなかった。


俺の後ろには、美羽と紗奈ちゃんがいる。


この二人だけは、絶対に傷つけさせない。


「なんで……なんで邪魔するんだよ!」


男が叫ぶ。


「お前らみたいな奴が……! 幸せそうにしてるから……!」


意味がわからなかった。


けれど、そんなことを考えている余裕はない。


男が腕を振り回す。


俺は体勢を崩し、地面に膝をついた。


視界が揺れる。


それでも、手は離さなかった。


「離せっ!」


男が俺を蹴り飛ばそうとした、その瞬間。


「そこまでだ!」


鋭い声が響いた。


路地の入口から、制服姿の警察官が駆け込んできた。


パトロール中だったのだろう。


警察官は一瞬で状況を把握すると、男を取り押さえた。


刃物が地面に落ちる。


金属音が、やけに大きく聞こえた。


「武くん! 武くんっ!」


美羽が駆け寄ってくる。


紗奈ちゃんも泣きながら、俺の服を掴んでいた。


「……ああ」


返事をしようとした。


大丈夫だと。


二人は無事だと。


けれど、口がうまく動かなかった。


腹部が痛い。


意識が遠のいていく。


最後に見えたのは、泣きながら俺の名前を呼ぶ美羽の顔だった。


そして、俺の意識はそこで途切れた。


*


目を覚ますと、白い天井があった。


規則的な電子音が聞こえる。


消毒液の匂い。


身体を動かそうとすると、腹部に鈍い痛みが走った。


「……っ」


「武!」


聞き慣れた声がした。


視線を向けると、父さんが椅子から立ち上がっていた。その隣には母さんもいる。


二人とも、ひどく疲れた顔をしていた。


「……父さん、母さん」


「武! ああ、よかった……!」


母さんが俺の手を握る。


その目には、涙が浮かんでいた。


「本当に、心配したんだから……!」


「……ごめん」


「謝るくらいなら、もうあんな無茶はしないで!」


「……うん」


そう答えるしかなかった。


父さんは、俺の顔を見つめてから、深く息を吐いた。


「医者の話では、刃物は腹部に刺さったが、幸いにも内臓や主要な血管に損傷はなかったそうだ。傷の処置を受けて、今は出血も落ち着いている」


「……そうなんだ」


「そうなんだ、じゃない!」


母さんの声が少し大きくなった。


「あなた、自分が何をしたのかわかってるの? 刃物を持った相手に、正面から向かっていくなんて……!」


「……ごめん」


「未来が見えたんでしょう?」


その言葉に、俺は顔を上げた。


父さんと母さんは、真剣な表情で俺を見ていた。


「……うん」


「やっぱりか」


父さんは目を閉じた。


「お前が誰かを助けようとすること自体を、私たちは否定しない。むしろ、誇りに思っている」


「……」


「だがな、武。お前自身が死んでしまったら、どうするつもりだったんだ?」


答えられなかった。


「お前は、自分の命を軽く考えすぎている」


父さんの声は、静かだった。


怒鳴られるよりも、ずっと胸に刺さった。


「助けたいと思うことは悪くない。だが、自分一人で全部を背負う必要はないんだ。危険があるなら、警察を呼ぶことだってできる。大人に助けを求めることだってできる」


「……うん」


「今回は、たまたま運がよかっただけかもしれない。次も同じようにいくとは限らないんだぞ」


俺は、布団の上で拳を握りしめた。


わかっている。


そんなことは、わかっているのだ。


それでも、あのときは身体が勝手に動いていた。


二人が傷つく未来を知っていて、何もせずに見ていることなんてできなかった。


「……ごめん」


もう一度、そう呟いた。


母さんは、しばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……でも」


「?」


「あなたが誰かを助けようとしたことは、誇りに思ってる。本当に、よく頑張ったね」


その言葉に、胸が詰まった。


父さんも頷く。


「だからこそ、次は自分のことも大切にしなさい」


「……うん」


俺は目を閉じた。


少しだけ、泣きそうになった。


*


その後、医師から詳しい説明を受けた。


傷は腹部の表面から筋肉の一部にかけて及んでいたものの、腹腔内には達しておらず、緊急手術も必要なかったらしい。ただし、出血もあり、感染や傷の悪化がないか慎重に確認する必要があるため、数日間は入院して経過を見ることになった。


身体を起こすだけでも腹部が痛む。


寝返りを打つときには、傷に響かないよう気をつけなければならなかった。


今まで当たり前にできていたことが、ひどく面倒に感じられる。


それでも、命に別状がなかったことは幸運だった。


俺は何度も、その言葉を頭の中で繰り返した。


命に別状はない。


美羽も、紗奈ちゃんも無事だった。


それだけで十分なはずなのに、胸の奥には、まだ恐怖が残っていた。


未来が見えた。


そして、俺はまた、誰かを守るために自分を傷つけた。


それが正しかったのかどうか、今もわからない。


*


翌日の土曜日。


病室の扉がノックされた。


「失礼します」


聞き覚えのある声だった。


顔を向けると、そこには美羽と、彼女の母親が立っていた。


美羽は俺と目が合った瞬間、足を止めた。


「……武くん」


その顔が、くしゃりと歪んだ。


「武くん……っ!」


彼女は駆け寄ろうとして、俺がベッドに横たわっていることを思い出したのか、慌てて足を止めた。


「ご、ごめん……! 痛いよね……?」


「……いや、大丈夫」


本当は痛かった。


でも、彼女がそんな顔をしているのを見る方が、ずっと落ち着かなかった。


美羽は、ぎゅっと唇を噛んだ。


「……ありがとう」


小さな声だった。


「私と紗奈を、助けてくれて……」


「……」


「私、あのとき……何もできなかった。武くんがいなかったら、どうなっていたか……」


彼女の目から、涙がこぼれた。


「本当に……ありがとう……!」


「……美羽」


名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。


「……え?」


「もう、大丈夫だから」


本当は、自分でも大丈夫なのかどうかわからなかった。


けれど、今は彼女を安心させたかった。


美羽は涙を拭い、何度も頷いた。


「……うん」


それから、少しだけ笑った。


「私たち、もう友達でしょ?」


友達。


その言葉が、胸の中に落ちた。


俺にとっては、ずいぶん遠い響きだった。


「……うん」


少しだけ、頷いた。


隣に立っていた母親も、深々と頭を下げた。


「永野くん、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、娘たちはどうなっていたか……」


「いえ……俺は、ただ……」


「それでも、あなたが二人を守ってくれたことに変わりはありません。感謝してもしきれません」


美羽の母親は、真剣な表情でそう言った。


そのあと、俺の両親と美羽の家族は、事件のことや今後のことについて話し始めた。


警察によると、犯人は現行犯で逮捕されたらしい。


俺たちが歩いていた場所の近くで、パトロール中の警察官が異変に気づいたことが幸いしたようだった。


犯人は、以前から美羽を一方的に見かけていた男だったという。美羽と紗奈ちゃんが楽しそうに歩いている姿を見て、勝手に憎悪を募らせたらしい。


……そんな理由で、人を刺そうとするのか。


理解できなかった。


けれど、人間の感情というものは、必ずしも理屈で説明できるわけではない。


俺は、そういうものを考えすぎるようになっていた。


他人の表情。


言葉の裏側。


何気ない態度に隠された感情。


考えれば考えるほど、人と関わることが怖くなった。


だから、避けていた。


誰とも深く関わらないようにしていた。


それなのに。


「……武くん?」


美羽が、俺の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


「……いや、何でもない」


「そっか」


彼女はそれ以上、何も聞かなかった。


ただ、俺のそばにいてくれた。


そのことが、不思議と心地よかった。


*


それから数日間、俺は病院で過ごした。


傷の状態は少しずつ落ち着いていったが、身体を動かすと痛みが残り、無理をすれば傷が開く危険もあるという。


医師からは、退院後もしばらく安静にし、重いものを持ったり、激しい運動をしたりしないように言われた。


美羽は、学校が終わると母親と一緒に何度か見舞いに来てくれた。


毎日来る必要なんてない。


そう言おうとしたこともある。


けれど、病室に入ってくるたびに「今日はどうだった?」と話しかけてくる彼女を見ていると、結局、何も言えなかった。


学校のこと。


授業のこと。


紗奈ちゃんが幼稚園で描いた絵のこと。


美羽が夕食の手伝いをして、少し失敗してしまったこと。


話題は本当に、他愛もないものばかりだった。


それなのに、彼女の話を聞いている時間は、不思議と退屈しなかった。


「……あ、そうだ」


ある日の見舞いで、美羽が思い出したように言った。


「武くん、月曜日から学校に戻るんだよね?」


「……医者には、無理しなければ大丈夫って言われたけど」


「本当に? 無理しちゃだめだよ?」


「……わかってる」


「あと、重いものも持っちゃだめだからね!」


「……それ、先生にも言われた」


「じゃあ、ちゃんと守ること!」


まるで母親のような言い方だった。


思わず苦笑すると、美羽も笑った。


「だって、心配なんだもん」


何気ない言葉だった。


それなのに、俺は返事に困った。


心配してくれる人がいる。


自分のことを気にかけてくれる人がいる。


そんな当たり前のことが、俺には少しだけ眩しかった。


*


翌週の水曜日。


俺は、医師から退院の許可をもらった。


傷の状態は安定しており、発熱や感染の兆候もない。しばらく自宅で安静に過ごすことを条件に、退院しても問題ないとのことだった。


病院の会計を済ませ、父さんと母さんに付き添われて家へ帰る。


自分の家なのに、久しぶりに戻ってきたような気がした。


「……やっぱり、家が一番だな」


玄関で靴を脱ぎながら呟くと、母さんが少しだけ笑った。


「そうでしょう。でも、しばらくは無理しないでね」


「わかってるよ」


「本当に?」


「……わかってるって」


父さんも、呆れたように笑っていた。


その日の夕食は、母さんがいつもより豪華な料理を用意してくれた。


父さんも仕事を早めに切り上げ、家族三人で食卓を囲む。


久しぶりに自宅で食べる食事は、いつもよりおいしく感じられた。


「……あのさ」


食事の途中、俺は箸を止めた。


「ん?」


父さんが顔を上げる。


「俺、来週から学校に行こうと思う」


母さんが心配そうに眉を寄せた。


「傷は大丈夫なの?」


「うん。医者にも、無理しなければ大丈夫って言われたし」


「……そう」


母さんは少し考えたあと、頷いた。


「わかった。でも、少しでも痛かったらすぐに休むこと。いい?」


「うん」


「それから、重いものは持たない。体育も見学。先生にも事情を説明すること」


「……わかったって」


思わず苦笑すると、父さんも小さく笑った。


「まあ、心配するのは当然だ。今回は本当に大変だったんだからな」


「……うん」


食事を終え、自室へ戻る。


机の上には、月曜日の授業で使う教科書が並んでいた。


俺はその一冊を手に取り、何となくページをめくった。


普通の教科書だ。


どこにでもある、ただの教科書。


けれど、俺はその厚みを確かめるように、しばらく手の中で持ち直した。


あのとき、俺は二人を守ろうとした。


怖かった。


本当に怖かった。


それでも、身体が動いた。


「……俺、まだ……」


何かを呟きかけて、口を閉じた。


まだ、正義感が残っている。


まだ、誰かを助けたいと思っている。


それを認めるのが、少し怖かった。


けれど、もう二度と、そんな気持ちを押し殺すことはできないのかもしれない。


スマートフォンが震えた。


画面を見ると、美羽からメッセージが届いていた。


『退院おめでとう! 今日はゆっくり休んでね。月曜日、学校で会えるの楽しみにしてる!』


少し考えてから、返信する。


『ありがとう。月曜日に行くよ』


すぐに返事が来た。


『うん! 待ってるね!』


短いメッセージだった。


それなのに、俺はしばらく画面を見つめていた。


月曜日。


学校で会う。


ただ、それだけのことが、少しだけ楽しみに思えた。


*


月曜日の朝。


いつもより少し早く目が覚めた。


制服に着替え、鞄を持つ。


腹部の傷はまだ少し痛む。長い距離を歩くと疲れやすく、急な動作をすると傷に響いた。


それでも、学校までの道のりを歩くことはできそうだった。


玄関を出ると、梅雨の湿った空気が肌に触れた。


空は相変わらず曇っている。


「……行ってきます」


家の中に声をかけ、歩き出した。


学校までの道のりは、いつもと変わらない。


住宅街を抜け、交差点を渡り、坂道を上る。


それなのに、今日は少しだけ違って感じられた。


教室に入ると、何人かのクラスメイトがこちらを見た。


「お、永野。もう大丈夫なのか?」


前の席の男子が声をかけてくる。


「……うん。まあ」


「刺されたって聞いたとき、マジでびびったわ。大丈夫だったんだな」


「……ありがとう」


短く答え、自分の席に座る。


以前なら、こんな会話すら避けていたかもしれない。


けれど、今日は少しだけ、普通に答えられた。


鞄を机の横にかけ、教科書を取り出す。


いつも通り、誰とも関わらずに過ごすつもりだった。


そのはずだった。


「――武くん!」


教室の入口から、明るい声が響いた。


一瞬、教室の空気が止まった。


佐々木美羽が、こちらに向かって歩いてくる。


クラスの男子たちが目を丸くし、女子たちも不思議そうに顔を見合わせた。


何しろ、美羽が自分から男子の席へ向かっていく姿など、あまり見たことがないのだろう。


「おはよう!」


「……おはよう」


「もう傷、大丈夫なの?」


「うん。問題ないよ」


「よかったぁ……!」


美羽は心底安心したように笑った。


そして、俺の机に手をついて、顔を覗き込む。


「昨日、ちゃんと休めた?」


「……まあ」


「ご飯は?」


「食べたけど」


「ちゃんと寝た?」


「……寝たよ」


「そっか!」


何だ、このやり取り。


まるで、俺が小さな子供みたいじゃないか。


そう思ったが、不思議と嫌ではなかった。


ただ、周囲から向けられる視線が痛い。


「……なあ」


近くにいた男子が、恐る恐る口を開いた。


「佐々木さんと永野って、知り合いだったの?」


美羽はそちらを向き、あっさりと答えた。


「うん。金曜日にちょっとね。仲良くなったんだ」


「……へえ?」


男子は俺を見た。


その表情には、明らかな困惑が浮かんでいた。


無理もない。


今まで、俺と美羽が話しているところを見たことがある人間など、ほとんどいないだろう。


「……何か、意外だな」


「そう?」


美羽は首を傾げた。


「武くん、いい人だよ?」


……やめてくれ。


そんなことを、クラス全員に聞こえる声で言わないでほしい。


俺は前髪を指でいじりながら、視線を逸らした。


そのとき、始業のチャイムが鳴った。


「じゃあ、またあとでね!」


美羽はそう言って、自分の席へ戻っていった。


教室に、ざわざわとした空気が広がる。


「何があったんだ?」


「永野って、佐々木さんと仲よかったの?」


「いや、全然知らなかったんだけど」


聞こえてくる声に、俺は小さく息を吐いた。


……面倒なことになった。


けれど。


ふと、美羽の方を見る。


彼女は友達と話しながら、楽しそうに笑っていた。


その笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなった。


誰かと関わることは、確かに怖い。


けれど、すべてが悪いことばかりではないのかもしれない。


そんなことを、ほんの少しだけ思った。


*


昼休み。


俺はいつも通り、教室の隅で弁当を食べるつもりだった。


購買へ行くのも面倒だったし、誰かと一緒に食べる予定もない。


鞄から弁当箱を取り出した、そのとき。


「武くん、お昼一緒に食べよ!」


美羽が、当然のように声をかけてきた。


「……え?」


「え、じゃないよ。お昼!」


彼女は自分の弁当箱を持って、俺の机の横に立っている。


周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。


「……俺と?」


「うん。他に誰がいるの?」


「……いや」


断る理由を探した。


けれど、見つからなかった。


「……別に、いいけど」


「やった!」


美羽は嬉しそうに笑い、向かいの席を引いた。


その様子を見ていた女子たちが、ひそひそと話し始める。


「え、何? どういうこと?」


「金曜日に何かあったって言ってたよね」


「永野くんって、あんな感じだったっけ?」


聞こえないふりをして、弁当の蓋を開けた。


美羽は俺の弁当を覗き込む。


「わ、おいしそう。お母さんのお弁当?」


「……うん」


「いいなあ。私、朝は妹の準備とかでバタバタしちゃうから、簡単なものばっかりなんだよね」


「……大変そうだね」


「まあね。でも、紗奈のことは好きだから」


そう言って、美羽は柔らかく笑った。


その表情には、無理をしている様子がなかった。


本当に、妹のことが大切なのだろう。


「……妹、五歳だっけ」


「うん。今度、写真見せてあげる!」


「……うん」


それから俺たちは、他愛もない話をした。


好きな食べ物。


苦手な教科。


学校の先生のこと。


美羽は勉強があまり得意ではないらしく、特に数学が苦手だと言っていた。


「だってさ、なんで文字が数字の代わりになるの? 意味わかんなくない?」


「……慣れれば、そんなに難しくないよ」


「うわ、頭いい人の発言だ」


「……いや、普通だと思うけど」


「普通じゃないって。今度、教えてよ」


「……俺でよければ」


そう答えると、美羽は嬉しそうに頷いた。


「約束ね!」


その笑顔を見て、俺は少しだけ不思議な気持ちになった。


誰かと話すことが、こんなに簡単だっただろうか。


いや、昔はもっと自然にできていたはずだ。


いつから、こんなふうになってしまったのだろう。


そんなことを考えていると、美羽が俺の顔を覗き込んだ。


「……武くん?」


「……何?」


「何か、考え事?」


「……いや」


「そっか」


美羽は、それ以上聞かなかった。


ただ、何かを確かめるように、少しだけ俺の顔を見つめていた。


そして、ぽつりと言った。


「武くんって、もっと怖い人かと思ってた」


「……え?」


「だって、いつも前髪で目が隠れてるし、全然しゃべらないし。何考えてるかわかんないんだもん」


「……よく言われる」


「でも、話してみたら全然違った」


彼女は笑った。


「優しいし、ちゃんと話を聞いてくれるし。私、武くんと話すの、結構好きかも」


……。


「…………」


「……あれ? どうしたの?」


「……いや、何でもない」


俺は弁当に視線を落とした。


耳が熱い。


何だ、今の。


何気ない言葉だ。


美羽にとっては、何でもないことなのかもしれない。


それなのに、俺はどうしてこんなに動揺しているのだろう。


「……武くん、顔赤くない?」


「……気のせい」


「ふーん?」


美羽は、どこか楽しそうに笑っていた。


その顔を見ていると、どうにも調子が狂う。


けれど、不思議と悪い気はしなかった。


その日から、俺の日常は少しずつ変わり始めた。


*


美羽と一緒に過ごすようになってから、三日が経った。


といっても、劇的な変化があったわけではない。


朝、教室に入ると美羽が挨拶をしてくる。


昼休みには、一緒に弁当を食べる。


放課後は、途中まで一緒に帰る。


それだけだ。


それだけなのに、周囲の反応は日に日に大きくなっていった。


「なあ、永野」


木曜日の昼休み。


俺が教科書を読んでいると、前の席の男子が振り返った。


「お前、佐々木さんと付き合ってんの?」


「……は?」


思わず顔を上げた。


「いや、だってさ。最近ずっと一緒にいるじゃん」


「……付き合ってないよ」


「マジで?」


「……うん」


男子は信じられないという顔をした。


「じゃあ、なんで?」


「……何でって」


俺にもわからない。


美羽が話しかけてくるから、普通に返事をしているだけだ。昼食に誘われるから、一緒に食べているだけだ。帰ろうと言われるから、一緒に帰っているだけだ。


それ以上の意味なんて、ない。


……ないはずだ。


「まあ、いいけどさ。佐々木さん、人気あるから気をつけろよ」


「……何を?」


「いや、いろいろと」


男子は曖昧に笑って、前を向いた。


俺は小さく息を吐いた。


面倒なことになっている。


それだけは、間違いなかった。


*


放課後。


昇降口で靴を履き替えていると、美羽がやってきた。


「武くん、お待たせ!」


「……うん」


「帰ろ!」


二人で校門を出る。


六月の空は相変わらず曇っていて、今にも雨が降りそうだった。


「そういえばさ」


美羽が隣を歩きながら言った。


「武くんって、部活入ってないんだよね?」


「……うん」


「運動とか、しないの?」


「……今は、あんまり」


「へえ。何か意外。体、結構がっしりしてるのに」


美羽は、何気なく俺の腕を見た。


「何かやってたの?」


「……昔は、いろいろ」


「いろいろ?」


「……バスケとか、サッカーとか。頼まれたら、助っ人で入ったりしてた」


「え、すごいじゃん!」


美羽が目を輝かせた。


「何でやめちゃったの?」


「……ちょっと、いろいろあって」


言葉を濁す。


美羽は、すぐに何かを察したようだった。


「……そっか」


それ以上、聞いてこなかった。


その気遣いが、ありがたかった。


俺はずっと、人と話すときに身構えていた。


何を聞かれるのか。


何を言われるのか。


自分の言葉をどう受け取られるのか。


考えすぎて、何も話せなくなる。


けれど、美羽は違った。


気になったことは、はっきり聞いてくる。


でも、俺が答えたくなさそうにしていることは、無理に聞かない。


その距離感が、妙に心地よかった。


「……美羽は?」


「ん?」


「……部活、入ってないんだよね」


「あー、うん。私、放課後は紗奈のお迎えとかあるから」


美羽は、少しだけ笑った。


「お母さんも仕事頑張ってくれてるし、私もできることはしたいんだよね」


「……偉いね」


「えっ?」


「……いや、普通に。俺だったら、そんなふうにできるかわからないから」


美羽は一瞬、驚いたような顔をした。


それから、少しだけ頬を赤くした。


「……何それ。急に褒めるじゃん」


「……思ったことを言っただけだけど」


「……そっか」


美羽は前を向いた。


耳が、ほんのり赤くなっている。


……何か変なことを言っただろうか。


俺にはわからなかった。


しばらく歩くと、美羽の家へ向かう道と、俺の家へ向かう道の分かれ道に着いた。


「じゃあ、また明日ね!」


「……うん。また明日」


美羽は手を振って、帰っていった。


俺はその背中を見送ってから、自分の家へ向かった。


明日も、また会う。


それが当たり前になりつつあることに、俺はまだ気づいていなかった。


*


金曜日。


昼休みが終わりかけた頃だった。


「……永野」


教室の入口で、男子生徒に呼び止められた。


同じ学年の男子だ。


名前は確か、田中だったか。


あまり話したことがない。


「……何?」


「ちょっと、いいか」


その声には、明らかな苛立ちがあった。


俺は本を閉じた。


「……何か用?」


田中は俺の前まで来ると、低い声で言った。


「お前、佐々木と仲いいんだって?」


「……まあ、最近は」


「調子に乗ってんじゃねえぞ」


……。


何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


「……何で?」


「は?」


「……何で、そうなるの?」


田中の顔が歪んだ。


「お前みたいな地味な奴が、佐々木と毎日一緒にいるのが気に入らねえんだよ」


周囲が静かになった。


何人かのクラスメイトが、こちらを見ている。


「……別に、俺が誘ってるわけじゃないけど」


「言い訳すんなよ」


「……事実だよ」


田中が一歩近づいた。


「佐々木は、誰にでも優しいんだよ。勘違いしてんじゃねえぞ」


「……勘違い?」


「あいつがお前のこと好きだと思ってんのか?」


俺は黙った。


そんなこと、考えたこともなかった。


美羽が俺をどう思っているのか。


友達だと思っているのか。


ただ、助けた相手だから気にかけてくれているだけなのか。


俺にはわからない。


そして、わからないままでいいと思っていた。


「……別に、そんなこと思ってないよ」


そう答えると、田中は鼻で笑った。


「だったら、距離置けよ」


そのときだった。


「ちょっと、何してるの?」


聞き慣れた声が響いた。


美羽だった。


彼女は俺と田中の間に入ると、険しい表情で田中を見た。


「何で武くんにそんなこと言ってるの?」


「いや、俺は……」


「武くんが誰と仲良くするかなんて、武くんの自由でしょ?」


美羽は、はっきりと言った。


「私が誰と話すかも、私が決めることだよ。田中くんに指図されることじゃない」


「……っ」


田中は言葉に詰まった。


「それに、武くんは何も悪いことしてないじゃん。何でそんな言い方されなきゃいけないの?」


「……お前、そいつの肩持つのかよ」


「当たり前でしょ」


美羽は一歩も引かなかった。


「私が仲良くしたいと思って、一緒にいるんだから」


その言葉に、胸が妙にざわついた。


仲良くしたいと思って。


美羽が、俺と。


田中はしばらく美羽を睨んでいたが、やがて舌打ちをして去っていった。


教室に、気まずい空気が残る。


「……大丈夫?」


美羽が振り返った。


「……うん。ありがとう」


「もう。何なの、あの人」


美羽は不満そうに頬を膨らませた。


「武くん、何もしてないのに」


「……まあ、気にしてないよ」


「私は気にする!」


即答だった。


俺は思わず、目を瞬かせた。


美羽は少しだけ表情を和らげると、俺の机に手をついた。


「……ねえ、武くん」


「……何?」


「明日も、一緒に帰ろうね」


「……うん」


「約束!」


彼女は笑った。


その笑顔を見ていると、さっきまでの気まずさが少しずつ消えていった。


……本当に、不思議な人だ。


どうして、ここまで俺に構ってくれるのだろう。


わからない。


けれど、もう少しだけ、この時間が続けばいいと思った。


その願いが、どれほど危ういものなのか。


俺は、まだ知らなかった。


*


翌週の月曜日。


昼休み。


俺は弁当を食べ終え、教室で次の授業の準備をしていた。


美羽は友達と話している。


いつも通りの光景だ。


けれど、今日は少しだけ様子が違った。


教室の反対側。


女子生徒の一人が、美羽を睨むように見つめていた。


その隣には、田中がいる。


二人は小声で何かを話していた。


気にするな。


そう思って視線を戻そうとした。


その瞬間、女子生徒と目が合った。


彼女は、慌てて顔を背けた。


……何だ?


胸の奥に、嫌な感覚が広がった。


ただの嫉妬かもしれない。


田中がまだ腹を立てているだけかもしれない。


それでも、妙に気になった。


俺は席を立ち、美羽のところへ向かった。


「……美羽」


「ん? どうしたの?」


「……今日、放課後は予定ある?」


「今日は紗奈のお迎えがあるけど……いつも通り、一緒に帰る?」


「……うん」


「そっか。じゃあ、待ってるね!」


美羽は笑った。


その手が、俺の腕に軽く触れた。


その瞬間。


視界が、再び暗転した。


*


――薄暗い体育倉庫。


床に落ちた、赤いリボン。


美羽が、壁際に追い詰められている。


目の前には、田中。


その隣に、昼休みに俺を睨んでいた女子生徒が立っていた。


「やめて……!」


美羽が叫ぶ。


田中が、その腕を掴んだ。


女子生徒はスマートフォンを構え、笑っていた。


「ねえ、佐々木さん。いつもみたいに余裕ぶってみなよ」


「……っ、離して!」


「無理だよ。だって、あんたが悪いんじゃん?」


女子生徒の声が、冷たく響く。


「みんなに好かれてるからって、何でも許されると思ってるの?」


田中が美羽を押さえつける。


美羽が必死に抵抗する。


そして――。


映像が途切れた。


*


「……っ!」


俺は息を呑んだ。


手が震えている。


まただ。


また、未来が見えた。


しかも、今度は。


「……武くん?」


美羽が、不思議そうに俺を見ている。


「どうしたの? 大丈夫?」


「……美羽」


思わず、名前を呼んでいた。


彼女が目を丸くする。


「……え?」


「……今日、絶対に一人で行動しないで」


「……え?」


「放課後も、俺から離れないでほしい」


自分でも、何を言っているのかわからなかった。


けれど、頭の中には、あの光景が焼きついている。


美羽が怯えている姿。


助けを求める声。


そして、あの二人の顔。


「……何か、あったの?」


美羽の表情が変わった。


俺は答えられなかった。


未来を見たことを話すべきなのか。


どう説明すればいいのか。


考えれば考えるほど、言葉が出てこない。


「……お願い」


結局、それしか言えなかった。


「……今日だけでいいから、俺の言うことを聞いてほしい」


美羽は、しばらく俺を見つめていた。


そして、静かに頷いた。


「……わかった」


その言葉に、少しだけ安堵した。


今度こそ。


今度こそ、守る。


過去の失敗を繰り返さない。


そう決意した。


けれど、未来を知っていることと、その未来を防げることは、同じではなかった。


午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


美羽が視界に入るたびに、無事であることを確認する。


休み時間には、さりげなく周囲を見回す。


田中と、あの女子生徒。


二人が何を考えているのかはわからない。


けれど、何かを企んでいることだけは、確信していた。


放課後。


俺は、美羽を連れてすぐに帰ろうとした。


そのとき、担任の先生に呼び止められた。


「永野、ちょっといいか?」


「……はい」


「悪いんだが、職員室までこのプリントを運ぶのを手伝ってくれないか。すぐ終わるから」


断りたかった。


今は、美羽から離れるわけにはいかない。


「……すみません。今日はちょっと……」


「武くん」


美羽が、俺の袖を軽く引いた。


「大丈夫だよ。私、ここで待ってるから」


「……でも」


「すぐ終わるんでしょ?」


彼女は笑った。


「大丈夫。約束したじゃん。武くんが戻ってくるまで、ここで待ってる」


その言葉に、俺は迷った。


ほんの数分。


それだけなら、大丈夫かもしれない。


未来の映像では、体育倉庫に連れていかれていた。


今、彼女は教室にいる。


このまま一緒にいれば、未来を変えられるかもしれない。


「……すぐ戻るから」


「うん!」


俺は先生の後について、教室を出た。


ほんの数分のつもりだった。


けれど、その数分が、取り返しのつかないものになりかけるとは思わなかった。


*


職員室での用事は、思ったよりも時間がかかった。


プリントの仕分けだけでなく、別の書類を運ぶのも手伝うことになったからだ。


何度も時計を確認する。


五分。


十分。


……遅い。


嫌な予感が、どんどん膨らんでいく。


「……先生、すみません。もう戻ってもいいですか?」


「ああ、悪いな。助かったよ」


返事を聞くや否や、俺は職員室を飛び出した。


廊下を走る。


階段を駆け下りる。


教室の前に着いたとき、そこには誰もいなかった。


美羽の鞄もない。


「……美羽?」


呼びかけても、返事はない。


教室の中を見回す。


机も椅子も、いつも通りだ。


ただ、窓際の床に、小さなものが落ちていた。


赤いリボン。


未来視で見たものと、同じだった。


「……っ!」


全身から血の気が引いた。


俺はリボンを拾い上げ、強く握りしめた。


間に合わなかった。


また、間に合わなかった。


「……くそっ!」


走り出す。


体育館。


廊下。


空き教室。


校舎の裏。


考えられる場所を片っ端から探す。


未来視で見たのは、体育倉庫だ。


だが、校内には体育倉庫がいくつもある。


どこにいる。


どこだ。


どこにいるんだ。


「……美羽!」


返事はない。


焦りで、思考がまとまらなくなっていく。


落ち着け。


未来の映像を思い出せ。


床に落ちた赤いリボン。


薄暗い倉庫。


壁際に追い詰められた美羽。


……体育館の裏だ。


校舎の端にある、古い体育倉庫。


普段はあまり使われていない場所。


俺は走った。


息が切れる。


退院してから、まだ身体は完全に回復していない。走るたびに腹部の傷が痛み、呼吸が乱れる。


それでも、止まれなかった。


倉庫の近くまで来たとき、何かが倒れる音がした。


続いて、押し殺したような声。


「……やめて!」


美羽の声だった。


頭の中で、何かが切れた。


「――美羽!」


俺は扉を開け放った。


そこには、未来で見た光景が広がっていた。


田中が美羽の腕を押さえつけ、もう一人の女子生徒がスマートフォンを構えている。


美羽は壁際に追い詰められ、制服を乱されていた。


恐怖に震える彼女の目が、俺を捉えた。


「……武、くん……!」


その声を聞いた瞬間。


頭の中が、真っ白になった。


恐怖も。


迷いも。


今まで押し殺してきた感情も。


すべてが、怒りに塗りつぶされていく。


「……何、してんだよ」


自分でも驚くほど、低い声が出た。


田中が振り返る。


「……は? 何でお前が……」


「何してんだって、聞いてんだよ」


俺は一歩、踏み出した。


田中が美羽から手を離し、こちらを睨む。


「うるせえな。お前には関係ねえだろ」


「……関係あるに決まってんだろ」


拳を握る。


腹部の傷が痛んだ。


けれど、そんなことはどうでもよかった。


「嫌がってるだろうが」


「……っ」


「やめろって言ってんだよ!」


怒鳴った瞬間、倉庫の中に声が響いた。


田中が一瞬、怯んだ。


俺は、その隙を見逃さなかった。


彼がこちらに向かってくる。


拳を振り上げる。


その動きが、ひどく遅く見えた。


昔、何度も経験した感覚だった。


ボールの軌道を読む。


相手の動きを予測する。


身体が、自然に動く。


俺は半歩だけ身体をずらし、田中の拳をかわした。


そして。


「……二度と、こんなことするな」


拳を振り抜いた。


鈍い音が響いた。


田中の身体がよろめき、積み重ねられていたマットにぶつかった。


「……がっ!」


女子生徒が悲鳴を上げた。


スマートフォンが床に落ちる。


俺はそちらを睨みつけた。


「……お前もだ」


女子生徒は、何も言えずに固まっていた。


「人を傷つけてまで、何がしたかったんだよ」


答えは返ってこない。


俺は美羽の方へ向き直った。


「……美羽」


彼女は、震えていた。


目には涙が浮かび、乱れた制服を必死に押さえている。


俺は、慌てて自分の上着を脱いだ。


「……これ、着て」


美羽は震える手で上着を受け取った。


「……武くん……」


「……もう大丈夫だから」


そう言った瞬間、自分の声も震えていることに気づいた。


本当に、大丈夫なのだろうか。


もう、間に合ったのだろうか。


美羽は無事なのだろうか。


何もかもが怖かった。


それでも。


彼女は、俺の上着を握りしめながら、小さく頷いた。


「……うん」


そのとき、廊下から複数の足音が聞こえてきた。


「今の音は何だ!」


教師たちが駆け込んでくる。


倉庫の中の状況を見た瞬間、先生たちの表情が変わった。


「これは……! お前たち、何をした!」


田中と女子生徒は、その場から動けなかった。


教師たちはすぐに二人を引き離し、美羽の状態を確認した。


俺はその場に立ち尽くしていた。


拳が震えている。


怒りが、まだ身体の中に残っていた。


それでも、目の前の美羽が無事であることを確認すると、少しずつ力が抜けていった。


「……よかった」


思わず、そう呟いた。


今度は、間に合った。


完全ではないかもしれない。


怖い思いをさせてしまった。


それでも、彼女を守ることができた。


俺は、初めてそう思えた。


*


その後、学校は大騒ぎになった。


美羽は保健室で先生たちから事情を聞かれ、俺も別室で何があったのかを説明した。


田中と女子生徒は、駆けつけた警察に引き渡された。


二人は美羽に対する嫌がらせを計画し、体育倉庫へ連れ込んで、無理やり服を脱がせようとしていたらしい。


女子生徒は、乱れた美羽の姿を撮影し、学校中に広めるつもりだったという。


理由は、嫉妬だった。


美羽が人気者であること。


自分の思い通りにならないこと。


そして、俺と親しくしていること。


そんな感情が積み重なり、取り返しのつかない行動につながったのだという。


二人は学校からも厳しい処分を受けることになり、退学を含めた対応が検討されると聞いた。


けれど、俺にとって、そんなことはどうでもよかった。


ただ、美羽が無事でいてくれた。


それだけで、十分だった。


夕方。


事情聴取を終え、校門を出たところで、美羽が俺を待っていた。


「……武くん」


振り返る。


彼女は、俺の上着を両手で抱えていた。


「……帰ろう?」


「……うん」


並んで歩き出す。


しばらく、会話はなかった。


美羽は、いつもより静かだった。


無理もない。


今日、彼女は恐ろしい思いをしたのだ。


俺に何か話しかけることも、難しいのかもしれない。


「……ごめん」


気づけば、そう口にしていた。


美羽が顔を上げる。


「……え?」


「……もっと早く、戻ってくればよかった」


本当は、あの未来を見た時点で、先生に事情を話すべきだったのかもしれない。


美羽を一人にしないよう、もっと強く言うべきだったのかもしれない。


それなのに、俺は一瞬の判断を誤った。


また、誰かを危険な目に遭わせた。


そう思うと、胸が苦しかった。


けれど。


「……違うよ」


美羽は、首を横に振った。


「武くんは、助けに来てくれたじゃん」


「……でも」


「怖かったよ。すごく怖かった」


美羽の声が、少しだけ震えた。


「でも、武くんが来てくれたとき、本当に安心したの」


彼女は、俺を見上げた。


「……ありがとう」


その言葉に、俺は何も返せなかった。


美羽は、少しだけ笑った。


「それにさ」


「……何?」


「武くん、今日、すっごくかっこよかった」


「……は?」


思わず、間の抜けた声が出た。


美羽は、くすっと笑う。


「だって、いつも前髪で目が隠れてるのに、今日は違ったから」


……。


そういえば。


体育倉庫で、視界を遮る前髪を無意識にかき上げていた。


あのときは、そんなことを気にしている余裕などなかった。


「……見たの?」


「うん」


美羽は、少しだけ頬を赤くした。


「……すごく、かっこよかった」


「…………」


何と返せばいいのかわからない。


「……それに」


美羽は、前を向いた。


「武くんって、本当はすごく優しい人なんだね」


その声は、穏やかだった。


「最初に紗奈を探してくれたときも、今日、助けに来てくれたときも。武くんは、ちゃんと誰かのために動ける人なんだって思った」


「……俺は」


言いかけて、口を閉じた。


俺は、そんな立派な人間じゃない。


怖がりで。


臆病で。


誰かが傷つくことから逃げてきた人間だ。


それでも。


「……ありがとう」


今度は、ちゃんと言えた。


美羽は、嬉しそうに笑った。


「うん!」


それから、俺たちは並んで歩き続けた。


家へ向かう道の途中。


美羽は何度か俺の方を見て、何かを言いかけては、口を閉じていた。


「……どうしたの?」


思い切って聞いてみる。


「えっ? な、何でもないよ!」


美羽は慌てて首を振った。


「……そう?」


「う、うん!」


……何なんだろう。


けれど、無理に聞くことでもない。


俺は前を向いた。


そのとき、美羽がそっと俺の袖を掴んだ。


「……ねえ、武くん」


「……何?」


「明日も、一緒に帰ろうね」


俺は少しだけ驚いた。


今日、あんなことがあったばかりなのに。


彼女は、もう明日のことを考えている。


「……うん」


そう答えると、美羽は安心したように笑った。


「約束だからね!」


その笑顔を見て、俺も少しだけ笑った。


人と関わることは、怖い。


誰かを大切に思えば、その人を失うことが怖くなる。


それでも。


誰かと一緒に過ごす時間は、こんなにも温かい。


俺は、ようやくそのことを思い出し始めていた。


*


それから数日間、学校はいつも以上に騒がしかった。


田中たちの事件は、教師たちの間でも大きな問題になったらしい。


詳しい事情を知る生徒は限られていたが、二人が警察に事情を聞かれ、学校からも厳しい処分を受けることになったという話は、あっという間に広まった。


俺と美羽についても、妙な噂が流れていた。


「永野って、実はめちゃくちゃ強いらしいぞ」


「佐々木さんを助けたって話、本当なの?」


「ていうか、あいつ、前髪上げるとイケメンなんだって?」


……最後の話は、どこから広まったのだろう。


できれば、今すぐ忘れてほしい。


そんなことを考えながら教室に入ると、美羽がこちらを見つけて手を振った。


「武くん、おはよう!」


「……おはよう」


「今日も一緒にお昼食べようね!」


「……うん」


もう、周囲の視線にも慣れてきた。


美羽は相変わらず、俺に話しかけてくる。


昼休みには一緒にご飯を食べ、放課後には一緒に帰る。


何も変わらない。


いや、少しだけ変わったこともある。


以前より、俺から話しかけることが増えた。


美羽が数学の問題で困っていれば、一緒に考える。


紗奈ちゃんの話を聞けば、自然と質問が出てくる。


くだらない冗談を言われれば、思わず笑ってしまう。


そんな自分に、時々驚く。


人と関わらないようにしてきたはずなのに。


いつの間にか、誰かと話すことが、少しだけ楽しみになっていた。


「……武くん?」


「……ん?」


「何か、最近よく笑うようになったね」


美羽が、嬉しそうに言った。


「……そうかな」


「うん。前は、もっとこう……壁がある感じだったから」


「……悪かったな」


「ふふっ。別に、悪いって言ってないよ」


彼女は笑った。


「今の方が、私は好きだけどね」


……。


まただ。


こういうことを、何でもない顔で言う。


俺は返事に困り、弁当に視線を落とした。


美羽はそんな俺を見て、楽しそうに笑っていた。


*


六月も半ばに差しかかった頃。


雨上がりの放課後、俺たちはいつもの道を歩いていた。


「ねえ、武くん」


「……何?」


「今度の土曜日、空いてる?」


「……土曜日?」


「うん。紗奈がね、公園に行きたいって言ってるんだけど。よかったら、一緒に来ない?」


「……俺も?」


「うん!」


美羽は、当たり前のように頷いた。


「紗奈、武くんのこと大好きだから。たけるおにいちゃん、また遊びたいって言ってたよ」


「……そっか」


少しだけ、頬が緩んだ。


あの公園で遊んだときのことを思い出す。


紗奈ちゃんは、ずっと楽しそうに笑っていた。


また一緒に遊べるのなら、それは悪くない。


「……いいよ」


「本当!?」


「……うん。予定もないし」


「やった!」


美羽は、ぱっと顔を輝かせた。


その反応が、少しだけ不思議だった。


ただ、公園に行くだけなのに。


そんなに嬉しいことなのだろうか。


「……そんなに嬉しい?」


思わず聞いてみると、美羽は一瞬だけ固まった。


「えっ? そ、それは……」


彼女は視線を泳がせたあと、ぷいっと顔を背けた。


「……嬉しいに決まってるじゃん」


「……?」


「もう、武くんの鈍感!」


「……何で怒られたんだ、俺」


美羽は答えず、少し早足で歩き始めた。


その耳が赤くなっていることに、俺は気づかなかった。


*


その日の帰り道。


美羽の家が近づいたところで、彼女が足を止めた。


「……ねえ、武くん」


「……何?」


「ちょっとだけ、話したいことがあるんだけど」


いつもと違う声だった。


俺は足を止めた。


「……うん」


美羽は周囲を見回した。


夕方の住宅街。


車の通る音が、遠くから聞こえる。


人通りは少ない。


彼女は少しだけ深呼吸すると、俺の方を向いた。


「……私ね」


「……うん」


「武くんと一緒にいるの、すごく楽しい」


突然の言葉だった。


俺は、何を言われたのかわからず、瞬きをした。


「……そう?」


「うん。最初は、妹を探すのを手伝ってくれたから、もっとお礼を言いたいって思ってた」


美羽は、ゆっくりと言葉を続けた。


「でも、一緒に過ごすうちに、武くんのことをもっと知りたいって思うようになったの」


「……」


「最初は何を考えてるかわからなかったけど、話してみたら、優しくて、不器用で……それに、意外と面白くて」


「……面白い?」


「そこは否定しないでよ!」


美羽は少しだけ頬を膨らませた。


それから、すぐに真剣な表情に戻った。


「……武くんって、誰かを助けるとき、すごく必死になるんだね」


「……」


「自分が傷つくことも怖いはずなのに、それでも助けようとしてくれる」


美羽の声が、少しだけ震えた。


「私、あのときの武くんを見て……本当に、すごい人だなって思った」


「……俺は、別に」


「ううん。すごいよ」


彼女は、はっきりと言った。


「私には、あんなことできないもん」


その言葉に、俺は何も返せなかった。


俺は、すごい人間なんかじゃない。


ただ、あのときは、身体が勝手に動いただけだ。


美羽と紗奈ちゃんを守りたかった。


それだけだった。


「……だからね」


美羽が、一歩近づいた。


「私、武くんのことを、もっと知りたい」


「……うん」


「これからも、ずっと一緒にいたいって思ってる」


「……うん?」


何だろう。


いつもと様子が違う。


美羽は、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。


そして、ぽつりと言った。


「……ねえ、武くん」


「……何?」


「目、閉じて」


「……は?」


思わず聞き返した。


目を閉じる?


何で?


何をするつもりなのだろう。


「……いや、何で?」


「いいから!」


「……え、ちょっと」


美羽は、俺の制服の袖を掴んだ。


その手が、少しだけ震えている。


「……お願い」


真剣な声だった。


俺は、よくわからないまま目を閉じた。


次の瞬間。


唇に、柔らかな感触が触れた。


……。


…………。


………………。


「――――っ!?」


慌てて目を開ける。


目の前には、美羽の顔があった。


近い。


ものすごく近い。


そして、彼女は顔を真っ赤にしていた。


「……え?」


俺は、自分の唇に触れた。


今、何が起きた?


何をされた?


いや、待て。


まさか。


「……み、美羽?」


名前を呼ぶと、彼女はぎゅっと目を閉じた。


そして。


「好き!」


突然、叫んだ。


「私、武くんのことが好き!」


「…………は?」


「好きなの! 武くんと一緒にいたいし、もっとお話ししたいし、武くんが笑ってくれると嬉しいし、他の女の子と仲良くしてたら、ちょっと嫌だなって思っちゃうし……!」


美羽は、顔を真っ赤にしたまま、一気に言葉を吐き出した。


「だから、その……私と、付き合ってください!」


…………。


……………………。


頭が、真っ白だった。


何も考えられない。


何を言えばいいのか。


どう反応すればいいのか。


そもそも、今の状況は何なのか。


まるで理解できなかった。


「……え、ちょっと待って」


ようやく出た言葉が、それだった。


「……え?」


美羽が、不安そうに顔を上げる。


「……いや、待って。今、キス……した?」


「……した」


「……俺に?」


「武くん以外に誰がいるの!?」


「……いや、そうだけど……!」


何だこれ。


何が起きているんだ。


未来視を初めて経験したときよりも、通り魔に刺されたときよりも、体育倉庫で田中を殴ったときよりも。


今が一番、頭が混乱していた。


「……あの、俺……」


「……うん」


美羽が、じっと俺を見つめる。


その瞳には、不安と期待が入り混じっていた。


俺は、言葉を探した。


美羽のことは、大切だと思う。


一緒にいる時間は楽しい。


彼女が笑っていると、少しだけ安心する。


彼女が傷つくのは嫌だ。


これからも、仲良くしていたい。


けれど。


それが恋愛感情なのかと聞かれたら、わからなかった。


俺はずっと、人と深く関わることを避けてきた。


誰かを好きになることも。


誰かに好かれることも。


そんなことを考える余裕すらなかった。


だから、今の気持ちに名前をつけることができなかった。


「……ごめん」


思わず、そう口にしていた。


美羽の表情が、一瞬だけ曇る。


「……え?」


「……俺、そういうの……よくわからなくて」


自分でも、何を言っているのかわからなかった。


ただ、嘘をつきたくなかった。


美羽が真剣に気持ちを伝えてくれたのなら、俺も正直に答えるべきだと思った。


「……美羽と一緒にいるのは、楽しいよ」


「……うん」


「……これからも、一緒にいたいと思う」


「……うん」


「でも……俺、自分が美羽のことをどう思ってるのか、まだ……」


言葉が途切れた。


美羽は、しばらく俺を見つめていた。


そして。


「……そっか」


小さく笑った。


「……ごめんね。急にキスなんかして」


「……いや、それは……」


「でも、後悔はしてないよ」


美羽は、少しだけ頬を赤くした。


「だって、好きなんだもん」


その言葉に、胸が大きく跳ねた。


「……武くんが、私のことを好きになってくれるかはわからないけど」


彼女は、まっすぐ俺を見つめた。


「でも、私は武くんが好き」


その笑顔は、今まで見たどんな表情よりも、まぶしく見えた。


「……だから、これからも一緒にいてね?」


俺は、答えられなかった。


ただ、何度も瞬きをした。


顔が熱い。


心臓がうるさい。


頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。


美羽はそんな俺を見て、くすっと笑った。


「……返事は、いつか聞かせてね」


そう言って、彼女は俺の手を握った。


温かい手だった。


あの日、公園で初めて握手をしたときと同じ。


けれど、あのときとは何もかもが違っていた。


あのとき、俺は未来を見た。


美羽と紗奈ちゃんが傷つく未来を。


そして、二人を守るために動いた。


けれど、今は違う。


俺には、何も見えない。


この先、どうなるのか。


美羽とどんな関係になるのか。


自分が彼女を好きになるのか。


何一つ、わからない。


それなのに。


彼女と繋いだ手を、離したくないと思っていた。


「……武くん?」


美羽が、首を傾げた。


「……どうしたの?」


「……いや」


俺は、彼女の顔を見た。


そして、ようやく、小さく笑った。


「……何でもない」


未来は、見えない。


でも。


もしかしたら、見えない方がいい未来もあるのかもしれない。


そんなことを、初めて思った。


六月の夕暮れ。


俺は、学園一の美少女に突然キスをされ、告白されてしまった。


そして、人生で初めて。


これから先のことが、まったく予想できなくなった。


……本当に、どうすればいいんだ。

最後まで見ていただきありがとうございました.

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