第17話 制度の窓から
第17話 制度の窓から
久我朋子が工作室に来た。
来た。カウンセリングルームからではなく。本校舎からではなく。旧部室棟の廊下を歩いて。工作室のドアの前に。
水曜日の放課後。七月の第三週。終業式まであと五日。蝉の声が校舎を覆い尽くしている。
久我が来ることは想定していなかった。非公式の助言関係は、俺が久我のところに行く形で合意していた。俺が方針を持って行き、久我がフィードバックを返す。逆はなかった。
しかし今、久我が工作室の前に立っている。
「高瀬くん。少し話せますか」
穏やかな声。しかし穏やかさの質がいつもと違った。先週までの久我は正論の穏やかさだった。今日の久我は何かを抱えている穏やかさだ。重さがある。
「入ってください」
四人がいた。久我が工作室に入るのは初めてだ。カウンセリングルームの清潔さとは対極の空間。埃っぽい空気。蛍光灯のぼんやりした光。窓から海風。壁のホワイトボードに六つのルール。依頼ボードに手書きの紙。
久我が部屋を見回した。観察している。プロの目で。しかしプロの目だけではなかった。部屋の空気を感じている目。
「古い部屋ですね」
「旧部室棟ですから」
「居心地がいい」
意外な言葉だった。久我が「居心地がいい」と言った。清潔で整理されたカウンセリングルームの主が、埃っぽい工作室を居心地がいいと。
「先生。何がありましたか」
率直に聞いた。久我がここに来たのは、用件があるからだ。
「相談です」
「相談」
「はい。高瀬くんに。工作室に」
逆転していた。いつもは俺が久我に相談する。今日は久我が俺に相談に来た。プロが素人に。制度が草の根に。
「対人関係相談室に来ている生徒の一人について、相談したいんです」
凛花がノートを開きかけた。俺が手で制した。まだ早い。久我の話を全部聞いてからだ。
「名前は出しません。二年生の女子。三週間前から相談室に来ています。恋愛の悩みです」
「恋愛の悩みなら、先生の専門ではないですか」
「専門です。しかし」
久我の声が微かに揺れた。プロの仮面がわずかに動いた。
「私の手法が通じないんです」
通じない。プロの手法が。訓練された技術が。臨床心理士のツールが。
「傾聴しています。解釈を保留しています。クライアント自身の言語化を促しています。教科書通りに。しかしその子は三週間通って、一歩も進んでいない」
「進んでいない」
「はい。話はしてくれます。毎回きちんと来てくれます。しかし核心に触れない。表面的な悩みは語るのに、本当に苦しいことを話さない。壁がある。私の手法では、その壁を越えられない」
久我の目が曇っていた。プロとしての自信に亀裂が入っている。翻訳者の亀裂と同じだ。自分のツールが機能しないとき、プロも素人も同じように揺れる。
「先生。なぜ工作室に来たんですか。プロの手法が通じないとき、プロは別のプロに相談するのでは」
「相談しました。スーパーバイザーに。しかしスーパーバイザーも同じ手法を使う臨床心理士です。手法の中での改善は提案してくれましたが、手法の外には出られなかった」
手法の外。プロの手法の外にある領域。そこに工作室がある。
「高瀬くん。あなたが先週言ったことを覚えていますか。同じ場所に立っている。プロには届かないものがある。距離がないから届くものがある」
「覚えています」
「私は距離を保つプロです。距離があるから正確に見える。しかしその距離が、あの子の壁になっている。プロだから話せないことがある。大人だから話せないことがある。臨床心理士に恋の悩みを話すのはハードルが高い。あなたが先週言った通りです」
久我が俺の言葉を引用した。先週、俺が素手で久我に届けた言葉を。あの言葉が久我の中で生き続けている。翻訳の副作用ではない。翻訳が正しく届いた結果。
「その子に、工作室を紹介していいですか」
四人の空気が変わった。
久我が依頼者を工作室に送ろうとしている。制度から草の根へ。プロの相談室から素人の部室へ。
「先生。一つ確認します」
「はい」
「その子が工作室に来た場合、相談室と工作室の二重対応になります。それは先生の方針と矛盾しませんか。先月、先生は相談室を推奨すると言っていました」
「矛盾します。しかし」
久我の声が静かだった。
「矛盾しても、あの子が動くことのほうが大事です。三週間止まっている子を動かすために、方針を曲げる。プロとしては正しくない。しかし人間としては正しい」
プロとしては正しくない。人間としては正しい。
先週の水曜日、俺が久我に言ったことの鏡だ。俺は「論理的には不完全だが人間としては響く」と言われた。今日は久我が「プロとしては正しくないが人間としては正しい」と言っている。
同じ構造だ。制度と草の根、プロと素人、どちらも不完全で、どちらも正しい部分がある。
「引き受けます」
「条件があります。高瀬くんが対応した結果は、匿名で私にフィードバックしてください。依頼者の個人情報は出さなくていい。方針と結果だけ。外部チェックとして」
「逆もお願いします。相談室での三週間の経過を、匿名で教えてください。何が効いて何が効かなかったか。工作室の対応に活かします」
「分かりました」
双方向のフィードバック。今までは俺が久我に行くだけだった。一方向。今日から双方向になった。久我も俺に来る。工作室も相談室に情報を渡す。
共存の種が芽を出した。
「もう一つ」
久我が立ち上がりかけて、止まった。
「あの子の名前は出しません。しかし一つだけ。あの子はSNSで工作室の噂を見て、相談室ではなく工作室に行こうか迷っていたそうです。しかし工作室が非公式だから不安で、相談室を選んだ。相談室を選んだこと自体は間違いではなかった。しかし相談室では核心に触れられなかった」
「相談室を選んだ理由が公式だったから。公式だから安心した。しかし安心の距離が壁になった」
「そうです。制度の安全性が、逆に障壁になっている。安全な場所では安全なことしか話せない。危険なことは、危険な場所でしか話せない」
工作室は危険な場所だ。プロがいない。検証システムがない。翻訳者が壊れることもある。しかし危険だから、安全な場所では話せないことが話せる。
「先生。これは制度の限界ですか」
「制度の限界です」
久我が認めた。自分の制度の限界を。穏やかに。しかし声に重さがあった。プロが自分の領域の限界を認めることは、素人が自分の限界を認めることと同じ重さがある。
「制度は安全を提供します。安全は大事です。しかし安全の中では生まれないものがある。不完全な場所でしか生まれないものが」
「彩音も同じことを言いました。不完全だから価値がある、と」
「瀬川さんが」
「はい。昨日。工作室を認めてくれました」
久我が微笑んだ。今日初めての笑みだった。
「瀬川さんは賢い子ですね。不完全の価値を、自分の経験から分かっている」
「先生もですよ。制度の限界を認めて、ここに来た」
「私は賢いのではなく、追い詰められたんです」
「追い詰められた人間が助けを求めに来る。それが工作室のドアの機能です」
久我が笑った。声を出して。カウンセリングルームでは見せない笑い。工作室の空気が久我の仮面を一枚外している。
「高瀬くん。この部屋は面白いですね」
「面白い」
「埃っぽくて、蛍光灯がぼんやりしていて、整理されていない。しかし窓が開いていて海風が入る。壁のホワイトボードにルールが書いてある。手書きで。手書きのルールが六つ。この六つが、この部屋の全てを支えているんですね」
「六つでは足りないかもしれません」
「六つで十分です。ルールが多すぎると制度になる。六つだから草の根でいられる」
ルールが多すぎると制度になる。久我の指摘が刺さった。制度は規則で成り立つ。草の根は最低限のルールと人間の判断で成り立つ。六つのルールは工作室が草の根であり続けるための限界点だ。
「では。その子が来たら、よろしくお願いします」
「先生。名前は聞きませんが、一つだけ。その子は何に苦しんでいますか。表面的にでいいです」
「片想いです。好きな人がいるが、その人には恋人がいる。応援すべきか、諦めるべきか。その二択で止まっている」
片想い。しかも相手に恋人がいる。三角関係ではない。長谷川のケースとも違う。応援するか諦めるかの二択。
「二択で止まっている」
「はい。どちらを選んでも痛い。応援すれば自分が苦しい。諦めれば好きな気持ちが行き場を失う。どちらも選べずに三週間」
「それは翻訳案件ですね。二択の裏にある本音を見つける。どちらも選べないのは、二択の設定自体が間違っている可能性がある」
「そこまでは私も推測しました。しかし推測を伝えても、あの子は頷くだけで動かない。頷くことと、腹で分かることは違う。私の言葉では腹に届かない」
「同じ場所に立っていないから」
「そうです」
久我が帰っていった。本校舎の方向へ。渡り廊下を越えて。旧部室棟から制度の空間へ戻っていった。
四人が残った。
「先輩。制度が草の根に助けを求めに来ました」
凛花がノートに書いていた。
「これは重要な転換点です。今まで工作室が久我先生に助けられていた。今日は逆です。双方向になりました」
「ああ」
「記録します。久我朋子からの非公式依頼。相談室で対応困難な案件の、工作室への移送。片想い、相手に恋人あり、応援か断念かの二択で停止。二重対応体制で実施」
蒼が窓際にいた。
「データとして見るなら、相談室の対応困難率を知りたいです。三週間で進展なしのケースが何件あるか。しかし久我先生は相談室のデータを出さないだろうから」
「出さない。秘密厳守だ。蒼、相談室のデータには手を出すな」
「了解です」
蒼が素直に引いた。データの境界を守れるようになっている。
「恒一」
陽太が腕を組んで壁にもたれていた。
「片想いで相手に恋人がいる。応援するか諦めるか。その二択。これ、しんどい依頼だな」
「しんどい。正解がない」
「正解がないから工作室に来るんだろ。正解があるなら相談室で済む」
「そうだ」
「その依頼者が来たら、俺も面談に参加していいか」
「なぜ」
「片想いの苦しさは、翻訳者より実行班長のほうが分かる」
陽太が目を逸らした。窓の外を見た。海を。
陽太の目が何かを含んでいた。翻訳者の目がそれを読んだ。読んで、翻訳しなかった。陽太の中で何かが動いている。片想い。応援するか諦めるか。他人の依頼ではなく、陽太自身の中で。
読まない。翻訳しない。陽太は依頼者ではない。仲間だ。仲間の感情を翻訳者の道具で読むのは、ルール⑤に抵触する。メンバーも当事者になりうる。当事者になったら自覚して申告する。
陽太が自覚しているかどうかは分からない。分からないなら、待つ。
「参加していい。面談はお前と俺の二人体制で。凛花は記録。蒼はデータ待機」
「了解」
帰り支度。
窓の外。夕暮れ。蝉が弱まっている。海が琥珀色だ。
四人で工作室を出た。廊下で彩音に会わなかった。火曜と水曜は来ていない。園田のケアの日程調整で動いているのだろう。
渡り廊下を歩いた。陽太が隣にいた。
「恒一」
「ん」
「一つ聞いていいか」
「聞け」
「片想いっていつ終わる」
唐突な質問だった。しかし唐突ではなかった。工作室の中で片想いの依頼の話をした直後だ。陽太の中で何かが刺激されている。
「終わらせ方は二つだ。告白して結果を出すか、諦めて手放すか」
「三つ目はないのか」
「三つ目」
「告白もしない。諦めもしない。ただ好きでい続ける。それは片想いの終わり方に入るか」
入らない。それは終わり方ではない。継続だ。片想いの持続。しかし陽太がそれを聞いているということは。
「陽太。お前、誰かのことを」
「聞くなよ」
遮られた。コミュ力お化けが、会話を遮った。珍しい。陽太は人の話を遮らない。人と人の間を取り持つのが得意な人間は、相手の言葉を最後まで聞く。それが遮った。
「聞くなよ。翻訳するなよ。俺は依頼者じゃない」
「分かってる」
「分かってるなら、翻訳者の目で見るな。友達の目で見ろ」
「友達の目」
「ああ。俺とお前は友達だろ。団長と実行班長の前に。翻訳者と依頼者の前に」
「ああ。友達だ」
「なら友達として聞く。片想いって、どうしたらいい」
翻訳者としてではなく。友達として。
「知らない」
「知らないのかよ」
「知らない。俺も片想いの経験がある。志帆の件。しかし志帆の件は告白ではなく発覚だった。自分から動いたわけではない。片想いの正しい対処法は、俺も知らない」
「お前でも分からないことがあるんだな」
「ある。たくさん」
「なら二人とも分からないまま帰るか」
「帰ろう」
海沿いの帰り道。二人で歩いた。蝉の声。夕焼け。潮の匂い。
陽太が黙っていた。コミュ力お化けが黙る夕暮れ。珍しい景色だ。前作でも数回しかなかった。陽太が黙るのは、本当に考えているときだけだ。
「恒一」
「ん」
「誰にも言うなよ」
「言わない」
「新聞部に後輩がいるんだ。一年の。名前は真白」
真白。新聞部の後輩。
「取材の手伝いを頼まれて、一緒に動くことが増えた。六月くらいから。梅雨の頃。雨の日に、傘を忘れた真白に傘を貸した。返しに来たとき、お礼にって紅茶を一缶くれた。それだけのことだ。それだけのことなのに、俺の頭の中に真白の顔がずっとある」
陽太が恋をしている。
コミュ力お化け。他人の感情を読むのは天才的なのに、自分の感情には不器用な男。前作でも恋愛には鈍かった。人と人の間を取り持つのは得意だが、自分と誰かの間を作るのは苦手。
「真白がどう思ってるかは分からない。傘のお礼で紅茶をくれただけかもしれない。それだけかもしれない。でも俺は、あの紅茶の缶をまだ開けてない。開けたくない。開けたら終わる気がして」
「紅茶を開けたら」
「分からない。非合理だ。蒼なら笑うだろ」
「蒼は笑わない。蒼も恋をしたから。白石に」
「そうだったな」
二人で黙った。海沿いの道。夕日が水平線に沈みかけている。空がオレンジから赤へ。
「陽太。ルール⑤を思い出せ」
「メンバーも当事者になりうる」
「お前は当事者になりかけている。申告するかどうかはお前が決めろ。強制しない」
「申告はしない。まだ恋だと確定してない。ただの気になる、かもしれない」
「気になる、は恋の入口だ」
「入口を入ったら出られないのか」
「出られる。しかし入口に立っているだけでも、景色は変わる」
「翻訳するなって言っただろ」
「翻訳してない。友達として言っている」
「友達として言うなら」
「ん」
「紅茶、開けないほうがいいか」
「知らない。しかし開けてもいい。紅茶は飲むために存在する。飾るためではない」
陽太が笑った。久しぶりに見るコミュ力お化けの無防備な笑い。
「飲むために存在する、か。翻訳者の言葉だな」
「友達の言葉だ」
「分かった。開ける。明日。真白が部室にいるときに。一緒に飲むか聞いてみる」
「それは告白か」
「紅茶を一緒に飲むのが告白なわけないだろ」
「だといいな」
「恒一。お前、たまにひどいこと言うよな」
「友達だからな」
二人で笑った。海沿いの帰り道で。蝉の声の中で。
別れ際。陽太が振り返った。
「恒一。久我先生が工作室に来たこと」
「ん」
「あれ、でかいぞ。制度がこっちに助けを求めに来た。つまり制度だけでは回らないってことだ。工作室がなくなったら困る人間が、生徒だけじゃなくて大人にもいる」
「ああ。そうかもしれない」
「数字で問われたとき、久我先生が味方だ。プロが素人の場を認めたんだ。それはデータより強い証拠だ」
陽太の言葉が鋭かった。コミュ力お化けは人間関係の力学を直感で読む。久我が工作室に来たことの意味を、政治的に正確に把握している。制度の側のプロが草の根を認めたこと。それは工作室の存在意義を制度の内側から裏打ちする。
「じゃあな。明日、紅茶開ける」
「報告しなくていいからな」
「するに決まってるだろ。お前は友達だ」
陽太が去った。海沿いの道を。大股で。コミュ力お化けの歩幅。
一人で帰った。星が出始めている。七月の夜。蝉が弱まっている。
今日起きたこと。
久我が工作室に来た。制度の限界を認めて、草の根に助けを求めた。双方向のフィードバックが成立した。共存の種が芽を出した。
新しい依頼が来る。片想い。相手に恋人がいる。応援か断念かの二択で止まっている生徒。相談室では動けなかった。工作室のドアを叩く。
そして陽太。コミュ力お化けが恋をしている。新聞部の後輩、真白。傘と紅茶。開けられない紅茶の缶。明日、開ける。
工作室の周りで人が動いている。制度の中でも。草の根の中でも。プロの中でも。素人の中でも。
翻訳者の手はまだ少し震えている。しかし震えは小さくなっている。七割の精度が八割に近づいている。園田の副作用から学んだ。長谷川のケースで実践した。量を制限する。一つだけ光を当てる。残りは依頼者自身に。
次の依頼。片想いの二択。応援か断念か。その裏にある本音。
翻訳者の仕事だ。震えた手で。しかし確実に。
帰宅。窓を開けた。七月の夜。蝉。潮の匂い。星。
スマホが光った。彩音。
『園田さん、今日も屋上で話しました。三十分。自分の言葉が増えています。翻訳者の辞書なしで、二十分話せるようになりました。回復しています』
『ありがとう』
『十六回目です。ありがとう。しかし今回のは翻訳者の声でもなく高瀬恒一の声でもなく、ただのお礼ですね。カウント外にします』
『カウント外があるのか』
『あります。設計でも本文でもない言葉はカウント外です。ただのお礼。ただの挨拶。ただの事務連絡。そういうのは数えません。個人的な言葉だけを数えます』
『厳密だな』
『慎重なので』
彩音の慎重さ。壊れた人間の慎重さ。十四回分のデータで本文と確認した人間の慎重さ。
七月の夜。蝉が止んだ。虫の声。星。
制度の窓から風が入り始めた。工作室の窓は最初から開いていた。相談室の壁に窓が一つ開いた。そして今日、久我が工作室のドアをくぐった。
壁が低くなっている。制度と草の根の間の壁が。完全になくなるわけではない。しかし人が行き来できるくらいに低くなっている。
明日。陽太が紅茶を開ける。翻訳者には関係のないことだ。友達として見守るだけだ。しかし。
気になる。
コミュ力お化けが恋をしている。他人の恋を取り持ってきた男が、自分の恋に不器用になっている。
翻訳者は翻訳しない。友達として、ただ見ている。
紅茶の缶が開くかどうか。明日。




