第11話 恋愛相談室、開設
第11話 恋愛相談室、開設
校内放送が鳴った。「恋愛に関する悩みは、新設の恋愛相談室へご相談ください」 俺たちの仕事が、公式に奪われた瞬間だった。
六月。 梅雨入りが近い。空が曇りがちで、海の色がくすんでいる。朝凪の銀色が 灰色に近くなっている。湿気が増えて、制服が重い季節。
蒼が 戻ってきていた。
三日間の欠席の後 先週の金曜日に工作室に来た。「話したいことがある」と言って。
話の内容は シンプルだった。
「柊先輩に言われたことを 考えました」
蒼は いつもの席に座って、いつものPCを閉じたまま言った。PCを閉じている蒼は 珍しかった。
「忘却屋 という人がいたこと。情報を本人の同意なく使ったこと。 僕がやろうとしたことと、構造が同じだということ」
凛花が 向かいの席で、ペンを持ったまま蒼を見ていた。
「僕は 違うと思いました。最初は。忘却屋は記憶を消そうとした。僕はデータを使おうとした。方法が違う。目的が違う。 だから同じじゃない」
「でも 今は?」
凛花が聞いた。
「今は 同じ部分がある と、思います。本人が知られたくないことを 許可なく掘り出した。助けるためだと思っていた。でも 助けるためなら何をしてもいいわけじゃない。 それは、理解 しました」
理解。 暗記ではなく。蒼が自分の言葉で「理解した」と言った。
「柊先輩が 言ってくれました。『データが読めることと、読んでいいことは違う』。 あれは正しかったです。僕は 読めるから読んでいいと思っていた。読む能力と読む権利を 混同していた」
凛花の目が 少しだけ緩んだ。厳しい参謀の目から もう少し温かい目に。
「星野くん。 分かってくれたんですね」
「完全には まだです。でも 分からないことが分かった。それが進歩だとしたら 」
「前進です」
凛花が 即答した。
「工作室に 成功と失敗はありません。前進か、停滞か、後退か。星野くんは 前進しました」
蒼の口の端が 微かに動いた。二ミリくらい。笑み とは呼べないが、凍ったデータ屋の表情としては 大きな変化だった。
俺は 黙って見ていた。凛花と蒼の対話を。 参謀と新入部員の間に、何かが通った。言語化できない だが確かに何かが。
蒼が戻ってきた。 工作室は四人に戻った。
その翌週の 月曜日。六月の第一週。
校内放送が鳴った。
朝。一時間目の前。教室。
スピーカーから流れる声は 教頭のものだった。普段は退屈な連絡事項ばかりの朝の放送。だが今日は 内容が違った。
「本日より、本校に恋愛相談室を開設いたします。職員室隣の面談室に、スクールカウンセラーの久我朋子先生が常駐されます。恋愛に関する悩みをお持ちの生徒は、お気軽にご相談ください。予約制です。詳細は掲示板のポスターをご確認ください」
教室が ざわついた。
「恋愛相談室 ?」
「公式なんだ」
「カウンセラーってすごくない? プロじゃん」
「あの工作室ってやつと何が違うの」
「公式のほうが安心じゃね?」
声が あちこちから聞こえた。翻訳者の耳が自動的に拾う。 「公式のほうが安心」。その言葉が 刺さった。
隣の席の陽太が メロンパンを齧る手を止めていた。
「恒一 やべーな」
低い声。 陽太にしては珍しく、声量を絞っている。
「ああ」
「公式の相談室 って。それ、俺たちの仕事を 」
「取られる かもしれない」
公式。 その二文字は、工作室にとって銃弾のようなものだ。
工作室は 非公認だ。旧部室棟の一室を使っているが 学校から正式な許可を得ているわけではない。桐生先輩が立ち上げたとき、顧問の教師を置かなかった。教師の監督がない 自由な場所。それが工作室の強みだった。 生徒が生徒を支える。大人の目がない空間。
だが 公式の恋愛相談室が設置されたら。プロのカウンセラーが常駐する公式の窓口ができたら。
非公認の工作室に 誰が来るのか。
「恒一。 顔が動いてないぞ。フリーズしてる」
「......フリーズはしてない。考えてる」
「考えてる顔がフリーズと同じだって」
教室のざわめきの中 もう一つ、拾った声があった。
「あの工作室ってさ 素人がやってんでしょ。プロが来たならもう要らなくない?」
素人。 彩音に言われた言葉と同じだ。善意のアマチュアリズム。 校内の生徒も 同じことを思っている。
公式のプロか、非公認の素人か。 選ぶのは生徒だ。
選ぶのは 本人。工作室の原則が 今、工作室自身に返ってきている。
放課後。工作室。緊急ミーティング。
四人が揃った。 蒼も。先週戻ってきたばかりだが 今日は欠席する空気ではなかった。
ホワイトボードの前に立った。マーカーを持つ 前に。まず状況を整理する。
「朝の放送を聞いただろう。 恋愛相談室が開設された。職員室隣の面談室。スクールカウンセラー・久我朋子先生が常駐」
「久我朋子 知ってます?」
凛花が聞いた。
「知らない。 新任のカウンセラーだろう」
蒼がPCを開いた。 反射的に。
「久我朋子。 検索しますか。学会発表や論文があれば 」
「いい。 検索で人物を知るのは、工作室のやり方じゃない」
蒼がPCを閉じた。 素直だ。先週の件が効いている。
「問題は 工作室への影響だ。公式の恋愛相談室ができた。プロのカウンセラーが常駐する。 今まで工作室に来ていた生徒が 相談室に流れる可能性がある」
「可能性 じゃなくて、確実に流れますよ」
凛花が 冷静に言った。参謀の声。
「公式のほうが安心 と思う生徒は多いです。教師のお墨付き。プロの資格。予約制で個室。 工作室は旧部室棟の六畳。非公認。素人。 比較したら」
「比較にならない か」
「比較にならないです。 条件だけ見れば」
「条件だけ見れば な」
陽太が 椅子にもたれかかった。
「まあ落ち着けよ。 去年の炎上よりはマシだろ。あのときは工作室が潰れかけた。志帆の嘘が原因で 掲示板で叩かれて。今回は 叩かれてない。ただ 競合が出てきただけだ」
「競合 」
蒼の目が光った。 データ屋の反射。
「競合分析をすべきです。恋愛相談室のサービス内容、対応時間、担当者のスキルセット 全部データにして、工作室との差異を 」
「蒼」
凛花が 蒼を見た。
「これは 競争じゃありません」
「競争 じゃない?」
「はい。 工作室と恋愛相談室は 敵じゃない。同じ学校の中で、同じ生徒を支援する組織です。相手の弱点を分析して勝つ という発想は、工作室にはありません」
蒼は 口を閉じた。凛花の言葉を処理している。 競争ではなく共存。データ屋にとっては 最適化の対象がないということ。競争なら最適化できる。共存は 最適化では解けない。
「凛花の言う通りだ」
俺が言った。
「競争じゃない。 でも、共存できるかも分からない。公式の相談室があるのに 非公認の工作室が必要かどうか。それは俺たちが決めることじゃない。 生徒が決める」
選ぶのは本人。 工作室の原則。それが 工作室自身の存在意義にも適用される。生徒が工作室を必要としなくなったら 工作室は不要になる。
「恒一。 不要になる可能性を 考えてるのか」
陽太の声が 低くなった。
「考えてる。 工作室は、必要だから存在してきた。噂に傷つく生徒がいた。恋の問題を抱えた生徒がいた。 相談する場所がなかったから、工作室に来た。でも公式の相談室があるなら 」
「公式で足りるなら 工作室は要らない。そう言いたいのか」
「足りるなら な。足りなかったら まだ居場所がある」
「足りるかどうか 誰が判断する」
「生徒だ。 相談に来るか来ないか。それが答えだ」
凛花がノートに書いていた。 ペンが速い。
「 緊急ミーティング。議題:恋愛相談室の開設と工作室の存在意義。結論 保留。当面は通常運営を継続。生徒の動向を観察」
パタン。
「保留 かよ」
陽太が メロンパンを齧った。不満そうに。
「保留しかない。 今日の段階では。相談室がどんな運営をするか、まだ分からない。カウンセラーがどんな人間か、まだ会ってない。 情報がない状態で判断はしない」
「桐生先輩なら もっと早く動いただろうな」
「桐生先輩は 合理主義者だ。情報がなくても仮説で動ける。 俺は翻訳者だ。相手の言葉を聞いてからしか動けない。 まず相手の顔を見る。それが俺のやり方だ」
「相手の顔 見に行くのか?」
「行く」
六時間目が終わった。
校舎の一階。 職員室の隣。面談室。
ドアの前に 新しいプレートがかかっていた。凛花のプレートのような手書きではない。 学校の事務室が作った、フォーマットされたプラスチックのプレート。
「恋愛相談室 スクールカウンセラー・久我朋子」
工作室のプレートは紙だ。凛花の手書きだ。 こっちはプラスチック。公式。制度。
ドアが 半開きだった。中が見える。 面談用のテーブル。椅子が二脚。柔らかい照明。窓にはカーテン。 個室。プライバシーが確保されている。
工作室は 六畳の部室。パイプ椅子。蛍光灯。窓は開けっ放し。 比較にならない。条件だけ見れば。
ドアの向こうに 人がいた。
三十代の女性。 髪を後ろでまとめている。丸眼鏡。白いブラウスにベージュのカーディガン。 穏やかな印象。だが 目が違った。
穏やかな笑顔の奥に 鋭い目がある。観察する目。評価する目。 プロの目。翻訳者としての俺の目と 質が似ている。だがもっと 訓練されている。
彩音の目とも 似ている。知識に裏打ちされた目。 だが彩音のように防御的ではない。もっとオープンで、もっと 余裕がある。大人の余裕。年齢と経験の余裕。
久我が 俺に気づいた。
「あら」
笑顔が こちらを向いた。
「あなたが 工作室の?」
知っている。 当然だ。カウンセラーとして配属された以上 校内の生徒支援の現状は把握しているだろう。非公認の恋愛支援組織がある ということも。
「......はい。 高瀬恒一です。恋路工作室の 運営責任者」
「久我朋子です。 今日から、ここで」
久我が 椅子を引いた。座ってください というジェスチャー。
「今日は 挨拶だけです。お話はまた改めて。 いずれ、ゆっくり」
いずれ。 その言葉は約束だった。久我は 工作室と話す気がある。対立 するためか。共存 するためか。 まだ分からない。
「久我先生」
「はい」
「一つだけ 聞いていいですか」
「どうぞ」
「工作室を 潰しに来たんですか」
直球で聞いた。 翻訳者は遠回しに聞くのが得意だが、今日は 遠回しにしている余裕がなかった。
久我が 微笑んだ。穏やかに。
「潰しに ? いいえ。私は潰しに来たのではありません。 ただ、心配はしています」
「心配 」
「生徒が生徒の心を扱う。それは リスクがあります。善意は疑いませんが 善意だけでは不十分な場面もある。あなたたちが傷つくこともありえます。支援する側が」
「俺たちが 傷つく」
「はい。 バーンアウトと呼びます。支援者の燃え尽き。他人の痛みを受け止め続けることで 自分が壊れる。臨床心理士には スーパービジョンという仕組みがあります。専門家同士で支え合う。あなたたちには それがない」
彩音と 同じ指摘だ。スーパービジョン。監督。 素人にはそれがない。
だが 久我の言い方は、彩音とは違った。彩音は「危険すぎる」と批判した。久我は「心配している」と言った。 攻撃ではなく、懸念。
「潰す気はありません。 でも、無条件に認めることもできません。いずれ ゆっくりお話ししましょう。あなたたちが何をしていて、どんなルールで運営しているか。聞かせてください」
「......分かりました」
久我の笑顔は 最後まで穏やかだった。だがプロの目は 俺を見ていた。測っていた。工作室がどの程度の組織で、団長がどの程度の人間か。 データではなく。経験者の目で。
面談室を出た。 廊下。放課後の校舎。生徒が行き交っている。
久我朋子。 敵ではない。だが味方でもない。中立の プロ。正しいことを言う大人。正しいからこそ 反論しにくい。
彩音と構造が似ている。 批判の質は違うが、指摘する内容は同じだ。「善意だけでは足りない」「素人のリスク」「支援者が壊れる」。
彩音は 元カウンセラーの経験から指摘した。久我は 現役のカウンセラーの立場から指摘している。元と現。過去と現在。 二人の言葉が、挟み撃ちのように恒一を圧迫している。
「場を作るだけ で、足りるのか」
声に出さずに 考えた。廊下を歩きながら。
去年 この言葉で全てに答えていた。「工作室は場を作るだけ。心は操作しない。選ぶのは本人」。 完璧な答えだった。桐生先輩のルールを、俺の言葉で言い直した答え。
だが 公式の恋愛相談室が存在する世界では、この答えだけでは 不十分かもしれない。「場を作るだけ」と言っても 公式の相談室はもっと整った場を作れる。個室。カウンセラー。プライバシー。予約制。 条件では敵わない。
工作室にあって相談室にないもの は何だ。
まだ 言葉にできない。
放課後の工作室に 戻った。
陽太が椅子にもたれかかって待っていた。凛花がノートを開いて何か書いている。蒼がPCを 閉じたまま座っている。
「久我先生に 会ってきた」
「どうだった」
「敵じゃない。 でも味方でもない。正しいことを言う人だ。 彩音と同じタイプ。ただし、もっと大人で もっと穏やかだ」
「穏やかなぶん やりにくそうだな」
「やりにくい。彩音の批判は 刃物みたいだ。痛いけど、どこを切られたか分かる。久我先生は 綿で包むように正論を言う。柔らかいのに 反論できない」
凛花が 顔を上げた。
「先輩。 久我先生は、工作室を潰す気ですか?」
「潰す気はないと言っていた。 だが、『無条件に認めることもできない』と。 ルールの説明を求められた。いずれ話す場を設けることになる」
「ルールの説明 五原則を見せれば 」
「見せるだけじゃ足りない。 久我先生はプロだ。五原則を読んで 穴を見つけるだろう。俺たちが気づいていない穴を。 彩音が指摘したように。『場を作ることも介入だ』と。あの類の指摘が もっと体系的に来る」
蒼が 口を開いた。
「工作室の強みをデータ化しませんか。恋愛相談室と比較して 工作室が優位な点を明確にすれば 」
「蒼」
凛花が 蒼を見た。
「それは 」
「競争じゃない。 分かってます。でも差異の分析は競争ではなく 自己理解です。工作室が何を持っていて何を持っていないか。 知ることは大事じゃないですか」
凛花が 言葉を止めた。蒼の言い方が 先週までと違う。「競合分析」ではなく「自己理解」。 言葉が変わっている。忘却屋の件で学んだのか。
「......それは 正しいです」
凛花が 認めた。
俺は ホワイトボードの前に立った。マーカーを持って。
「整理しよう。 恋愛相談室と工作室。何が違うのか」
書き始めた。
「恋愛相談室。強み:公式。プロのカウンセラー。個室。プライバシー。スーパービジョン。 弱み:予約制(即応性が低い)。大人が相手(生徒が話しにくい可能性)。制度的対応(マニュアル化されやすい)」
「工作室。強み:生徒同士。非公式(気軽)。即応性。翻訳 感情の言語化。 弱み:素人。資格なし。監督なし。スーパービジョンなし。個室ではない」
書き終えた。 ホワイトボードに二つのリストが並んでいる。
「弱み 多いですね。工作室のほう」
凛花の指摘は 正確だった。弱みのリストが長い。
「多い。 だが、強みの中に一つ 相談室にないものがある」
「翻訳 ですか」
「翻訳もある。 だがもっと根本的なことがある」
「何ですか」
「同じ目線だ」
陽太が メロンパンを持つ手を止めた。
「同じ 目線?」
「久我先生は大人だ。プロだ。カウンセラーだ。 生徒と、同じ目線ではない。上から ではないが、横 でもない。少し斜め上。訓練された視線。専門家の視線。 それは正しい。必要だ。 だが」
「だが?」
「工作室は 同じ場所に立っている。俺たちも高校生だ。恋をする。傷つく。壊れる。 依頼者と同じ場所で、同じ痛みを知っている人間が、隣に立つ。 それは相談室にはできない」
「隣に 立つ」
「そうだ。 去年。俺が壊れたとき。陽太が 隣にいてくれた。『安心して壊れろ』と。凛花が 『本文を書いてる感じです』と。 それは、カウンセラーの言葉じゃない。同じ場所に立っている人間の言葉だ」
陽太が 目を細めた。
「恒一。 それ、久我先生に言えるか?」
「......言えるかどうか 分からない。だが言わなきゃいけない。 工作室の存在意義を、言葉にしなきゃいけない。桐生先輩のルールだけじゃ足りない。 新しい言葉が必要だ」
新しい言葉。 去年の原則を超える言葉。工作室は何のために存在するのか を、プロの大人に説明できる言葉。
まだ 見つかっていない。
凛花がノートに記録した。
「 恋愛相談室開設。初日。工作室の方針 当面通常運営。久我先生との対話は後日。課題:工作室の存在意義を言語化すること。 担当:高瀬先輩」
パタン。
「担当俺 か。重いな」
「先輩にしか できないと思います。翻訳者が 翻訳する仕事です。工作室そのものを」
「工作室 を翻訳する」
「はい。 工作室が何なのか。何のために存在するのか。 それを翻訳してください。プロにも伝わる言葉で」
翻訳者が 工作室を翻訳する。依頼者の感情ではなく 自分たちの存在意義を。
「......やるしかないな」
帰り支度をして、工作室を出た。
その前に。ホワイトボードの隣を見た。凛花が作った「本日の相談件数」のカウンター。
数字が書いてあった。 マーカーで。
「0」
ゼロ。 今日の新規相談はゼロだった。
去年 工作室を始めてから。相談がゼロの日はあった。春休みや長期休暇の間。 だが、学校がある日に、新規相談がゼロだったのは 初めてだ。
恋愛相談室が開設された日。 工作室への相談がゼロ。
偶然 かもしれない。たまたま 今日は相談がなかっただけ。 だが、翻訳者の直感は 偶然ではないと告げている。
凛花がノートに追記していた。
「 相談件数:0。備考 恋愛相談室開設初日と一致。因果関係は不明。継続観察が必要」
パタン。 凛花の「パタン」が、今日はいつもより 重く聞こえた。
帰り道。堤防沿い。
六月の夕暮れ。 曇り空。夕日が見えない。海が くすんでいる。灰色。 春の銀色ではなく、梅雨の灰色。
公式の恋愛相談室。プロのカウンセラー。 工作室の存在意義が問われている。
去年は 答えがあった。「心は操作しない。場を作るだけ」。桐生先輩が作ったルール。俺がver.2で更新したルール。 それで十分だった。去年は。
だが今年は 新しい問いが来ている。
「場を作るだけ」で足りるのか。 プロが作る場のほうが整っている。条件では敵わない。
「同じ目線で隣に立つ」 さっきホワイトボードの前で言った。まだ仮説だ。言葉として完成していない。 久我先生に会ったとき、この仮説を 言葉にできるか。
彩音が 批判した。「善意のアマチュアリズムは危険」。
久我が 懸念した。「善意だけでは不十分な場面もある」。
二人の言葉が 重なっている。
工作室は 善意だけの組織なのか。それとも 善意の先に、何かがあるのか。
ある。 あるはずだ。去年一年間 依頼者が泣いて、笑って、前に進んだ。それは善意だけでは説明できない。翻訳者の技術。実行者の場づくり。記録者の蓄積。 全部が噛み合って、初めて工作室になった。
だが それを言葉にできていない。
翻訳者なのに。 自分たちの存在意義を 翻訳できていない。
「......新しい言葉が必要だ」
声に出して呟いた。堤防の上。灰色の海に向かって。
久我先生との対話が 近い。「いずれ」と言っていた。 いずれは、たぶん 来週だ。
それまでに 言葉を見つけなければならない。工作室の存在意義を プロにも伝わる言葉で。
スマホが振動した。 見た。陽太からだった。
『恒一。 あんまり一人で抱えんなよ。俺がいる。凛花がいる。蒼もいる。 四人で考えろ。お前は団長だけど 一人じゃない』
『......分かった。明日 四人で考える』
陽太から。
『おう。 メロンパン多めに持っていく。脳は糖分で動く』
『それ科学的根拠あるのか』
『ない。メロンパン教の教義だ』
笑った。 声に出して。堤防の上で。一人で。
大丈夫だ。一人じゃない。四人いる。
公式の相談室。プロのカウンセラー。 大きな壁だ。工作室が今まで直面したことのない種類の壁。去年は 志帆の嘘。影山の忘却屋。個人の問題だった。今回は 制度の問題だ。個人の壁なら翻訳で越えられる。制度の壁は 翻訳では越えられない。
だが 越える必要があるのか。
壁を越えるのではなく 壁と共存する。制度と共存する。公式と非公式が 同じ学校の中で。同じ生徒のために。
共存。 蒼が「競争じゃない」と凛花に言われたとき、処理できなかった概念。凛花が正しかった。競争ではなく共存。
共存の形を 見つける。それが 今年の工作室の課題だ。
海が 暗くなっていく。六月の夜。曇り空。星が見えない。 梅雨が近い。
新しい季節が 始まっている。春が終わって 夏が来る前の、重い季節。
だが 重い季節にこそ、根を張る。
桐生先輩が言った。「ルールは更新し続けろ」。 今年は、ルールだけではなく 工作室の存在意義そのものを更新する年になる。
明日 四人で考える。工作室の言葉を。プロに伝わる言葉を。制度と共存する言葉を。
翻訳者の仕事は まだ、終わっていない。




