第42話 四つの矢印
第42話 四つの矢印
三島悠真が四人を連れてきた。
一月の第二週。木曜日。放課後。工作室に五脚の椅子が追加された。依頼者用四脚。工作室メンバー五脚。合計九人分。旧部室棟の一室は九人で満杯に近い。石油ストーブが一台では足りない。窓を閉めても寒い。息が白い。
四人が座っていた。
三島悠真。A。好きなのはBの宮本紗希。
宮本紗希。B。好きなのはCの橋本蓮。
橋本蓮。C。好きなのはDの中村美月。
中村美月。D。好きなのは──誰でもない。Dは誰も好きではなかった。
連鎖が止まっていた。
「蒼。事前のデータと違う」
俺が小声で蒼に言った。蒼が頷いた。
「三島くんの情報では、CがDを好きだという前提でした。しかしDの中村さん自身は、Cに好かれていることを知らなかった可能性があります。データの修正が必要です」
四角関係ではなかった。三角関係と、その外側にいる一人。A→B→C→D。しかしDは連鎖に気づいていない。Dは矢印の先にいるが、自分が矢印の先にいることを知らない。
「全員に確認する。一人ずつ。順番に」
面談が始まった。翻訳者が前の席にいる。最後の一回。凛花が後ろで記録。蒼がデータ補助。陽太が場の管理。彩音が隅で観察。
「三島。お前の話は先週聞いた。宮本が好き。宮本は橋本が好き。ここまでは合っているか」
「合っています」
「宮本。確認する。橋本が好きか」
宮本紗希が頷いた。小柄な女子。髪が長い。声が小さい。
「はい。橋本くんが好きです。一年の頃から。でも言えなくて」
「橋本。確認する。中村が好きか」
橋本蓮が黙った。三秒。背が高い男子。バスケ部。
「好き、というか。気になる。好きと言い切れるかどうか分からない」
「気になる。好きではなく」
「好きかもしれない。分からない。気になるだけかもしれない。でも中村が笑うと目が行く」
「中村。確認する。橋本に好かれていることを知っていたか」
中村美月が目を丸くした。ショートカット。運動部の日焼けが残っている。
「知りませんでした。橋本くんが。私を。え」
知らなかった。Dは矢印の存在を知らなかった。四角関係ではない。三角関係(A→B→C)と、Cが一方的に気になっているD。Dは関係の外にいた。
「中村。お前は誰かを好きか」
「いないです。好きな人は。今は」
「今は、ということは過去にはいたか」
「いました。中学のとき。でも今はいない」
四角関係が崩れた。構造が変わった。
翻訳者の脳がフル稼働している。四つの矢印だと思っていた。しかし実際は三つの矢印と一つの不在。A→B→C→(Dは矢印の先にいるが、D自身は矢印を持っていない)。
連鎖の末端が空白だった。
「凛花。構造が変わった。メモを修正してくれ」
「修正済みです。A→B→C→D(Dは受動的。矢印の先にいるが発信していない)」
「蒼。データの修正は」
「公開データ上ではCとDの接点は部活です。同じ陸上部。しかしDからCへの恋愛的な行動パターンは確認されていません。Cが一方的に気にしている構造で間違いないです」
四人が椅子に座っている。九人の工作室。狭い。しかし狭さが距離を縮めている。
「全員に言う。お前たちの恋は全部一方通行だ。三島は宮本が好き。宮本は橋本が好き。橋本は中村が気になる。しかし誰一人、振り向かれていない」
四人の顔が固まった。一方通行。全員が片想い。全員が振り向かれていない。事実を突きつけられた顔。
「しかし」
声のトーンを変えた。翻訳者の声から、少しだけ柔らかくした。
「一方通行であることは悪いことではない。お前たちは全員、好きな人がいる。好きだと感じている。それは一方通行であっても消えない。一方通行であっても、好きは好きだ」
小野寺のケースで学んだこと。好きでいること自体は間違いじゃない。藤原のケースで学んだこと。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。
「問題は、四人全員が三月に卒業するということだ。卒業したらバラバラになる。今のまま何もしなければ、全員がゼロのまま卒業する。全員が言えないまま終わる」
「先輩。俺はどうすれば」
三島が聞いた。Aが。
「全員に翻訳する。一人ずつ。来週。個別面談で。今日は全体の構造を見せた。全員が一方通行であること。全員が卒業間近であること。全員が同じ問題を抱えていること。来週、一人ずつ翻訳を渡す」
「個別に」
「個別にだ。四人それぞれに一つずつ。全員に同じ翻訳は渡さない。四人の状況は違う。Aの翻訳とBの翻訳とCの翻訳とDの翻訳は違う」
四つの翻訳。最後の仕事。
「凛花。来週のスケジュールを組んでくれ。月曜から木曜。一日一人。個別面談」
「組みます。月曜に三島くん。火曜に宮本さん。水曜に橋本くん。木曜に中村さん。順番は矢印の順です。AからDへ」
「順番に意味があるか」
「あります。Aの翻訳がBに影響する。Bの翻訳がCに影響する。Cの翻訳がDに影響する。矢印の順で翻訳を渡せば、前の翻訳が次の翻訳の土台になる」
凛花の設計が正確だった。翻訳の順番を矢印の方向に合わせる。ドミノのように。一つの翻訳が次の翻訳を支える。
「蒼。四人それぞれのデータを月曜までに用意してくれ。個別面談の素材として」
「了解です。四人分。公開データ。凛花先輩の承認済み」
「陽太。実行面。四人が個別面談に来るように段取りしてくれ」
「了解。三島に伝えておく。三島経由で四人に連絡する」
「彩音」
彩音が隅の椅子にいた。壁のない顔で聞いていた。
「恒一さん」
「四人の面談。全部見届けてくれ。中にいて。外の目で」
「見届けます。四つの翻訳。翻訳者の最後の仕事を」
四人の依頼者が帰った。九人が五人に戻った。工作室の人口密度が下がった。空気が広くなった。
「先輩。設計過程をまとめます」
凛花がノートに書いていた。
「最終依頼。四角関係改め三角関係+D。構造:A→B→C→D(Dは受動的)。全員三年。卒業まで二ヶ月弱。個別面談を矢印順に実施。翻訳は一人一つ。凛花がサポート、蒼がデータ、陽太が実行、彩音が観察。先輩が翻訳」
「完璧な記録だ」
「記録者ですから」
「凛花。四人への翻訳、俺はまだ準備できていない」
「準備」
「ああ。全体構造は読めた。しかし個別の翻訳がまだ見えない。三島には何を渡す。宮本には何を。橋本には何を。中村には何を。四つの翻訳の中身が見えない」
「見えないのは当然です。まだ個別の話を聞いていない。全体構造だけでは個別の翻訳は見えない。月曜から木曜で一人ずつ話を聞いて、聞いた中から翻訳を見つける。先輩はいつもそうしています。事前に準備するのではなく、依頼者の言葉の中から翻訳を見つける」
「依頼者の中に翻訳がある」
「はい。翻訳者が外から持ち込むのではなく、依頼者の言葉の中にある本音を掘り出す。先輩が二年間やってきたことです」
「二年間やってきたことを最後にもう一度」
「もう一度です。最後に」
蒼がデータをまとめながら言った。
「高瀬先輩。四人のデータを見ていて気づいたことがあります」
「何だ」
「中村さん。D。矢印を持っていない。好きな人がいない。四人の中で唯一、恋をしていない。しかし中村さんは恋をしていないのではなく、恋を知らないのかもしれません」
「知らない」
「データ上、中村さんのSNS投稿には恋愛に関する記述がほとんどありません。中学のときに好きな人がいたと言っていましたが、高校に入ってからは。恋に関心がないのか、恋を封印しているのか」
「面白い観察だ。しかしデータだけでは分からない。木曜の面談で直接聞く」
「はい。データは補助です。核心は面談で」
蒼が安全装置の範囲内でデータを使っている。データから仮説を立て、面談で検証する。データと対話の組み合わせ。翻訳者のやり方と蒼のやり方が合流している。
「先輩。一つだけ」
陽太が腕を組んでいた。
「何だ」
「四人の依頼。最後の大型依頼。お前はこの依頼と並行して何をする」
「何を」
「自分の言葉を探すことだ。翻訳者として最後の翻訳を四人に渡す。同時に高瀬恒一として自分の言葉も探す。並行だ」
「並行」
「ああ。前作でもそうだった。お前は依頼者の恋を翻訳しながら、自分の恋にも気づいていった。他人の翻訳が自分の本文の素材になる。今回も同じだ。四人の恋を翻訳しながら、お前自身の恋の言葉を見つける」
「俺はもう彩音に好きだと言った。言葉は見つかっている」
「見つかってないだろ。好きだ、は始まりの言葉だ。始まった後の言葉はまだ見つかっていない。付き合い始めて一ヶ月。恋人としての言葉はまだ手探りだろ」
陽太の指摘が鋭かった。好きだと言った。はいと言われた。付き合い始めた。しかしその後の言葉がまだない。恋人としてどう言葉を交わすか。翻訳者の辞書には恋人用の語彙がない。依頼者の恋は翻訳できても、自分の恋人としての言葉は持っていない。
「四人の依頼を通じて見つけろ。恋人としての言葉を。他人の恋を翻訳しながら」
「翻訳が本文の素材になる」
「ああ。いつものパターンだ。園田に名前のない距離を渡したとき、お前自身の恋に名前のない感情があることに気づいた。長谷川に存在確認を渡したとき、お前が彩音の存在を確認していることに気づいた。今回も同じだ。四人に翻訳を渡しながら、恋人としての自分の言葉を見つける」
「見つかるか」
「見つかる。二年間のパターンだ。外れたことがない」
帰り支度。工作室を出た。
彩音と帰り道を歩いた。一月の夜。冬の底。
「恒一さん。四角関係の構造、面白かったですね」
「面白かった。四角だと思っていたら三角だった。Dが矢印を持っていなかった」
「中村さん。恋を知らない人。あるいは恋を封印している人。どちらだと思いますか」
「面談で聞く。推測はしない」
「推測しないのは正しい。でも一つだけ」
「何だ」
「中村さんが矢印を持っていないということは、中村さんは工作室の依頼者ではない。恋の悩みがない人は工作室の対象ではない。しかし恒一さんは中村さんにも翻訳を渡すと言った。恋がない人に恋の翻訳を渡すのですか」
「渡す。恋がない人にも渡す翻訳がある」
「何ですか」
「分からない。木曜に会ってから考える」
「分からないまま行くんですね。翻訳者らしい」
「翻訳者は依頼者の言葉の中に翻訳を見つける。依頼者に会う前に翻訳を準備するのは設計だ。設計ではなく翻訳。本文と同じだ」
「本文と翻訳が重なりましたね」
「重なった。本文は準備しない。翻訳も準備しない。どちらも相手の中に見つける。自分の中にではなく」
彩音が俺を見た。冬の夜の街灯の下で。マフラーに顔を半分埋めて。
「恒一さん。天野先輩が言った通りですね。四人の翻訳を渡しながら、恒一さん自身の恋人としての言葉を見つける」
「陽太の話を聞いていたのか」
「中にいましたから。全部聞いていました。恒一さんが恋人としての言葉をまだ持っていないこと。付き合い始めて一ヶ月。まだ手探りなこと」
「手探りだ。恋人としてどう話せばいいか分からない。翻訳者の辞書には恋人の語彙がない」
「翻訳者の辞書になくても、高瀬恒一の辞書にはあるかもしれません」
「あるか」
「あります。たとえば。弁当の交換。いつもの帰り道。おやすみなさいの声。全部、恋人の語彙です。翻訳者の辞書には載っていない。しかし高瀬恒一の辞書には載っている」
「弁当の交換が恋人の語彙」
「はい。恋人の言葉は特別な言葉ではないです。日常の言葉です。おはよう。おやすみ。弁当おいしかった。寒いね。手が冷たい。全部、恋人の語彙です。翻訳者が使わない言葉。高瀬恒一が毎日使っている言葉」
「毎日使っている」
「はい。恒一さんはもう恋人としての言葉を持っています。気づいていないだけです。翻訳者は特別な言葉を探すくせがある。名前のない距離。存在確認。居場所。全部特別な言葉です。しかし恋人の言葉は特別ではない。普通です」
「普通の言葉が恋人の言葉」
「はい。おはようが恋人の言葉。おやすみが恋人の言葉。卵焼きうまかったが恋人の言葉。全部もう言っている。恒一さんは恋人の語彙をすでに使っている。ただ翻訳者の辞書に載っていないから認識していないだけ」
彩音の分析が正確だった。翻訳者は特別な言葉を探す。しかし恋人の言葉は特別ではない。日常の言葉が恋人の言葉だ。おはよう。おやすみ。うまい。寒いね。全部が恋人の語彙。
「彩音。お前が教えてくれるのか。恋人の語彙を」
「教えません。恒一さんが自分で気づいてください。四人の依頼を通じて。天野先輩が言った通り」
「教えないのか」
「教えたら依存です。園田先輩のケースと同じ。恒一さんが自分で見つけないと。翻訳者が依頼者に翻訳を渡すように、恋人の語彙は恋人自身が見つけるものです」
「恋人の語彙を恋人自身が見つける」
「はい。私も見つけている途中です。恒一さんと付き合い始めて一ヶ月。恋人としての瀬川彩音の語彙を探している途中」
「見つかったか」
「少しだけ。恒一さん、という呼び方。それが一つ目です。先輩でも高瀬さんでもなく恒一さん。これが私の恋人の語彙の最初の一語です」
恒一さん。彩音の恋人の語彙。最初の一語。
「俺の最初の一語は何だ」
「何だと思いますか」
「彩音」
「はい。それが恒一さんの最初の一語です。名前を呼ぶこと。翻訳者ではなく高瀬恒一として名前を呼ぶこと。それが恋人の語彙の一語目」
名前。一語目。翻訳者の辞書にはない言葉。高瀬恒一の辞書にある言葉。
「二語目以降は四人の依頼を通じて見つけてください。きっと見つかります」
「見つかるか」
「見つかります。恒一さんは依頼者に翻訳を渡すたびに、自分の本文の素材を見つけてきた。今回も同じです。四人の恋の翻訳をしながら、恋人としての自分の言葉を見つける」
分かれ道。毎日の分かれ道。
「おやすみなさい。恒一さん」
「おやすみ。彩音」
「恒一さん。来週。月曜から木曜。四人の面談。見届けます」
「頼む」
「翻訳者の最後の仕事。全力で翻訳してください。私は全力で見届けます」
「ああ」
彩音が去った。冬の道を。マフラーに顔を埋めて。
一人で帰った。一月の夜。冬の底。
帰宅。自室。ノートを開いた。十三行。
十四行目は書かなかった。まだ見つかっていない。恋人の語彙の二語目が。
しかし月曜から始まる。四人の面談。最後の翻訳。
三島に何を渡す。宮本に何を渡す。橋本に何を渡す。中村に何を渡す。四つの翻訳。
見えない。まだ。依頼者に会う前に翻訳は見えない。会って、話を聞いて、依頼者の言葉の中に翻訳を見つける。
翻訳者の方法。二年間の方法。最後に一回。
そして翻訳の中から、恋人の語彙の二語目を見つける。陽太が言った。彩音が言った。四人の翻訳が自分の本文の素材になる。
一月の夜。冬の星。潮の匂い。
来週。月曜日から。
翻訳者の最後の四日間が始まる。




