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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第28話 壊した人の話

第28話 壊した人の話


 彩音が話し始めたのは、十月の最後の金曜日だった。


 文化祭まであと三週間。準備が始まっている。校舎のあちこちに段ボールが積まれている。廊下にペンキの匂いが混ざっている。工作室は文化祭に参加しない。非公式の団体だから。しかし工作室の周りは浮き足立っている。秋の学校は忙しい。


 放課後。工作室。通常業務が終わった。新規依頼が一件入っている。凛花が対応のスケジュールを組んでいる。蒼がデータの下準備をしている。陽太が真白と文化祭の準備で先に帰った。新聞部は文化祭特集号を作る。


 三人が帰った後、俺と彩音が工作室に残った。


 最近、よくこうなる。三人が帰って、二人が残る。彩音が帰らない。俺も帰らない。暗黙の約束のように。


 窓の外。十月の夕暮れ。日が短い。五時にはもう暗くなり始める。海が秋の色をしている。夏の青とは違う。鉛を溶かしたような深い色。波の音が夏より重い。


「先輩」


「ん」


「話します。今日。全部」


 声が静かだった。壁がない声。しかし壁がないことの怖さが混ざっている声。


「前の学校のこと」


「はい。全部話します。断片は聞いてもらっている。善意で生徒に依存を作った。傷つけた。逃げた。しかし全貌は話していなかった」


「聞く」


「長くなります」


「急がなくていい」


 彩音が椅子に深く座り直した。膝の上で手を組んだ。園田と同じ仕草。しかし彩音の手は白くなっていなかった。力を入れていない。覚悟の手。


「前の学校は都内の私立でした。中高一貫の女子校。カウンセリング部という部活がありました。生徒が生徒の悩みを聞く部活」


「工作室に似てるな」


「似ています。しかし違います。カウンセリング部は学校公認でした。顧問がいて、マニュアルがあって、研修を受けて活動していた。工作室より制度に近かった」


「お前はそこにいた」


「二年生から部長でした。聞くのが得意だったから。相手の言葉を分析して、本音を見つけるのが得意だった。先輩と同じです。翻訳と呼ぶか分析と呼ぶかの違いだけ」


 彩音が翻訳者と自分を重ねている。同じ能力。同じ構造。しかし結果が違った。


「一年間うまくいきました。相談件数が増えた。カウンセリング部の評判が上がった。学校からも評価された。校長が全校集会で名前を挙げてくれた。瀬川さんのおかげで生徒の悩みが減りましたと」


「名前を挙げられた」


「はい。嬉しかった。認められた。自分のやっていることが正しいと。評価されることで確信が深まった。自分の分析は正確だ。生徒の悩みを解決できる。自分は正しいと」


 固まった正しさ。彩音が前に言っていた。固まった正しさは脆い。揺れる正しさは柔らかい。彩音は固まっていた。


「三年生になって、一人の生徒が相談に来ました。一年生の女の子。名前は」


 彩音が止まった。三秒。


「名前は伏せます。その子は、友達関係で悩んでいた。グループの中で浮いていた。孤立しかけていた」


「恋愛ではなく」


「恋愛ではなかったです。友人関係。しかし構造は恋愛と同じです。人と人の距離の問題。居場所の問題」


「続けろ」


「私はその子の話を聞いて、分析しました。グループの中での力学。誰がリーダーで、誰がフォロワーで、その子がどの位置にいるか。分析は正確でした。グループの構造が見えた」


「見えた後、何をした」


「介入しました」


 彩音の声が低くなった。


「その子に助言しました。グループの中での振る舞い方。誰にどう接すれば居場所を確保できるか。誰と距離を取れば孤立を避けられるか。具体的に。戦略的に」


「場の設計だ」


「はい。先輩の言葉で言えば、場の設計です。人間関係を設計した。その子の行動を設計した。どう動けばいいか全部教えた」


「結果は」


「短期的には成功しました。その子はグループの中に戻れた。孤立が解消された。友達ができた。笑顔が増えた。カウンセリング部の実績が一つ増えた」


「短期的に」


「はい。短期的には。三ヶ月くらい」


 三ヶ月。園田のケースと同じ時間軸。短期的な成功。長期的な副作用。


「三ヶ月後に何が起きた」


「その子が、私なしでは友達と話せなくなっていました」


 心臓が痛んだ。園田と同じだ。構造が。


「私の助言なしでは行動できない。私にLINEで毎日確認する。明日の放課後、誰と遊べばいい。グループの中で何を話せばいい。全部私に聞く。自分で判断できなくなっていた」


「設計への依存だ」


「はい。私の設計に完全に依存していた。私が設計しないと、その子は友達の前で何を言えばいいか分からなくなっていた。私が人間関係のOSになっていた」


 園田の翻訳の副作用と同じ構造。翻訳者の辞書が園田のOSになった。彩音の設計がその子のOSになった。


「気づいたのは」


「その子の友達が教えてくれました。その子が私のことばかり話す。瀬川先輩がこう言ったから。瀬川先輩に相談しなきゃ。全部の行動が私の指示に基づいている。友達が不気味に思った」


「友達が」


「はい。友達がカウンセリング部の顧問に相談した。顧問が私を呼んだ。事情を聞かれた」


 彩音の声が震えていた。微かに。壁がない声で、過去を語っている。防御がない。


「顧問は優しい先生でした。責めなかった。しかし事実を突きつけた。瀬川さん、あなたはその子の判断力を奪っています。善意であることは分かる。しかし結果として、その子は自分で考える力を失っている」


「久我先生が俺に言ったことと同じだ」


「同じです。善意の介入が自律を奪う。プロの言葉で言えばイネイブリング。先輩の言葉で言えば翻訳の副作用。私の場合は設計の副作用」


「副作用に気づいた後、どうした」


 彩音が五秒黙った。窓の外を見た。十月の海。暗い海。


「逃げました」


 声が小さかった。


「その子と話し合うべきだった。副作用を認めて、依存を解消する方法を一緒に考えるべきだった。園田先輩にしたように。しかし私はそれをしなかった」


「なぜ」


「怖かったから。その子の顔を見るのが。自分が壊した人間の顔を見るのが。顧問に指摘されて初めて自分のやったことの意味が分かって、怖くなった。自分が正しいと信じていたことが間違いだった。固まった正しさが砕けた」


 壊れた。彩音が壊れた。前作の俺と同じだ。志帆の嘘を見抜けなくて壊れた俺と。自分の設計が依存を生んでいることに気づいて壊れた彩音と。


「壊れて、逃げた」


「はい。カウンセリング部を辞めました。学校に行けなくなった。二週間休んだ。復帰した後も、その子と目を合わせられなかった」


「その子は」


「その子は。私がいなくなった後、一人でグループの中に戻ろうとした。私の設計なしで。しかし設計なしでは動けなかった。また孤立した。前より酷く。私が一度つないだ関係が、私がいなくなったことで余計に壊れた。私が介入する前より悪くなった」


 薬の副作用。効いた薬を急にやめると反動が来る。離脱症状。設計に依存していた人間から設計者が消えると、依存の反動で元より悪くなる。


「その子は転校しました。私より先に」


 小野寺のケースが頭をよぎった。好きな人の彼女が転校した。しかし彩音の話の転校は恋愛ではない。友人関係の崩壊による転校。彩音が壊した関係の結果としての転校。


「その子が転校した後、私も転校を決めました。親に頼んだ。ここにはいられないと。朝凪に来た」


「逃げてきた」


「逃げてきました。壊した場所から。壊した人間がいなくなった場所から」


 彩音の目が赤かった。泣いてはいない。しかし涙の手前にいる。壁がない目。防御がない目。


「先輩。これが全部です。前の学校でやったこと。壊したこと。逃げたこと」


 全部聞いた。


 翻訳者の脳が自動で分析を始めた。彩音の過去と俺の過去の構造比較。共通点と相違点。


 共通点。善意の介入が依存を生んだ。翻訳/設計のスキルが高すぎて依頼者の自律を奪った。壊れた。


 相違点。俺は壊れた後に工作室に戻った。ルールを更新した。仲間に支えられた。工作室を続けた。彩音は壊れた後に逃げた。場を手放すのではなく、場から逃げた。相手と向き合わなかった。


「先輩。共通点と相違点、もう分析しましたよね」


「した。自動で」


「翻訳者の脳が」


「ああ。止められなかった」


「いいです。翻訳してください。私の過去を」


「翻訳していいのか」


「いい。先輩の翻訳を聞きたい。私の過去を、翻訳者の言葉で。設計でも分析でもなく。翻訳で」


 翻訳を求められている。彩音が翻訳を求めている。依頼者としてではなく。対等な人間として。自分の過去を、翻訳者の目で見てほしいと。


「一つだけ翻訳する。量を制限する。いいか」


「いい」


「彩音。お前と俺は同じ失敗をした。しかし違う結末を選んだ。俺は留まった。お前は逃げた。どちらが正しいかは分からない。しかし一つだけ確かなことがある」


「何ですか」


「お前は逃げた先で、同じ構造に向き合おうとしている」


 彩音が止まった。


「朝凪に逃げてきた。しかしここで工作室を見つけた。工作室が自分と同じ構造で動いていることに気づいた。善意の介入。翻訳。設計。依存のリスク。全部、前の学校と同じ構造。お前はその構造を外側から見た。批判者として。分析じゃなくて逃避だと」


「はい」


「しかし批判しながら近づいた。観察者になった。協力者になった。園田のケアを引き受けた。壁を外した。逃げた先で、逃げた相手と同じ構造に再び向き合っている」


「向き合っている」


「ああ。逃げたことは事実だ。しかし逃げた先で止まらなかった。止まらずに、もう一度向き合おうとしている。それがお前の強さだ」


 翻訳。一つだけ。逃げた先で向き合い直している。


「先輩。翻訳ありがとうございます。しかし一つだけ訂正があります」


「何だ」


「逃げた先で向き合おうとしている。それは正しい。しかし向き合っている相手は、前の学校の構造ではないです」


「では何に向き合っている」


「先輩に。高瀬恒一に」


 心臓が止まった。


「先輩が工作室で同じ構造を動かしているのを見て、怖かった。また壊れるのではないかと。私と同じように。善意の介入が依存を生んで、翻訳者が壊れるのではないかと」


「怖かった」


「怖かった。だから批判した。分析じゃなくて逃避だと。止めたかった。先輩が同じ道に入るのを。私が通った道に」


「止めようとしていたのか」


「最初は。しかし止められなかった。先輩は止まらなかった。壊れかけても戻った。園田の副作用が出ても、久我先生の正論を受けても、蒼が暴走しかけても。全部乗り越えた。私が逃げた場所で、先輩は立ち続けた」


 彩音の声が震えていた。壁がない声の震え。


「立ち続ける先輩を見て、分かった。私が逃げたのは間違いだった。逃げずに向き合うべきだった。あの子と。壊した関係と。しかしもう手遅れだ。あの子は転校した。向き合う相手がいない。だから」


「だから」


「先輩に向き合うことで、やり直そうとしている。先輩が壊れないように見守ることで。園田先輩のケアを引き受けることで。前の学校で逃げた私が、ここで向き合い直すことで」


「やり直し」


「やり直しです。完全なやり直しはできない。あの子は戻ってこない。壊した関係は元に戻らない。しかし同じ構造の中で別の結果を出すことはできる。園田先輩は回復した。私のケアで。あの子にはできなかったことが、園田先輩にはできた。それが私のやり直しです」


 彩音が泣いていた。声を出さずに。涙が頬を流れていた。壁がない涙。防御がない涙。


 翻訳者の脳が彩音の涙を読んだ。読んで、翻訳しなかった。翻訳する必要がなかった。涙は言葉より正確だ。涙は翻訳を必要としない。


「先輩。私の過去。全部聞いてくれましたね」


「聞いた」


「どう思いましたか。翻訳者としてではなく」


「高瀬恒一として」


「はい」


 考えた。翻訳者の脳を止めて。分析を止めて。素手で。


「お前が逃げたことを責めない。逃げるのは悪いことではない。壊れかけた人間が逃げるのは自然なことだ。俺だって工作室を一週間離脱した。逃げた。規模が違うだけで、構造は同じだ」


「先輩は戻った」


「戻った。しかし戻れたのは仲間がいたからだ。陽太と凛花と玲奈が工作室を守っていてくれたから。お前には仲間がいなかった。カウンセリング部の部長は一人だった。一人で壊れて、一人で逃げた。仲間がいれば逃げなくて済んだかもしれない」


「仲間」


「ああ。俺とお前の違いは能力の差ではない。環境の差だ。俺には工作室があった。仲間がいた。お前には部活はあったがマニュアルしかなかった。マニュアルは仲間ではない。制度は仲間ではない」


 彩音の涙が止まっていた。聞いている。翻訳者の言葉を。しかし翻訳ではなかった。高瀬恒一の感想だった。


「彩音。今はどうだ。仲間はいるか」


「います。先輩。凛花さん。天野先輩。蒼くん。久我先生。園田さん」


「なら逃げなくていい。もう」


「はい。逃げません。もう」


 二人で黙った。十月の夕暮れ。窓の外が暗くなっている。虫の声。海の音。工作室の蛍光灯がぼんやりと点いている。埃が光の中で浮いている。


「先輩。もう一つだけ」


「聞く」


「前の学校のあの子に、手紙を書きました。夏休みに」


「手紙」


「はい。彩音の過去を全部書いた手紙ではなく。謝罪の手紙でもなく。近況報告です。朝凪の海がきれいだということ。新しい学校に友達ができたということ。あの子の名前は書いていません。あの子の連絡先を友達経由で聞いて、送りました」


「返事は」


「来ました。短い手紙でした。一行だけ。『元気です。瀬川先輩も元気でいてください』」


 一行。


 あの子の一行。壊された側の一行。しかしその一行には恨みがなかった。元気でいてください。壊した人間に対して、元気でいてくれと言っている。


「壊された側が、壊した側を許している」


「許しているかどうかは分かりません。しかし恨んではいない。元気でいてくださいと書ける人間は、恨んでいない」


「お前はその手紙を」


「持っています。いつも。鞄の中に。お守りみたいに」


 彩音が鞄から封筒を取り出した。白い封筒。宛名は彩音の名前。差出人はなかった。


「読まなくていいです。存在を知ってもらえれば」


「知った」


「この手紙が私の居場所です。先輩が工作室を居場所にしているように。この手紙が私の居場所。壊した人間が壊された人間から受け取った、一行の居場所」


 居場所。小野寺に渡した翻訳が、ここでも響いている。居場所は物理的な場所でなくてもいい。手紙でもいい。一行でもいい。


「先輩。全部話しました。もう隠していることはありません。壁は全部外しました」


「全部か」


「全部です。前の学校のこと。あの子のこと。逃げたこと。やり直していること。手紙のこと。先輩に話していないことは、もうありません」


 彩音が俺を見ていた。壁がない目。涙の跡がある目。しかし澄んでいる。全部出し切った後の目。


「先輩。私の過去を聞いて、嫌になりましたか」


「なっていない」


「壊した人間ですよ。私は。善意で人を壊して逃げた人間ですよ」


「俺も壊した。園田を。善意で。逃げなかったのは環境の差だ。お前が俺より弱いわけではない」


「先輩」


「彩音。お前の過去は聞いた。共通点も相違点も分かった。翻訳も一つだけした。逃げた先で向き合い直していると。残りは翻訳ではなく感想だ」


「感想を聞かせてください」


「お前は前の学校で壊れた。壊れて逃げた。しかし朝凪に来て工作室を見つけた。工作室を批判して、観察して、協力して、認めた。園田を助けた。壁を外した。俺に名前を呼ばれた。全部の過程を経て、今ここにいる」


「います」


「今ここにいるお前は、前の学校の瀬川彩音とは別人だ。同じ人間だが、別の段階にいる。壊れた段階の彩音は手紙の中にいる。今の彩音はここにいる。工作室にいる。俺の前にいる」


「先輩の前に」


「ああ。俺の前にいる。壊れた過去を持って。やり直しの途中で。壁を外して。全部を話して。それでもここにいる」


 声が震えた。翻訳者の震えではない。高瀬恒一の震え。感情の震え。


「ここにいてくれて、ありがとう」


 言った。素手で。翻訳ではなく。設計でもなく。高瀬恒一の言葉で。


 彩音の涙がまた落ちた。今度は声を出して泣いた。短い嗚咽。すぐに止めた。手で口を押さえて。


「先輩。泣くつもりなかったんです。全部冷静に話すつもりだった。壁を外しても冷静でいるつもりだった。でも先輩に『ここにいてくれてありがとう』と言われたら」


「泣いていい。翻訳者の辞書に泣くという項目はない。お前の辞書だ。お前の涙だ」


「ずるいです。先輩。私を泣かせるのは」


「泣かせていない。お前が自分で泣いている」


「自分で泣いている。はい。自分で」


 彩音が涙を拭った。袖で。壁がない仕草。防御がない仕草。


「先輩。一つだけ確認していいですか」


「聞け」


「ここにいてくれてありがとう。これは翻訳ですか」


「翻訳じゃない」


「設計ですか」


「設計じゃない」


「本文ですか」


「本文だ」


「四行目ですか」


「四行目だ」


 ノートの四行目。「ここにいてくれてありがとう」。


 一行目。前を見たら彩音がいる。

 二行目。翻訳できない。しかし感じている。

 三行目。行動は選べる。俺は行動する。

 四行目。ここにいてくれてありがとう。


 四行の本文。まだ完成ではない。しかし四行書けた。


「先輩。本文が四行になりましたね」


「なった」


「文化祭の前に渡すんですよね」


「渡す。あと三週間」


「三週間で何行になりますか」


「分からない。四行かもしれない。十行かもしれない。しかし何行になっても渡す」


「読みます。渡されたら」


「読んでくれ」


「読んで、答えます。約束です」


「約束だ」


 二人で黙った。十月の最後の金曜日の夕暮れ。工作室の中に二人だけ。蛍光灯。埃。虫の声。海の音。


「帰ろう」


「はい」


 工作室を出た。ドアを閉めなかった。閉めなくても、明日は土曜だ。月曜にまた開ける。


 海沿いの帰り道。四度目。虫の声。十月の夜。秋が深い。


「先輩。今日話したこと。全部、先輩のノートに書いてもいいです」


「ノートに」


「本文の素材として。私の過去を。先輩が翻訳者として読んだ構造を。高瀬恒一として感じたことを。全部使っていい」


「お前の過去を俺の本文に入れていいのか」


「いい。私の過去は私のものですが、先輩が聞いた私の過去は先輩のものでもある。先輩の目を通った私の過去は、先輩の言葉になっている。それを本文に書いていい」


「許可するのか」


「許可します。むしろ書いてほしい。先輩の本文に私がいてほしい。先輩の言葉の中に」


 翻訳不能。


 しかし翻訳しなくてもいい。彩音の言葉がそのまま入ってくる。壁がないから。


「書く。お前のことを。本文に」


「はい」


「四行目のありがとうの後に。五行目以降に。彩音のことを書く」


「楽しみにしています」


 分かれ道。左と右。


「おやすみなさい。先輩」


「おやすみ。彩音」


 名前で呼び合う。三回目。もう慣れた。しかし慣れた後も、名前を呼ぶたびに胸の中で何かが動く。小さく。確実に。


 彩音が左に。俺が右に。


 振り返らなかった。今日は。振り返る必要がなかった。前を向いていた。二人とも。


 帰宅。自室。窓を開けた。十月の夜。虫の声。潮の匂い。星。秋の星は鋭い。


 ノートを開いた。


 四行目を書いた。「ここにいてくれてありがとう」。


 五行目。


 ペンを持った。震えた。本文の震え。しかし震えが小さくなっている。四行書いたから。一行書くごとに震えが小さくなる。


 五行目を書いた。


「彩音は壊れた人だ。俺も壊れた人だ。壊れた人同士が、同じ場所に立っている」


 五行。ノートに五行の本文がある。


 文化祭まであと三週間。あと何行書けるか。


 書けるだけ書く。彩音のことを。壊れた過去を。逃げた先でやり直していることを。壁を外してくれたことを。涙を見せてくれたことを。


 全部書く。翻訳ではなく。本文として。高瀬恒一の言葉で。


 十月の夜。最後の金曜日の夜。


 距離が縮まった。彩音との。決定的に。過去を全部聞いた。共通点を見つけた。相違点を認めた。壊れた人同士が、壊れたまま隣に立っている。


 翻訳不能な感情に、少しだけ輪郭が見え始めている。名前はまだつかない。しかし輪郭がある。形がある。


 あと三週間。輪郭を言葉にする。本文にする。渡す。


 翻訳者が最後に翻訳するのは、自分自身だ。


 しかし自分自身の翻訳は、翻訳ではなく本文だ。


 本文を書く。あと三週間で。

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