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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第5話 失恋の後始末

第5話 失恋の後始末


 噂を消してほしい。


 少女はそう言った。悪いが、消すのは無理だ。


 水谷花凛。一年。小柄で、髪を低い位置で一つに結んでいる。目の下に薄い隈がある。最近あまり眠れていないのだろう。依頼ボードに貼られた震える文字の主が、今、工作室の椅子に座っていた。


「捨てられ女って、書かれてるんです」


 声も震えていた。手は膝の上で握り締められている。制服のスカートに皺が寄っている。何度も手を握っては開いてを繰り返した痕跡だ。


「匿名掲示板に。先週、彼氏に振られて。それはいいんです。振られたのは事実だから。でも誰かがそれを掲示板に書いて、スクショが広まって、今は学年の半分くらいが知ってて」


 水谷の声が途切れた。泣くのを堪えている。唇を噛んで、息を止めて、それでも涙が目の端に光った。


「消してほしいんです。あの書き込みを。お願いします」


 工作室の空気が重くなった。


 陽太がいつもの笑顔を消して黙っている。凛花がノートのペンを止めたまま水谷を見ている。玲奈はデスクに腕を組んで、俺を見ていた。お前が言え、という目だ。


 俺は息を吸った。


「水谷。正直に言う。消すのは無理だ」


 水谷の目が見開かれた。


「匿名掲示板の書き込みは管理者じゃないと消せない。管理者が誰かも分からない。仮に消せたとしても、スクショは消えない。一度広がった情報は回収できない」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 水谷の声が裏返った。涙が頬を伝った。一筋。俺はそれを見て、自分の中で何かが軋むのを感じた。翻訳者は冷静でいなければならない。しかし目の前で泣いている人間を前に、冷静でいることの残酷さも分かる。


 玲奈がフォローしてくれるかと思ったが、玲奈は動かない。俺に任せている。


「消すのは無理だ。でも、上書きはできる」


「上書き」


 水谷が涙を拭わずに俺を見た。


「新しい話題で古い噂を押し流す。人の関心は有限だ。掲示板に残っている書き込みは消えない。でも、誰もそれを読まなくなる状態は作れる。別の話題が上に来れば、水谷の噂は画面の下に沈んでいく。見えなくなる」


「それで、本当に」


「本当に消えるかは保証できない。でも、話題の中心からは外れる。人の関心が別の方向に動けば、水谷の名前は忘れられる」


 忘れられる。その言葉を口にした瞬間、胸の奥が冷えた。忘れられることは救いなのか。それとも、別の暴力なのか。


 考えている暇はなかった。水谷が顔を上げた。


「お願いします。何でもしますから」


 何でもする。その言葉は危険だ。藁にもすがる人間は、藁の強度を確かめない。しかし今は、俺たちが藁であることを自覚した上で、手を伸ばすしかない。


「受ける」


 玲奈が短く言った。俺が水谷に説明している間、ずっと黙っていた玲奈が、一言で依頼を確定させた。


「水谷。工作室が噂を上書きする。ただし、完全に消えることは保証しない。それでいいか」


 水谷は何度も頷いた。


 凛花がノートに書き始めた。


「依頼②。一年、水谷花凛。内容、噂の上書き支援。対象、匿名掲示板の失恋関連書き込み」


 記録が始まった。工作室の二件目の依頼が、動き出す。


 水谷が帰った後、作戦会議が始まった。


「上書きする話題が必要だ」


 俺がホワイトボードに書きながら説明した。噂の消費サイクルは短い。校内の話題は平均三日から五日で次に移る。凛花の調査で分かっている。つまり、水谷の噂より強い話題を三日以内に投入できれば、注目は移る。


「問題は、どんな話題で上書きするか」


 陽太が椅子に座り直した。


「体育祭の実行委員が屋上で告白されたらしい、って流すのはどうだ」


「事実か」


「いや。でっち上げ」


「却下。嘘の噂で上書きしたら、俺たちが噂を作る側になる。それは工作室の原則に反する」


「じゃあどうすんだよ。事実で、水谷の噂より注目される話題なんてそうそうないぞ」


 陽太の言う通りだ。日常的な学校生活の中で、失恋ゴシップより強い話題を自然に発生させるのは簡単ではない。嘘は使えない。事実でなければならない。かつ、誰も傷つかない話題。


「陽太」


「ん」


「お前が何か面白いことをしろ」


「は」


 陽太が固まった。


「お前のコミュ力でなんとかなるだろ。校内で話題になるような、無害で面白い出来事を作れ」


「俺がネタになるのかよ」


「適任だ。お前が廊下で転んだだけで三クラスに広がる。実証済みだろう」


「あれは滑っただけだ。バナナの皮とかじゃない。雨で床が濡れてただけ」


「原因はどうでもいい。結果として話題になった。あの拡散力を使う」


 陽太が頭を抱えた。しかし口元が笑っている。嫌がっているふりをしているが、本質的にこういう仕事が好きなのだ。場の空気を動かすのは天野陽太の得意分野だ。


 玲奈が口を挟んだ。


「天野。お前は話題を作れ。ただし条件がある。誰も傷つかないこと。事実であること。そしてできれば、笑える内容であること」


「ハードル高くないですか」


「高くない。お前なら二十分でできる」


 信頼なのか無茶振りなのか分からない指示だ。しかし玲奈が「お前ならできる」と言ったとき、陽太の目が光った。こいつは信頼されると力を発揮するタイプだ。


 翌日。


 陽太が動いた。


 昼休み、陽太は購買部の前で大声で「チョコパン争奪じゃんけん大会」を開催した。参加者を募り、十五人が集まった。じゃんけんで最後に残った一人がチョコパンを獲得できるルール。陽太が司会を務め、実況つき。


 購買部前は大騒ぎになった。


 これが事実。誰も傷つかない。そして笑える。


 俺は遠くから見ていた。陽太の実況がうまい。「三回戦突入。残ったのは体育教師と一年女子。教師の威厳が試される」。爆笑が起きた。体育教師が参加しているのは予想外だったが、結果として話題性が跳ね上がった。


 放課後、匿名掲示板を確認した。


「購買前でなんか大会やってた」「天野がまたなんかやらかしてた」「体育の先生がじゃんけんで負けて泣いてた(嘘)」。水谷の噂のスレッドは画面の下に押し流されていた。新しい話題が上を埋めている。


 上書き、成功。


 俺は噂の消費サイクルを分析していた。投入した話題がどれくらいの速度で広がり、どのタイミングで水谷の噂を追い越すか。数字で測れるものではないが、体感として分かる。校内の空気が変わった。水谷の名前を口にする生徒が減った。


 二日後。


 さらに追加の話題を投入した。今度は凛花の協力だ。新聞部の号外として「朝凪高校の知られざる購買ランキング」という軽い記事を出した。一位はチョコパン。陽太の大会と連動させた。公式ルートと非公式ルートを同時に使うことで、話題の拡散速度が上がる。


 水谷の噂は、もうほとんど誰も話していなかった。


 工作室で中間報告をした。


「水谷の名前は話題から消えた。掲示板のスレッドも下がっている。新しい書き込みはない。上書きは成功と言っていい」


 俺の報告に、陽太が「よっしゃ」と拳を握った。


 しかし凛花の表情が晴れなかった。


「高瀬先輩」


「ん」


「名前は消えました。でも、スレッドは残ってます」


 凛花がスマホの画面を見せた。掲示板の深い階層に、水谷の噂のスレッドがまだある。新しいコメントはついていない。しかし消えてもいない。


「水谷さんが自分でこれを見たら、全部残ってます。『捨てられ女』って書かれた文字が、そのまま」


 沈黙が落ちた。


「消えるのは他人の関心だけです。水谷さん自身の傷は消えてません。上書きは、周りの目を逸らしただけで、本人の痛みには何もしていない」


 凛花の声は静かだった。記録者の目で事実を見ている。事実は残酷だ。上書きメソッドは有効だが、限界がある。噂を見えなくすることはできても、傷を癒すことはできない。


 玲奈が口を開いた。


「掲示板の削除は管轄外だ。工作室が扱えるのは人の導線だ。情報の流れを変えることはできる。しかしサーバーに残ったデータを消すことは、俺たちの仕事ではない」


 正論だ。工作室には限界がある。技術的にも、倫理的にも。すべてを救うことはできない。


「凛花の指摘は正しい」


 俺は認めた。


「上書きは成功した。でも、水谷本人の傷は残っている。それは工作室の設計では消せない。消そうとしたら、心を操作することになる。原則に反する」


 消せない傷がある。そのことを認めた上で、できることをやる。それが工作室だ。完全救済はしない。最初から分かっていたはずの原則が、実際の依頼を通じて肉づきを持っていく。


「水谷に報告する。上書きの結果と、残っている課題を正直に伝える」


 玲奈が頷いた。


 翌日の放課後。


 水谷を工作室に呼んだ。


「水谷。噂の上書きは成功した。お前の名前はもう話題に上がっていない。掲示板にスレッドは残っているが、新しいコメントはついていない」


 水谷の表情が少し緩んだ。ほんの少しだけ。肩の力が抜けたのが分かった。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 しかし。


 水谷の目が、また曇った。


「あの」


「ん」


「噂は収まったんですけど。最近、別のことが気になっていて」


「別のこと」


 水谷が両手を膝の上に置いた。さっきまでの緊張とは違う。もっと複雑な感情が、水谷の顔に浮かんでいた。


「クラスの人たちが、優しいんです」


 優しい。それは良いことのはずだ。しかし水谷の声には苦味があった。


「大丈夫って聞いてくれたり、一緒に帰ろうって誘ってくれたり。前はそんなことなかったのに。振られてから急にみんなが優しくて」


 水谷が顔を歪めた。泣く直前の顔だ。


「可哀想な人って顔で見られるのも、嫌なんです」


 その一言で、俺は理解した。


 噂は消えた。「捨てられ女」のレッテルは剥がれた。しかし代わりに、新しいレッテルが貼られている。「可哀想な子」。善意の同情が、水谷を別の檻に閉じ込めている。


 噂の被害者から、同情の対象へ。どちらも水谷が望んだ姿ではない。


 俺は返事に詰まった。


 これは上書きで解決できる問題ではない。善意を上書きすることはできない。善意は噂と違って、悪意がないからだ。悪意のない言葉を消す方法を、俺はまだ知らない。


「水谷。少し時間をくれ。考える」


 水谷は頷いて帰っていった。工作室のドアが閉まる。残されたのは俺と、窓から差す夕方の光だけだ。


 凛花のノートが机の上にある。開いたままだ。今日の記録が途中で止まっている。


「依頼②。上書き作戦、実行完了。噂の拡散は停止。ただし」


 ただし。そこでペンの跡が途切れていた。凛花もまた、この先をどう記録すればいいか分からなかったのだ。


 噂は消えた。


 代わりに、善意が重くのしかかっている。


 窓の外を見た。四月も終わりに近づいて、日が長くなっている。海の色が少しずつ変わり始めていた。冬の灰色から、春の青へ。季節は進んでいる。だが工作室の依頼は、季節のように綺麗に進まない。


 解決したと思った瞬間に、新しい問題が顔を出す。噂を消したら同情が来た。同情を消したらまた別の何かが来るのだろう。恋の問題は、一つ解けば一つ生まれる。永久機関のようなものだ。


 それでも、工作室は依頼を受ける。


 受けると決めた以上、水谷の「可哀想な人って顔で見られたくない」にも向き合わなければならない。


 どう向き合うか。上書きではない。別のアプローチが要る。


 帰り道、陽太と並んで歩いた。


「なあ恒一。水谷のやつ、まだ辛そうだったな」


「ああ。噂は消えたけど、別の問題が出た」


「善意の同情ってやつか。あれ厄介だよな。悪意なら怒れるけど、善意には怒れない」


 陽太の言葉は的確だった。善意に対して「やめてくれ」と言うのは難しい。相手は良かれと思ってやっている。その善意を拒絶したら、水谷が悪者になる。善意は、受け手を選ばない暴力になりうる。


「玲奈先輩に聞いたほうがいいんじゃねーの。あの人、こういうときの線引きが上手いだろ」


「線引き」


「ここまでは俺たちがやる、ここからはやらない、って線。あの人はそれを引くのが上手い」


 線引き。


 撤退線。


 その言葉がまだ俺の語彙にはなかった。しかし陽太の言う通り、玲奈にはそれがある。どこまでやって、どこで止まるか。その境界を冷静に引く能力が、桐生玲奈にはある。


 明日、玲奈に相談しよう。水谷の新しい問題に対して、工作室はどこまで踏み込み、どこで足を止めるのか。その線を引く必要がある。


 校門を出ると、風が変わった。昼間の温もりが消えて、夜の冷たさが忍び寄っている。潮の匂いが濃い。海が近い学校は、風向きで季節を教えてくれる。


 水谷の泣きそうな顔が、頭に残っていた。


 可哀想な人って顔で見られるのも、嫌。


 その言葉の翻訳は明確だ。水谷は「被害者」でも「可哀想な子」でもなく、ただの水谷花凛でいたいのだ。レッテルのない、素の自分。噂が貼ったレッテルを剥がしたら、善意が新しいレッテルを貼った。どちらも水谷本人が選んだものではない。


 他人が貼るレッテルは、善意であっても暴力になる。


 その事実を、俺はまだうまく言語化できなかった。翻訳者としての語彙が、まだ足りない。


 でも足りないなりに、明日もう一度向き合う。


 それが工作室の仕事だ。

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