第40話 もう教えることはない
第40話 もう教えることはない
冬休みに入っていた。
十二月二十三日。終業式が終わって二日目。朝凪の海が冬の底にいる。鉛色。風が冷たい。空が低い。しかし晴れている。冬の晴天は冷たくて澄んでいる。
十二月十九日の放課後。工作室で何が起きたか。
彩音に名前を呼ばれた。先輩、ではなく。恒一、と。初めて。
俺が「彩音」と呼んだ後に。彩音が「恒一さん」と返した後に。壁が全部消えた後に。二人で工作室にいた。石油ストーブの前で。冬の光の中で。
十行のノートは読まなかった。声で話した。十行の中身を。しかし十行の順番通りではなかった。順番はめちゃくちゃだった。卵焼きの話から始まった。うまかったと。非合理な交換が好きだったと。翻訳不能だと。好きだと。
好きだ。声に出した。三文字。陽太が言った通り三文字で足りた。残りは彩音が受け取ってくれた。
彩音は泣いた。壁がない涙。四月から数えて、彩音が俺の前で三度目の涙。しかし三度目の涙は一度目とも二度目とも違った。嬉しい涙だった。
彩音が答えた。
答えの内容は書かない。凛花が記録しないと決めたように。二人の間で起きたことは二人のものだ。
しかし一つだけ書く。
彩音は「はい」と言った。
はい。一文字。俺の三文字に、彩音の一文字が返った。合計四文字。翻訳者と元翻訳者の間で交わされた言葉は、四文字だった。十行のノートも、知的テニスの結論も、八ヶ月分の蓄積も、最後は四文字に収束した。
好きだ。はい。
工作室を出た後、廊下に陽太が待っていた。真白と。凛花と蒼も。紅茶を持って。アールグレイ。
六人で紅茶を飲んだ。紙コップで。工作室の前の廊下で。寒かった。十二月の旧部室棟は寒い。しかし紅茶が温かかった。
陽太が俺の顔を見て、何も聞かなかった。聞く必要がなかった。顔に全部出ていた。
凛花が記録しなかった。三冊目のノートを開かなかった。
蒼がデータを取らなかった。室温も心拍数も。
真白が「おめでとうございます」と言った。一言だけ。
彩音が俺の隣にいた。紅茶を飲んでいた。隣に。肩が触れる距離で。
それが四日前のことだ。
十二月二十三日。冬休み二日目。
工作室は冬休み中も週一回、火曜日に開ける。依頼者が来るかどうかは分からない。しかしドアは開けておく。
今日は火曜日ではない。火曜日でもないのに工作室に来た。理由がある。
玲奈先輩が来る。
十九日の夜、陽太からLINEが来た。
『恒一。報告した。玲奈先輩に。お前と瀬川が付き合い始めたことを。友達として。後輩として。玲奈先輩が言った。冬休みに帰省する。朝凪に。工作室に寄ると』
玲奈先輩が朝凪に帰ってくる。大学の冬休み。帰省。工作室に寄る。
十二月二十三日の午後。工作室のドアを開けた。暖房はない。石油ストーブを点けた。蒼が置いていってくれたストーブ。灯油を補充した。
椅子を二脚、向かい合わせに置いた。久我と話したときと同じ配置。斜めではなく正面。正面は対峙になる。しかし玲奈先輩との対話は対峙ではない。師匠と弟子の対話。
足音が聞こえた。旧部室棟の廊下。聞き覚えのある足音。端的な足音。無駄のない歩幅。
桐生玲奈が工作室のドアの前に立った。
変わっていなかった。
短い髪。まっすぐな目。前作と同じ目。大学に半年以上通っても変わっていない。しかし変わっていないことの中に、微かな変化がある。目の周りの力みが少し減っている。前作の玲奈先輩は常に力が入っていた。今は少しだけ緩んでいる。大学で何かが緩んだのだろう。
「恒一。久しぶり」
「先輩。久しぶりです」
「入っていいか」
「先輩の工作室です」
「私の工作室だったのは二年前だ。今はお前の工作室。いや、もう凛花の工作室か」
入ってきた。工作室を見回した。ホワイトボード。六つのルール。依頼ボード。窓。海。石油ストーブ。
「変わっていないな」
「変わっていないです」
「ルールが六つのままか」
「六つ以上に増やしたら制度になると久我先生に言われました」
「久我。スクールカウンセラーだな。陽太から聞いた」
「先輩。座ってください」
二人で座った。正面。距離は一メートル。
玲奈先輩がストーブに手をかざした。冬の手。冷たい手。帰省の移動で冷えている。
「恒一。十九日の件。陽太から聞いた」
「聞いたんですか」
「全部は聞いていない。結果だけ。付き合い始めたと。瀬川彩音と」
「はい」
「おめでとう、とは言わない。恋はまだ始まったばかりだ。おめでとうは完走した人間に言う言葉だ」
「完走」
「始まりを祝うのは早い。走り切ってから祝う。お前はまだスタートラインを越えたばかりだ」
玲奈先輩の言葉。端的。短い。しかし深い。前作から変わっていない。
「先輩。十九日の電話。ありがとうございました」
「礼はいらない。言うべきことを言っただけだ。もう教えることはない。自分で決めろ。あの言葉は前作でも言った」
「覚えています」
「前作では翻訳者として言った。今回は人間として言った。同じ言葉だが意味が違う。前作は翻訳者を一人前にするための卒業だった。今回は高瀬恒一を一人前にするための卒業だ」
「二度卒業させられるんですか」
「三度目はない。二度で終わりだ」
玲奈先輩の目が少しだけ笑った。前作では見なかった笑い。玲奈先輩が目だけで笑う。大学が先輩を変えたのかもしれない。あるいは後輩が成長したことが先輩を変えたのかもしれない。
「恒一。工作室のことを聞いていいか」
「聞いてください」
「凛花に引き継ぎをしている」
「はい。九月から。凛花が前に立っています」
「翻訳者がいない工作室」
「翻訳者の代わりに、記録者が主導する工作室。段階的翻訳。行動記録法。凛花のオリジナルの手法が育っています」
「蒼は」
「データアナリスト。安全装置つき。凛花が監督している」
「天野は」
「彼女ができました。真白という新聞部の後輩」
「天野が彼女を。遅いな。前作であれだけ人の恋を設計していて」
「自分の恋は不器用です。先輩と同じ構造」
「私と同じ構造か。そうかもしれない」
玲奈先輩が窓の外を見た。冬の海。鉛色。しかし晴天の光が水面を照らしている。
「恒一。一つ聞いていいか」
「はい」
「瀬川彩音。どんな人間だ」
「翻訳者です。元翻訳者。前の学校でカウンセリング部の部長だった。善意で生徒に依存を作って壊した。逃げて朝凪に来た。俺の工作室を批判して、観察して、協力して、認めた」
言葉が止まらなかった。
「壁を持っていた。壁を外してくれた。頭が鋭い。毒舌。しかし壁の下は柔らかい。怖がりで慎重で論理的で。好きです」
「長い説明だな」
「先輩が聞いたから」
「一言で言え」
考えた。一秒。
「翻訳不能な人です」
「翻訳不能」
「俺の翻訳が効かない人。翻訳者の道具が機能しない相手。精度がゼロになる相手。しかしゼロだから好きになれた」
「翻訳不能が恋の条件か」
「彩音と知的テニスで出した結論です」
「知的テニス。面白い言葉だ」
「彩音が好む形式です。議論の形を借りて個人的なことを話す」
「頭がいい子だな」
「頭がいいです。俺と同じくらい。あるいはそれ以上」
「同等か。お前が同等と認める人間は珍しい」
「珍しいです。前作では先輩だけでした。今は彩音が」
「私の後継者か」
「後継者ではないです。先輩とは違う場所にいる人です。先輩は翻訳者の師匠でした。彩音は翻訳者の対話者です。師匠と対話者は違います」
「違う。師匠は道を示す。対話者は隣を歩く」
「はい。先輩が道を示してくれた。彩音が隣を歩いてくれた。どちらも必要でした」
玲奈先輩が黙った。五秒。十秒。ストーブの音。灯油が燃える小さな音。窓から冬の光が入っている。
「恒一。前作の最後に私が言った言葉。覚えているか」
「名前をつけなくても大事なものは大事だ」
「ああ。あの言葉は、お前と私の関係に名前をつけないという宣言だった」
「はい」
「お前と私の関係には今も名前がない。師匠と弟子でもない。先輩と後輩でもない。名前がない。しかし大事だ」
「大事です」
「名前がないまま大事でいられる関係は稀だ。ほとんどの関係は名前がないと不安になる。名前をつけたがる。友達。恋人。同僚。師弟。名前をつけることで安心する」
「はい」
「しかし名前をつけないことで保てる関係がある。お前と私のように。名前がないからこそ、距離が自由になる。近づきすぎない。離れすぎない。名前がある関係は名前の定義に縛られる。名前がない関係は定義がないから自由だ」
「先輩。その話は」
「本題に入る。お前と瀬川の関係には名前がついた。恋人。付き合っている。名前がある関係だ」
「はい」
「名前がある関係は定義に縛られる。恋人とは何か。付き合うとは何か。定義を求めて苦しくなることがある。名前がないときは自由だった。名前がついた途端に不自由になる」
「不自由」
「前作で園田に教えただろう。名前のない距離。名前がなくても関係は成り立つ。しかし名前をつけた後の距離は、名前が重荷になることがある」
「先輩。名前をつけたことは間違いですか」
「間違いではない。名前をつけたことは正しい。しかし名前の重みを知っておけ。好きだという名前。恋人という名前。付き合っているという名前。全部に重みがある。重みに耐えられないとき、名前を外したくなる。外したくなったとき、前作の私の言葉を思い出せ」
「名前をつけなくても大事なものは大事だ」
「それと、十九日の私のメッセージも」
「名前をつけても大事なものは大事だ」
「両方だ。名前があってもなくても大事なものは変わらない。名前は関係の形式であって本質ではない。本質は四文字だ」
「四文字」
「好きだ。はい。お前と瀬川の四文字。あの四文字が本質だ。名前は形式。四文字が本質。形式に振り回されるな。本質を忘れるな」
玲奈先輩の言葉が刺さった。翻訳者の胸ではなく高瀬恒一の胸に。
「先輩。最後の導きですか」
「最後だ。もう教えることはない。前作で一度言った。今回で二度目。三度目はない」
「三度目はない」
「ない。お前はもう一人で歩ける。翻訳者として。高瀬恒一として。凛花がいる。蒼がいる。天野がいる。瀬川がいる。久我がいる。一人ではない」
「先輩は」
「私はいなくなる。いなくなっても大丈夫だ。お前にはもう仲間がいる」
「先輩がいなくなるのは」
「名前をつけなくても大事なものは大事だ。私がいなくなっても、私がお前に渡したものは消えない。お前の中にある。工作室を作った人間の言葉が、お前の翻訳者の辞書の一番奥にある。消えない」
「消えないです」
「なら大丈夫だ」
玲奈先輩が立ち上がった。椅子から。
「恒一。工作室を見せてくれてありがとう。変わっていなかった」
「変わっていないです」
「変わっていないが、中身は全部変わっている。ルールは六つのまま。しかし運用が変わった。翻訳者が後ろに下がった。記録者が前に立った。データアナリストに安全装置がついた。久我と共存した。全部変わった。しかし工作室は工作室のままだ」
「工作室のままです」
「不完全なまま」
「不完全なまま」
玲奈先輩が工作室を見回した。最後に。ホワイトボード。ルール。窓。海。ストーブ。
「いい場所だな」
「先輩が作った場所です」
「私が作ったのは場所だけだ。場所に命を吹き込んだのはお前だ」
「先輩」
「もう行く。電車の時間がある」
「送ります」
「要らない。一人で帰る。前作と同じだ」
ドアに向かった。ドアの前で止まった。振り返った。
「恒一。一つだけ」
「はい」
「瀬川に会わせろとは言わない。今日は工作室だけ見に来た。しかし瀬川と話す機会があったら一つだけ伝えてくれ」
「何を」
「ありがとう。恒一を人間にしてくれて」
人間にしてくれて。
翻訳者を人間にしたのは彩音だ。玲奈先輩が見抜いている。翻訳者の仮面を脱がせたのは彩音の存在だ。批判から始まり、壁を外し、知的テニスをし、過去を話し、名前を呼び、答えを返した。全部の過程が翻訳者を高瀬恒一に戻した。
「伝えます」
「よろしく」
玲奈先輩が出ていった。旧部室棟の廊下を歩いていった。端的な足音。無駄のない歩幅。前作と変わらない足音。しかし少しだけ軽い。後輩の成長を確認した後の軽さ。
一人で工作室に残った。
椅子が二脚、正面で向き合っている。玲奈先輩がいた椅子。空の椅子。
園田を手放したときの空洞を思い出した。しかし今回は空洞ではない。卒業だ。師匠が弟子を卒業させた。もう教えることはない。三度目はない。
スマホが光った。彩音。
『恒一さん。玲奈先輩は来ましたか』
恒一さん。
十九日以降、彩音は俺を「恒一さん」と呼ぶ。先輩ではなく。高瀬さんでもなく。恒一さん。名前。
『来た。帰った。話した。三十分くらい』
『何を話しましたか』
『名前のある関係と名前のない関係の話。名前をつけても大事なものは大事だという話。もう教えることはないという話』
『玲奈先輩らしいですね。端的で深い』
『先輩が彩音に伝えてほしいことがあると言っていた』
『何ですか』
『ありがとう。恒一を人間にしてくれて』
三十秒。返信が来なかった。一分。
『泣いてます。嬉しくて』
『泣くな。玲奈先輩は泣かせるために言ったんじゃない』
『泣きます。玲奈先輩に認めてもらえた。恒一さんを人間にしたのは私だと。翻訳者の師匠に認めてもらえた。壊した人間が、壊した経験で、翻訳者を人間にした。やり直しが認められた』
やり直し。彩音が前の学校で壊したことのやり直し。園田をケアした。恒一の壁を外した。翻訳者を高瀬恒一にした。全部がやり直し。その全部を玲奈先輩が一言で認めた。
『彩音。冬休み中に一回会えるか』
『会えます。明日でも。明後日でも。毎日でも』
『毎日は要らない。しかし明日会いたい。海でも見ながら』
『海。いいですね。どこで会いますか』
『工作室の前。旧部室棟の廊下の窓から海が見える。彩音がいつもいた場所』
『私がいつも海を見ていた場所。いいです。明日。何時ですか』
『十四時。昼過ぎ』
『行きます。弁当持っていきましょうか』
『持ってこい。卵焼きを』
『唐揚げは』
『持っていく。母親のレパートリーの中から』
『楽しみにしています。恒一さん』
恒一さん。名前で呼ばれている。まだ慣れない。しかし慣れなくていい。慣れないことが嬉しい。
スマホを閉じた。
工作室に一人で座っていた。石油ストーブが暖かい。窓から冬の光が入っている。
玲奈先輩が帰った。もう教えることはない。三度目はない。前作の師匠が本作で最後の導きを渡して去った。
名前をつけても大事なものは大事だ。四文字が本質。好きだ。はい。形式ではなく本質。名前に振り回されるな。
師弟関係が完結した。翻訳者の師匠と翻訳者の弟子。二年間。前作から本作へ。玲奈先輩がいなければ工作室はなかった。工作室がなければ翻訳者はいなかった。翻訳者がいなければ依頼者は歩き出さなかった。全部の始まりが玲奈先輩だった。
しかし始まりの人間は去っていく。始まりの人間が去った後に残るのは、始まりの人間が残した言葉だ。辞書の一番奥にある言葉。名前をつけなくても大事なものは大事だ。
その言葉が翻訳者の辞書の底で光っている。
帰り支度。石油ストーブを消した。工作室のドアを閉めた。今日は閉める。火曜日にまた開ける。
廊下を歩いた。旧部室棟の廊下。窓から海が見える。冬の海。鉛色。しかし西日が水平線にオレンジの線を引いている。
明日。彩音がここに来る。弁当を持って。卵焼きを持って。俺は唐揚げを持って。
恋人として会う。初めて。十九日の放課後は告白だった。その後の紅茶は六人だった。冬休みに入って、二人きりで会うのは初めてだ。
付き合っている。名前がある関係。恋人。
名前の重みを感じている。玲奈先輩が言った通り。名前があることの重み。好きだと言った後の重み。はいと言われた後の重み。
しかし重みは悪くない。重みがあるということは中身があるということだ。中身がないものに重みはない。
帰り道。海沿い。一人で歩いている。冬の夕暮れ。日が短い。四時半で暗い。
スマホが光った。陽太。
『恒一。玲奈先輩と話したか』
『話した。ありがとう。先輩に連絡してくれて』
『後輩の義務だ。で、玲奈先輩は何て言った』
『もう教えることはない。三度目はない』
『三度目はないか。卒業だな。完全に。翻訳者としても高瀬恒一としても』
『卒業した。二度目の』
『二度目の卒業。おめでとう。今度はおめでとうと言っていいだろ。走り切ったとは言わないが、節目だ』
『ありがとう』
『もう一つ。凛花から連絡があった。冬休み明けに新しい依頼が入りそうだ。久我先生経由。大きい案件らしい』
大きい案件。冬休み明け。翻訳者として受ける最後の大型依頼かもしれない。
『詳しくは凛花に聞いてくれ。俺はまだ中身を知らない』
『分かった。凛花に聞く』
スマホを閉じた。
凛花にLINEを送った。
『凛花。冬休み明けの依頼の件。陽太から聞いた。概要を教えてくれ』
五分後。
『先輩。久我先生から打診がありました。冬休み中に相談室に来た生徒がいます。三年生の男子。恋愛の相談ですが、相談室では対応困難と久我先生が判断しました。工作室に紹介したいと。しかし規模が大きいです。複数の人間が絡んでいます。三角関係以上の複雑な案件です』
『大型案件か』
『はい。先輩。これは先輩が団長として受ける最後の大型依頼になるかもしれません。冬休み明け。一月。卒業まで二ヶ月。引き継ぎの最終段階で、大型依頼が来る。先輩が主導しますか。私が主導しますか』
考えた。五秒。
『二人で。俺が最後の翻訳をする。凛花が段階的翻訳で支える。蒼がデータで補助する。三人体制。引き継ぎの総仕上げとして』
『了解です。最後の大型依頼。先輩と一緒にやれるのが嬉しいです。業務外の感想ですが』
『業務外で受け取る。俺も嬉しい。凛花と一緒にやれる最後の依頼。全力でやろう』
『はい。全力で。先輩たち、面倒くさいですね。最後まで』
最後まで面倒くさい。凛花のフレーズ。前作から続く。しかし最後の「面倒くさい」には、それが聞けるのもあと二ヶ月だという切なさが混ざっている。
帰宅。自室。窓を開けた。冬の空気。鋭い。しかし星がきれいだ。冬の星は鋭いが澄んでいる。
ノートを開いた。十行のノート。十九日以降開いていなかった。
読み返した。十行。
一行目から十行目まで。四月から十二月まで。翻訳と日常と空洞と対話。
十一行目を書いた。
「彩音がはいと言った。四文字で始まった。好きだ。はい」
十一行。ノートは終わらない。本文は終わらない。十九日が終わりではなかった。十九日は始まりだった。始まったから続く。続くから書く。
十二行目を書いた。
「玲奈先輩がもう教えることはないと言った。翻訳者の師匠が去った。残ったのは高瀬恒一だ。彩音の隣にいる高瀬恒一」
十二行。ノートがまだ続いている。十行で終わると思っていた。終わらなかった。恋は始まったばかりだ。十行は告白までの本文だった。十一行目以降は恋人としての本文だ。
明日。彩音と会う。旧部室棟の廊下で。海を見ながら。弁当を持って。卵焼きと唐揚げを交換して。
付き合い始めて四日目。まだ何もかもが新しい。名前で呼ぶことが新しい。隣にいることが新しい。弁当を交換することは前からやっていたが、恋人として交換するのは新しい。
同じことなのに新しい。名前がつく前と後で同じことが違って見える。翻訳者が依頼者に言語化の力を語ってきた通り。名前がつくと世界が変わる。
冬休みが始まった。冬休み明けに最後の大型依頼が待っている。翻訳者として最後の仕事。凛花と一緒に。引き継ぎの総仕上げ。
告白と並行する構造。自分の恋が始まった状態で、他人の恋を翻訳する。前作では自分の恋と他人の恋が衝突して壊れた。今回は衝突しない。なぜなら名前がついたから。好きだと自覚したから。自覚した上で翻訳するのは、自覚しないまま翻訳するよりも安定する。
自覚が安全装置になる。蒼のデータに凛花が安全装置をつけたように。翻訳者の翻訳に自覚が安全装置をつける。好きだと知っているから、好きな相手を翻訳しようとしない。知っているから翻訳の必要がない。
翻訳不能は恋の条件。しかし翻訳不能を受け入れた翻訳者は、他の依頼者への翻訳がより正確になる。自分の翻訳不能を知っているから、他人の翻訳不能にも気づける。
冬休み明け。最後の大型依頼。全力で翻訳する。翻訳者として。高瀬恒一として。
しかし明日はまず彩音に会う。弁当を交換する。海を見る。普通に。恋人として。
十二月の夜。冬の星。潮の匂い。
玲奈先輩が去った。師匠が去った。弟子が残った。弟子は翻訳者であり、高瀬恒一であり、彩音の恋人だ。
三つの肩書きが一人の中にある。翻訳者は凛花に渡す。高瀬恒一はここにいる。彩音の恋人はここにいる。
全部がここにいる。朝凪に。冬の海の前に。工作室のドアの前に。
ノートを閉じた。十二行。枕元に置いた。明日、鞄に入れる。書き続けるために。
もう教えることはない。玲奈先輩の言葉。
しかし学ぶことはまだある。恋人としての日々。卒業までの二ヶ月。最後の大型依頼。凛花への引き継ぎの完了。
全部がこれから。
十二月の夜。冬の始まり。しかし始まりの中に終わりがある。終わりの中に始まりがある。
高瀬恒一は眠る。明日のために。彩音に会うために。




