第7話 忘却屋、匿名投稿
第7話 忘却屋、匿名投稿
「忘れ方、売ります。匿名、無料、即日対応」
誰かが、恋の忘却を商品にしていた。
水谷の依頼が終わって一週間ほどが過ぎた。五月の連休が明けて、校内の空気が弛んでいる。連休ボケの生徒が廊下をだらだら歩き、教師が小テストの予告をしても誰も反応しない。穏やかで、少しだけ眠い日常。
工作室にも新しい依頼は来ていなかった。依頼ボードは空白のまま。水谷の件で撤退線を引いたことが校内に知られたかは分からないが、少なくとも工作室の敷居が少し高くなった実感はある。
「暇だな」
昼休み。教室で陽太が弁当を広げながら言った。俺は隣の席でパンをかじっている。
「暇なのはいいことだ。依頼がないということは、恋の問題を抱えてる人間が少ないということだ」
「嘘つけ。恋の問題がない学校なんてあるわけないだろ。みんな、工作室に来なくなっただけだよ」
陽太の指摘は鋭い。来なくなった、というのは正確な観察だ。依頼が消えたのではなく、依頼が別の場所に流れている可能性がある。
「それでさ、恒一」
陽太がスマホを取り出して、画面を俺に向けた。
「見ろよこれ」
匿名掲示板だった。忘却屋のアカウントのページ。前に俺と凛花が見つけたときは投稿が数件だった。今は十件を超えている。投稿頻度が上がっている。
「忘れ方、売りますだって。なんか工作室のパチモンみたいじゃね」
「パチモンというか、別物だ」
俺はスマホの画面をスクロールした。忘却屋の投稿を順に読んでいく。文体が一貫している。丁寧で、論理的で、感情を排した書き方。校内の掲示板にありがちな崩れた文体とは明らかに異質だ。
「俺たちは場を作る。あっちは忘れさせる。方向が違う」
「方向が違うって言っても、客層は被るだろ。失恋した人間が行く先が二つあるわけだ。工作室か、忘却屋か」
陽太はものごとの核心を突くのが上手い。軽い口調で重いことを言う。
「それにさ、忘却屋のほうが楽そうなんだよな。工作室は依頼を受けて、設計して、自分で決断させる。面倒だ。忘却屋は、忘れさせてくれるんだろ。相手に任せればいい。楽じゃん」
「楽なほうが正しいとは限らない」
「でも楽なほうに人は流れるよ」
反論できなかった。陽太の言う通り、人は楽な方向に流れる。工作室が「自分で決めろ」と突き放す場所なら、忘却屋は「任せてくれ」と手を差し伸べる場所だ。どちらが魅力的に見えるかは明白だ。
放課後。工作室。
凛花が忘却屋について調べた結果を報告した。
「投稿パターンを分析しました」
凛花がノートを広げた。例の取材メモだ。新聞部と工作室の二足のわらじで情報を集めている。
「忘却屋の投稿時間帯は、主に平日の夜二十一時から二十三時の間。休日は投稿が少ない。この時間帯は校内の生徒が自宅でスマホを使う時間と一致します」
「つまり校内の人間だ」
「可能性が高いです。さらに文体の特徴があります。句読点の打ち方が正確で、文末の処理が統一されている。かなり文章を書き慣れた人間です」
凛花のペンがノートの上を走った。箇条書きが並んでいる。投稿時間、文体分析、使用語彙の傾向。凛花は記録者であると同時に分析者だ。データを集めるだけでなく、データから像を結ぼうとしている。
玲奈が腕を組んでいた。
「校内の人間で、文章力があり、恋愛の問題に関心がある。それだけなら候補は多い」
「もう一つ特徴があります」
凛花が付け加えた。
「忘却屋のアプローチには構造があります。利用者から恋の思い出を聞き出し、それを別のストーリーに書き換えるという方法です。これは心理学のナラティブ・セラピーに似ています。心理学の知識がある人間か、少なくともそうした技法を学んだことがある人間です」
「高校生で心理学を独学してるやつなんてそういないだろ」
陽太が首をかしげた。
「いるかもしれない」
玲奈が短く言った。
「判断は保留する。現時点で忘却屋は実害を出していない。利用者が増えているようだが、被害の報告はない。工作室の競合でもない。今は監視を続ける。実害が出たら対応する」
「了解です」
凛花がノートに「対応方針:監視継続」と書いた。
会議はそれで終わった。しかし俺の中の違和感は消えなかった。玲奈は論理的に正しい。実害が出ていない段階で動くのは早計だ。しかし翻訳者の直感が何かを訴えている。
忘却屋の文体。あの冷静で構造的な書き方。どこかで見た覚えがある。いや、見たのではない。聞いたことがある。あの論理の組み立て方を。
思い出せない。しかし脳の奥で何かが引っかかっている。
帰り道。陽太と別れた後、一人で海沿いの道を歩いていた。五月の夕暮れは穏やかだ。風に潮の香りが混ざっている。空が薄い橙色に染まって、海面がきらきら光っている。
スマホを取り出して、忘却屋のDMの一つを読み直した。凛花がスクリーンショットで共有してくれたものだ。利用者の許可は取っていない。掲示板上で公開されていた一部のやりとりだ。
利用者の書き込みはこうだった。
「三ヶ月付き合った人に振られました。毎日その人のことを思い出してしまいます。忘れたいです」
忘却屋の返信。
「辛いですね。まず、その人との思い出を全部書き出してください。楽しかったこと、悲しかったこと、全部です。僕がそれを『無害な記憶』に書き換えるストーリーを作ります。人間の記憶は物語で上書きできます。新しい物語が古い記憶に重なれば、痛みは薄れます」
一見すると親切なアドバイスだ。実際、心理学的にも間違ってはいない。記憶は物語の形で保存されるから、物語を変えれば記憶の印象も変わる。ナラティブ・セラピーの応用と言えなくもない。
しかし俺が引っかかったのは、その次の一文だ。
「書き出すときは、できるだけ具体的にお願いします。日付、場所、会話の内容、相手の仕草。細かければ細かいほど、上書きの精度が上がります」
具体的に。日付。場所。会話。仕草。
これは思い出を聞き出しているのではない。情報を収集している。
忘却屋は利用者の個人的な記憶を、極めて詳細に集めている。失恋の思い出という名目で。利用者は善意を信じて、自分の最もプライベートな記憶を匿名の相手に渡している。
その情報がどう使われるか。上書きストーリーを作るためだけに使われるなら問題ない。しかし匿名の相手が集めた情報を別の目的に使わないという保証は、どこにもない。
工作室は依頼者と対面する。顔を見て、声を聞いて、信頼関係の上で情報を預かる。忘却屋は匿名だ。顔も声も知らない相手に、最も脆い記憶を預ける。その構造的な危うさが気になった。
しかし今の時点では、これは俺の推測にすぎない。実害の報告はない。利用者は満足しているように見える。掲示板には「忘却屋に相談したら楽になった」という書き込みもある。
楽になった。
その言葉を額面通りに受け取るべきか。楽になったのは、痛みが消えたからか。それとも、痛みを感じないようにしただけか。消すことと、感じなくすることは違う。前者は治癒で、後者は麻酔だ。
麻酔は切れる。
俺は工作室にいて、忘却屋の方法論を頭の中で解体していた。場を作る工作室と、記憶を書き換える忘却屋。どちらも恋の問題を扱っている。しかしアプローチが根本的に異なる。
工作室は、依頼者が自分で決断するための場を設計する。判断は本人に委ねる。痛みも本人が引き受ける。
忘却屋は、依頼者の代わりに記憶を処理する。判断を代行する。痛みを肩代わりする。
どちらが正しいかは分からない。しかし工作室の原則に立つなら、心は操作しない。記憶を書き換えることは、心の操作に含まれるのではないか。
玲奈に聞いてみようかと思った。しかし玲奈の答えは予想がつく。「実害が出てから考えろ」。正しい。正しいが、翻訳者の直感は待てと言っていない。動けと言っている。
動くのはまだ早い。しかし考えることは止めない。
スマホをポケットにしまった。海が暗くなり始めている。夕焼けが終わりかけて、空と海の境界が曖昧になっていた。
忘却屋の文体を、もう一度頭の中で反芻した。句読点の正確さ。文末の統一。論理の組み方。そして、感情を排した冷静さ。
あの冷静さは、感情がないのではない。感情を意図的に排除している。書き手は感情を持っているが、それを文章に乗せないように制御している。翻訳者の目で見れば、制御の痕跡が見える。隠しているものがある。
何を隠しているのか。
怒りか。悲しみか。無力感か。
翻訳者の直感は、最後のものだと告げていた。無力感。何かに対する無力感を抱えた人間が、忘却という方法で自分自身の無力感を処理しようとしている。他人の忘却を手助けすることで、自分の忘れられない何かから目を逸らしている。
推測だ。根拠はない。しかし翻訳者の直感は、論理よりも先に答えを出すことがある。
帰宅して自室のベッドに転がった。天井を見上げる。五月の夜は静かで、窓を開けると遠くの波の音が聞こえる。
忘却屋のことを考えていたはずなのに、いつの間にか別のことを考えていた。
他人の恋を翻訳する。他人の感情を言語化する。他人の告白を設計する。藤川の依頼。水谷の依頼。二件の仕事をこなして、工作室の仕事がどういうものか分かってきた。
しかし、一つだけ分からないことがある。
俺自身は、なぜこの仕事に惹かれているのか。
翻訳者は他人の言葉を翻訳する。しかし翻訳者自身の言葉は、誰が翻訳するのか。
藤川の「変わりたい」を掘り出した。水谷の「ただの私でいたい」を読み取った。他人の本音を見つけるのは得意だ。しかし、俺自身の本音は何だ。なぜ他人の恋に関わりたいのか。なぜ翻訳者であることが心地いいのか。
答えが出ない。翻訳しようとすると、辞書のページが白紙になる。自分に関する語彙だけが欠落している。
いや。
欠落しているのではなく、載せていないだけかもしれない。自分の感情を翻訳する必要がない。そう思い込んでいる。翻訳者は道具だ。道具に感情は不要だ。そういう理屈で、自分の内側を見ることを避けている。
避けている理由は何だ。
スマホが震えた。LINEの通知。連絡先の一覧が一瞬表示されて、ある名前が目に入った。
宮前志帆。
幼馴染の名前だ。中学時代、隣の席に座っていた女の子。一緒に帰った道。他愛のない会話。高校は別々になった。朝凪高校に転入したことは伝えていない。いや、伝える理由がなかった。
連絡先は残っている。最後にメッセージを交わしたのはいつだったか。覚えていない。覚えていないのは、覚えようとしていないからだ。
翻訳者は自分を翻訳できない。
その言葉が、急に重みを持った。
志帆のことを考えると、翻訳者の脳が停止する。分析ができない。パターンマッチングが機能しない。他人の感情は読めるのに、志帆に関する自分の感情だけが真っ白だ。
真っ白なのは、感情がないからではない。見たくないから白く塗りつぶしている。翻訳したくないから辞書を閉じている。
その自覚が、ほんの一瞬だけ浮かんで、すぐに沈んだ。
LINEの通知は志帆からではなかった。陽太だった。
『明日の朝、工作室集合な。玲奈先輩が話があるって』
日常が戻る。翻訳者は、他人の言葉を翻訳する仕事に戻る。自分の言葉は、まだ翻訳しなくていい。そう言い聞かせて、スマホを枕元に置いた。
五月の夜は静かだ。波の音が遠い。忘却屋は今夜も掲示板に投稿しているのだろうか。忘れたい恋を持つ人間に、忘却を売っているのだろうか。
俺は忘却を売らない。場を作る。それだけだ。
しかし自分自身の「忘れたい何か」については、工作室も忘却屋も役に立たない。翻訳者は、自分の恋路だけは設計できない。
設計できないから、放置する。それが今の俺の方針だった。
翌朝、工作室に行くと依頼ボードに変化があった。
昨日まで空白だった依頼ボードに、一枚の紙ではなく、一枚が減っていた。先週、誰かが貼っていた小さなメモ。相談を検討していた匿名の書き置きだ。内容は「告白のタイミングについて相談したい」という軽いものだった。
そのメモがなくなっている。
「キャンセルだ」
玲奈が言った。朝一番で工作室に来たらメモが剥がされていたらしい。
「メモを貼った人間が、自分で剥がしたんだろう。別のところに相談先を見つけたか、自分で解決したか」
「別のところ、って」
「忘却屋だ。可能性の一つとして」
玲奈の声に感情はなかった。しかし腕を組む力が少しだけ強くなったのを、俺は見逃さなかった。
工作室の依頼が、忘却屋に流れた。
確証はない。偶然かもしれない。しかし陽太が昨日言っていたことが頭をよぎった。「楽なほうに人は流れる」。工作室は自分で決断させる。忘却屋は代わりにやってくれる。選ぶのは本人だ。工作室の原則通り、選ぶのはいつだって本人だ。
しかしその原則が、今は少しだけ苦く感じた。
「忘却屋の動向、引き続き追う。柊、頼む」
「はい」
凛花がノートを開いた。記録者は記録を続ける。
俺は窓の外を見た。五月の朝の光が海面を白く照らしている。朝凪の海。静かな海。しかしその水面の下には、見えない潮の流れがある。忘却屋という新しい潮の流れが、この学校の情報の海に混ざり始めている。
それがどこに向かうのか。翻訳者にもまだ読めなかった。




