第1話 団長二年目の春
第1話 団長二年目の春
朝凪高校から噂は消えなかった。恋も消えなかった。そして恋路工作室も、消えなかった。
四月。三度目の春。
俺が朝凪高校に転入してから二年が経っていた。三年生になった。最終学年。制服は体に馴染んでいる。大きくもなく小さくもなく、ちょうどいい。二年間着続けた制服は、身体の輪郭を覚えている。
海沿いの道を歩いた。通学路。二年間で何百回歩いた道。潮の匂い。桜の匂い。四月の朝の空気。去年の四月にも同じ道を歩いた。一昨年の四月にも。同じ道。同じ方向。しかし歩いている俺は毎年少しずつ違っている。
一昨年は転入生だった。何も知らない。工作室も知らない。翻訳者でもない。
去年は団長一年目だった。玲奈から引き継いだバッジをポケットに入れて、新しい一年を始めた。依頼を受けて、翻訳して、設計して、場を作って。工作室の二年目を回した。壊れることもあった。直すこともあった。走りながら更新した。
今年は三年目。団長として二年目。最終学年。この一年が終わったら、俺は朝凪高校を卒業する。工作室を出ていく。玲奈がそうしたように。
ポケットの中にバッジがある。朝凪の海の色。玲奈が作って、俺に渡した小さなバッジ。二年間持ち歩いている。角が少し丸くなった。色が少し褪せた。しかし「恋路工作室 団長」の文字はまだ読める。
校門をくぐった。桜並木。今年の桜は例年より早い。四月の第一週でもう満開だ。花びらが風に舞っている。校門から校舎への道がピンク色の絨毯になっている。
新入生が歩いている。大きすぎる制服。真新しい鞄。不安と期待が混ざった顔。二年前の俺もこの顔をしていた。去年もこの景色を見た。毎年同じだ。しかし毎年少しだけ違う。今年の新入生の中に、工作室に来る人間がいるかもしれない。
教室に入った。三年の教室。窓から海が見える。朝凪の海。春の青。二年間見続けた海。同じ海。しかし毎日少しだけ違う色をしている。今日の青は透明度が高い。空の色をそのまま映している。
「恒一」
声がした。陽太。天野陽太。三年。実行班長。三年目の春。
陽太も三年生になった。相変わらずの笑顔。しかし去年の笑顔より落ち着いている。コミュ力お化けの笑顔は健在だが、角が取れた。二年間で丸くなった。鎧の笑顔ではなくなっている。素の笑顔に近づいている。
「よう。新学期だな」
「ああ。最後の一年だ」
「最後って言うなよ。始まったばっかだろ」
「事実の確認だ」
「事実でも言い方がある。翻訳者なら分かるだろ」
陽太は正しい。言い方は大事だ。最後の一年。終わりに向かう一年。しかし同時に、始まりの一年でもある。この一年で工作室を凛花に引き継ぐ。次の世代に場を渡す。終わりと始まりが同時にある一年。
「凛花からLINE来た。放課後、工作室集合だと。新年度のミーティング」
「了解。新入部員の勧誘の話もしないとな」
「ああ。今年こそ翻訳者の後継が欲しい」
去年も新入部員を探した。しかし翻訳者の適性を持つ人間はなかなか見つからない。翻訳者は特殊な技能だ。他人の言葉の裏を読み、本音を探り、感情を言語化する。コミュニケーション能力とは違う。分析力とも違う。翻訳は翻訳にしかない能力だ。
放課後。
旧部室棟。二年間歩いた廊下。埃っぽい空気。窓から差す春の光。一昨年の四月に初めて歩いたときと同じ景色。去年の四月にも歩いた。今年も歩いている。同じ廊下。同じ埃。同じ光。しかし歩いている人間が違う。
工作室のドアの前に立った。
紙が貼ってある。去年の四月に俺が書いた紙。「恋路工作室」。俺の字。少し右に傾いた字。一年間の風雨で紙が黄ばんでいる。角がめくれている。字がかすれている。
貼り替えないと。今年も新しい紙を貼る。毎年貼り替える。字は変わるが、四文字は変わらない。
ドアを開けた。
「入れ」
自分で言って、自分で入った。誰もいない工作室に向かって。二年前、玲奈に言われた一語。あのときは緊張した。今は日常だ。
ホワイトボード。五つのルールが書かれている。去年の四月に書き直した文字。一年間で少し薄くなっている。書き直す。毎年書き直す。同じ内容。新しい字で。
ホワイトボードの一番下。玲奈の字。
「恋路工作室。創設:桐生玲奈・影山透。引き継ぎ:高瀬恒一」
消さない。これだけは消さない。何年経っても。
窓を開けた。四月の風が入ってきた。潮の匂い。桜の匂い。朝凪の海が見える。春の海。透明な青。
この景色をあと何回見られるだろう。三年生の一年間。四月から三月まで。十二ヶ月。工作室の窓からこの海を見るのは、あと十二回の季節の変わり目。春、夏、秋、冬。それで終わりだ。
感傷的になっている。団長二年目の初日から感傷的になってどうする。
ドアが開いた。
「お疲れさまです、先輩」
凛花。柊凛花。二年生。参謀兼記録者。ノートは五冊目に入っている。去年一年間で二冊分の記録が増えた。工作室の歴史は凛花の文字で綴られている。
凛花が変わった。去年の四月とは雰囲気が違う。背筋が伸びている。声に自信がある。一年前は「参謀候補」だった。今年は「参謀」だ。候補が取れた。実力で。
「凛花。今年もよろしく」
「はい。今年もよろしくお願いします。あと、先輩」
「ん」
「ドアの紙、貼り替えましょう。もう読めなくなりかけてます」
「さっき俺も思った」
「今年は私が書きましょうか。来年への練習も兼ねて」
来年。凛花が書く紙。凛花の字で「恋路工作室」。それが来年度のドアに貼られる。俺の字から凛花の字へ。玲奈の字から俺の字に変わったように。
「いい。今年から書いてくれ」
「了解です」
陽太が来た。窓際の椅子にどかりと座った。いつもの定位置。二年間変わらない座り方。
「よう。揃ったな」
「三人だな」
「三人だ。去年と同じ。新入部員が来るまでは」
三人。恒一、陽太、凛花。去年の春も三人だった。その前は玲奈がいて四人だった。今年も三人からのスタート。
「新年度ミーティングを始める」
俺はホワイトボードの前に立った。マーカーを持った。いつもの位置。団長の位置。
「議題は三つ。一、ルールの確認。二、新入部員の勧誘方針。三、今年度の活動方針」
凛花がノートを開いた。五冊目。最初のページ。新年度の最初の記録。ペンを構えた。
「ルールは去年と同じ五条でいいか」
「はい。変更の必要は感じません。去年一年間運用して、大きな問題はなかったです」
「ただし」
凛花がペンを止めた。何か言いたそうだ。
「一つ、提案があります」
「聞く」
「ルール⑥を追加したいです」
新しいルール。ver.2に六条目を追加する。
「内容は」
「依頼者のその後にも責任を持つ。アフターケア条項です」
アフターケア。依頼が完了した後のフォロー。工作室は場を作って、依頼者を送り出す。送り出した後は追跡しない。それがこれまでのやり方だった。
「理由を聞かせてくれ」
「去年一年間で気づいたことがあります。依頼が完了して依頼者を送り出した後、工作室は『完了』としてケースを閉じます。しかし依頼者の恋はその後も続いています。完了した依頼が、時間が経って問題を起こすことがある。支援が成功したのに、長期的には関係が壊れる場合がある。工作室が設計した場の上で恋が進んだ結果、依頼者が工作室に依存するようになる場合もある」
凛花の指摘は鋭かった。去年の実務経験から導き出された観察だ。前作の依頼者たちは全員、工作室を「通り過ぎて」いった。しかし通り過ぎた後に何が起きているかは、工作室は把握していない。
「完全救済を約束しないのがルール④だ。しかしそれは無責任の言い訳ではない。完全救済はしないが、フォローアップはすべきだ。依頼者を送り出した後も、工作室のドアは開いている。戻ってきていい。相談していい。それを明文化したい」
「賛成だ」
俺は言った。凛花の提案は正しい。工作室は場を作る。場は一回きりではない。必要なときに何度でも使える場所であるべきだ。
「陽太は」
「賛成。凛花がそこまで考えてるなら、反対する理由がない」
「ではルール⑥。依頼者のその後にも責任を持つ。アフターケア条項。追加する」
ホワイトボードに六行目を書いた。
原則⑥:依頼者のその後にも責任を持つ(アフターケア)
凛花がノートに記録した。
「ver.3ですね」
「ver.3」
「はい。ルールが更新されたので、バージョンも上げます。恋路工作室ver.3。先輩が作ったver.2に、参謀の六条目が加わりました」
ver.3。玲奈が作ったver.1。俺が作ったver.2。凛花が追加したver.3。世代ごとにルールが更新されていく。走りながら更新する。原則③。
「次。新入部員の勧誘方針」
陽太が身を乗り出した。
「今年は本気で探そう。翻訳者の後継が欲しい。恒一がいなくなったら、凛花一人で翻訳もやらなきゃいけなくなる」
「私は翻訳者じゃなくて記録者です。翻訳もできますが、先輩ほどの精度は出ません」
「だから後継が要るんだ。分析力があって、他人の感情を言語化できるやつ。そういう一年生がいないか、探す」
「勧誘ポスターは私が作ります。去年のデザインをベースに更新して」
「頼む。掲示板に貼る。あとは陽太が廊下で直接勧誘」
「コミュ力で釣るわけだ」
「釣るんじゃなくて導く」
「同じだろ」
笑い声が工作室に響いた。春の風に乗って。二年間で培われたチームワーク。阿吽の呼吸。
「三つ目。今年度の活動方針」
俺はホワイトボードに向き直った。
「今年度は三つの軸で動く」
「一つ目。通常の依頼対応。去年と同じ。恋の相談を受けて、翻訳して、設計して、場を作る。工作室の基本業務」
「二つ目。アフターケア。新ルール⑥に基づいて、過去の依頼者のフォローアップを行う。去年の依頼者に連絡を取り、状況を確認する」
「三つ目。引き継ぎ。俺と陽太は今年度で卒業する。凛花に工作室を引き継ぐ。新入部員を育てる。来年度、凛花が団長として工作室を回せる体制を作る」
三つの軸。通常業務。アフターケア。引き継ぎ。全部を同時に進める。走りながら。完璧を待たない。
凛花がノートに書き終えた。
「先輩。一つ質問です」
「ん」
「引き継ぎの件。先輩が卒業したら、翻訳者がいなくなります。私は記録者です。参謀です。翻訳者の技術は、一年で引き継げるものですか」
「正直に言う。一年では完全な引き継ぎは難しい。翻訳者の技術は経験で育つ。経験には時間がかかる」
「なら」
「なら、翻訳者を見つける。新入部員の中に翻訳者の適性を持つ人間がいれば、一年かけて育てる。見つからなければ、凛花が翻訳と記録を兼任する。完璧ではないが、動く」
「原則③ですね」
「ああ。完璧を待たない」
ミーティングが終わった。三人が帰り支度をした。
「恒一」
陽太が帰り際に言った。
「最後の一年だな」
「始まったばっかだろ」
「さっき自分で言ってただろ。最後の一年って」
「言い方がある、とお前が言った」
「じゃあ言い直す。一番いい一年にしようぜ。最後だから一番いいやつを」
陽太が手を振って出ていった。コミュ力お化けの背中。三年生の背中。去年より少しだけ広くなっている。
凛花も出ていった。「先輩、ドアの紙は明日持ってきます」。参謀の背中。去年より確かな足取り。
俺は一人で工作室に残った。
窓の外を見た。四月の海。朝凪の海。春の青。何度見ても飽きない海。この海をあと十二ヶ月見る。それで終わりだ。
しかし終わりは始まりでもある。凛花が受け継ぐ。新しいメンバーが入る。工作室は続く。
「忘れなくていい」
声に出して言った。誰もいない工作室に。去年の最終話で呟いた言葉と同じ。
忘れなくていい。そして、始めていい。
この一年で何が起きるか分からない。どんな依頼が来るか。どんな恋が工作室を通り過ぎていくか。翻訳者にも予測できない。しかし場は作る。場があれば人は立てる。立てれば歩ける。歩ければ恋路は続く。
帰ろうとした。鞄を持った。ドアに向かった。
ドアを開けた。廊下に出た。
旧部室棟の廊下。春の夕日が差している。オレンジ色の光。長い影。二年間見続けた景色。
廊下の向こうから、誰か歩いてきた。
女子。制服。しかし見覚えのない顔だった。新入生ではない。制服が新しくないから。着慣れている。しかし朝凪高校の生徒としては見たことがない。
転入生か。
すれ違った。一瞬だけ目が合った。
黒髪。セミロング。目が鋭い。知的な目。しかし冷たさではない。観察している目。翻訳者の目に似ている。相手を見て、分析して、言語化しようとしている目。
俺と同じ種類の目をしている。
すれ違った。それだけだった。声はかけなかった。向こうもかけなかった。廊下の反対方向に歩いていった。
振り返らなかった。しかし翻訳者の脳は、すれ違いの一瞬で何かを記録していた。あの目。知的で、観察的で、しかし何かを隠している目。防御的な光。壁がある目。壁の内側に何かを抱えている目。
翻訳者の直感が鳴った。小さく。しかし確かに。
あの女子は、工作室に関わることになる。
根拠はない。翻訳者の直感。勘。非論理的だ。しかし二年間の翻訳経験が育てた直感は、たまに当たる。
海沿いの道を歩いた。帰り道。夕暮れ。四月の夕焼け。空がピンク色に染まっている。桜が散っている。花びらが海に向かって飛んでいく。
スマホが震えた。凛花からのLINE。
『先輩。旧部室棟の廊下で女子とすれ違いませんでしたか。新聞部の情報ですが、今日付けで3年に転入生が来たそうです。瀬川彩音さん。前の学校は県外だそうです』
転入生。三年に。この時期に。
俺が二年前にそうだったように、年度初めに転入してくる人間がいる。
瀬川彩音。
名前を聞いただけでは何も分からない。しかし廊下ですれ違ったあの目が、記憶に残っている。翻訳者の目に似た、観察の目。壁の内側に何かを抱えた目。
「了解。情報ありがとう」
返信した。それだけ。
家に帰った。自室の机に向かった。
団長二年目の最初の日が終わった。ルールが六条になった。ver.3。凛花の六条目。依頼者のその後にも責任を持つ。アフターケア。
新しい一年が始まった。最後の一年。しかし始まりでもある一年。
窓を開けた。四月の夜の風。潮の匂い。春の温度。
この一年で何が起きるか、翻訳者にも分からない。
しかし一つだけ確かなことがある。
恋路工作室は、今年も場を作る。恋の問題を抱えた人間が立てる場所を。痛みと一緒に生きるための場所を。忘れなくていいと言える場所を。
そして今年は、始めてもいいと言える場所を。
忘れなくていい。
そして、始めていい。
四月の夜。春の星。海の音。
団長二年目の春が、始まった。




