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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第9話 蒼の八十三パーセント

 第9話 蒼の八十三パーセント


 蒼が暴走した。


 六月の半ば。梅雨の真っ只中。三日連続で雨が降っている。校庭が水たまりだらけだ。運動部が体育館に追いやられて、放課後の旧部室棟は静かだった。雨音だけが屋根を打っている。


 白石の依頼が最終段階に入っていた。三回のセッションを経て、白石は好きな男子に話しかけられるようになった。工作室の設計を段階的に縮小し、白石自身がタイミングを選ぶ方針に切り替えて二週間。白石は自分の判断で三回話しかけた。三回とも成功した。


 今日は最終セッション。白石が自分で告白するかどうかを決める日だ。


 放課後。工作室。


 白石が座っている。顔色がいい。初回に来たときの緊張は薄れている。声が出るようになった。自分で判断できるようになった。設計なしで動けるようになった。


「白石。最終確認だ。告白するかしないか。お前が決めろ」


 白石が考えている。三秒。五秒。


「します。告白します。自分で。タイミングも、場所も、言葉も、全部自分で」


 工作室の設計なしで。蒼のデータ分析なしで。翻訳者の翻訳なしで。白石自身の力で。


「それでいい。工作室にできることは全部やった。あとはお前が歩く」


 白石が頷いた。帰っていった。来週、告白する。結果は工作室に報告に来ると約束して。


 白石が帰った後。


 蒼がスマホを見ていた。いつもの行為だ。しかし今日の蒼の目が、いつもと違っていた。焦りがある。翻訳者の目にはそれが見えた。


「蒼。何を見ている」


「白石さんの相手のSNSです。公開情報です」


「何のために」


「告白の成功確率を上げるために。相手の最新の行動パターンから、最適な告白タイミングを算出しています。明後日の放課後、午後四時十五分から四時三十分の間に校舎裏で。その時間帯に相手が一人になる確率が九十二パーセントです」


 蒼が白石に知らせようとしている。最適なタイミングとデータを。白石が「自分で全部決める」と言った後に。


「蒼。やめろ」


「しかし成功確率が」


「やめろと言った。白石は自分で決めると言った。タイミングも場所も言葉も全部自分で。お前がデータを渡したら、白石は自分で決めたことにならない。データに従ったことになる」


 蒼の表情が変わった。反発ではない。困惑だ。


「でも成功確率が上がります。九十二パーセントと、白石さんが適当に選んだタイミングでは、成功確率に有意な差が」


「成功確率の問題じゃない。白石が自分で決めることの問題だ。最適解を外部から注入したら、白石の自律が損なわれる。園田のケースを覚えているか。工作室の設計に依存して、自分で判断できなくなった依頼者を」


 蒼が黙った。記憶を参照している。園田のケース。凛花の記録ノートで読んだはずだ。


「園田さんのケースは知っています。しかしデータを提供するだけなら、設計とは違います。使うかどうかは白石さんが決める。参考情報として渡すだけです」


「参考情報として渡したら、白石はそれを使う。九十二パーセントという数字を見たら、その数字に従わない人間は少ない。データの精度が高いほど、データへの依存が強くなる。お前のデータが正確であるほど、依頼者はデータなしでは動けなくなる」


 蒼の顔が強張った。自分の強みが弱みに転じる構造を指摘されている。データの精度が高い。だからこそ危険だ。精度が低ければ無視できる。精度が高いから依存する。


「蒼。お前の技術は工作室の武器だ。しかし武器は使い方を間違えると凶器になる。白石が自分で告白すると決めた。自分で。その決断を尊重しろ。データを渡すな」


 蒼が拳を握った。膝の上で。


「非合理です」


 初めて蒼が反論した。事務的な口調が崩れている。語尾に力がある。


「成功確率を上げる手段があるのに使わないのは非合理です。白石さんが失敗したら、データがあれば防げた失敗です。防げる失敗を防がないのは、怠慢じゃないですか」


 蒼の論理は正しい。データ分析の論理としては。しかし工作室の論理とは違う。


「蒼。工作室のルール④を言ってみろ」


「完全救済を約束しない」


「そうだ。白石が失敗するかもしれない。告白して振られるかもしれない。タイミングが悪くて気まずくなるかもしれない。全部あり得る。しかし工作室はそれを防がない。防ぐことは操作だ。ルール①。心は操作しない」


「データを渡すことは操作じゃないです。情報提供です」


「情報提供と操作の境界はどこだ。お前自身が考えた問いだ。入部面談のときに凛花に聞かれて、考えると言っただろう」


 蒼が唇を噛んだ。自分の問いが自分に返ってきている。データが読めることと、読んでいいことは違う。読んだデータを渡すことと、渡していいことも違う。


「蒼。白石が失敗することは、白石の経験だ。失敗から学ぶ。痛みから育つ。工作室が前作で学んだことだ。痛みは本物だった証拠だ。失敗を防ぐことは、痛みを奪うことだ。痛みを奪えば、成長も奪う」


 蒼の手が震えた。微かに。しかし翻訳者の目には見えた。


「でも」


「でも、何だ」


「白石さんが傷つくのを見たくないです」


 声が変わった。事務的な口調が完全に崩れていた。蒼の声に、データにはない温度があった。


 翻訳者の脳が自動で動いた。蒼の言葉の裏を読む。「傷つくのを見たくない」。これはデータアナリストの論理ではない。人間の感情だ。蒼が白石に対して感情を持っている。


 依頼者への感情。ルール⑤。メンバーも当事者になりうる。


「蒼。ルール⑤を言ってみろ」


 蒼が瞬きした。


「メンバーも当事者になりうる。その場合は自覚して申告する」


「お前は今、当事者か」


 沈黙。長い沈黙。雨の音だけが工作室を満たしている。


 蒼が俯いた。長い前髪が目を隠した。


「分かりません。当事者かどうか。白石さんに対する感情が何なのか。データでは分析できない。自分の感情をデータ化する方法を、俺は持っていない」


 十七パーセント。蒼の十七パーセント。データで捕捉できない残りの領域。蒼自身の感情は、蒼自身のデータ分析の対象外にある。


「分からないなら、分からないと申告しろ。それがルール⑤だ。分からないことを認めることが、当事者性の自覚の第一歩だ」


「分かりません。白石さんに対する感情が。好意なのか。心配なのか。責任感なのか。データでは判定できない」


 正直な申告だった。蒼は恋をしたことがない。恋の感情のリファレンスを持っていない。リファレンスがなければ、自分の感情をカテゴリに分類できない。データアナリストが、データのないドメインに放り込まれている。


「蒼。お前に宿題を出す」


「宿題」


「白石の告白の日まで、データ分析をするな。白石に関する公開情報を見るな。スマホでSNSを開くな。データから離れて、自分の感情だけと向き合え」


「それは業務に支障が」


「業務は俺と凛花と陽太で回す。お前は自分の中の十七パーセントと向き合え。データの外にある変数。自分の感情。それがお前にとって一番必要な経験だ」


 蒼が黙った。反発の色がまだある。しかし反発よりも大きなものが蒼の中にある。戸惑い。自分の感情が分からないことへの戸惑い。データで全てを把握できると思っていた人間が、自分自身すら把握できないと気づいた戸惑い。


「了解です。データ分析を停止します。白石さんの告白結果が出るまで」


 蒼がスマホをポケットにしまった。手が少しだけ震えていた。


 凛花がノートに書いた。「星野蒼。ルール⑤に基づく自己申告。白石依頼への当事者性の疑い。データ分析の一時停止を団長が指示。蒼自身の感情の整理が優先課題」


 陽太が窓際から口を出した。


「蒼。恋をしたことがない人間が、初めて感情に混乱するのは普通のことだ。俺も中学のときそうだった。告白して晒されて、恋が怖くなった。感情が分からなくなった。でもそのうち分かるようになる。時間がかかるけど」


 陽太が自分の経験を差し出している。前作で陽太が壊れて直した経験。感情が分からなくなった経験。蒼に向けて、先輩として。


「天野先輩。時間がかかるってどれくらいですか」


「人による。俺は一年以上かかった。恒一は十ヶ月。お前がどれくらいかかるかは分からない。でも急がなくていい。工作室のルール③。完璧を待たない」


 蒼が頷いた。小さく。事務的ではない頷き。人間的な頷き。データアナリストの殻に、ひびが入っている。ひびの隙間から、蒼の生の感情が漏れている。


「高瀬先輩」


「ん」


「十七パーセントの誤差って、こういうことだったんですね。データで捕捉できない残りの領域。それは自分自身の感情だった」


 蒼が自分で答えに辿り着いた。翻訳者が翻訳するまでもなく。十七パーセントの正体。データの外にある変数。それは蒼自身の心だった。


 帰り際。


 蒼が帰った後、凛花と陽太と三人で残った。彩音は今日は来ていなかった。


「恒一。蒼、大丈夫かな」


 陽太が聞いた。


「大丈夫だ。壊れてない。揺れてるだけだ。揺れは成長の前兆だ。蒼は今、データの外の世界に初めて足を踏み入れた。混乱するのは当然だ」


「白石さんのこと、好きなのかな。蒼」


「分からない。蒼自身が分からないと言っている。しかし『傷つくのを見たくない』は、少なくとも無関心ではない。関心がある。関心の種類がデータでは判定できないだけだ」


 凛花がノートを閉じた。


「先輩。蒼くんの成長、記録していて気づいたことがあります」


「何だ」


「蒼くんの変化が、先輩の変化と似ています。前作で先輩が翻訳者の仮面の裏に感情を隠していたのと、蒼くんがデータの中に感情を隠しているのが、構造的に同じです。翻訳者の仮面とデータの壁。どちらも感情から距離を取るための道具です」


 凛花の観察が鋭い。翻訳者の仮面。データの壁。どちらも分析的な道具であり、感情からの防壁でもある。前作の恒一と、本作の蒼が構造的に並行している。


「その通りだ。しかし蒼は俺より若い。俺が気づくのに十ヶ月かかった。蒼はまだ二ヶ月だ。時間をやれ」


「はい。見守ります」


 三人が帰り支度をした。工作室の電気を消す前に、俺はホワイトボードを見た。六つのルール。最後の一行。玲奈の字。


「恋路工作室。創設:桐生玲奈・影山透。引き継ぎ:高瀬恒一」


 蒼が育っている。データアナリストが人間になろうとしている。凛花が参謀として成熟している。陽太が先輩として後輩を支えている。工作室が世代交代に向かっている。


 帰り道。雨が止んでいた。六月の曇り空。雲の隙間から夕日が差している。


 蒼のことを考えていた。白石への感情。データで分析できない感情。蒼にとっての十七パーセント。


 恒一にとっての十七パーセントは彩音だ。翻訳できない感情。名前のない何か。三十パーセントを超えて拡大し続けている翻訳不能な領域。


 蒼と恒一。データアナリストと翻訳者。どちらも自分の専門技術で他人を分析できるが、自分自身の感情は分析できない。専門家の盲点。技術の限界。人間の不完全さ。


 その不完全さが、工作室の強さでもある。完全な人間は完全な支援をするかもしれないが、不完全な人間のほうが依頼者に寄り添える。壊れたことのある翻訳者は、壊れている依頼者の痛みが分かる。感情が分からないデータアナリストは、感情が分からない依頼者の戸惑いが分かる。


 不完全さは弱さではなく、共感の源だ。


 家に着いた。自室の机に向かった。


 スマホが震えた。彩音からのLINE。


 初めてだった。彩音から個人的にLINEが来たのは。


『高瀬さん。今日は行けませんでした。体調不良で。明日は行きます。工作室に』


 体調不良。しかし翻訳者の目には、体調不良の裏に別の何かが見えた。見えた気がした。データではない。直感だ。彩音が工作室に来なかった理由は体調不良だけではないかもしれない。


 しかし分析しない。翻訳しない。彩音の言葉をそのまま受け取る。


『了解。無理するな。ドアは開いてる』


 送信した。六回目の「ドアは開いている」。彩音が数えていた。六回目。


 返信が来た。


『ありがとうございます。数えてます。六回目です』


 やはり数えていた。翻訳者が数えていないものを、彩音は数えている。


 もう一件。


『高瀬さん。一つ聞いていいですか』


『ん』


『あなたも、翻訳できない感情を抱えていますか。今。誰かに対して』


 心臓が跳ねた。


 彩音に聞かれている。翻訳不能な感情の有無を。直球だ。彩音は丁寧語の毒を使う人間だが、ときどき直球を投げる。防御の壁の隙間から、不意打ちのように。


 返信を打つ指が止まった。何と答える。


 正直に答えるか。「ある。お前に対して」と。


 まだ早い。形がない。名前がない。声にならない。LINEの文字にもならない。


 しかし嘘はつけない。翻訳者は嘘をつくと精度が落ちる。


『ある。翻訳できない感情がある。誰かに対して』


 送った。「誰かに対して」。名前は出さなかった。しかし彩音は分かるだろう。彩音は翻訳者の裏を読む人間だ。「誰か」が誰を指しているか、分からないはずがない。


 返信が来るまで三十秒かかった。三十秒は長い。彩音が考えている三十秒。


『そうですか。翻訳者にも、翻訳できないものがあるんですね』


『ある。前作でも経験した。しかし今回はもっと翻訳しにくい。前は翻訳を拒否していた。今は翻訳しようとしても翻訳できない。能力の問題ではなく、翻訳すると壊れてしまうものがある。翻訳してはいけない感情がある』


 書きすぎた。翻訳者のくせに、LINEで長文を送ってしまった。凛花なら「書くな、声にしろ」と言うだろう。しかしこれは志帆への言葉ではない。彩音への。彩音との会話の中で、自然に出てきた言葉だ。設計されていない言葉。本文の言葉。


 返信。


『翻訳してはいけない感情。面白い概念ですね。翻訳者が翻訳を自制する。それは翻訳者の進化ですか。それとも限界ですか』


『両方だ。進化であり限界。限界を知ることが進化だ』


『限界を知ることが進化。好きな言葉です。事実の確認ですけど』


 また出た。「事実の確認」。彩音のフレーズ。しかし今夜の「事実の確認」には、防御の色がない。からかいでもない。もっと柔らかいニュアンス。照れ隠しに近い。


『おやすみなさい、高瀬さん。明日、工作室に行きます』


『待ってる』


 送った。「待ってる」。ドアは開いている、ではなく。待ってる。


 個人的な言葉だ。工作室の団長としてではなく。高瀬恒一として。「待ってる」は誰にでも言う言葉ではない。彩音に対して言った。彩音だけに。


 送信した後、スマホを机の上に置いた。裏返さなかった。彩音のLINEの画面を上にして。


 前作で志帆のLINEを裏返していた自分を思い出した。逃げていた。今は逃げていない。画面を上にしている。彩音のメッセージを見えるところに置いている。


 翻訳者は変わった。前作から。逃げなくなった。裏返さなくなった。


 しかしまだ声にはできない。「好きだ」の三文字は、まだ形になっていない。輪郭はある。中身もある。しかし三文字に結晶化するには、もう少し時間が必要だ。


 梅雨が明ければ夏が来る。夏が来れば、何かが変わる。朝凪の海が夏の色に変わるように。翻訳者の中の感情も、夏の熱で結晶化するかもしれない。


 六月の夜。雨上がり。雲の隙間から月が見える。


 蒼は自分の十七パーセントと向き合っている。白石への感情。データで分析できない感情。


 恒一は自分の三十パーセント以上と向き合っている。彩音への感情。翻訳できない感情。翻訳してはいけない感情。


 工作室のメンバーが全員、自分の中の翻訳不能な領域を抱えている。


 それでいい。不完全でいい。翻訳不能でいい。


 完璧を待たない。走りながら更新する。


 ただし走る方向は、少しずつ見えてきている。蒼は白石に向かっている。恒一は彩音に向かっている。方向が見えるだけで十分だ。


 速度は問わない。着くまでの時間も問わない。


 歩いていればいつか着く。


 六月の夜。雨上がり。月の光。


 工作室の三年目の梅雨が、静かに、確かに、何かを育てている。

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