第41話 最後の翻訳
第41話 最後の翻訳
一月になっていた。
冬休みが終わった。始業式。三学期。高校生活最後の学期。朝凪の海は一月の底にいた。鉛色を超えて、ほとんど黒に近い青。冬の海は深い。光が届かない深さ。
しかし空は晴れている。一月の空は冬の中で一番澄んでいる。空気が乾ききって、余計なものが全部抜けている。視界が果てまで通る。水平線がくっきり見える。
彩音と付き合い始めて二週間が過ぎていた。冬休みの間に三回会った。旧部室棟の廊下で弁当を食べた。海沿いの道を歩いた。初詣に行った。二人で。普通のことを。普通に。
「恒一さん」と呼ばれることにまだ慣れていない。慣れないことが嬉しい。
始業式の日の放課後。工作室。
五人が揃った。恒一、陽太、凛花、蒼、彩音。新年最初のミーティング。彩音は正式には工作室のメンバーではないが、椅子が五脚並んでいる。五人の工作室。
「凛花。冬休み中に入った依頼の件」
「はい。久我先生から打診があった大型案件です。報告します」
凛花がノートを開いた。二冊目。記録用。三冊目は鞄の中。
「依頼者。三年生の男子。名前はまだ伏せます。久我先生経由。相談室に来たが対応困難と判断され、工作室に紹介」
「対応困難の理由は」
「恋愛の相談ですが、構造が複雑です。三角関係以上。関係者が四人。依頼者の男子。依頼者が好きな女子。その女子が好きな別の男子。そしてその別の男子が好きなさらに別の女子。四角関係です」
四角関係。
「全員が同じ学校ですか」
「全員三年生。全員が卒業間近。二ヶ月後に全員がバラバラになる。時間制限付きの四角関係」
「藤原のケースの拡大版だな。三ヶ月の距離が、四人に掛かっている」
「はい。しかし藤原さんのケースよりさらに複雑です。藤原さんは一対一でした。今回は四人の感情が連鎖している。Aが好きなBが好きなCが好きなD。一方通行の連鎖」
一方通行の恋の連鎖。AはBを好き。BはCを好き。CはDを好き。誰の恋も叶わない。全員が片想い。全員が振り向かれていない。
「久我先生が対応困難と判断した理由は」
「四人全員が三年生です。卒業まで二ヶ月。カウンセリングで一人ずつ対応する時間がない。かつ、四人の関係が絡み合っているため、一人を動かすと他の三人に波及する。個別対応ではなく関係の全体を見る必要がある。それは久我先生の手法では難しい」
「工作室向きの案件だ」
「はい。翻訳者が関係の全体構造を読んで、四人それぞれに一つずつ翻訳を渡す。個別ではなく全体を見る。翻訳者にしかできない仕事です」
翻訳者にしかできない仕事。
凛花が俺を見た。参謀の目。しかし参謀の目の中に、送り出しの温度があった。
「先輩。これが最後の大型依頼です」
「ああ」
「先輩が主導してください。翻訳者として。私はサポートに回ります」
「お前が前に立つんじゃないのか」
「この依頼は先輩の仕事です。四人の関係の全体構造を読める人間は、この工作室には先輩しかいない。段階的翻訳では対応できません。翻訳者の翻訳が必要です。最後の一回」
最後の一回。
翻訳者として最後の翻訳。
「引き継ぎの総仕上げとして、先輩がやってください。私と蒼くんが支えます。天野先輩が実行を担当します。瀬川さんが外部の目で見てくれます。五人体制。先輩が真ん中で」
「真ん中」
「はい。先輩が翻訳者の席に戻ってください。一時的に。この依頼が終わるまで」
翻訳者の席に戻る。九月に凛花に渡した席。前の席。隅ではなく前。翻訳者が前に立つ。最後の一回。
「分かった。受ける。最後の大型依頼」
「ありがとうございます。依頼者との初回面談は明日の放課後です」
「明日。早いな」
「時間がありません。二ヶ月で卒業です。四角関係の四人全員が卒業する。動くなら今しかない」
蒼が窓際にいた。
「データの準備をします。四人の行動パターン。公開データの範囲で。凛花先輩の承認のもとで」
「承認します。個人特定は私が監督する」
「了解です」
安全装置が稼働している。最後の依頼でも安全装置は機能する。
陽太が腕を組んでいた。
「恒一。最後の依頼か」
「ああ」
「翻訳者として最後」
「翻訳者として最後だ」
「全力でやれよ。翻訳者の恒一を見られるのは最後だ。俺も全力で実行する」
「ああ。頼む」
彩音が隅の椅子にいた。壁がない顔。しかし壁がない顔の中に、何かを見守る目がある。翻訳者が翻訳者の席に戻ることを見守っている。
「恒一さん」
名前で呼ばれた。工作室の中で。全員の前で。
「翻訳者に戻ってください。この依頼の間だけ。私は外から見ています。いつもの位置で」
「いつもの位置。廊下か」
「いいえ。中にいます。中にいて外の目で見ます。翻訳者の仕事を。恒一さんの最後の翻訳を」
「見届けてくれるのか」
「見届けます。翻訳者を人間にした人間として。翻訳者の最後の仕事を」
翌日。放課後。工作室。
依頼者が来た。
三年生の男子。背が高い。痩せている。目が疲れている。冬服のブレザーが皺だらけ。ネクタイが曲がっている。河野のときとは違う疲れ方だ。河野は傷ついた疲れだった。この男子は考えすぎた疲れだ。
「恋路工作室ですか」
「ここだ。入れ」
俺が前の席に座っていた。翻訳者の席。九月以来の席。凛花が後ろにいた。サポート。蒼が横にいた。データ。陽太が斜め後ろ。実行待機。彩音が隅。観察。
「名前を教えてくれ」
「三島悠真です。三年です」
三島悠真。四角関係の起点。Aの位置。
「久我先生から聞いている。四角関係だ。お前がAとする。お前が好きな子がB。Bが好きな男がC。Cが好きな女がD」
「はい。その通りです」
「まずお前の話を聞く。全部話せ」
三島が話し始めた。
同じクラスの女子が好きだ。一年の頃から。しかし言えなかった。三年間。言えないまま卒業が近づいている。
その女子は別の男子が好きだ。隣のクラスの。その男子は別の女子が好きだ。同じ部活の。全員が片想い。全員が振り向かれていない。
「俺が好きな子は、俺のことを知っています。友達として。しかし恋愛対象としては見ていない。あいつが好きなのは別の男だから」
「分かっている」
「俺がその子に告白しても、断られる。断られるのは分かっている。でも卒業したら会えなくなる。言わないまま卒業するのか、言って断られて卒業するのか」
藤原のケースと同じ構造だ。言うか言わないか。始めるか始めないか。しかし藤原は一対一だった。三島は四角関係の一角にいる。三島が動けば四人全員に波及する。
「三島。お前一人の問題ではない」
「分かっています。俺が告白したら、あいつは困る。あいつには好きな人がいるのに、俺に告白される。迷惑になるかもしれない。あいつの恋を邪魔するかもしれない」
「邪魔にはならない。お前が告白しても、その子の恋は変わらない。その子が好きな男のことを好きなのは変わらない。お前の告白は影響しない」
「影響しないんですか」
「しない。恋は伝染しない。お前が好きだと言っても、その子がお前を好きになるわけではない。その子の恋は、その子のものだ。お前の恋はお前のものだ。別のものだ。交差しているが、混ざらない」
翻訳者の脳が動いている。四角関係の構造を読んでいる。四つの矢印。A→B→C→D。一方通行の連鎖。しかし連鎖は交差しているだけで、混ざっていない。Aの感情はAのもの。Bの感情はBのもの。
「先輩。俺はどうすればいいですか」
「今日は聞くだけだ。結論は次に出す」
「次」
「四人全員の話を聞く。お前だけではない。B、C、Dの話も。全体の構造を見てから」
「四人全員と話すんですか」
「話す。四人の関係の全体を見ないと、一人に翻訳を渡しても意味がない。全体を見て、全員にそれぞれ一つずつ翻訳を渡す」
三島の目が変わった。驚き。工作室が四人全員と話すと。
「四人。来てくれますか」
「お前が連れてこい。来るかどうかはお前が説得しろ。実行班長が手伝う」
陽太が前に出た。
「天野陽太。三年。実行班長だ。お前が相手を連れてくるのを手伝う。声のかけ方、場の作り方は俺がサポートする」
「よろしくお願いします」
「一つだけ。お前が四人全員を工作室に連れてくること自体が、お前の恋の最初の行動だ。告白ではない。しかし動き出すことだ」
陽太の言葉が鋭かった。四人を連れてくるという行動が、三島の恋の始まりになる。動かなければゼロ。動けば始まる。
三島が帰った。来週までに四人を集めると約束して。
「先輩。翻訳しましたね」
凛花が後ろの席から言った。
「恋は伝染しない。交差しているが混ざらない。翻訳者の翻訳です。段階的翻訳ではできない精度です」
「翻訳者でなければ見えない構造か」
「はい。四人の関係の全体構造を一回の面談で把握した。四つの矢印の方向と性質を。私にはこの速度では読めません」
「凛花。お前は別の強みがある。全体を読む速度は俺が上だ。しかし一人一人に寄り添う深さはお前が上だ。全体構造は俺が読む。個別のケアはお前が設計する。分業だ」
「分業ですね。最後の依頼で」
「最後の分業だ」
蒼が窓際にいた。
「四人の行動データを集めます。SNSの公開投稿。部活動の所属。クラスの配置。公開情報の範囲で」
「凛花の承認を取れ」
「承認済みです。ミーティング前に」
「準備がいいな」
「最後の依頼ですから。全力を出します」
帰り支度。
五人で工作室を出た。廊下。
彩音が隣に来た。
「恒一さん。翻訳者に戻っていましたね」
「戻っていた。一時的に」
「翻訳者の恒一さんを見るのは久しぶりでした。分析モードの目。焦点が深い目。依頼者の言葉の三層目まで掘る目」
「見えたか」
「見えました。翻訳者の恒一さんは格好いいです」
「格好いい」
「はい。高瀬恒一も格好いいですが、翻訳者の恒一さんも格好いい。どちらも好きです」
「どちらも」
「どちらも。翻訳者と高瀬恒一が一つの人間の中にいる。二層です。前に私が言った。翻訳者の上に高瀬恒一が載る。二層とも好きです」
翻訳不能。しかし翻訳不能が心地いい。
「恒一さん。最後の依頼。四角関係。大きい案件ですね」
「大きい。工作室史上最大かもしれない。四人同時に翻訳する」
「四人に一つずつ翻訳を渡す。四つの翻訳。翻訳者として最後の仕事」
「ああ。最後だ。この依頼が終わったら翻訳者を脱ぐ。今度は永久に」
「永久に」
「永久に。翻訳者の席は凛花に渡す。翻訳者の辞書は凛花のノートに引き継ぐ。俺は高瀬恒一として卒業する」
「高瀬恒一として」
「ああ。彩音の恋人として。翻訳者ではなく」
帰り道。十三度目ではなく、もう数えていない。付き合い始めてからは毎日帰り道を歩いている。数えなくなった。数えなくていいくらい自然になった。
「恒一さん。四角関係の案件。一つだけ気になったことがあります」
「何だ」
「四人全員が片想い。全員が振り向かれていない。一方通行の連鎖。A→B→C→D。この構造は、恋路工作室のタイトルそのものではないですか」
「タイトル」
「恋路工作室。恋の路。恋の道。道は一方通行にも双方向にもなる。四角関係は一方通行の道が四本連なっている。その一方通行の道に居場所を作ること。道を双方向にすることではなく。一方通行のまま歩けるようにすること」
「一方通行のまま歩けるようにする」
「小野寺さんのケースと同じ構造です。叶えない恋の居場所。しかし今回は四人同時に。四つの一方通行に、四つの居場所を作る」
彩音の分析が鋭かった。四角関係の本質は四つの片想い。四つの一方通行。全部が叶わない。叶わない恋に居場所を作る。小野寺のケースの拡大版。
「しかし小野寺とは違う点がある。小野寺は告白しないことを選んだ。三島は告白するかどうかで迷っている。四人全員がどの選択をするかは分からない」
「分からないから面白いんです。翻訳者の最後の仕事として。四人の選択を見届ける仕事」
「見届ける」
「翻訳者は翻訳して終わりではない。翻訳した言葉が依頼者の中でどう育つかを見届ける。それが最後の仕事です」
分かれ道。毎日の分かれ道。しかし今日から先は左と右に分かれない日が増えるかもしれない。彩音の家まで送ることが増えるかもしれない。
「恒一さん。明日。弁当交換しましょう」
「何を持ってくる」
「考え中です。最後の大型依頼の初日にふさわしいおかず」
「ふさわしいおかずって何だ」
「分かりません。考えます。非合理に」
「非合理に考えるな」
「恋は非合理です。弁当も非合理でいい」
二人で笑った。一月の夜。冬の星。息が白い。
「おやすみなさい。恒一さん」
「おやすみ。彩音」
帰宅。自室。
ノートを開いた。十二行。
十三行目を書いた。
「最後の大型依頼が来た。四角関係。四人の片想い。翻訳者として最後の仕事。四つの翻訳を渡す。渡した後、翻訳者を脱ぐ。永久に」
十三行。ノートが続いている。告白の前の十行。告白の後の三行。合計十三行。本文は続いている。
最後の翻訳。
タイトルが頭に浮かんだ。本作のタイトル。朝凪高校・恋路工作室──最後の翻訳──。
最後の翻訳は四角関係の四人に渡す翻訳ではない。最後の翻訳は、翻訳者が自分自身を翻訳した十行のノートだ。あるいは声で話した四文字だ。好きだ。はい。
翻訳者が最後に翻訳したのは自分自身だった。
しかしその前に。四角関係の四人に翻訳を渡す。翻訳者として。最後の仕事として。全力で。
凛花がサポートする。蒼がデータを出す。陽太が実行する。彩音が見届ける。五人体制。
一月の夜。冬の底。しかし春は近い。一月が終われば二月。二月が終われば三月。三月は卒業。
卒業までに全部終わらせる。最後の依頼。引き継ぎの完了。翻訳者の卒業。
全部がこの二ヶ月に詰まっている。
ノートを閉じた。十三行。枕元に置いた。
翻訳者の最後の仕事が始まった。




