第8話 翻訳者は自分を翻訳できない
第8話 翻訳者は自分を翻訳できない
他人の恋は設計できる。自分の恋は翻訳すら、できない。
志帆からのメッセージを未読のまま三日が経っていた。正確には、未読ではない。開いた。読んだ。「恒一、久しぶり! 朝凪高校に転入したんだって? うちの学校から近いじゃん。今度会おうよ:)」。読んで、スマホを裏返して、そのまま三日間放置している。
既読はついている。読んだことは志帆にも見えている。読んだのに返信しないそれがどういう意味を持つか、翻訳者なら分かるはずだ。相手の立場に立てば、無視されていると感じるだろう。あるいは、忙しいだけだと好意的に解釈するかもしれない。どちらにしても、三日は長い。
返信を打とうとした。何度も。「久しぶり」と打って消し、「元気?」と打って消し、「近いよな、うん」と打って消した。どの言葉も嘘ではないが、本音でもなかった。本音がどこにあるのか分からないまま、文字を並べることができなかった。
他人の感情は翻訳できる。藤川の「告白したい」を「変わりたい」に翻訳した。水谷の「噂を消してほしい」の裏にある屈辱を読んだ。陽太の「忘れたい」が「忘れられないことを受け入れている」だと分かった。
だが宮前志帆のメッセージに含まれているもの。「今度会おうよ」の裏にあるもの。それを翻訳しようとすると、指が止まる。頭が止まる。翻訳の歯車が噛み合わない。
なぜかは、分かっている。
翻訳してしまったら名前がつく。名前がついたら、無視できなくなる。
月曜日の放課後。工作室。
依頼の合間の、穏やかな時間だった。ホワイトボードには「依頼①:藤川了」「依頼②:水谷了」の文字が並んでいる。赤マーカーの「了」が二つ。新しい依頼はまだ入っていない。
桐生先輩は生徒会の会議で不在。陽太は部活の助っ人に呼ばれて出ていった。工作室には俺と凛花の二人きりだった。
凛花がいつものようにノートを開いていた。だが今日は、記録用のノートではなく別の、少し小さなノートだった。
「高瀬先輩」
「何だ」
「一つ、お願いがあるんですが」
凛花は小さなノートを膝の上で開いた。ページの上部に、几帳面な文字でタイトルが書いてある。
校内新聞・特集記事用取材メモ
「新聞部で特集記事を書くことになりました。テーマは『朝凪高校の非公認活動団体』。恋路工作室について取材させていただけませんか」
「取材......?」
「はい。記事にするかどうかは未定ですが、まず話を聞かせてほしいんです。 桐生先輩には許可をいただいています」
桐生先輩が許可を出している。なら、断る理由はない。 いや、断りたい理由はあった。取材されるということは、自分の言葉で自分を説明するということだ。翻訳者が、自分自身を言語化するということだ。
「......何を聞く」
「いくつか質問があります」
凛花はペンを構えた。銀縁の眼鏡の奥の目が、いつもの記録者の目 冷静で、観察的で、感情を挟まない目 になっている。
「まず、基本的なことから。高瀬先輩が工作室に入った理由を教えてください」
「......理由」
「はい。転入初日に工作室を訪ねていますよね。掲示板を見て、興味本位で来た と桐生先輩の記録にはあります。でも、興味本位で来ただけなら、そのまま帰るはずです。なぜ残ったんですか」
鋭い。凛花の質問は 記録者の質問であると同時に、ジャーナリストの質問だった。「なぜ」を問う。事実の奥にある動機を掘る。
「......桐生先輩に、やれるかと聞かれた。やれると答えた。 それだけだ」
「『やれる』と答えた理由は」
「藤川の感情を翻訳できたから。藤川が『告白したい』と言ったとき、その裏に『変わりたい』があることが見えた。 それを見つけられたことが、たぶん面白かった」
「面白かった?」
「面白かった。他人の言葉にならない感情に、言葉を与えること。地図のない場所に道を引くようなものだ。感情は最初からそこにある。ただ名前がないだけで 」
「それは、工作室に入った理由ですか? それとも、高瀬先輩が翻訳をする理由ですか?」
俺は口をつぐんだ。
「......同じことじゃないのか」
「違います。工作室に入った理由は、組織に所属する理由です。翻訳をする理由は、能力を使う理由です。能力があるから組織に入ったのか、組織に入りたかったから能力を使ったのか 順番が違うと、意味が変わります」
凛花のペンが止まっていた。答えを待っている。
「......分からない。正直に言えば、分からない」
「分からない、ですか」
「翻訳は できる。他人の感情は読める。でも、なぜそれをやりたいのかと聞かれると、答えが出ない。面白いから、だけじゃ不十分な気がする。かといって、使命感があるわけでもない。 うまく言語化できない」
凛花は数秒間、俺を見つめていた。それから、小さく息をついて言った。
「高瀬先輩って、人の気持ちを言葉にするのが上手ですよね」
「......まあ」
「自分の気持ちは?」
沈黙。
「......パス」
「記事に『パス』って書きますよ」
凛花の声は平坦だったが、眼鏡の奥の目がかすかに 本当にかすかに 笑っていた。冗談だ。凛花が冗談を言ったのは初めてかもしれない。
「......勘弁してくれ」
「冗談です。でも、記録としては残しておきます。高瀬先輩は、自分の気持ちについて聞かれると『パス』と答える。 それは、答えられないんですか。それとも、答えたくないんですか」
答えたくない。 だが、それを凛花に言うのは、答えているのと同じだ。
「次の質問にしてくれ」
「分かりました」
凛花はノートに何かを書き留めた。ペンの動きが速い。何を書いたかは見えなかった。
凛花が帰った後、俺は一人で工作室に残っていた。
窓の外は曇り空だ。六月の海は灰色で、水平線が雲に溶けている。旧部室棟の窓ガラスは古くて少し歪んでいるから、海の輪郭がゆらゆらと揺れて見える。
凛花の質問が、頭の中で回っていた。「答えられないんですか。それとも、答えたくないんですか」。
答えたくない。それは分かっている。
なぜ答えたくないのか それも、分かっている。
答えてしまったら、翻訳してしまったら、自分の中にあるものに名前がつく。名前がつけば、それは「ある」ことになる。「ない」ふりができなくなる。
宮前志帆。
名前が浮かんだ瞬間に、記憶の断片が引っ張り出される。
中学二年。隣の席の女の子。黒髪のポニーテール。声が少し高くて、笑うと目が細くなる。
「恒一、今日の英語の宿題やった?」
「やった」
「見せて」
「自分でやれ」
「えー、ケチ」
何でもない会話。放課後の教室。帰り道の交差点。夏休み前のプリント。文化祭の準備。 断片だ。どれも断片で、一枚の絵にはならない。だが断片の一つ一つが、異様に鮮明だ。
志帆の声。志帆の笑い方。志帆が怒ったときの眉の角度。志帆が何かを考えているときに下唇を噛む癖。
覚えている。全部、覚えている。忘却屋に頼んだわけでもないのに、記憶は一つも消えていない。
「恒一って、人の気持ち分かるくせに、自分の気持ちは全然分かんないよね」
あれは 中学三年の二月だった。卒業が近くて、みんな進路の話をしていた。志帆は別の高校に行くことが決まっていた。俺は まだ決まっていなかった。海外から帰ったばかりで、編入のタイミングが合わなくて。
放課後の教室。俺と志帆の二人だけが残っていた。志帆が自分の席に座ったまま、窓の外を見ながら言った。
「恒一って、人の気持ち分かるくせに、自分の気持ちは全然分かんないよね」
「......うるさい」
「うるさいって。 ほら、それ。聞かれたくないことがあると、すぐ『うるさい』で閉じるじゃん」
志帆は笑っていた。怒っていたのかもしれない。呆れていたのかもしれない。 あの笑顔を正確に翻訳することを、俺はずっと避けてきた。
「恒一は翻訳が上手いよ。みんなの気持ちを言い当てるの、すごいと思う。 でもさ、自分のことは一回も翻訳しないよね。それって、できないの? それとも 」
「しないだけだ」
「しないだけ、か。 じゃあ、いつするの?」
答えなかった。志帆はそれ以上聞かなかった。窓の外を見て、何か小さく呟いて、鞄を取り上げて教室を出ていった。
「またね、恒一」
振り返らなかった。ドアの向こうに消える後ろ姿だけが見えた。ポニーテールが揺れていた。
「またね」と返した。声が小さすぎて、届いたかどうか分からなかった。
それが 志帆と交わした最後の会話だった。
卒業式の日は風邪で休んだ。本当に風邪だったのか、仮病だったのか、自分でも分からない。翻訳者は自分の嘘を翻訳できない。
工作室の窓から見える海が、記憶の中の景色と重なった。中学時代に住んでいた町にも海はあった。違う海だ。でも、灰色の海は どこで見ても同じ匂いがする。
回想が長くなりすぎた。俺は頭を振って、現在に戻った。
スマホを取り出した。志帆のメッセージ。三日前の既読。返信なし。
返信しなければならない。それは分かっている。だが何と返せばいい。「久しぶり」か。「元気だよ」か。「会おう」か。 どれも嘘ではない。だがどれも、本音の手前で止まっている。
本音は何だ?
翻訳しろ。自分を翻訳しろ。お前が得意な
できない。ここだけは、歯車が回らない。
翌日 火曜日。教室。
昼休み。陽太が隣の席に座って弁当を広げていた。今日のおかずはからあげと卵焼き。母親の手作りらしい。俺は購買のサンドイッチだ。
「恒一、スマホ貸して」
「は? なんで」
「昨日の掲示板の忘却屋の投稿、恒一のほうがスクショ撮ってたろ。あれ見せてくんね?」
仕方なくスマホを渡した。陽太がスクショを探しながら画面をスワイプする。
まずい。
気づいたときには遅かった。陽太の指が画面を滑り、通知一覧が表示された。そこに 未返信のメッセージが一件。送信者名が見えている。
「......宮前志帆?」
陽太の目が光った。
「おい待て 」
「誰これ。恒一、彼女?」
「違う。返せ」
スマホを取り返した。だが陽太の目は すでに名前を捉えていた。
「宮前志帆......。女の子の名前じゃん。しかも既読スルーしてんの? 恒一が? あの翻訳マスターの高瀬恒一様が、女の子のメッセージを既読スルー?」
「うるさい。幼馴染だよ。中学のとき隣の席だっただけだ」
「幼馴染」
陽太が繰り返した。目が笑っている。だが 次の一言は、笑い声ではなかった。
「嘘つくとき、お前目が泳ぐの知ってた?」
俺は黙った。
陽太は弁当のからあげを箸で掴み、ゆっくり口に運んだ。咀嚼しながら、俺のほうを見ている。
「別にいいけどさ。言いたくないことは言わなくていい。 ただ、既読スルー三日は長いぞ。相手の子、気にしてると思うけど」
「......分かってる」
「分かってるのに返せないってことは まあ、そういうことだよな」
陽太はそれ以上何も聞かなかった。からあげを食べ終えて、卵焼きに手をつけた。
「そういうこと」の中身を、陽太は言語化しなかった。だが陽太は 分かっている。翻訳者ではないが、人の感情の輪郭を掴むのが上手い男だ。俺が志帆のメッセージに返信できない理由の 少なくとも外形を、掴んでいる。
「恒一さ」
「何だ」
「お前、人の気持ちは翻訳できるのに、自分の気持ちは翻訳しないよな」
志帆と同じことを言う。
「......できないんじゃなくて、しないだけだ」
「同じことだろ」
「違う。できないのと、しないのは 」
「結果は同じだっつの。翻訳しないから、自分の気持ちに名前がつかない。名前がつかないから、ないことにできる。 でも、ないことにしてるだけで、あるんだろ?」
陽太の言葉が、予想外に深いところに刺さった。
「......お前、いつからそんなに鋭くなった」
「最初から鋭いっつの。お前が鈍いだけ」
陽太は笑った。いつもの明るい笑い。 だがその笑いの奥に、中学時代に手紙を晒された男の目があった。自分の感情を他人に暴かれる痛みを知っている人間の目だ。だから陽太は、それ以上踏み込まない。踏み込まれる側の気持ちを、知っているから。
「まあ、返信はしろよ。三日はさすがに相手に失礼だ」
「......ああ」
「あと 幼馴染って言葉、便利だよな。何でもカバーできる」
それだけ言って、陽太は弁当箱の蓋を閉じた。
その夜。自室。
ベッドの上でスマホを開いた。志帆のメッセージ。四日目。
返信を 打たなければ。何でもいいから、一言返さなければ。これ以上放置したら、志帆は俺が自分を避けていると思うだろう。避けているのか? 避けているのかもしれない。避けているとしたら なぜだ。
翻訳しろ。自分を翻訳しろ。
......できない。
スマホを置いて、天井を見た。 だめだ。逃げるな。向き合え。
もう一度スマホを手に取った。志帆のメッセージではなく 志帆のSNSを開いた。
プロフィール画像。志帆の顔。髪を下ろしている。中学のときはいつもポニーテールだったのに、今は下ろしている。少し大人びて見える。
タイムラインをスクロールした。友達との写真。制服の自撮り。カフェの写真。 そして。
一枚の写真。志帆と、男。隣に並んで立っている。志帆が笑っている。男も笑っている。志帆の肩に、男の手が 軽く、だが確かに乗っている。
キャプション。ハートの絵文字が一つだけ。
彼氏。
志帆に 彼氏がいる。
知っていた。知っていたはずだ。中学を卒業してから二年以上経っている。志帆が誰かと付き合っていてもおかしくない。おかしくないどころか、当然だ。志帆は明るくて、人懐っこくて、笑うと周りまで明るくなる。そういう人間に恋人ができないほうが不自然だ。
知っていた。知っていたが 見るのは、初めてだった。
写真の中の志帆は笑っている。俺が知っている笑顔と同じだ。目が細くなって、少し首を傾けて。 でも、その笑顔は俺に向けられたものではない。隣に立つ男に向けられている。
胸の奥で 何かがざわついた。
翻訳しろ。この感覚を翻訳しろ。名前をつけろ。お前の得意な
嫉妬? いや、違う。嫉妬は「自分のものを取られた」感覚だ。志帆は俺の「もの」ではない。一度もそうだったことはない。
寂しさ? 近いが、正確ではない。寂しさは「いなくなった」感覚だ。志帆はいなくなったわけではない。メッセージを送ってきている。「会おうよ」と言っている。
なら 何だ。この感覚は何だ。
スマホの画面の中の志帆が笑っている。知らない男の隣で。俺はそれを見ている。ベッドの上で。一人で。
......翻訳できない。
嘘だ。翻訳できないのではない。翻訳したくないのだ。
翻訳してしまったら 。
宮前志帆。幼馴染。中学のとき隣の席だった。一緒に帰った。くだらない話をした。「またね」と言って別れた。 それ以上の単語は、まだ辞書にない。いや 載せたくないだけだ。載せてしまったら、その単語を使って文章を組み立てなければならなくなる。文章ができたら、声に出して読まなければならなくなる。
翻訳者は、自分を翻訳できない。
それは 翻訳したくないからだ。
スマホを閉じた。画面が暗くなった。部屋の中が暗くなった。窓の外も暗い。六月の夜は雲が厚くて、星が見えない。
志帆のメッセージ。四日目の既読スルー。 明日こそ、返信しよう。何でもいいから。「久しぶり」でいい。「元気だよ」でいい。本音じゃなくてもいい。まず 言葉を返せ。
翻訳者なら、言葉くらい返せるだろう。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
寝落ちした。スマホの通知ランプが、暗い部屋の中で青く点滅していた。
翌日 水曜日。朝。
登校してすぐ、教室の空気が違うことに気づいた。
ざわついている。いつもの朝のざわめきとは質が違う。声を潜めているのに、興奮が隠しきれていない。スマホを見ている生徒が多い。画面を覗き込んで、顔を見合わせて、何かを囁いている。
「おい恒一、見たか?」
陽太が駆け寄ってきた。スマホを手にしている。表情が 険しい。陽太が険しい顔をするのは珍しい。
「何だ」
「掲示板。 やべえことになってる」
陽太がスマホの画面を突き出した。匿名掲示板。トップページ。新しいスレッドが立っている。
タイトル 『2-Cの佐々木、彼女いるのに他の女とカラオケ行ってた件。写真あり』
スレッドを開く。写真が一枚。カラオケボックスの前で撮られたらしい画像。二年C組の佐々木 名前は知っている、バスケ部のやつだ が、女子と並んで立っている。彼女ではない女子。
スレッドの書き込みが加速している。
『浮気確定じゃんww』
『佐々木やっちまったな』
『彼女かわいそ〜〜』
『こういうの許せない。断罪すべき』
『断罪断罪。晒し上げ正義』
断罪。
その言葉が、複数の書き込みに繰り返し使われていた。「断罪」。まるで合言葉のように。まるで ゲームの掛け声のように。
「断罪ゲーム、って呼ばれ始めてる」
陽太が低い声で言った。
「カップルのスキャンダルを匿名掲示板に晒して、みんなで断罪する 遊びだ。先週から書き込みが増えてたけど、今朝一気に加速した。佐々木のやつが標的にされてる」
俺は掲示板をスクロールした。佐々木のスレッドだけではない。その前後に、似たようなスレッドがいくつも立っている。「3-Aの○○が二股」「1-Dの△△が元カレと密会」 どれも写真つき。どれも匿名投稿。どれも 確認されていない情報。
笑い声の中に、誰かの悲鳴が混ざっている。
「恒一。 これ、工作室案件じゃね?」
陽太の声は、もう笑っていなかった。
俺はスマホを閉じた。志帆のメッセージ 四日目の既読スルー はまだポケットの中で光っている。だが今は、それどころではなかった。
匿名掲示板で、正義が娯楽になり始めている。断罪がゲームになり始めている。ノーリスクの正義 顔のない裁判官が、名前のある人間を裁く。
噂は自然発生しない。誰かが最初の一文を書く。 だが、「正義」は自然発生する。正義は気持ちいい。気持ちいいから止められない。
「放課後、工作室に集合だ。桐生先輩に報告する」
「おう」
陽太が頷いた。
そして、放課後の工作室に、一人の男が来ることになる。
佐々木。断罪ゲームの標的になった男。「本当に従姉妹なんです。でも 誰も信じてくれない」。
だがそれは この日の夜の話だ。
今はまだ、朝。教室の窓から見える海は灰色で、梅雨の湿気が廊下に重く沈んでいた。俺はポケットの中のスマホに指先で触れた。志帆のメッセージ。返信しなければ。
返信は 結局、この日もできなかった。




