表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
98/100

第48話 翻訳者だった人

第48話 翻訳者だった人


 卒業式から一週間が過ぎていた。


 三月の第二週。桜がまだ咲かない。蕾は膨らんでいる。あと数日で開く。朝凪の桜は毎年遅い。卒業式に間に合わない桜。しかし卒業生がいなくなった後に咲く桜は、在校生のための桜だ。凛花と蒼のための桜。


 制服を着ていない。卒業した。私服で海沿いの道を歩いている。三月の朝。春の空気。柔らかい。冬の刺すような冷たさが完全に消えている。代わりに花粉の匂いが混ざっている。春の匂い。


 毎日、彩音と会っている。約束通り。工作室の前の廊下で海を見る。弁当を持って。手を繋いで。


 しかし今日は一人で来た。彩音には午後に会う。午前中は一人の時間がほしかった。


 旧部室棟に入った。管理人が顔を知っている。「高瀬くん、卒業したのにまた来たのか」と笑われた。「海を見に」と答えた。嘘ではない。海を見に来た。しかしそれだけではない。


 廊下を歩いた。旧部室棟の二階。工作室のドアの前。


 ドアは開いていた。凛花のルール⑥。


 中を覗いた。誰もいなかった。午前中だ。授業中。凛花も蒼も教室にいる。工作室は空だ。


 中に入らなかった。ドアの前の廊下に立った。彩音がかつていた場所。四月から九月まで。廊下から工作室の中を見ていた場所。


 窓の前に立った。海が見えた。三月の海。春の青。冬の鉛色が嘘のように透明な青。水面がきらめいている。粒のきらめき。春の光は夏の光と違う。柔らかいが明るい。


 一人で海を見ている。翻訳者の目ではない。高瀬恒一の目。ただの卒業生の目。


 振り返った。


 二年間。


 二年前の四月。工作室に入った。玲奈先輩が作った場所に。ホワイトボードにはルールが書いてあった。玲奈先輩の字で。ドアが開いていた。依頼者が来るのを、玲奈先輩の隣で待った。


 最初の依頼者が来た。藤川。恋に悩んでいた。翻訳した。名前のない感情に言葉を渡した。藤川が動いた。歩き出した。翻訳者が生まれた瞬間だった。


 水谷が来た。佐々木が来た。日下部が来た。一人ずつ。翻訳者は翻訳を続けた。依頼者の言葉の裏を読み、本音を掘り出し、一つの言葉を渡した。依頼者が歩き出した。翻訳者の存在意義が確認された。


 志帆の件で壊れた。翻訳者の脳が暴走した。読みすぎた。壊れた。工作室を一週間離脱した。陽太と凛花が守った。玲奈先輩が導いた。戻った。壊れた翻訳者が修復された翻訳者になった。


 森本が来た。白石が来た。前作の依頼者たち。全員に一つずつ翻訳を渡した。全員が歩き出した。グレーの着地。完全救済ではない。しかし全員が自分の足で。


 前作が終わった。翻訳者として一年目が終わった。


 本作が始まった。四月。二年目。


 蒼が入部した。データアナリスト。恋を最適化問題として扱う一年生。技術は翻訳者以上。しかし安全装置がなかった。


 彩音が現れた。転入生。批判者。分析じゃなくて逃避ですよね。壁を持った女子。翻訳者の対話者。


 園田が帰還した。前作の依頼者。翻訳の副作用。翻訳者の辞書に依存していた。翻訳者の失敗の清算。場を手放すテーマ。


 久我が来た。スクールカウンセラー。制度の代表。善意は否定しない。しかし心理的介入にはトレーニングが必要。制度と草の根の対立。対話。共存。四原則。


 長谷川が来た。SNSストーカー。存在確認。蒼のデータが初めて正しく使われた案件。


 蒼が暴走した。匿名掲示板の投稿者を文体分析で特定した。忘却屋と同じだ。凛花が止めた。安全装置が機能した。


 凛花が三冊目のノートを開いた。自分自身の記録。次期リーダーの重圧。翻訳の代替手段。段階的翻訳。行動記録法。凛花のオリジナル。


 小野寺が来た。叶えない恋の居場所。好きでいること自体は間違いじゃない。でも行動は選べる。


 河野が来た。告白がネタにされた。久我との共同案件。制度と草の根の分業。


 藤原が来た。三ヶ月の距離。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。


 全部の依頼者に一つずつ翻訳を渡した。園田に場を手放す。長谷川に存在確認。小野寺に居場所。藤原に始める勇気。四角関係の四人にそれぞれ一つずつ。全部。二年分の翻訳。


 そして。


 自分自身に。好きだ。


 翻訳者が最後に翻訳したのは自分自身だった。タイトルの意味。最後の翻訳。


 窓の前に立ったまま、二年間を振り返っていた。海を見ながら。春の海を。


 二年間で何人の依頼者が来たか。蒼がデータを出した。延べ二十三名。面談回数九十七回。翻訳回数推定六十回以上。


 数字で見ると多い。しかし数字では見えないものがある。園田の涙。長谷川の背筋。小野寺のノート。河野の行動記録。藤原の笑顔。全部、翻訳者の記憶にしかない。数字にならない記憶。


 翻訳者の記憶。しかし翻訳者はもういない。高瀬恒一の記憶として残っている。翻訳者が見たものを、高瀬恒一が覚えている。二年分。


 前作のテーマ。翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる。


 世界は広くなったか。


 広くなった。二年前の俺は翻訳者ですらなかった。ただの高校生だった。工作室を引き継いで翻訳者になった。翻訳者になって依頼者の感情を読んだ。読めない感情を見つけた。見つけるたびに世界が広くなった。


 そして最後に。自分の感情。翻訳不能。好きだ。世界が一番広くなったのは、自分の翻訳不能を見つけたときだった。


 本作のテーマ。翻訳者が最後に翻訳するのは自分自身。


 自分を翻訳した。好きだと名前をつけた。名前をつけたことで翻訳者が終わった。自分を翻訳することが翻訳者の最後の仕事だった。最後の仕事で翻訳者が消えた。


 矛盾ではない。翻訳者が自分を翻訳することは、翻訳者が自分を超えること。翻訳を超えて本文に至ること。翻訳者が翻訳者でなくなること。それが成長だ。


 翻訳者だった人。


 今の俺の肩書き。翻訳者だった人。元翻訳者。彩音と同じ。彩音も元翻訳者だった。前の学校のカウンセリング部。二人とも元翻訳者。壊れた経験を持つ元翻訳者同士が恋人になっている。


 構造が美しい。翻訳者なら分析する。しかし翻訳者はいない。分析しない。美しいとだけ思う。感想。


 足音が聞こえた。旧部室棟の階段を上がってくる足音。


 管理人ではない。もっと軽い足音。知っている足音。


 彩音だった。


「恒一さん。午前中にここにいると思いました」


「なぜ分かった」


「昨日の夜、恒一さんの声が少し違っていたから。おやすみなさいの声が。考え事をしている声だった。考え事をしている恒一さんは海を見に行く。一人で」


「元翻訳者の観察力だな」


「観察力ではないです。恋人の勘です」


 彩音が隣に立った。窓の前。海を見た。二人で。


「恒一さん。何を考えていましたか」


「二年間を振り返っていた。前作と本作。全部」


「全部。長いですね」


「長い。しかし振り返ると一瞬だ。走馬灯みたいに」


「走馬灯は死ぬ前に見るものです。恒一さんは死にません」


「死なない。卒業しただけだ」


「卒業しただけ。しかし翻訳者は死にました」


「死んだか」


「比喩です。翻訳者という人格が終わった。消えた。残ったのは高瀬恒一」


「高瀬恒一は翻訳者の記憶を持っている」


「持っている。記憶は消えない。翻訳者が見たもの。翻訳者が渡した言葉。翻訳者が壊れた経験。全部、高瀬恒一の中にある」


「記憶が重い」


「重いですか」


「重い。二年分。二十三人の依頼者。九十七回の面談。六十回以上の翻訳。全部の記憶が高瀬恒一の中にある。翻訳者の鞄を降ろしても記憶は降ろせない」


「降ろす必要はないです」


「ないか」


「ないです。記憶は恒一さんの一部です。翻訳者だった記憶が恒一さんを作っている。翻訳者を経験した高瀬恒一は、経験していない高瀬恒一とは違う。凛花さんが言っていた。螺旋。同じ位置の一段上」


「螺旋の一段上の高瀬恒一」


「はい。翻訳者の二年間が恒一さんの土台になっている。土台の上に高瀬恒一が立っている。土台は見えない。しかし立っている」


 彩音が俺の手を取った。自然に。考えないで。


「恒一さん。内省は終わりましたか」


「終わった。たぶん」


「たぶんですか」


「完全には終わっていない。しかし海を見て、二年間を思い出して、今ここにいる。彩音がいる。それで十分だ。全部を整理する必要はない。整理は翻訳者の仕事だ。高瀬恒一の仕事ではない」


「整理しない」


「しない。記憶として持っておく。整理せずに。順番もつけずに。園田の涙と卵焼きの味が同じ重さで記憶の中にある。翻訳者なら順番をつける。重要度で。しかし高瀬恒一は順番をつけない」


「順番をつけない。いいですね。全部が同じ重さ」


「同じ重さだ。翻訳者が壊れた日と、彩音が卵焼きをくれた日が、同じ重さで記憶にある。同じ重さであることが正しい気がする」


「正しい。人生はそうです。大きな出来事と小さな出来事が同じ重さで並んでいる。翻訳者は大きな出来事を優先する。高瀬恒一は全部を同じ重さで持つ」


 海が光っている。三月の光。春の海。きらめきが面になっている。光が水面を覆っている。


「恒一さん。一つ聞いていいですか」


「聞け」


「翻訳者だった二年間。後悔はありますか」


「ある」


「何ですか」


「園田に翻訳を渡しすぎたこと。副作用を生んだこと。依存を作ったこと。あれが一番の後悔だ」


「一番」


「一番だ。翻訳者の二年間で一番の失敗。しかし一番の失敗から一番多くを学んだ。量の制限。段階的翻訳。凛花のオリジナル手法は全部、園田の副作用から学んだことだ」


「失敗が学びになった」


「なった。後悔はある。しかし後悔を消したいとは思わない。後悔も記憶の一部だ。同じ重さで」


「園田先輩は今、元気ですか」


「元気だ。瀬尾と仲良くやっている。凛花が時々会っているらしい。園田は工作室には来ない。卒業したから。しかし廊下は通ると言っていた。旧部室棟の。窓から海を見るために」


「園田先輩も海を見に来るんですね」


「来る。彩音も来ていた。四月から。廊下で。窓の前で。海を見ながら」


「私も来ていました。今も来ています。恒一さんと一緒に」


「一緒に。しかし四月は一人だった。廊下に一人で立っていた。工作室の中には入らずに」


「入れなかった。壁があったから。批判者としてしかいられなかったから」


「今は中に入れる」


「今は入れます。しかし今日は廊下にいます。恒一さんと一緒に。廊下のほうが海がよく見える。工作室の窓からより。廊下の窓のほうが大きいから」


「そうだったのか。廊下の窓のほうが大きい。知らなかった」


「恒一さんは工作室の中にいたから。中から見る海と外から見る海は違う。私は外から見ていた。ずっと」


「外からのほうが広く見える」


「広く見えます。しかし中のほうが温かい。石油ストーブがあるから」


「ストーブ。三月は消えている」


「消えています。でも工作室の中には人がいた。恒一さんがいた。凛花さんがいた。蒼くんがいた。天野先輩がいた。人がいると温かい。ストーブがなくても」


「人の温度か」


「人の温度です。工作室の温度。翻訳者がいなくなっても、人がいれば温かい」


 人がいれば温かい。工作室の本質。ルールでもなく翻訳でもなく。人がいること。ドアが開いていて、人がいること。


「恒一さん。内省の結論は出ましたか」


「出ていない。結論は出さない。整理しないと決めた」


「整理しない。いい結論です。結論を出さないという結論」


「矛盾だな」


「矛盾ではないです。グレーの着地です。工作室のルール②。完全な結論を出さない。グレーのまま持っておく。二年間の記憶をグレーのまま。後悔も喜びも同じ重さで」


「グレーのまま」


「グレーのまま。恒一さんの人生もグレーです。翻訳者だった。壊れた。直った。恋をした。卒業した。全部がグレー。白でも黒でもない。灰色の中に色がある」


「灰色の中に色がある」


「はい。冬の海は鉛色でした。しかし鉛色の中に青があった。夕日のオレンジがあった。朝日の金色があった。灰色は灰色ではない。よく見ると色がある」


「翻訳者の目で見なくても」


「翻訳者の目がなくても見えます。高瀬恒一の目で見れば。ただの目で」


 ただの目。翻訳者の目ではない。分析の目ではない。ただの目で海を見ている。ただの目で彩音を見ている。


「恒一さん。来週の土曜日。陽太先輩と真白さんと紅茶を飲む約束がありますよね」


「ある。卒業後の初めての四人の集まり」


「楽しみですね」


「楽しみだ」


「その後、凛花さんと蒼くんにも会いますか」


「会うかもしれない。工作室に遊びに行くかもしれない」


「行ってください。卒業生として。凛花さんが紅茶を出すと言っていました」


「紅茶で釣られるのか。二度目」


「二度目でも釣られてください。凛花さんが喜びます」


 海風が吹いた。春の風。柔らかい。髪が揺れた。彩音のセミロングの黒髪。春の光の中で栗色に透けている。夏と同じだ。夏の光で透けた彩音の髪。春の光でも透ける。


 見ていた。翻訳しない目で。分析しない目で。ただ見ている。きれいだと思う。それだけ。感想。高瀬恒一の感想。


「恒一さん。見ていますね」


「見ている」


「何を」


「髪。春の光で透けている」


「翻訳者なら光の角度と髪の色素の関係を分析します」


「しない。きれいだと思うだけだ」


「きれい」


「きれいだ」


「恒一さんが私を見て、きれいと言う。翻訳者の辞書にない言葉。高瀬恒一の辞書にある言葉」


「恋人の語彙かもしれない」


「数えないと言いましたよね」


「数えない。数えない。ただ言う」


「ただ言ってください。何度でも」


「きれいだ」


「ありがとうございます」


 二人で窓の前に立っていた。海を見ていた。手を繋いでいた。三月の午前。春の光。


 内省は終わった。終わっていないが終わった。結論は出ない。グレーのまま。二年間の記憶を同じ重さで持ったまま。後悔も喜びも。翻訳も本文も。園田の涙も卵焼きの味も。


 全部が高瀬恒一の中にある。整理されていない。翻訳者の辞書では整理できた。しかし翻訳者はいない。高瀬恒一の辞書は整理しない辞書だ。全部が同じページに。順番なしで。


 それでいい。


 翻訳者だった人は歩いている。春の中を。彩音の隣を。手を繋いで。考えないで。


「恒一さん。お昼にしませんか」


「弁当は」


「持ってきました。卵焼き」


「また卵焼きか」


「恒一さんの好物ですから」


「好物だと言った覚えはない」


「言っていません。しかし七行目に書きました。卵焼きがうまかった。ノートの七行目」


「読んだのか。ノートを」


「読んでいません。恒一さんが声で話してくれました。十二月十九日に。七行目。卵焼きがうまかった。覚えています。全部」


「全部覚えているのか」


「覚えています。恒一さんが声で話した十行分。全部。私のノートに書いてあります」


「お前もノートを持っているのか」


「持っています。恒一さんの言葉を全部書いたノート。カウント内もカウント外も。個人的な言葉の回数は数えなくなりましたが。ノートは続けています」


「凛花と同じだ」


「凛花さんの三冊は工作室の記録です。私のノートは恒一さんの記録です。恒一さん専用の。恋人の記録」


「恋人の記録」


「はい。恒一さんが言った言葉。した行動。見せた表情。全部書いています。翻訳者だった頃の恒一さんも。高瀬恒一の恒一さんも」


「読ませてくれるか。いつか」


「いつか。今ではない。しかしいつか。恒一さんの十三行のノートを見せてもらえたら、私のノートも見せます」


「十三行のノートは本棚にしまった」


「しまったんですか」


「しまった。お守りから記念品になった」


「記念品。いいですね。私のノートも、いつか記念品になるかもしれません。今は現役ですが」


「現役か」


「現役です。毎日書いています。恒一さんのこと」


「毎日」


「毎日。恒一さんと会った日は恒一さんのことを。会わなかった日は恒一さんのことを考えたことを」


「会わない日も書くのか」


「書きます。恋人の記録ですから。会っていない日にも恋は続いている」


 会っていない日にも恋は続いている。翻訳者の辞書にはない文。高瀬恒一の辞書にもまだない文。しかし彩音のノートには書いてある。彩音の辞書に。


「恒一さん。弁当食べましょう。廊下で」


「廊下で弁当を食べるのか」


「工作室の中は凛花さんの場所です。私たちは廊下で。海を見ながら」


「海を見ながら弁当。春の遠足だな」


「遠足です。卒業後の。恋人との」


 廊下の窓際に座った。床に。二人で。弁当を広げた。彩音の卵焼き。俺は唐揚げを持ってきた。母親のレパートリー。変わらない。


 交換した。卵焼きと唐揚げ。いつもの非合理な交換。蒼がいたら「カロリーの等価交換ではありません」と言うだろう。いなくてよかった。


「恒一さん。卵焼き、おいしいですか」


「おいしい」


「よかった」


「彩音。唐揚げは」


「おいしいです。恒一さんのお母さんの。少し塩辛い」


「母親の味付けは変わらない」


「変わらなくていい。変わらない味が好きです」


 変わらない味。変わらない弁当。変わらない交換。全部が変わらない。翻訳者がいなくなっても。卒業しても。春が来ても。弁当の味は変わらない。


 変わらないものがある。変わるものもある。変わるものと変わらないものが混ざって人生になっている。翻訳者は変わった。高瀬恒一は変わらない。弁当の味は変わらない。海の色は変わる。全部が混ざっている。


 グレーだ。白でも黒でもない。灰色の中に色がある。


「恒一さん」


「ん」


「明日も来ますか。ここに」


「来る。明日も明後日も。桜が咲くまで」


「桜が咲いたら」


「咲いたら花見をしよう。ここで。廊下の窓から。桜は校庭にある。ここから見える」


「花見。二人で」


「二人で。凛花と蒼を呼ぶか」


「呼ばないでください。二人で見たい」


「二人で」


「二人で。翻訳者だった人と、元翻訳者の。恋人同士の花見」


 翻訳者だった人と元翻訳者。同じ肩書き。同じ経験。壊れた経験。直った経験。恋をした経験。全部が同じ。


 同じ人間が二人、廊下に座って弁当を食べている。春の光の中で。海を見ながら。


 内省は終わった。振り返りは終わった。二年間の記憶はグレーのまま持っている。整理しない。結論を出さない。ただ持っている。


 前を向いている。明日が来る。桜が咲く。大学が始まる。新しい日常が始まる。


 しかし今日は。今は。ここにいる。彩音と。廊下に座って。弁当を食べて。海を見て。


 それだけで十分だ。


 三月の光。春の始まり。卵焼きがうまい。


 翻訳者だった人は、ただの人として、春の中にいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ