第18話 開けられない紅茶
第18話 開けられない紅茶
陽太が紅茶を開けなかった。
木曜日の昼休み。工作室。陽太が机に突っ伏していた。コミュ力お化けが死んでいる。
「開けられなかった」
声が机に吸い込まれている。
「紅茶の缶を持って新聞部の部室に行った。真白がいた。一人でいた。チャンスだった。缶を取り出すところまでいった。しかし」
「しかし」
「真白が先に話しかけてきた。『天野先輩、取材の件でお聞きしたいことが』って。取材の話になった。紅茶どころじゃなくなった。三十分取材の打ち合わせをして、紅茶は鞄の中だ」
凛花がノートを閉じた。工作室の公式案件ではないからだ。
「先輩。それは工作室の業務外です」
「分かってる。業務外だ。しかし聞いてくれ」
「聞きませんよ。先輩の恋は先輩の問題です。ルール⑤に基づいて申告するなら記録しますが」
「申告はしない。まだ恋と確定してない」
「確定してないなら業務外です」
凛花の切れ味が鋭い。参謀のツッコミは年々研がれている。前作では「先輩たち、面倒くさいですね」で済ませていた凛花が、今は具体的に業務の線引きをしている。成長だ。
「柊先輩。天野先輩は申告すべきですか」
蒼が聞いた。データアナリストの質問。
「申告は本人の自覚に基づきます。自覚がないなら申告できない。蒼くん、天野先輩の恋愛感情の有無をデータで判定しようとしないでね」
「しません。白石さんのケースで学びました」
蒼が即答した。自分のデータを他人の恋に使わない。白石のケースの教訓。
「恒一」
陽太が顔を上げた。机から。目が据わっている。
「友達として聞く。紅茶をどうしたらいい」
「開けろ」
「開け方が分からない」
「缶のプルタブを引け」
「物理的な話をしてるんじゃない」
「分かってる。しかし物理的に開けなければ精神的にも開かない。缶を持っていけ。真白の前で開けろ。一緒に飲むか聞け。それだけだ」
「それだけのことが、なぜこんなに難しい」
「お前が人の恋を設計してきたからだ。他人の恋は設計できる。自分の恋は設計できない。翻訳者と同じ構造だ。俺も自分の感情は翻訳できなかった」
「翻訳するなって言っただろ」
「翻訳してない。友達の感想だ」
陽太が唸った。机に再び突っ伏した。コミュ力お化けの敗北姿勢。
放課後。
工作室に久我からの紹介案件の依頼者は、まだ来ていなかった。久我が紹介してから数日。相手のペースを待っている。来るかどうかも分からない。強制しない。
通常業務。園田のケアは彩音が進めている。長谷川のケースは終了。新規の小さな相談が一件入っている。二年生の男子。友達に好きな子を取られそうだという相談。陽太と凛花で初期対応した。
俺は翻訳者として通常運転に戻りつつあった。精度は八割に近い。震えはまだある。しかし震えながら切れる。長谷川のケースで取り戻した感覚。一つだけ翻訳して残りは委ねる。量の制限。
放課後の工作室。四人で片付けをしていると、陽太のスマホが鳴った。
陽太が画面を見た。顔が変わった。
コミュ力お化けの顔が、高校生の男子の顔に変わった。自信満々の実行班長が消えて、何かに怯えている十七歳が現れた。
「真白からLINEだ」
「業務外だ」
凛花が即座に言った。
「分かってるよ。業務外だ。しかし」
「しかしも何もありません。先輩のスマホを見て顔色が変わった時点でもう答えは出ていると思いますが。ルール⑤の申告、検討されたほうがいいのでは」
「まだ恋と確定して」
「確定していない恋に、その顔色の変化は統計的に矛盾します」
蒼が横から入った。
「蒼。データで判定するなと」
「データではありません。観察です。天野先輩のスマホ確認時の瞳孔拡大と頬の紅潮は、恋愛感情の非言語的指標と一致します」
「瞳孔を見るな」
「見えたんです。自然に」
工作室が笑いに包まれた。蒼の「見えた」が素朴すぎた。データアナリストが分析ではなく単なる観察で陽太の恋を暴いている。
「お前ら全員敵か」
「味方です。味方だから言っています」
凛花が笑っていた。参謀が笑う。珍しい。前作では凛花が笑うシーンは少なかった。本作では増えている。凛花が笑えるようになったのは、工作室に余裕が生まれたからだ。
「恒一。お前は何か言わないのか」
「言わない」
「何でだよ」
「友達だから。友達は翻訳しない。見てるだけだ」
「見てるだけって、お前が一番見てるだろ。翻訳者の目で」
「翻訳者の目は閉じてる。友達の目で見てる」
「友達の目は優しいのか怖いのか」
「どっちもだ」
陽太がスマホを見た。LINEを開いた。
「真白が聞いてる。『明日の取材、先輩も一緒に来てくれますか。図書室の企画取材です』」
「行け」
「行く。しかし紅茶は」
「明日持っていけ。図書室の取材の後に、お疲れさまと言って缶を出せ。自然だ」
「自然か」
「自然だ。お疲れさまの紅茶。不自然じゃない」
「不自然じゃないのか。俺が紅茶の缶を一ヶ月も鞄に入れて持ち歩いている事実を除けば」
「その事実は真白は知らない。お前だけが知っている。お前の中では一ヶ月の重みがあるが、真白にとっては一缶の紅茶だ。差し出せ。軽く。お疲れさまと」
陽太が黙った。考えている。コミュ力お化けが恋の戦略を考えている。他人の恋なら一瞬で設計する男が、自分の恋には何時間もかかる。
「恒一。これ、依頼にしたほうがいいか」
「するな。お前は依頼者じゃない。お前の恋はお前でやれ」
「俺の恋は俺でやる。お前に翻訳されたくない」
言った。自分で。企画書に書いてある台詞と同じ言葉を。しかし台詞ではなく本音だった。
「その通りだ。翻訳しない。設計しない。場も作らない。お前が自分で開けろ。紅茶を」
金曜日。
放課後。工作室で通常業務を終えた後、陽太が鞄から紅茶の缶を取り出した。
缶は小さかった。手のひらに収まるサイズ。アールグレイ。缶のデザインがシンプルで、少しだけ高級感がある。一年生の女子が先輩に渡すには、ちょうどいい品の良さ。
「行ってくる」
「行ってこい」
「報告は」
「しなくていい」
「する」
「好きにしろ」
陽太が出ていった。紅茶の缶を握って。コミュ力お化けの大股の歩幅が、今日は少しだけ短かった。
残された三人。凛花と蒼と恒一。
「先輩。天野先輩の件、記録しなくていいですか」
「しなくていい。業務外だ」
「業務外ですね。しかし」
「しかし」
「工作室のメンバーが恋をすることは、工作室にとって良いことだと思います」
凛花の声が柔らかかった。参謀の声ではない。後輩の声。
「翻訳者が恋をして壊れた前作とは違います。天野先輩の恋は工作室の業務に影響しません。実行班長として機能しながら、個人として恋をしている。それが健全だと思います」
「健全か」
「はい。メンバーが人間であることの証拠です。依頼者の恋を扱う人間が、自分も恋をしている。同じ場所に立っている。久我先生に言った言葉そのままです」
同じ場所に立っている。陽太が恋をしていることは、陽太が依頼者と同じ地面の上にいることの証明だ。
「蒼。お前も白石のことがある。陽太が真白のことがある。メンバーの中で恋をしていないのは凛花と俺だけだ」
言ってから気づいた。
俺。恋をしていない。本当か。
翻訳者の脳が自動で起動した。俺は恋をしていないのか。彩音に対して。十四回の個人的な言葉。梅雨明けの理由。本文を書く人の近くにいたい。安心した。
やめろ。分析するな。
止めた。今は陽太の日だ。俺の話ではない。
「先輩。先輩は恋をしていないんですか」
蒼が聞いた。直球で。データアナリストの質問は時々無邪気に鋭い。
「していない」
「瀬川さんに対しても」
「蒼。踏み込みすぎだ」
凛花が止めた。参謀が内部を管理している。
「すみません」
「いい。答えない。答えが出ていないから」
答えが出ていない。翻訳者は自分の感情を翻訳できない。自分のことは一番見えない。久我が言った通りだ。
三十分後。
陽太が帰ってきた。
工作室のドアから入ってきた。顔が赤かった。紅茶の缶を持っていなかった。
「開けた」
「開けたのか」
「開けた。しかし」
「しかし」
陽太が椅子にどさっと座った。コミュ力お化けの堂々とした座り方ではなく、糸が切れたような座り方。
「真白が図書室の取材を終えた後、お疲れさまって言って缶を出した。一緒に飲むかって」
「で」
「真白が笑って、『ありがとうございます。でもこれ、私が先輩に渡したやつですよね。まだ開けてなかったんですか』って」
バレている。
「バレてた。一ヶ月持ち歩いてたこと。真白は気づいてた。缶を返したのに開けてないってことに」
「真白は何て言った」
「『開けられなかったんですか。先輩らしいですね』って笑った」
「笑ったのか」
「笑った。馬鹿にした笑いじゃなくて。柔らかい笑い。それで俺が缶を開けて、二人で飲んだ。図書室の隅で。アールグレイ。ぬるかった。冷房効いてたから」
「味は」
「うまかった。紅茶ってうまいんだな。普段コーラしか飲まないから知らなかった」
凛花がノートを開きかけて、また閉じた。業務外だ。しかし口元が笑っていた。
蒼が窓際で聞いていた。表情が読めなかった。白石のことを思い出しているのかもしれない。蒼の恋はまだ宿題のままだ。白石に好きだと言うかどうか。自分で決めろと言われている。
「で、その後どうなった」
「飲み終わった後、真白が言った。『先輩。また一緒に取材行っていいですか。紅茶は今度は私が持ってきます』って」
「次の約束ができたのか」
「できた。来週。夏休み前最後の取材。真白が紅茶を持ってくる」
陽太の顔が赤いまま戻っていなかった。コミュ力お化けの顔ではない。恋をしている高校生の顔だ。
「恒一。これは恋か」
「知らない。お前が決めろ」
「お前、翻訳者だろ。翻訳しろよ」
「しない。お前の恋はお前が翻訳しろ」
「翻訳の仕方を知らない」
「知らなくていい。感じたことをそのまま言え。紅茶を飲んでどう思った。正直に」
陽太が三秒黙った。
「もう一回飲みたいと思った。真白と。紅茶じゃなくてもいい。隣にいたいと思った。それだけだ」
「それだけで十分だ。それが答えだ」
「答えになってないだろ。恋かどうか」
「お前が今言ったことを、恋と呼ぶかどうかはお前が決める。俺は名前をつけない」
名前をつけない。園田に教えた言葉。名前のない距離。しかし今日は翻訳者として言っているのではない。友達として。陽太の感情に名前をつけるのは陽太自身だ。
「天野先輩」
蒼が声を出した。
「何だ」
「非合理です」
「何が」
「一ヶ月間紅茶の缶を開けられなかったこと。紅茶は開封後の風味劣化が早いです。一ヶ月も持ち歩いたら品質が落ちます。合理的には、もらった当日に開けるべきでした」
「データアナリストに恋の話をするとこうなるのか」
「しかし」
蒼の声が不安定になった。事務的な敬語が崩れかけている。
「非合理だから、いいんだと思います。白石さんのとき、高瀬先輩に言われました。恋は非合理だと。非合理だから面白いと」
「覚えてるのか」
「覚えています。俺もまだ白石さんに何も言えていません。告白するかどうか。天野先輩が紅茶を開けるのに一ヶ月かかったなら、俺が白石さんに告白するのにはもっとかかるかもしれない」
「かかっていい。急がなくていい」
俺が言った。友達としてではない。先輩として。蒼の恋を見守る先輩として。
「蒼くん。データでは恋の最適タイミングは計算できるかもしれないけど、計算通りに動けないのが恋ですよ」
凛花が笑いながら言った。参謀のツッコミ。しかしツッコミの中に柔らかさがあった。
「柊先輩。非合理を認めるのは、データアナリストとして敗北です」
「敗北じゃないです。学習です。データの外にある領域を認めることは、データの精度を上げることと同じくらい大事です」
蒼と凛花の対話。次世代の工作室の核。データと判断力の組み合わせ。二人の関係が深まっている。
帰り支度。
陽太と二人で帰った。海沿いの道。いつもの帰り道。蝉。夕焼け。潮の匂い。
「恒一」
「ん」
「ありがとな」
「何が」
「翻訳しなかったこと」
「友達だからな」
「ああ。友達だ。二年間。お前と俺は」
「二年間」
「前作から数えてだ。一年目は戦友だった。二年目は友達になった。お前が壊れたとき支えて、志帆の件を乗り越えて、卒業を控えて。友達だ」
「ああ」
「友達だから言う。お前も紅茶を開けろ」
「俺に紅茶はない」
「ある。お前の紅茶は瀬川だ」
心臓が止まった。
翻訳者の脳が強制的に起動した。分析が走り出した。彩音。紅茶。開けろ。陽太が俺と彩音の関係を紅茶に例えている。
やめろ。分析するな。
止まらなかった。
「お前、瀬川のこと好きだろ」
「知らない」
「知らないわけないだろ。コミュ力お化けの俺が見ても分かる。お前、瀬川の前でだけ翻訳者の顔が外れてる。素手になってる。お前が素手になれる相手は瀬川だけだ」
「陽太」
「翻訳するなって言うなよ。翻訳じゃない。友達の感想だ。お前が俺にしたのと同じことを、俺がお前にしている。友達として。友達の目で」
友達の目。俺が陽太の恋を翻訳者の目ではなく友達の目で見ていたように。陽太が俺の恋を友達の目で見ている。
「好きかどうかは分からない」
「分からないのか。翻訳者のくせに」
「自分のことは翻訳できない。久我先生も言ってた。自分のことは一番見えない」
「見えてなくても分かることがある」
「何だ」
「お前、瀬川が廊下にいないと気にするだろ。四日間いなかったとき、数えてただろ。数えてないって言ったけど、四日間って正確に覚えてた。数えてなくて四日が分かるのは、毎日確認してたからだ」
長谷川と同じ構造だ。SNSの確認。存在確認。俺は彩音が廊下にいるかどうかを毎日確認していた。いないと気になった。気にしたことに気づいた。
「お前がSNSで確認してた長谷川と同じだ。お前は廊下で確認してた。彩音の存在を」
陽太の翻訳が鋭かった。翻訳者ではないのに。コミュ力お化けの直感が、翻訳者の翻訳と同じ精度で俺の行動を読んでいる。
「翻訳するなと」
「友達の感想だ」
「友達の感想が翻訳と同じ精度なのはどういうことだ」
「友達だからだ。二年間見てきたからだ。お前の顔を。お前の声を。お前の歩幅を。データじゃない。蒼みたいに数字で読んだんじゃない。隣にいたから分かる」
隣にいたから分かる。同じ場所に立っていたから届く。俺が久我に言った言葉と同じ構造を、陽太が俺に使っている。
黙った。返す言葉がなかった。
海沿いの道。夕日が水平線に沈みかけている。空がオレンジから紫へ。蝉が弱まっている。
「恒一。紅茶を開けるのに一ヶ月かかる男が言うのもなんだけど」
「何だ」
「開けろ。お前の紅茶を。瀬川に向き合え。翻訳者としてじゃなくて。友達としてでもなくて。高瀬恒一として」
「その三つ目がない」
「ないのか」
「ない。翻訳者としての俺と、友達としての俺は分かる。しかし高瀬恒一としての俺が彩音に何を感じているかは、翻訳できない。言語化できない。名前がつかない」
「名前がつかない感情」
「ああ。翻訳不能だ」
「翻訳不能な感情が恋じゃないのか。お前、前作で同じこと言ってたろ。翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる、って」
俺自身の言葉を陽太が引用した。前作のテーマ。翻訳できない感情。それが世界を広げる。
翻訳者の言葉が翻訳者自身に返ってきた。園田の翻訳の副作用とは逆の構造だ。翻訳者の言葉が翻訳者自身を照らしている。
「陽太」
「ん」
「お前、いつからそんなに鋭くなった」
「鋭くなったんじゃない。二年間見てたから分かるんだ。お前の恋の翻訳は、翻訳者にはできない。隣にいた友達にしかできない」
コミュ力お化けの翻訳。データでも技術でもない。二年間の友情による翻訳。
「ありがとう」
「礼はいい。紅茶開けろ」
「考える」
「考えるな。感じろ」
「蒼と同じこと言うな」
「蒼は考えるなとは言わないだろ。蒼はデータで考える。俺は考えるなと言ってる。フィジカルだ」
「お前の最終手段はいつも物理だ」
「コミュ力の限界だ」
二人で笑った。海沿いの道で。夕焼けの中で。前作から変わらない帰り道。しかし二人の間に流れる空気は変わった。二年前は戦友だった。今は友達だ。恋の話ができる友達。
別れ際。
「じゃあな。来週、真白と取材だ」
「紅茶を忘れるなよ。今度は真白が持ってくるんだろ」
「ああ。真白の紅茶。何のフレーバーだろう」
「行ってから確かめろ」
「ああ。行ってから」
陽太が去った。大股で。歩幅が昨日より長い。紅茶を開けた男の歩幅。
一人で帰った。星が出始めている。七月の夜。蝉が弱まっている。
紅茶を開けろ。陽太の言葉が反響している。
彩音に向き合え。翻訳者としてではなく。高瀬恒一として。
翻訳不能な感情がある。彩音に対する。名前がつかない。言語化できない。翻訳者の道具では捉えられない。
彩音が廊下にいないと気になる。いると安心する。声を聞くと翻訳者の脳が止まる。耳が赤くなるのを見ると胸が動く。「先輩」と呼ばれたときの声が消えない。「安心しました」が消えない。「近くにいていい」が消えない。「退屈しなかった」が消えない。
全部、翻訳者の辞書にない。翻訳者の分析では捉えられない。分析が走り出すと「やめろ」と止める。止めるということは、分析の対象にしたくないということだ。分析の対象にしたくないのは、分析すると壊れるからだ。壊れるのは、分析で割り切れない大きさがあるからだ。
翻訳したくないのではない。翻訳したいのにできない。
前作では「翻訳したくない」だった。志帆に対して。翻訳者の脳が志帆の感情を読みすぎることを恐れた。読みたくなかった。
今は違う。彩音の感情を読みたい。彩音が俺に何を感じているか知りたい。知りたいのに翻訳できない。翻訳の道具が機能しない。精度が出ない。ゼロパーセント。彩音に対する翻訳者の精度はゼロだ。
ゼロだから、素手になる。素手でしか向き合えない。素手で向き合うと、翻訳不能な感情だけが残る。
紅茶を開けろ。
開けたい。
しかし開け方が分からない。陽太は一ヶ月かかった。俺は何ヶ月かかる。四月に会ってから三ヶ月半。まだ開けていない。開けられない。
帰宅。窓を開けた。七月の夜。蝉。潮の匂い。星。
スマホが光った。陽太。
『紅茶、うまかった。真白と二人で飲んだ。来週また飲む。たぶん俺、これは恋だ。自分で翻訳する。友達には報告する。翻訳者には依頼しない』
自分で翻訳する。陽太が自分の感情に名前をつけた。恋。自分の言葉で。翻訳者の翻訳なしで。
返信を打った。
『おめでとう。報告は好きにしろ。翻訳者としてではなく友達として聞く。来週の紅茶、楽しめ』
送信した。
友達として。
しかし友達からの言葉が胸に残っている。紅茶を開けろ。お前の紅茶は瀬川だ。
翻訳不能。
翻訳不能な感情が、七月の夜の中で膨らんでいる。名前がつかないまま。言語化できないまま。
しかし感じている。確実に。
明日は何をする。分からない。しかし工作室のドアは開いている。彩音が廊下にいるかもしれない。いないかもしれない。
いてほしい。
その一語が、翻訳者の辞書にない。




