表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
85/100

第35話 始める恋、終わらせない恋

第35話 始める恋、終わらせない恋


安藤は告白した。遠距離を覚悟で。 「始めよう」と言った。


金曜日。 十二月の最終登校日。終業式。


朝凪高校の体育館で 校長の話を聞いていた。二学期の総括。冬休みの注意事項。 聞いていなかった。頭の中が 二つのことで埋まっていた。


安藤の告白。 今日の放課後。植樹コーナー。

そして 彩音への、俺の話。 屋上。


二つが 同じ日に重なっている。同じ学校で。同じ放課後に。


終業式が終わった。教室で通知表をもらった。成績は 悪くない。数学が 少しだけ持ち直した。屋上でサンドイッチを食べる代わりに 授業を聞いていた週があったからだ。


昼休み。 屋上には行かなかった。


彩音に LINEを送った。番号の交換は 十一月のショートメール以来。LINEは 凛花経由で交換していた。


『彩音。 今日の昼休み、屋上には行けない。安藤の件の最終確認がある。 放課後に。屋上で。 待っていてくれるか』


三十秒後。


『分かりました。 放課後。屋上で。 待っています』


四度目の 「待っています」。



放課後。四時。


校庭。 南側。植樹コーナー。


十二月の空は 曇っていた。灰色。 だが雨は降っていない。風が冷たい。息が白い。 冬の空気。


植樹コーナーには 穴が一つ開いていた。三月の植樹式で 今年の三年生が木を植える穴。まだ 空っぽだ。土が 黒く湿っている。


安藤が 来ていた。制服。 昨日のリハーサルのときより 顔が引き締まっている。緊張 は見える。だが 逃げる気配はない。三年間 逃げ続けた男の背中に 今日は覚悟が 張りついている。


「安藤」


「高瀬先輩 」


「準備 はいいか」


「......はい。 五回 練習しました。昨夜も。帰ってから。鏡の前で」


「鏡の前 で」


「陽太先輩に 教わりました。鏡の前で 一回言えって」


陽太の 鏡メソッド。真白への告白の前にやったという あれ。安藤にも伝授していたのか。


「何回 言った」


「三回。 昨夜。鏡の前で。 合計八回 です。リハーサルの五回と合わせて」


八回。 俺は五回。安藤のほうが三回多い。 三年分の重み が。回数に出ている。


「安藤。 最後に一つだけ」


「何ですか」


「声が出なくなったら 目を見ろ。水嶋さんの目を。 目を見て。声が出なくても。目 で伝わる」


「目 で」


「声が全てじゃない。 立ってるだけでも伝わることがある。翻訳者の 受け売りだが」


「翻訳者 って。先輩 ですよね」


「ああ。 俺の受け売り。自分の受け売り。 変な話だが」


安藤が 笑った。少しだけ。緊張 が一瞬ほぐれた。


「先輩。 ありがとうございます。工作室に 来てよかった」


「礼は 終わってから言え。まだ 始まってない」


「はい」


俺は 植樹コーナーから離れた。校舎の壁際に。 安藤から見えるが 水嶋さんの視界には入りにくい位置。いつもの 見守りの配置。


陽太が 正門付近で見張っている。人が来ないように。凛花と蒼は 工作室で待機。


四時十五分。 水嶋凛が来た。


安藤が LINEで呼んだのだろう。「放課後 植樹コーナーに来てほしい」と。


水嶋は 小柄だった。ショートボブ。眼鏡。 活発 というより。静か。落ち着いた雰囲気。制服のリボンがきちんとしている。 安藤が好きになった「古い邦画が好き」の女の子。三年前の自己紹介で 安藤の心を動かした女の子。


「安藤くん ? 何 ?」


声が 聞こえた。冬の空気の中で。 澄んでいる。


安藤が 水嶋の前に立った。正面。 二人きり。三年間 避けてきた二人きり。


五秒。 安藤が黙っている。声が 出ない。


リハーサルでは出た。 本番で止まった。三年分の重さが 喉に詰まっている。


水嶋が 首を傾げた。


「安藤くん ? どうし 」


「水嶋」


声が 出た。低い。掠れている。 だが 出た。


「好きだ」


二文字。 冬の空気に。白い息と一緒に。 出た。


水嶋の目が 開いた。驚き。 完全な驚き。


安藤が 続けた。声が 震えている。だが止まらない。リハーサルの八回分 が。身体に染み込んでいる。


「三年 ずっと。入学式の日 から。お前が『古い邦画が好きです』 って言ったときから。 ずっと好きだった」


水嶋の手が 口を覆った。目が 潤んでいる。


「卒業したら 遠くなる。東京と大阪。 分かってる。でも」


安藤の声が 安定した。震え の中に。芯が通った。リハーサルの五回目 と同じ。いや それ以上。陽太が言った通りだ。「本番のほうが声が出る」。


「遠くなっても 始めたい。お前と」


六文字。 「遠くなっても始めたい。お前と」。


安藤の本文。 翻訳者が翻訳した言葉 ではなく。安藤が五回の練習と三回の鏡 で磨いた。自分自身の。声。


水嶋が 泣いていた。手で口を覆ったまま。涙が 頬を伝っている。


「安藤 くん」


声が 震えていた。水嶋の声も。


「私 も」


水嶋が 手を下ろした。涙で濡れた顔が 見えた。泣いている。 だが。笑 っている。泣き笑い。


「私も 好き です。 ずっと 」


ずっと。 水嶋も。ずっと。


安藤の顔が 崩れた。緊張 が全部溶けた。目が 潤んだ。サッカー部の大きな身体が 少しだけ前に傾いた。力が抜けて。


「マジ 」


「マジ です」


「俺 三年 」


「私も 三年 です。入学式の日 安藤くんが自己紹介で 『趣味はサッカーです。あとラーメンが好きです』 って。ラーメン って言ったのが 」


「ラーメン で?」


「はい。 他の男子は格好つけてたのに。安藤くんだけ ラーメン って。 なんか 正直 だなって」


正直。 安藤の正直さ。ラーメンが好き と素直に言える男。 水嶋が好きになった理由。古い邦画が好き と素直に言った水嶋。安藤が好きになった理由。 二人とも 「自分らしさを素直に言える」ことに惹かれていた。


鏡 だ。二人が。お互いの 鏡。


安藤が 笑った。泣きながら。大きな身体で。サッカー部の男が 植樹コーナーの前で。穴の横で。これから木が植えられる場所の横で。 泣いて笑って。


「遠距離 になるけど」


「なるけど 大丈夫です。新幹線 乗れますから」


「乗る。 毎月。いや 毎 」


「無理しないでください。 でも 会いたいです」


「会いたい。 俺も」


二人が 向かい合っている。冬の空の下で。灰色の曇り空。 だが二人の間だけ 空気が暖かい。


俺は 壁際から。二人の背中を見ていた。


安藤は言った。自分の言葉で。翻訳者の言葉 じゃない。俺が翻訳したのは安藤の本音 だけだ。声にしたのは安藤自身。 それが 正しい。


設計図 は渡した。場所を。タイミングを。言葉の骨格を。 だが肉声 は安藤のもの。設計図を 安藤が自分の言葉に上書きした。小林がDMの文面を自分の言葉に変えたように。


工作室は 設計図を渡す。辞書を見せる。 だが声にするのは 依頼者自身。


それが 正しい。


壁際を離れた。 静かに。二人を残して。


正門に向かった。 陽太が待っていた。


「終わったか」


「終わった。 成功。相思相愛」


「三年 か。長かったな。安藤」


「長かった。 でも最後に言えた。自分の声で」


「自分の声 ね。 いい声だったか」


「最高 だった」


陽太が にやっと笑った。


「恒一。 安藤がやれたなら」


「分かってる」


「分かってるなら 」


「言うなよ。 今は。安藤の 時間だ」


「安藤の時間 か。律儀だな」


律儀 だ。原田の日にも 同じことを言った。「原田の日を大事にしたい」と。今日も 安藤の日 だ。


だが 今日は。原田のとき とは違う。


安藤が 「始めないまま終わるほうがもっと怖い」 と。まだ言っていない。だが言うだろう。工作室で。報告のとき。 その言葉が 俺の胸を。


もう 刺さっている。まだ聞いていないのに。



工作室。 報告。


安藤が来た。 四時四十分。顔が 変わっていた。三十分前 の緊張 が消えている。代わりに 静かな喜び。照れ。 耳が赤い。陽太の告白後 と同じ色。


パイプ椅子に座った。 深く。力が抜けて。


「報告 します」


四人が 安藤を見ている。


「付き合う ことになりました。水嶋 凛と」


工作室に 温かい空気が流れた。


「遠距離 です。東京と大阪。新幹線で二時間半。 でも」


安藤の声が 落ち着いていた。照れ はあるが。穏やかだった。


「始められ ました」


始められた。 三年間。始められなかった恋を。金曜日の植樹コーナーで。これから木が植えられる場所の横で。 始めた。


恒一は 拍手しなかった。静かに 頷いた。


去年 日下部の報告のとき。日下部は 「告白しません。記憶の中にしまっておきます」 と言った。勝ち負けのない着地。 俺は 静かに頷いた。


今日 安藤が 「始められました」 と言った。距離を越えた開始。 俺は 同じように 静かに頷いた。


日下部は 「終わる恋」を選んだ。安藤は 「始まる恋」を選んだ。 どちらも正しい。どちらも 勇気がいる。


「安藤。 一つだけ聞いていいか」


「はい」


「始めるのは 怖かったか」


安藤は 少し考えた。


「怖かった です。めちゃくちゃ。声が 出なかった。最初の五秒 真っ白になりました。練習 八回もしたのに。本番 で全部飛んだ」


「飛んだ のに。言えたのか」


「はい。 水嶋さんの目 を見たら。先輩 が言ってくれたこと。声が出なくても 目で伝わる って。目を見たら 声が 勝手に出ました」


目で伝わる。 翻訳者が言った言葉。「立ってるだけでも伝わることがある」。 安藤が 実践してくれた。


「始めるって 怖いです。でも」


安藤が 俺を見た。


「始めないまま終わるほうが もっと怖い」


来た。


その言葉が。 企画書にも書いてあった言葉。安藤のキャラクターの核心。 だが今。安藤の口から。安藤自身の声で。出てきたとき。


翻訳者の胸が 貫かれた。


始めないまま 終わる。 それが一番怖い。


安藤は 三年間。始めないまま 過ごしてきた。もう少し で 始めないまま卒業する ところだった。 工作室に来て。場を設計してもらって。リハーサルして。 最後に 自分の声で。始めた。


俺は 半年以上。彩音への感情を 始めないまま 過ごしている。白いページに「恋」と書いた。堤防で「好きだ」と五回声に出した。 だが本人には まだ。


卒業 まで。あと三ヶ月。三月。 安藤のように あと少しで 始めないまま卒業する ところだった になるのか。


なりたくない。 絶対に。


「安藤。 ありがとう」


「え ? 俺が ありがとう って言うべきなのに 」


「ありがとう。 お前の勇気が。俺に 教えてくれた」


「教え ? 何を 」


「始めないまま終わるのが 一番怖い って。 俺も 知ってた。知ってたけど 実感してなかった。お前が 実感させてくれた」


安藤は 少し驚いた顔をして。それから 笑った。


「先輩にも 好きな人 いるんですか」


二人目。 北村に続いて。安藤にも聞かれた。依頼者が 翻訳者の恋を読んでいる。


「......いるかもしれない」


「かもしれない ですか。翻訳者 なのに。曖昧ですね」


「曖昧 だな。翻訳者のくせに」


安藤が帰っていった。 水嶋と 一緒に帰るのだろう。初めてのデート の前哨。


凛花がノートに記録した。


「 依頼⑥:安藤拓真。三年間の片想い。水嶋凛へ告白。場所:校庭植樹コーナー。結果 告白成功。交際開始。遠距離(東京・大阪)覚悟の上で。判定 開始」


パタン。


「開始 ですか。前進 じゃなく」


蒼が聞いた。


「開始 です。今回は グレーの着地じゃない。明確な 開始。始まった。 二人の恋が」


「始まった 」


「完全 じゃない。遠距離 という不確実性がある。でも 始めた。選んだ。 それは 前進 より大きい」


凛花は ペンを置いた。


「先輩。 安藤さんの言葉。刺さりました よね」


「......ああ」


「『始めないまま終わるほうがもっと怖い』」


「刺さった」


「先輩 にも。 刺さるべき言葉 でした」


凛花の目が 真剣だった。参謀として。仲間として。


「先輩。 今日 屋上に行くんですよね」


「行く。 彩音と 約束してある」


「何を 話すんですか」


「......」


「聞きません。 工作室の案件じゃないから。記録もしません。 でも。先輩。一つだけ」


「何だ」


「安藤さんが 五回の練習で声を出せた。先輩は 堤防で五回。もう 準備 はできてます。 あとは 本人の前で 声にするだけです」


「声にする だけ」


「声にするだけ が一番難しいのは分かってます。 でも。先輩は 他人の恋を何十回も 声にしてきた。翻訳してきた。 自分の恋も できます。 翻訳じゃなく。本文 で」


本文。 何度も聞いた言葉。凛花が去年言い始めた言葉。 「設計図じゃなくて本文を書いている感じです」。


「......ありがとう。凛花」


「事実の 確認 です。 あ、これ彩音さんの」


「感染 してるな。完全に」


笑った。 だが笑いながら。心臓が 速くなっていた。


放課後。 もうすぐ。屋上に行く時間。



工作室を出た。


廊下を歩いた。 旧部室棟の暗い廊下。蛍光灯が三本に一本切れている。


本校舎に渡った。 階段を上がった。三階。四階。 屋上への階段。


ドアの前で 立ち止まった。


屋上のドアの向こうに 彩音がいる。待っている。「待っています」 と四回言った。


俺は 何を言うのか。


「好きだ」 と。言うのか。今日。ここで。


安藤が 植樹コーナーで水嶋に言ったように。陽太が 新聞部室の前で真白に言ったように。


設計図なしで。翻訳なしで。 「好きだ」と。


心臓が 速い。手が 少しだけ震えている。十二月の寒さ だけではない。


ドアを 開けた。


冬の風が 吹き込んできた。冷たい。 空が灰色。海が 暗い紺色。


彩音が いた。


フェンスの近く。いつもの場所。 立っていた。座って ではなく。立って。 俺を待っていた。


「恒一くん」


「彩音」


二人が 向かい合った。屋上。冬の風。 いつもの場所。だが いつもとは違う空気。


「安藤さんの件 」


「終わった。 成功。相思相愛。 遠距離覚悟で 付き合うことになった」


「よかった ですね」


「ああ。 よかった」


沈黙。 三秒。 風の音。波の遠い音。


「彩音」


「はい」


「話したいこと が。 あった」


「はい。 聞きます」


彩音の目が 真っ直ぐ俺を見ていた。壁がない目。鎧がない目。丁寧語の盾がない目。 待っている目。


俺は 口を開いた。


言葉が 出かけた。「好きだ」が。喉の奥で 形になりかけた。


止まった。


止まった のは。怖い からではなかった。


安藤の告白を さっき見たばかりだ。三十分前。植樹コーナーで。安藤が泣いて。水嶋が泣いて。 美しかった。感動 した。


だが その感動の余韻 で。俺が彩音に「好きだ」と言ったら。


安藤の余韻 で言った ことになるのではないか。


安藤の勇気に影響されて。「始めないまま終わるのが怖い」という言葉に突き動かされて。 感情の波 に乗って。


それは 俺の本文 なのか。


翻訳者は 他人の感情のパターンを使わない。翻訳者が翻訳するとき 翻訳者自身の感情を混入させてはいけない。 同じだ。俺が彩音に告白するとき 安藤の感動を混入させてはいけない。


「好きだ」は 俺自身の言葉 であるべきだ。安藤の勇気に触発された言葉 ではなく。


「恒一くん ?」


彩音が 俺を見ている。三秒の沈黙 が。長くなっている。


「......彩音」


「はい」


「今日 安藤の告白を見て。すごく 思ったことがある」


「何ですか」


「始めないまま終わるのが 一番怖い って。安藤が言った。 俺も そう思う」


「......はい」


「俺にも 始めたいことがある。伝えたいことがある。 お前に」


彩音の目が 微かに開いた。呼吸が 少しだけ浅くなった。


「でも 今日 は。安藤の日 だ。安藤が三年間の勇気を出した日。 その余韻 で。俺が自分の気持ちを言ったら。安藤の勇気 に乗っかっただけになる。 俺の言葉 じゃなくなる」


翻訳者の 論理。他人の感情 を。自分の告白 に混入させない。


「だから 今日は。ここまでにする」


彩音は 五秒ほど黙っていた。


「律儀 ですね」


「律儀 だな。俺は」


「安藤さんの日 を。大事にしたい ですか」


「ああ。 原田の日も 大事にした。安藤の日も。 俺が彩音に伝えるのは。誰の日 でもない日に。俺と彩音 だけの日に」


彩音の目が 柔らかくなった。


「俺と彩音 だけの日」


「ああ。 そういう日が 来る。必ず。 遠くない」


「遠くない 」


「約束 する。 冬休みが終わって。三学期が始まって。 春が来る前に。夏が来る前に。 伝える」


「夏が来る 前に」


「ああ。 いつか じゃなく。夏が来る前に。 それが 俺の期限だ」


期限。 園田の件で学んだ。設計図には期限をつける。 俺自身の感情 にも。期限を。夏が来る前。 梅雨が明ける前。 半年 ではない。もっと早く。


彩音は 少しだけ微笑んだ。


「待って います」


五度目。 だが今回は ニュアンスが違った。「待っています」 の中に。「急がなくていい」 と。「でも 来てほしい」 が。両方 入っていた。


「彩音。 一つだけ。今日 伝えられることがある」


「何ですか」


「お前が 工作室の隣にいてくれたこと。四月から。批判者として。仲間として。 全部 感謝してる。工作室が ここまで来れたのは。お前のおかげだ」


「私の 」


「善意のリスクを教えてくれた。素人の限界を突きつけてくれた。翻訳しない選択を 教えてくれた。 全部 お前がいたから」


「それは 工作室 の話 ですよね。先輩と 工作室 への」


「工作室 への。そう。 今日は ここまで。工作室への感謝 だけ」


「だけ 」


「 だけ じゃ。ないことは。 お前も 分かっているだろう」


心臓が 跳ねた。自分で言った言葉に。 「お前も分かっているだろう」。


彩音の頬が ピンクに染まった。三度目。 今日のは 一番濃い。夕日 ではない。曇り空だ。日差し のせいにはできない。


「......分かって います」


小さな声。 冬の風に ほとんど消される。だが翻訳者の耳 は拾った。


分かっている。 彩音が。俺の「だけじゃないこと」を。


「分かっているなら 待っていてくれ」


「待ちます。 夏が来る前まで なら」


「夏が来る 前 に。必ず」


彩音が 頷いた。小さく。 頬がまだピンク。


「では 今日は。ここまで ですか」


「ここまで だ。 おやすみ。よい冬休みを」


「おやすみなさい 恒一くん。 よいお年を」


よいお年を。 十二月の最後の挨拶。 次に会うのは一月。三学期。


彩音が 屋上のドアに向かった。 ドアの前で 振り返った。


「恒一くん」


「何だ」


「私も 変わらなきゃ と。思っています。 あなたたちを見ていて。安藤さんの告白を 聞いて。 私も」


「変わる ?」


「はい。 壁の中 にいるのは。もう やめようと思います。 来年 は」


来年。 三学期。


「待ってる。 お前が壁を出てくるのを」


「......変な人」


「何度目だ」


「何度 でも」


彩音が 笑った。泣いては いない。涙 はない。 だが。笑いの奥に。涙 に似た光があった。


ドアが 閉まった。彩音が去った。


一人 になった。屋上。 十二月の最終日。冬の空。灰色。海が 暗い。


「始めないまま 終わるほうが。もっと怖い」


安藤の言葉。 胸の中で反芻されている。


始めないまま 終わらせない。


彩音に 言う。いつか じゃなく。 夏が来る前に。


梅雨の空 の下で。あるいは 桜が散る前に。 でもいい。


だが 安藤の余韻 で言うのは嫌だ。陽太の余韻 でも。凛花の後押し でも。 誰の影響 でもなく。


俺自身の 本文で。


高瀬恒一 が。瀬川彩音 に。


翻訳 じゃなく。


「好きだ」 と。


そのために 冬休みがある。年末年始。一月。二月。 考える時間。いや 感じる時間。


陽太が言った。「考えるな。感じろ」。 もう六回も言われた。


冬休みの間に 感じる。心臓が何を言っているか。 翻訳者の頭 ではなく。


春が来る。三学期。 短い。二月。三月。 卒業。


その前に。


この手で。この声で。この心臓で。


彩音に 伝える。


屋上を出た。 ドアを閉めた。階段を降りた。 正門を出た。堤防沿い。


十二月の夕暮れ。 年内最後の 堤防の道。


海が 暗い。灰色の空。だが 波はある。止まっていない。冬の海 でも 動いている。


「始めないまま 終わらせない」


声に出した。 六回目の 堤防の独白。


今年 が終わる。


来年 が来る。


来年の春 までに。夏が来る前に。 彩音に。


恋路工作室の翻訳者が。


自分自身の恋路を。


歩き始める。


設計図 なしで。


翻訳 なしで。


ただの 高瀬恒一として。


海が 暗い。星が まだ出ていない。 でも。出る。必ず。


冬の空にも 星はある。


見えなくても ある。


恋も 同じだ。


見えなくても ある。


ある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ