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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第30話 陽太の告白

第30話 陽太の告白


天野陽太が告白した。 工作室のメソッドは、一切使わなかった。


十一月の最終週。 月曜日。


朝。教室に着いたら 陽太がいなかった。席が空いている。鞄は置いてある。 登校はしている。だが教室にいない。


メロンパンが 机の上に置いてあった。二つ。いつもの。 だが包装紙に マーカーで何か書いてある。


「恒一へ。 今日の放課後、新聞部室の前にいる。見届けろ。 陽太」


見届けろ。 何を。


翻訳者の直感が 答えを出すまでもなかった。


今日 やるのか。陽太。


堤防で「彩音が好きだ」と声に出してから 五日。その間に 陽太は何も言わなかった。「本人に言え」の命令以降 追加の言葉はなかった。工作室でも普通に仕事をしていた。 だが、耳は ずっと赤かった。


五日間 準備していたのだ。


俺が堤防で声を出したように。 陽太も、どこかで。声を出していたのかもしれない。「真白が好きだ」と。 鏡の前で。一回目は恥ずかしかったと言っていた。二回目は。三回目は。 何回練習したのだろう。


メロンパンの包装紙を 丁寧に畳んだ。マーカーの字。 陽太の字は いつも大きい。堂々としている。「見届けろ」。 命令形。友達への 信頼の命令形。



放課後。


工作室には行かなかった。 凛花にLINEを送った。


『今日は工作室 遅れる。陽太の件で』


凛花から即座に返信。


『陽太先輩の ? あ。分かりました。記録 はしません』


記録しない。 凛花は分かっている。陽太の恋は工作室の案件ではない。記録者は 記録しない。


蒼にも。


『蒼。今日は少し遅れる。凛花と先に始めてくれ』


蒼から。


『了解です。 陽太先輩の件ですか。データ的に今日の成功確率は 』


『データは不要だ』


『了解。 棄却。自主的に』


学んでいる。 蒼も。


本校舎。二階。 新聞部の部室の前。


廊下の角に 立った。見える位置。だが 陽太からは見えにくい位置。工作室の依頼者を遠くから見守るときと 同じ配置。


新聞部の部室のドアが 開いていた。中から 声が聞こえる。部活の最中。 今日の新聞部は十七時に終わるはずだ。陽太が 何度も確認していたのだろう。真白のスケジュールを。


十七時五分。 新聞部のメンバーが出てきた。三人。四人。 バラバラに帰っていく。


最後に 真白が出てきた。


ショートカット。活発そうな雰囲気。新聞部の腕章をまだつけている。トートバッグにキーホルダー。 笑顔で部室のドアを閉めた。鍵をかけた。 新聞部の鍵当番。


そこに 陽太がいた。


部室の前。 壁に背をもたれて。メロンパンを 持っていない。手が 空だ。天野陽太が メロンパンを持っていない。これだけで 本気度が分かる。


「あ 天野先輩」


真白が 陽太を見た。 驚いていない。陽太がここにいることを 少し予想していた ような。していなかった ような。微妙な表情。


「真白」


陽太の声が 聞こえた。廊下の角から。 声が いつもの陽太ではなかった。メロンパン齧りながら軽口を叩く陽太ではなく。 真剣な。少しだけ震えている。声。


コミュ力お化けが 震えている。


「あの 少し いいか」


「はい。 何ですか?」


真白の声は 明るかった。いつも通りの。 だが、少しだけ。構えている。何かが来ると 感じている。


陽太は 三秒ほど黙った。三秒。 天野陽太にとっての三秒の沈黙は 普通の人間の三十秒に相当する。陽太が三秒も黙ることは 滅多にない。


「好きだ」


短い。


「付き合ってくれ」


短い。 シンプル。飾りなし。設計なし。翻訳なし。 天野陽太の言葉。天野陽太の辞書にある 一番まっすぐな言葉。


俺の辞書 ではない。蒼のデータ でもない。凛花の記録 でもない。 陽太自身の。本文。


真白は 二秒ほど黙っていた。


「......はい」


一文字。 「はい」。


陽太の目が 開いた。大きく。


「え」


「はい です」


「え 待って。マジ?」


「マジ です」


「もっとこう 考えたりしなくて いいのか? 急に言われて 」


「急じゃないです」


真白が 笑った。明るい笑顔。 だが、目が 少しだけ潤んでいた。


「ずっと 待ってたんですけど」


ずっと待ってた。


陽太の顔が 赤くなった。耳が赤い。首が赤い。全身 赤い。 真白に「待ってた」と言われて。コミュ力お化けが 完全にフリーズした。


「待って た?」


「はい。 先輩が いつ言ってくれるのかなって。 髪型変えたり。弁当作ってきたり。 全部 分かってました」


全部 分かってた。


「えっ バレてた?」


「バレてました。 先輩、分かりやすいです。コミュ力お化けなのに。 私の前だけ ぎこちなくて」


「ぎこち 」


「普段はみんなとペラペラ喋れるのに。 私と二人きりになると 急に黙るから。あ 好きなのかなって」


陽太が 壁にもたれたまま。ずるずると しゃがみこんだ。膝が 笑っている。力が 抜けた。


「恒一に バレてたのは知ってたけど。 真白にもバレてたのか 」


「恒一先輩にも バレてたんですか」


「バレてた。 一秒で。翻訳者の目で。 俺は 隠す気で」


「隠れてませんでした。 全然」


真白が 笑った。声を出して。 澄んだ笑い声が 廊下に響いた。


俺は 角の向こうで。口を押さえていた。笑いを 堪えるために。


天野陽太。コミュ力お化け。潜入調査の達人。去年 工作室で何十回も人の前に立った男。 告白して「え?」と三回言って。しゃがみこんで。「バレてた」と衝撃を受けている。


設計図なしの告白 って。こんなもんなのか。


最高だ。


格好よくない。スマートじゃない。段取りもない。 だが、本物だ。天野陽太の 本物の。本文。


「真白」


陽太が しゃがんだまま。見上げるように。真白を。


「......ありがとう。 待っててくれて」


「待ってたのは 好きだったからです。 先輩のこと」


好きだった。 真白のほうから。 相思相愛。蒼がいたら「相互反応パターンが成立しています。確率 」と言うだろう。データは不要だ。目の前の 二人の顔を見れば。分かる。


陽太が 立ち上がった。膝が まだ少し笑っている。


「じゃあ 付き合うってことで いいのか」


「いいです」


「何する 付き合うって。デートとか?」


「デートとか です。映画とか。カフェとか」


「カフェ 好きなのか」


「好きです。 先輩の好きなメロンパンがあるカフェ 知ってますよ」


「メロンパンの カフェ!?」


「波の音カフェ って。海沿いの。メロンパンが美味しいんです」


波の音カフェ。 小林が画面の向こうの恋人と会った場所。 朝凪の生徒にとって あのカフェは恋の聖地 になりつつあるのかもしれない。


「行こう 今度」


「はい。 土曜日とか」


「土曜 いい。行こう」


陽太と真白が 並んで歩き始めた。新聞部の部室の前から。 廊下を。同じ方向に。


並んで歩く二人の背中が 遠ざかっていく。陽太の背中が いつもより。大きく見えた。 嘘だ。同じだ。でも 少しだけ。


嬉しそうだった。背中が。


俺は 角の向こうから。二人の背中を見送った。 翻訳者として ではなく。友達として。


「......やったな。陽太」


声に出さずに。 呟いた。



工作室。 少し遅れて着いた。


凛花と蒼が 先に来ていた。依頼者の対応は なかった。今日は新規がない日。


「先輩。 遅れましたね」


「ああ。 陽太の件で」


「陽太先輩の 件」


凛花の目が 少しだけ光った。 知りたそうだが。記録者として 聞かない。工作室の案件ではないから。


「......凛花。一つだけ 報告していいか。工作室の案件じゃないけど」


「いいですよ。 記録はしません。 聞くだけ」


「陽太が 告白した。真白に。 結果は 」


「結果は ?」


「成功。 相思相愛。真白が 『ずっと待ってた』 と」


凛花が ペンを置いた。 記録しない約束だから。ペンを持っていたら つい書いてしまう。


「......よかったです。 陽太先輩」


声が 嬉しそうだった。参謀の声 ではなく。後輩の 嬉しい声。


蒼が PCの画面を見たまま。


「成功率 は聞きません。 結果が出たなら データは不要です」


「蒼 学んでるな」


「学んでます。 『データ不要リスト』が 長くなる一方ですが」


「いいことだ」


「いいこと ですか。データ屋として 不要リストが増えるのは」


「データで測れないものの価値を 知ることは。データ屋として 最大の成長だ」


蒼が 二秒ほど黙って。 口角を四ミリほど上げた。 入部時は一ミリだった。四倍。 成長をデータで計測 するな。


「先輩。 陽太先輩の告白。どんな感じでしたか」


凛花が 聞いた。記録 ではなく。純粋な好奇心として。


「シンプルだった。 『好きだ。付き合ってくれ』。それだけ。 工作室のメソッドは一切使わなかった。翻訳もなし。設計図もなし。場の設計もなし。撤退線もなし。 ただ。好きだ。付き合ってくれ」


「シンプル ですね」


「シンプルすぎる。 でも本物だった。天野陽太の 本文だった」


本文。 凛花が微笑んだ。その言葉の意味を 凛花は知っている。「設計図じゃなくて本文を書いてる感じです」。去年 凛花が俺に言った言葉。


「先輩。 陽太先輩は、本文を 書いたんですね」


「書いた。 自分の言葉で。自分の辞書で。翻訳者の辞書 じゃなく」


「格好 よかったですか」


「格好 よくなかった。しゃがみこんでた。『えっ』って三回言ってた。膝が笑ってた。 全然格好よくなかった。 でも」


「でも ?」


「最高だった」


凛花が 笑った。蒼も 口角が五ミリに達した。新記録。


「先輩」


凛花が 少しだけ。真剣な顔になった。


「陽太先輩が できたなら」


「何だ」


「先輩も できるんじゃないですか」


「できる って。何を」


「何を って。分かってるくせに」


凛花の目が 参謀の目だった。全部 見えている。恒一が堤防で何を言ったか は知らないだろう。だが恒一の顔が変わったことは 見えている。


「先輩。 陽太先輩は設計図なしで告白しました。先輩は 設計図を描く側の人間です。でも 自分の恋に設計図は 」


「要らない」


「要らない ですよね」


「要らない。 園田の件で学んだ。設計図は人を縛る。 自分の恋にも。設計図を描いたら 自分を縛る」


「なら 設計図なしで。陽太先輩みたいに」


「......考える」


「考えるな って、陽太先輩なら言いますよ」


「感じろ って」


「はい。 心臓で」


凛花と陽太が 同じことを言う。陽太の六回目 ではなく。凛花の一回目。「心臓で感じろ」。


「凛花 」


「はい」


「お前 いつから俺の恋路に口出しするようになったんだ」


「参謀 ですから。先輩の盲点を指摘するのが 仕事です」


「恋は 工作室の案件じゃないだろ」


「先輩が ホワイトボードに書いたんです。三番目の課題。『瀬川彩音 翻訳不能な感情に言葉を見つける』。 ホワイトボードに書いた以上 工作室の案件です」


「......それは」


「記録 してあります。参謀のノートに。 先輩の三番目の課題。期限なし。ただし 卒業という物理的期限が存在する」


凛花は 容赦がない。参謀として。そして 仲間として。


「......ありがとう。凛花」


「何に対して ですか」


「口出し してくれて」


「事実の 」


「彩音の口調を使うな。感染ってるぞ」


「感染 してますね。工作室全体に」


笑った。 三人で。工作室で。 陽太がいない。デート ではなく。たぶん真白と 駅まで一緒に帰っている。 陽太がいなくても。工作室は 回る。三人で。


だが 陽太のメロンパンがない工作室は 少しだけ寂しい。


「明日 陽太先輩、来ますかね」


蒼が聞いた。


「来る。 彼女ができたからって工作室をサボる男じゃない。 たぶん」


「たぶん 」


「メロンパンは持ってくると思う。 あいつはメロンパン教だから。教義を破らない」


「メロンパン教 の教義に 恋人ができたら工作室を休む という条項は 」


「ない。 メロンパン教は不変だ」


蒼が 「不変定数 ですね」と呟いた。 工作室のメロンパンは不変定数。陽太が教えてくれた概念。


帰り支度をした。 工作室を出る。


ドアの前で プレートを見た。「恋路工作室」。


他人の恋路を 設計する場所。 今日。この場所のメンバーが 自分の恋路を。設計図なしで 歩いた。


「お前もやってみろよ」


陽太の声が 耳に残っている。メロンパンの包装紙に書かれた「見届けろ」。 見届けた。陽太の告白を。


次は 俺の番 なのか。


設計図 なし。翻訳 なし。 ただ。好きだ と。


彩音に。


「いつか。いつか じゃなくて」


声に出して 呟いた。工作室のドアの前で。


「もう そろそろ」


そろそろ。 堤防で声に出した「そろそろ」。あれから五日。 陽太は五日で動いた。


俺は どれくらいかかるのか。


分からない。 翻訳者にも。


だが 「いつか」が「そろそろ」に変わった。「そろそろ」が 「もう」に変わりかけている。


もう 動いていい頃だ。心臓が ずっと言っている。


鍵をかけた。 ポケットの中で鍵が鳴った。


正門を出た。 十一月の夕暮れ。空がオレンジと紫の境目。海が 暗い紺色。一番星が 東の空に。


「恒一くん」


声が 後ろから。


振り返った。 彩音だった。校門の前。 待っていた のか。


「彩音 」


「今日 工作室に遅れて来てましたよね。何かあったんですか」


「陽太が 告白した。真白に」


「天野先輩が ?」


「ああ。 成功した。相思相愛」


彩音は 少しだけ目を見開いて。それから 微笑んだ。


「よかったですね。 天野先輩」


「ああ。 よかった」


「どんな 告白だったんですか」


「シンプルだった。 『好きだ。付き合ってくれ』。それだけ」


「それだけ ? 設計図 なしで?」


「なし。 翻訳もなし。天野陽太の辞書にある言葉 だけで」


彩音は 少し考えた。


「シンプル ですね。 でも、それが 一番難しい」


「難しい か?」


「難しいです。 飾らない言葉で。自分の気持ちを。そのまま。 翻訳者なら もっと精巧な言葉を選べる。もっときれいな比喩を使える。 でも、『好きだ』の三文字のほうが たぶん 」


「たぶん ?」


「伝わる と思います。 比喩より。翻訳より」


比喩より。翻訳より。 「好きだ」の三文字。


「恒一くん」


「何だ」


「天野先輩の 告白を見て。何か 思いましたか」


何か 思ったか。


思った。 思った。山ほど。


設計図なしの告白がこんなにも強いこと。「好きだ」の三文字が翻訳者のどんな言葉より伝わること。しゃがみこんで「えっ」と三回言う男が 最高に格好よかったこと。 全部思った。


そして もう一つ。


俺もやらなきゃ と思った。


「......いろいろ思った」


「いろいろ ですか。曖昧 ですね。翻訳者なのに」


「翻訳者 だから。言葉にしすぎると 重くなる。今日は 『いろいろ』で いい」


「そうですか。 『いろいろ』 ですか」


彩音は 少しだけ首を傾げた。 何かを読もうとしている。翻訳者の手法 ではなく。ただの 好奇心で。


「彩音」


「はい」


「一つ 聞いていいか」


「どうぞ」


「お前は 告白されたことは あるのか」


彩音の足が 止まった。堤防沿いの道。海が左手に。 二人で歩いている。


「......ないです」


「ない のか」


「ないです。 告白 したことも。されたことも。 ゼロです」


「ゼロ 」


「はい。 前の学校では カウンセラーの立場で。生徒の恋を聞く側でした。 自分の恋は 考えたことがなかった。 忙しかったから というのは言い訳ですが」


「言い訳 」


「恋をする余裕 がなかったんです。他人の恋を分析するのに忙しくて。 自分の感情は 後回しにしていた」


他人の感情は分析できるのに 自分の感情は後回し。 俺と 同じ構造だ。翻訳者が 自分の感情を翻訳できない。カウンセラーが 自分の恋を後回しにする。


「でも 今は ?」


聞いてしまった。 翻訳者として ではなく。高瀬恒一として。


彩音は 五秒ほど黙っていた。海を見ていた。暗い海。 波の音。


「今は 後回しにしていない かもしれません」


かもしれない。 確定ではない。だが 否定でもない。


「後回しにしていない ということは」


「考えている ということです。 自分の感情を」


「自分の 感情」


「はい。 翻訳 はできません。心理学の教科書にも 正確には載っていない。 でも 存在は認めています。 白いページ ですが」


白いページ。 彩音が。俺と 同じ言葉を使った。白いページ。


「彩音 お前 」


「事実の確認です。 それ以上は 今日は 」


「ああ。 今日は ここまで で」


「はい。 ここで。私は左です」


堤防の手前。 道が分かれる場所。


「おやすみなさい 恒一くん」


「おやすみ 彩音」


彩音が 左の道に。歩いていった。 足音が。自然だった。隠さない。飾らない。 壁を脱いだ人間の足音。


一人になった。 堤防の上。


海を見た。 暗い。星が光っている。 十一月の夜。


陽太が 告白した。「好きだ。付き合ってくれ」。シンプル。本物。 成功。


俺は まだ言っていない。彩音に。


だが 彩音が言った。「白いページですが。存在は認めています」。


白いページが ある。彩音にも。


彩音の白いページと 俺の白いページ。 同じものを 指しているのか。


翻訳 しない。確認 しない。 ただ 感じている。心臓が。


二つの白いページが 同じ方向を向いている かもしれない。


かもしれない は。もう 十分な証拠だ。


陽太が言った。「お前もやってみろよ」。


やってみる。 いつか。 いつかじゃなくて。


もう そろそろ。


「そろそろ が。もう 今 かもしれない」


声に出して 呟いた。四回目の独白。堤防の上で。海に向かって。


今 ではない。まだ。 でも 「もう」が「今」に近づいている。距離が 縮まっている。彩音との物理的な距離が 四月から縮まってきたように。 「もう」と「今」の距離が。


「恒一。 やってみろよ」


陽太の声が 頭の中で。


「感じろ。心臓で」


五回分の蓄積が 六回目の命令が 全部。背中を押している。


陽太は 押した。自分の背中を。「好きだ」と。シンプルに。 真白に。


俺は まだ押せていない。自分の背中を。


だが 手は伸びている。背中に向かって。あと少し で届く。


届いたとき 押す。


翻訳なしで。設計図なしで。 「好きだ」と。


彩音に。


その日が 近い。


翻訳者の直感 ではなく。高瀬恒一の 心臓が。告げている。


近い。


もう 近い。


海が 暗い。星が明るい。 十一月の最後の夜。


十二月が 来る。冬が来る。 年が変わる。


そして 春が来る。卒業が来る。


その前に 。


押す。 自分の背中を。


「好きだ」 と。


陽太が 先にやってくれた。手本を見せてくれた。設計図なしの告白。格好よくない。シンプルすぎる。 でも最高の。


俺も 同じことをする。


いつか。 もうすぐ。


堤防を歩いた。家に向かって。 星の下を。


スマホが振動した。陽太からだった。


『恒一。 真白と付き合うことになった。 ありがとな。見届けてくれて』


『おめでとう。 メロンパンにかけて祝う』


『メロンパン教 入信したのか』


『してない。 食べるだけだ』


『食べるだけでも信者だ。 恒一。次はお前の番だからな。 これは七回目じゃない。友達としての 祈りだ』


祈り。 命令 ではなく。祈り。


陽太が 俺のために祈っている。


「......ありがとう。陽太」


声に出して 呟いた。スマホの画面に向かって。


返信を打った。


『祈り 受け取った。 そろそろ動く。たぶん』


陽太から。


『たぶん はもう聞き飽きた。 やれ。以上。おやすみ』


スマホが 暗くなった。


星の下を 歩いた。家に向かって。


明日 工作室が開く。陽太が 彼女持ちとして。メロンパンを持って。来る。


凛花と蒼が いる。


そして 昼休みに。屋上に行く。彩音が来る。


明日。 明日は まだ言わない。たぶん。


でも 近い。


明後日 かもしれない。来週 かもしれない。 分からない。


分からないから 面白い。


翻訳者は 分からないものに出会ったとき ワクワクする。


今 ワクワクしている。


怖くて。温かくて。ワクワクしている。


恋 だ。本物の。


翻訳不能の。


最高の。

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