第19話 翻訳者の違和感
第19話 翻訳者の違和感
最近、瀬川彩音のことを考える時間が増えている。 分析しようとする。失敗する。繰り返す。
七月の最終週。 夏休みまであと三日。
期末テストが返ってきた。成績は 悪くない。翻訳者の記憶力は試験にも使える。だが数学だけ 少し落ちた。授業中に集中できなかった日があったからだ。
何に集中できなかったのか。 分かっている。
C組の教室の窓から見える 横顔のことを考えていた。
翻訳者の脳は 意識していなくても情報を処理する。朝、廊下でC組の前を通るとき。昼休み、屋上のドアを開けたとき。放課後、校門の前で。 彩音の姿を見つけるたびに、翻訳者のプロセッサが起動する。声のトーン。表情の微細な変化。視線の方向。手の位置。 全部を自動的に記録して、分類して、翻訳しようとする。
だが 翻訳が完了しない。
他人の感情なら 翻訳できる。河合の「選べない好き」。長谷の「応援できない痛み」。小林の「画面の向こうの本物」。園田の「正解の檻」。 全部、翻訳できた。名前をつけられた。辞書のページを開いて 「ここに書いてある」と示せた。
彩音の感情は 翻訳できる。彩音の壁。防御機制。過去の痛み。知識で武装した孤立。 全部、翻訳者の目が読んでいる。彩音という人間の分析は ほぼ完了している。
問題は 彩音の感情ではない。
俺の感情だ。
「だから俺はどう感じている」の部分が 出てこない。
分析する。瀬川彩音。知的。批判的。だが共感力が高い。過去にトラウマを持つ。防衛機制として論理武装。壁の内側に 柔らかいものを隠している。 ここまでは翻訳できる。客観的なプロファイルだ。
だが 「だから俺は 」の先が続かない。
翻訳者のプロセッサが 自分自身を処理しようとして。フリーズする。蒼のデータが園田の行動パターンをフリーズと判定したように。 俺の翻訳機能が、彩音に関してだけフリーズしている。
火曜日。昼休み。
屋上。
弁当を持って 屋上のドアを開けた。七月の日差し。 強い。コンクリートが焼けている。日陰がフェンスの影だけ。海が 眩しい。真夏の青。
フェンスの影に 座った。弁当を開けた。
五分後。 屋上のドアが開いた。
彩音だった。
「今日も いますね」
「今日も 来たか」
いつからか 屋上が二人の定位置になっていた。約束はしていない。時間も決めていない。 だが昼休みに屋上に行けば、五分以内に彩音が来る。彩音が先にいることもある。俺が先にいることもある。 偶然が繰り返されて、偶然ではなくなっている。
彩音は フェンスの影に座った。俺から一メートル半。 最初は二メートルだった。いつの間にか 五十センチ縮まっている。計算された距離が 少しずつ更新されている。
「高瀬くん。 今日は何の分析ですか」
「分析 ?」
「いつも 何かを考えながら弁当を食べてますよね。翻訳者の目になってる。 依頼者のこと? 工作室のこと?」
「......今日は 何も考えてない」
嘘だ。 考えている。彩音のことを。だが「お前のことを考えてた」とは 言えない。言ったら 意味が変わる。翻訳者が依頼者のことを考えているのは仕事だが。翻訳者が依頼者でもない人間のことを考えているのは 仕事ではない。
「何も考えてない ですか。珍しいですね。 翻訳者が何も考えないなんて」
「翻訳者も 休憩する」
「休憩。 屋上で。サンドイッチを食べながら」
「ああ。 サンドイッチ。今日は卵」
「私はツナです」
こんな会話だ。 卵とツナ。翻訳者と元カウンセラーが。屋上で。弁当の中身を報告し合っている。 何の意味もない会話。何の情報量もない言葉。
だが 楽しい。
楽しい という感覚を、翻訳者は分析しようとする。なぜ楽しいのか。卵サンドイッチの情報量はゼロだ。ツナサンドイッチの情報量もゼロだ。 なのに楽しい。ゼロの情報量の会話が 楽しい。
蒼に言わせれば「非合理」だろう。
彩音が 笑った。
「卵とツナ。 明日は何ですか」
「分からない。 朝、冷蔵庫にあるもので決める」
「計画性がないですね」
「翻訳者は 直感で動く」
「直感で弁当を作る翻訳者。 面白い」
面白い。 彩音が「面白い」と言って笑った。
俺も 笑った。
笑った ことに。三秒後に気づいた。彩音が笑ったから 俺も笑った。意識してではなく。自動的に。翻訳者のプロセッサが 彩音の笑顔を検知して、自動的に笑顔を返した。
これまでの 翻訳者の笑顔は 全部、意識的だった。依頼者を安心させるための笑顔。場を和ませるための笑顔。 計算された笑顔。
今の笑顔は 計算していない。彩音が笑ったから 笑った。それだけ。入力と出力が直結している。間に翻訳者のフィルターが 入っていない。
フィルターが 外れている。
彩音の前では 翻訳者のフィルターが機能しない。去年から 徐々に。屋上で「なぜ工作室をやっているのか」と聞かれたときから。 フィルターが薄くなっている。
翻訳者ではなく 高瀬恒一として。素の人間として。 彩音の前にいる。
「高瀬くん」
「何だ」
「最近 よく屋上に来ますね」
「風が 気持ちいいからな」
「風 ですか」
彩音が 海のほうを見た。七月の海。 眩しい。真夏の光が水面に散っている。
「私も です。風が 気持ちいいから」
風が気持ちいい。 二人とも同じ理由で屋上に来ている。風。 本当に風のためだけか。翻訳者の直感が 「嘘だ」と告げている。彩音も。俺も。風のためだけではない。
だが 「風ではない本当の理由」を翻訳しようとすると。プロセッサがフリーズする。
「瀬川」
「はい」
「夏休み いつから」
「来週の金曜が終業式ですよね。 土曜から」
「一ヶ月 か」
「一ヶ月です。 長いですか? 短いですか?」
長いか。短いか。 彩音が聞いている。彩音の声が 少しだけ低くなった。質問ではなく 確認。何を確認しているのか 翻訳者にも分からない。
「......分からない。 一ヶ月が長いか短いか」
「分からない ですか。翻訳者なのに」
「翻訳者は 自分のことは翻訳できない」
「矛盾 ですね」
「矛盾だ。 いつも」
彩音が 微かに笑った。口の端だけ。 三ミリ。翻訳者の目でなければ見落とす笑み。
「私も 分かりません。一ヶ月が長いか短いか」
彩音も 分からない。分からないと言った。二人とも 分からない。一ヶ月が長いか短いか。 それは何を意味するのか。
翻訳 しない。できない。
弁当を食べ終えた。 彩音もサンドイッチを食べ終えた。包みを丁寧に畳んで ポケットに入れた。いつもの動作。几帳面。 見慣れた動作。
見慣れた。 彩音の動作を「見慣れた」と感じている。いつから 見慣れたのだろう。
「では 午後の授業。行きますね」
「ああ」
彩音が立ち上がった。 ドアに向かった。
「高瀬くん」
「何だ」
「夏休み中 図書室は開いてますよね。自習で」
「ああ。 開いてる。エアコンが効くから。 たまに行く」
「私も 行くかもしれません。 偶然」
偶然。 彩音が「偶然」と言うときは 偶然ではない。
「偶然 だな」
「はい。 偶然です」
彩音が ドアを開けて出ていった。
一人になった。屋上。 七月の日差し。暑い。 だが、彩音がいた場所の空気が 少しだけ涼しかった気がする。気のせいだ。物理的には何も変わっていない。
だが 翻訳者の感覚が。彩音がいた空間と、彩音がいない空間の 温度差を感じている。
データではない。数字ではない。 感覚だ。翻訳者の。
「......違和感だ」
声に出して呟いた。
違和感。 何かがおかしい。何かが いつもと違う。翻訳者としての日常が 少しだけズレている。パターンマッチングが機能しない。自分の感情が 既存のどのカテゴリにも入らない。
河合の依頼で蒼が出した概念。 不規則なスパイク。周期的でない反応。制御の外にある感情。 推しへの感情は周期的だった。同級生への感情は 不規則だった。
俺の 彩音に対する反応は 不規則だ。いつ起きるか予測できない。彩音が笑ったとき。声のトーンが変わったとき。「偶然」と言ったとき。 不規則に。心臓がスパイクを出す。
河合に翻訳した。「推しへの好きは選んだ好き。恋は 選べない好き」。
俺は。彩音のことを 選んだのか。選んでいないのか。
選んでいない。 彩音を好きになると決めたことはない。彩音を意識すると決めたことはない。 勝手に。自動的に。翻訳者のフィルターが外れて。笑顔が自動的に返って。心臓がスパイクを出して。 全部、制御の外で起きている。
選べない のか。これは。
翻訳 しかける。名前をつけかける。 だが、止まる。フリーズする。辞書のページが 白い。
放課後。工作室。
園田の件のフォローアップミーティングをやった。蒼が 園田のSNSデータの最新分析を出した。
「園田さんのパターン 動き始めています。フリーズが解除されつつある。瀬尾さんへの反応に 変動が出てきました。設計図の外の行動が 少しずつ増えています」
「少しずつ か」
「はい。 ただし、まだ設計図の近くにいます。完全に離脱したわけではない。 回復の途上です」
園田は 設計図から離れつつある。自分の足で歩き始めている。 来週、園田が工作室に最後の報告に来る。それで 園田の依頼は完了する。
「来週で 終わりですね。園田さんの件」
凛花がノートに書いた。
「園田案件。最終報告 来週。 長い依頼でした」
「長かった。 一年越しだ」
一年越し。 去年の夏に「名前のない距離」を設計した。一年後の夏に 設計図を手放す。一年かけて 副作用と向き合って、修正した。
ミーティングが終わった。
蒼と凛花が帰った後 俺と陽太が残った。
「恒一」
陽太が メロンパンの最後の一口を放り込んだ。
「お前 最近、顔がゆるいぞ」
「ゆるい ?」
「ゆるい。 去年の恒一は もっと険しかった。翻訳者の顔。常にフィルターかけて。人の感情を読んでて。 今は ゆるい。特に 昼休みの後」
昼休みの後。 屋上から帰ってきた後。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。 コミュ力お化けの目をなめるな。お前の表情筋の使い方が 昼休み前と後で変わってる。後のほうが 筋肉が弛緩してる。リラックスしてる」
「表情筋 って。お前は医者か」
「医者じゃないけど お前の友達だ。一年間 隣で見てきた」
凛花が 帰ったはずだった。だが ドアの前に立っていた。鞄を持ったまま。 帰りかけて、戻ってきたのか。
「先輩」
「凛花 帰ったんじゃ 」
「忘れ物を取りに 来たんですが。聞こえました。 自覚してないんですか、先輩」
「自覚 ? 何の」
陽太と凛花が 顔を見合わせた。
「やっぱ自覚してない」
「自覚 してないですね」
「何の話だ。 二人で何を 」
「先輩。 屋上に、毎日行ってますよね」
「ああ。 風が 」
「風 じゃないです。先輩。 瀬川さんがいるから行ってるんです」
「彩音が 」
言いかけて 止まった。
彩音がいるから。 屋上に行っている。風のためではなく。
「......違う。風だ」
「嘘です。 先輩、嘘が下手ですね。翻訳者なのに。 蒼くんに嘘判定のデータを取ってもらいましょうか」
「蒼を巻き込むな」
陽太が にやにやしていた。
「恒一。 俺は先週自覚した。お前はまだだ。 一歩遅れてるぞ。団長」
「遅れてない。 遅れるも何も 」
「お前 彩音のことが好きなんだよ。翻訳できないだけで」
好き。 陽太が。俺の感情に 名前をつけた。
翻訳者ではない人間が。 翻訳者の代わりに。
「翻訳 するなって言っただろ」
「翻訳してない。 事実を言っただけだ。 彩音の口調で言えば 事実の確認」
「事実じゃ 」
「事実だよ。 恒一。お前 彩音の話するとき声が三ヘルツ上がるし。屋上から帰ってくると顔がゆるいし。C組の前で歩幅が変わるし。 全部、データだ。蒼が見たら一秒で判定する」
「データを取るな。蒼にも取らせるな」
「取ってないよ。 目で見てるだけ。お前が 俺の恋を目で見たのと同じだ」
目で見た。 翻訳者の目ではなく。友達の目で。
陽太は 翻訳者ではない。データ屋でもない。 だが俺を一年間見てきた。友達として。戦友として。隣で。 その目が。俺の変化を 拾っている。
凛花が ノートを持ったまま。言った。
「先輩。 記録はしません。工作室の案件じゃないから。 でも。気づいてください。自分で」
「気づく 」
「翻訳者は 他人の感情に名前をつけるのが仕事です。でも自分の感情にも 名前をつけてあげてください。 彩音さんへの、その感情に」
凛花の声が 優しかった。参謀の声ではなく。後輩の いや。仲間の声。
「名前 」
「つけなくてもいいです。 でも、辞書のページが白いなら。白いまま認めてあげてください。白いページが あること自体を」
白いページが あること自体を認める。名前をつけなくてもいい。ページが存在することを 認める。
「先輩。 私たちは気づいてます。陽太先輩も。蒼くんは たぶんデータでも気づいてます。 先輩だけが自覚してない。それが 一番危ないんです。久我先生も言ってました。『壊れかけていることに気づけるかどうか』」
久我先生の言葉が 凛花の口から返ってきた。壊れかけていることに気づけるか。 壊れ ではないが。変化していることに気づけていない。翻訳者が 自分の変化に。
「......分かった」
「分かった って」
「自覚 しようとする。まだ 完全には無理だけど。辞書のページが白いことは 認める」
「白いページが 」
「ある。 彩音に関するページが。辞書の中に。白いまま。 ある」
声に出して 言った。初めて。工作室の中で。陽太と凛花の前で。 翻訳者が。自分の辞書の中に 白いページがあることを。認めた。
陽太が にやにやをやめた。真剣な顔になった。
「恒一。 白いページに何を書くかは、お前が決めろ。俺は翻訳しない。凛花も記録しない。 お前が、自分で」
「自分で 」
「俺は自分で 真白が好きだって言えた。月曜に。水曜の予定だったのに。 タイミングは選べなかった。でも自分の口で出た。 お前も。タイミングは選べないかもしれない。でも出るときは 自分の口から出る。翻訳者の口じゃなく」
「翻訳者の口 じゃなく」
「高瀬恒一の 口から」
凛花が ノートを鞄にしまった。
「先輩。 忘れ物、取りました。帰ります。 おやすみなさい」
「おやすみ 」
「あ 先輩」
「何だ」
「夏休み中 図書室に行くかもしれません。自習で。 偶然」
偶然。 凛花まで「偶然」を使い始めた。工作室に 彩音ウイルスが感染している。陽太が先週言った通りだ。
「偶然 な。分かった」
凛花が 帰っていった。
陽太も立ち上がった。
「恒一。 帰るか」
「ああ」
工作室の蛍光灯を消した。 ドアを閉めた。鍵をかけた。
暗い廊下。蛍光灯が三本に一本切れている。 いつもの。
「恒一」
「何だ」
「夏休み あと三日だな」
「ああ」
「三日 の間に。彩音に 何か言うのか」
「何を」
「何を って。お前が決めろ。 でも、夏休みが始まったら 一ヶ月会えないぞ」
一ヶ月。 図書室で「偶然」会えるかもしれないが。毎日ではない。屋上で弁当を食べることもない。C組の前を通ることもない。
「一ヶ月 か」
「長いぞ。 俺は真白に 夏休み前に連絡先交換した。花火大会の約束もした。 お前は?」
「......何もしてない」
「何もしてない か。お前らしいな」
「お前らしい って」
「翻訳者は 他人のことは設計できるのに。自分のことは 何も設計しない」
「設計 しようがないだろ。彩音は依頼者じゃない。工作室の案件じゃない。設計する理由が 」
「理由 か。理由がないと動けないのか。翻訳者は」
「......」
「理由なんかなくていいだろ。 好きだから会いたい。それだけじゃダメか」
好きだから会いたい。 シンプルな言葉。翻訳者には あまりにもシンプルすぎて。辞書に載せる必要すら感じない言葉。
だが シンプルだから 強い。
「陽太 」
「何だ」
「お前 いつからそんなこと言えるようになったんだ」
「先週の月曜からだよ。 真白が好きだって自覚してから。世界が シンプルになった。好きだから会いたい。会いたいから約束する。 それだけだ。翻訳もデータもいらない」
翻訳もデータもいらない。 恋は。
「恒一。 難しく考えすぎるなよ。翻訳者の癖だ。全部分析して、全部言語化して、全部理解してから動こうとする。 でも恋は 分かる前に動くもんだ」
分かる前に 動く。
翻訳者の真逆だ。翻訳者は 分かってから動く。理解してから名前をつける。名前をつけてから行動する。 それが翻訳者のプロセスだ。
だが恋は プロセスを無視する。理解の前に 心臓が動く。名前の前に 笑顔が返る。翻訳の前に 会いたいと思う。
「......シンプルか」
「シンプルだよ。 白いページに最初の一文字を書け。お前が 」
「書く って。何を」
「それは お前が決めろ。俺は翻訳しない。 でも、夏休み前に 何かしたほうがいいぞ。一ヶ月は 長い」
旧部室棟を出た。校庭を横切った。正門。 七月の夕暮れ。空がオレンジに染まっている。暑い。 夏の空気。
「じゃあな恒一。 明日も工作室あるだろ」
「ある。 園田の件で」
「おう。 園田の件、来週で終わりだな」
「ああ。 来週で」
陽太が 手を振って歩いていった。 途中でスマホを取り出した。たぶん真白にメッセージを送っている。 自然な動作。好きな人間にメッセージを送る ただそれだけの。
俺は スマホを取り出さなかった。彩音の連絡先は 持っていない。工作室の公式アカウント経由で 凛花を通じて連絡はできるが。個人の連絡先は 交換していない。
交換 すべきか。夏休み前に。
翻訳者の脳が 分析を始めた。連絡先を交換する理由。交換しない理由。リスク。リターン。 全部計算して 。
止めろ。 分析するな。
陽太が言った。「難しく考えすぎるな。分かる前に動け」。
分かる前に 動く。
スマホを ポケットに戻した。
今日は 動かない。まだ。
だが 夏休みまで三日ある。三日の間に 何かが起きるかもしれない。何も起きないかもしれない。 翻訳者にも予測できない。
帰り道。堤防沿い。
海が 夕日に染まっている。オレンジと金色。七月の海。 夏の海。
一人で歩きながら 考えた。
志帆のことを。 去年。
志帆への感情。 翻訳者は「翻訳したくなかった」。辞書を閉じた。怖かったから。名前をつけたら確定する。確定したら逃げられない。 だから逃げた。翻訳者のフリで。
半年かかった。 志帆への感情に「好きだった。過去形」と名前をつけるまでに。辞書を閉じていた期間が 長かった。開けたのは 壊れた後だ。壊れて。桐生先輩に止められて。復帰して。 やっと辞書を開けた。
彩音への感情。 翻訳者は「翻訳したいのにできない」。辞書は 開いている。閉じていない。逃げていない。 だがページが白い。
志帆のときは ページがあった。「好き」のページが。「恋」のページが。 だが開くのが怖かった。ページの内容を 見たくなかった。
彩音の場合は ページ自体がない。白い。何も書かれていない。 怖いのではなく。初めてだから。この感情に対応する語彙が 辞書の中に存在しない。
志帆への感情は 既知だった。「好き」という語彙は辞書にあった。ただ 認めたくなかっただけ。
彩音への感情は 未知だ。「好き」かもしれない。「好き」ではないかもしれない。 既知の語彙で記述できない。
陽太は 「好きだろ」と言った。シンプルに。
だが 翻訳者には。「好き」が正確な翻訳かどうか 確信が持てない。「好き」は 広い言葉だ。河合の「推しの好き」も好き。長谷の「応援できない好き」も好き。小林の「画面の向こうの好き」も好き。 全部「好き」だが、全部違う。
彩音への これは。どの「好き」なのか。あるいは 「好き」ではない別の感情なのか。
翻訳者には まだ分からない。
だが 白いページがあることは認めた。今日。工作室で。陽太と凛花の前で。 白いページが存在することを。彩音に関するページが 辞書の中に。
存在を認めた。内容はまだ白い。 だが存在は認めた。
それは 去年の俺とは違う。志帆のときは ページの存在すら認めなかった。見ないフリをした。半年間。 今年は 存在を認めている。白いまま。だが ある。
去年より 一歩先にいる。
「辞書のページが白い」
声に出して 呟いた。堤防の上。夕暮れの海に向かって。
「この感情に対応する語彙が まだない。初めてだから」
初めて。 翻訳者にとって「初めて」は 最も恐ろしく、最も魅力的な状態だ。屋上で彩音に言った。「翻訳できないものに出会うのが好きだ」と。
好きだと 言った。翻訳できないものに出会うことが。
そして今 翻訳できない感情が。自分の中にある。
皮肉 か。必然 か。
翻訳者が 翻訳不能な感情を抱えている。他人の恋は翻訳できるのに 自分の恋は 。
恋。 今、「恋」と言ったか。
言った。 頭の中で。声には出していないが。「自分の恋」と。
陽太が名前をつけた。「好きだろ」と。凛花が指摘した。「自覚してください」と。 二人の言葉が。翻訳者の辞書に 下書きのように。薄い文字で。書き込まれ始めている。
まだ 確定していない。下書きだ。消せる。 消すかもしれない。消さないかもしれない。
だが 下書きがある。白いページに 薄い鉛筆の線が。
「恋 か」
声に出さず 口の中で呟いた。
海が 紫に変わっていく。七月の夜が来る。夏休みまで あと三日。
三日。 彩音と。C組の前で。屋上で。 あと三回ずつ。
その三日の間に 白いページの下書きが。少しでも濃くなるのか。
分からない。
分からないから 翻訳者は動く。
明日も 屋上に行く。風のために。 ということにして。
明日も 彩音が来るだろう。偶然。 ということにして。
二人の「ということにして」が 屋上の定位置を作った。偶然のフリをした必然。名前のないルーティン。
翻訳 できなくても。名前がなくても。 それは、確かにある。
白いページの上に 薄く。
何かが 書かれ始めている。
読めるようになるのは いつだろう。
夏が 来る。




