第48話 翻訳者だった人
第48話 翻訳者だった人
卒業式から一週間が過ぎていた。
三月の第二週。桜がまだ咲かない。蕾は膨らんでいる。あと数日で開く。朝凪の桜は毎年遅い。卒業式に間に合わない桜。しかし卒業生がいなくなった後に咲く桜は、在校生のための桜だ。凛花と蒼のための桜。
制服を着ていない。卒業した。私服で海沿いの道を歩いている。三月の朝。春の空気。柔らかい。冬の刺すような冷たさが完全に消えている。代わりに花粉の匂いが混ざっている。春の匂い。
毎日、彩音と会っている。約束通り。工作室の前の廊下で海を見る。弁当を持って。手を繋いで。
しかし今日は一人で来た。彩音には午後に会う。午前中は一人の時間がほしかった。
旧部室棟に入った。管理人が顔を知っている。「高瀬くん、卒業したのにまた来たのか」と笑われた。「海を見に」と答えた。嘘ではない。海を見に来た。しかしそれだけではない。
廊下を歩いた。旧部室棟の二階。工作室のドアの前。
ドアは開いていた。凛花のルール⑥。
中を覗いた。誰もいなかった。午前中だ。授業中。凛花も蒼も教室にいる。工作室は空だ。
中に入らなかった。ドアの前の廊下に立った。彩音がかつていた場所。四月から九月まで。廊下から工作室の中を見ていた場所。
窓の前に立った。海が見えた。三月の海。春の青。冬の鉛色が嘘のように透明な青。水面がきらめいている。粒のきらめき。春の光は夏の光と違う。柔らかいが明るい。
一人で海を見ている。翻訳者の目ではない。高瀬恒一の目。ただの卒業生の目。
振り返った。
二年間。
二年前の四月。工作室に入った。玲奈先輩が作った場所に。ホワイトボードにはルールが書いてあった。玲奈先輩の字で。ドアが開いていた。依頼者が来るのを、玲奈先輩の隣で待った。
最初の依頼者が来た。藤川。恋に悩んでいた。翻訳した。名前のない感情に言葉を渡した。藤川が動いた。歩き出した。翻訳者が生まれた瞬間だった。
水谷が来た。佐々木が来た。日下部が来た。一人ずつ。翻訳者は翻訳を続けた。依頼者の言葉の裏を読み、本音を掘り出し、一つの言葉を渡した。依頼者が歩き出した。翻訳者の存在意義が確認された。
志帆の件で壊れた。翻訳者の脳が暴走した。読みすぎた。壊れた。工作室を一週間離脱した。陽太と凛花が守った。玲奈先輩が導いた。戻った。壊れた翻訳者が修復された翻訳者になった。
森本が来た。白石が来た。前作の依頼者たち。全員に一つずつ翻訳を渡した。全員が歩き出した。グレーの着地。完全救済ではない。しかし全員が自分の足で。
前作が終わった。翻訳者として一年目が終わった。
本作が始まった。四月。二年目。
蒼が入部した。データアナリスト。恋を最適化問題として扱う一年生。技術は翻訳者以上。しかし安全装置がなかった。
彩音が現れた。転入生。批判者。分析じゃなくて逃避ですよね。壁を持った女子。翻訳者の対話者。
園田が帰還した。前作の依頼者。翻訳の副作用。翻訳者の辞書に依存していた。翻訳者の失敗の清算。場を手放すテーマ。
久我が来た。スクールカウンセラー。制度の代表。善意は否定しない。しかし心理的介入にはトレーニングが必要。制度と草の根の対立。対話。共存。四原則。
長谷川が来た。SNSストーカー。存在確認。蒼のデータが初めて正しく使われた案件。
蒼が暴走した。匿名掲示板の投稿者を文体分析で特定した。忘却屋と同じだ。凛花が止めた。安全装置が機能した。
凛花が三冊目のノートを開いた。自分自身の記録。次期リーダーの重圧。翻訳の代替手段。段階的翻訳。行動記録法。凛花のオリジナル。
小野寺が来た。叶えない恋の居場所。好きでいること自体は間違いじゃない。でも行動は選べる。
河野が来た。告白がネタにされた。久我との共同案件。制度と草の根の分業。
藤原が来た。三ヶ月の距離。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。
全部の依頼者に一つずつ翻訳を渡した。園田に場を手放す。長谷川に存在確認。小野寺に居場所。藤原に始める勇気。四角関係の四人にそれぞれ一つずつ。全部。二年分の翻訳。
そして。
自分自身に。好きだ。
翻訳者が最後に翻訳したのは自分自身だった。タイトルの意味。最後の翻訳。
窓の前に立ったまま、二年間を振り返っていた。海を見ながら。春の海を。
二年間で何人の依頼者が来たか。蒼がデータを出した。延べ二十三名。面談回数九十七回。翻訳回数推定六十回以上。
数字で見ると多い。しかし数字では見えないものがある。園田の涙。長谷川の背筋。小野寺のノート。河野の行動記録。藤原の笑顔。全部、翻訳者の記憶にしかない。数字にならない記憶。
翻訳者の記憶。しかし翻訳者はもういない。高瀬恒一の記憶として残っている。翻訳者が見たものを、高瀬恒一が覚えている。二年分。
前作のテーマ。翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる。
世界は広くなったか。
広くなった。二年前の俺は翻訳者ですらなかった。ただの高校生だった。工作室を引き継いで翻訳者になった。翻訳者になって依頼者の感情を読んだ。読めない感情を見つけた。見つけるたびに世界が広くなった。
そして最後に。自分の感情。翻訳不能。好きだ。世界が一番広くなったのは、自分の翻訳不能を見つけたときだった。
本作のテーマ。翻訳者が最後に翻訳するのは自分自身。
自分を翻訳した。好きだと名前をつけた。名前をつけたことで翻訳者が終わった。自分を翻訳することが翻訳者の最後の仕事だった。最後の仕事で翻訳者が消えた。
矛盾ではない。翻訳者が自分を翻訳することは、翻訳者が自分を超えること。翻訳を超えて本文に至ること。翻訳者が翻訳者でなくなること。それが成長だ。
翻訳者だった人。
今の俺の肩書き。翻訳者だった人。元翻訳者。彩音と同じ。彩音も元翻訳者だった。前の学校のカウンセリング部。二人とも元翻訳者。壊れた経験を持つ元翻訳者同士が恋人になっている。
構造が美しい。翻訳者なら分析する。しかし翻訳者はいない。分析しない。美しいとだけ思う。感想。
足音が聞こえた。旧部室棟の階段を上がってくる足音。
管理人ではない。もっと軽い足音。知っている足音。
彩音だった。
「恒一さん。午前中にここにいると思いました」
「なぜ分かった」
「昨日の夜、恒一さんの声が少し違っていたから。おやすみなさいの声が。考え事をしている声だった。考え事をしている恒一さんは海を見に行く。一人で」
「元翻訳者の観察力だな」
「観察力ではないです。恋人の勘です」
彩音が隣に立った。窓の前。海を見た。二人で。
「恒一さん。何を考えていましたか」
「二年間を振り返っていた。前作と本作。全部」
「全部。長いですね」
「長い。しかし振り返ると一瞬だ。走馬灯みたいに」
「走馬灯は死ぬ前に見るものです。恒一さんは死にません」
「死なない。卒業しただけだ」
「卒業しただけ。しかし翻訳者は死にました」
「死んだか」
「比喩です。翻訳者という人格が終わった。消えた。残ったのは高瀬恒一」
「高瀬恒一は翻訳者の記憶を持っている」
「持っている。記憶は消えない。翻訳者が見たもの。翻訳者が渡した言葉。翻訳者が壊れた経験。全部、高瀬恒一の中にある」
「記憶が重い」
「重いですか」
「重い。二年分。二十三人の依頼者。九十七回の面談。六十回以上の翻訳。全部の記憶が高瀬恒一の中にある。翻訳者の鞄を降ろしても記憶は降ろせない」
「降ろす必要はないです」
「ないか」
「ないです。記憶は恒一さんの一部です。翻訳者だった記憶が恒一さんを作っている。翻訳者を経験した高瀬恒一は、経験していない高瀬恒一とは違う。凛花さんが言っていた。螺旋。同じ位置の一段上」
「螺旋の一段上の高瀬恒一」
「はい。翻訳者の二年間が恒一さんの土台になっている。土台の上に高瀬恒一が立っている。土台は見えない。しかし立っている」
彩音が俺の手を取った。自然に。考えないで。
「恒一さん。内省は終わりましたか」
「終わった。たぶん」
「たぶんですか」
「完全には終わっていない。しかし海を見て、二年間を思い出して、今ここにいる。彩音がいる。それで十分だ。全部を整理する必要はない。整理は翻訳者の仕事だ。高瀬恒一の仕事ではない」
「整理しない」
「しない。記憶として持っておく。整理せずに。順番もつけずに。園田の涙と卵焼きの味が同じ重さで記憶の中にある。翻訳者なら順番をつける。重要度で。しかし高瀬恒一は順番をつけない」
「順番をつけない。いいですね。全部が同じ重さ」
「同じ重さだ。翻訳者が壊れた日と、彩音が卵焼きをくれた日が、同じ重さで記憶にある。同じ重さであることが正しい気がする」
「正しい。人生はそうです。大きな出来事と小さな出来事が同じ重さで並んでいる。翻訳者は大きな出来事を優先する。高瀬恒一は全部を同じ重さで持つ」
海が光っている。三月の光。春の海。きらめきが面になっている。光が水面を覆っている。
「恒一さん。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「翻訳者だった二年間。後悔はありますか」
「ある」
「何ですか」
「園田に翻訳を渡しすぎたこと。副作用を生んだこと。依存を作ったこと。あれが一番の後悔だ」
「一番」
「一番だ。翻訳者の二年間で一番の失敗。しかし一番の失敗から一番多くを学んだ。量の制限。段階的翻訳。凛花のオリジナル手法は全部、園田の副作用から学んだことだ」
「失敗が学びになった」
「なった。後悔はある。しかし後悔を消したいとは思わない。後悔も記憶の一部だ。同じ重さで」
「園田先輩は今、元気ですか」
「元気だ。瀬尾と仲良くやっている。凛花が時々会っているらしい。園田は工作室には来ない。卒業したから。しかし廊下は通ると言っていた。旧部室棟の。窓から海を見るために」
「園田先輩も海を見に来るんですね」
「来る。彩音も来ていた。四月から。廊下で。窓の前で。海を見ながら」
「私も来ていました。今も来ています。恒一さんと一緒に」
「一緒に。しかし四月は一人だった。廊下に一人で立っていた。工作室の中には入らずに」
「入れなかった。壁があったから。批判者としてしかいられなかったから」
「今は中に入れる」
「今は入れます。しかし今日は廊下にいます。恒一さんと一緒に。廊下のほうが海がよく見える。工作室の窓からより。廊下の窓のほうが大きいから」
「そうだったのか。廊下の窓のほうが大きい。知らなかった」
「恒一さんは工作室の中にいたから。中から見る海と外から見る海は違う。私は外から見ていた。ずっと」
「外からのほうが広く見える」
「広く見えます。しかし中のほうが温かい。石油ストーブがあるから」
「ストーブ。三月は消えている」
「消えています。でも工作室の中には人がいた。恒一さんがいた。凛花さんがいた。蒼くんがいた。天野先輩がいた。人がいると温かい。ストーブがなくても」
「人の温度か」
「人の温度です。工作室の温度。翻訳者がいなくなっても、人がいれば温かい」
人がいれば温かい。工作室の本質。ルールでもなく翻訳でもなく。人がいること。ドアが開いていて、人がいること。
「恒一さん。内省の結論は出ましたか」
「出ていない。結論は出さない。整理しないと決めた」
「整理しない。いい結論です。結論を出さないという結論」
「矛盾だな」
「矛盾ではないです。グレーの着地です。工作室のルール②。完全な結論を出さない。グレーのまま持っておく。二年間の記憶をグレーのまま。後悔も喜びも同じ重さで」
「グレーのまま」
「グレーのまま。恒一さんの人生もグレーです。翻訳者だった。壊れた。直った。恋をした。卒業した。全部がグレー。白でも黒でもない。灰色の中に色がある」
「灰色の中に色がある」
「はい。冬の海は鉛色でした。しかし鉛色の中に青があった。夕日のオレンジがあった。朝日の金色があった。灰色は灰色ではない。よく見ると色がある」
「翻訳者の目で見なくても」
「翻訳者の目がなくても見えます。高瀬恒一の目で見れば。ただの目で」
ただの目。翻訳者の目ではない。分析の目ではない。ただの目で海を見ている。ただの目で彩音を見ている。
「恒一さん。来週の土曜日。陽太先輩と真白さんと紅茶を飲む約束がありますよね」
「ある。卒業後の初めての四人の集まり」
「楽しみですね」
「楽しみだ」
「その後、凛花さんと蒼くんにも会いますか」
「会うかもしれない。工作室に遊びに行くかもしれない」
「行ってください。卒業生として。凛花さんが紅茶を出すと言っていました」
「紅茶で釣られるのか。二度目」
「二度目でも釣られてください。凛花さんが喜びます」
海風が吹いた。春の風。柔らかい。髪が揺れた。彩音のセミロングの黒髪。春の光の中で栗色に透けている。夏と同じだ。夏の光で透けた彩音の髪。春の光でも透ける。
見ていた。翻訳しない目で。分析しない目で。ただ見ている。きれいだと思う。それだけ。感想。高瀬恒一の感想。
「恒一さん。見ていますね」
「見ている」
「何を」
「髪。春の光で透けている」
「翻訳者なら光の角度と髪の色素の関係を分析します」
「しない。きれいだと思うだけだ」
「きれい」
「きれいだ」
「恒一さんが私を見て、きれいと言う。翻訳者の辞書にない言葉。高瀬恒一の辞書にある言葉」
「恋人の語彙かもしれない」
「数えないと言いましたよね」
「数えない。数えない。ただ言う」
「ただ言ってください。何度でも」
「きれいだ」
「ありがとうございます」
二人で窓の前に立っていた。海を見ていた。手を繋いでいた。三月の午前。春の光。
内省は終わった。終わっていないが終わった。結論は出ない。グレーのまま。二年間の記憶を同じ重さで持ったまま。後悔も喜びも。翻訳も本文も。園田の涙も卵焼きの味も。
全部が高瀬恒一の中にある。整理されていない。翻訳者の辞書では整理できた。しかし翻訳者はいない。高瀬恒一の辞書は整理しない辞書だ。全部が同じページに。順番なしで。
それでいい。
翻訳者だった人は歩いている。春の中を。彩音の隣を。手を繋いで。考えないで。
「恒一さん。お昼にしませんか」
「弁当は」
「持ってきました。卵焼き」
「また卵焼きか」
「恒一さんの好物ですから」
「好物だと言った覚えはない」
「言っていません。しかし七行目に書きました。卵焼きがうまかった。ノートの七行目」
「読んだのか。ノートを」
「読んでいません。恒一さんが声で話してくれました。十二月十九日に。七行目。卵焼きがうまかった。覚えています。全部」
「全部覚えているのか」
「覚えています。恒一さんが声で話した十行分。全部。私のノートに書いてあります」
「お前もノートを持っているのか」
「持っています。恒一さんの言葉を全部書いたノート。カウント内もカウント外も。個人的な言葉の回数は数えなくなりましたが。ノートは続けています」
「凛花と同じだ」
「凛花さんの三冊は工作室の記録です。私のノートは恒一さんの記録です。恒一さん専用の。恋人の記録」
「恋人の記録」
「はい。恒一さんが言った言葉。した行動。見せた表情。全部書いています。翻訳者だった頃の恒一さんも。高瀬恒一の恒一さんも」
「読ませてくれるか。いつか」
「いつか。今ではない。しかしいつか。恒一さんの十三行のノートを見せてもらえたら、私のノートも見せます」
「十三行のノートは本棚にしまった」
「しまったんですか」
「しまった。お守りから記念品になった」
「記念品。いいですね。私のノートも、いつか記念品になるかもしれません。今は現役ですが」
「現役か」
「現役です。毎日書いています。恒一さんのこと」
「毎日」
「毎日。恒一さんと会った日は恒一さんのことを。会わなかった日は恒一さんのことを考えたことを」
「会わない日も書くのか」
「書きます。恋人の記録ですから。会っていない日にも恋は続いている」
会っていない日にも恋は続いている。翻訳者の辞書にはない文。高瀬恒一の辞書にもまだない文。しかし彩音のノートには書いてある。彩音の辞書に。
「恒一さん。弁当食べましょう。廊下で」
「廊下で弁当を食べるのか」
「工作室の中は凛花さんの場所です。私たちは廊下で。海を見ながら」
「海を見ながら弁当。春の遠足だな」
「遠足です。卒業後の。恋人との」
廊下の窓際に座った。床に。二人で。弁当を広げた。彩音の卵焼き。俺は唐揚げを持ってきた。母親のレパートリー。変わらない。
交換した。卵焼きと唐揚げ。いつもの非合理な交換。蒼がいたら「カロリーの等価交換ではありません」と言うだろう。いなくてよかった。
「恒一さん。卵焼き、おいしいですか」
「おいしい」
「よかった」
「彩音。唐揚げは」
「おいしいです。恒一さんのお母さんの。少し塩辛い」
「母親の味付けは変わらない」
「変わらなくていい。変わらない味が好きです」
変わらない味。変わらない弁当。変わらない交換。全部が変わらない。翻訳者がいなくなっても。卒業しても。春が来ても。弁当の味は変わらない。
変わらないものがある。変わるものもある。変わるものと変わらないものが混ざって人生になっている。翻訳者は変わった。高瀬恒一は変わらない。弁当の味は変わらない。海の色は変わる。全部が混ざっている。
グレーだ。白でも黒でもない。灰色の中に色がある。
「恒一さん」
「ん」
「明日も来ますか。ここに」
「来る。明日も明後日も。桜が咲くまで」
「桜が咲いたら」
「咲いたら花見をしよう。ここで。廊下の窓から。桜は校庭にある。ここから見える」
「花見。二人で」
「二人で。凛花と蒼を呼ぶか」
「呼ばないでください。二人で見たい」
「二人で」
「二人で。翻訳者だった人と、元翻訳者の。恋人同士の花見」
翻訳者だった人と元翻訳者。同じ肩書き。同じ経験。壊れた経験。直った経験。恋をした経験。全部が同じ。
同じ人間が二人、廊下に座って弁当を食べている。春の光の中で。海を見ながら。
内省は終わった。振り返りは終わった。二年間の記憶はグレーのまま持っている。整理しない。結論を出さない。ただ持っている。
前を向いている。明日が来る。桜が咲く。大学が始まる。新しい日常が始まる。
しかし今日は。今は。ここにいる。彩音と。廊下に座って。弁当を食べて。海を見て。
それだけで十分だ。
三月の光。春の始まり。卵焼きがうまい。
翻訳者だった人は、ただの人として、春の中にいる。




