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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第48話 卒業と引き継ぎ

 第48話 卒業と引き継ぎ


 桐生玲奈が卒業する。


 恋路工作室の創設者が、去る。


 三月の最終週。卒業式の朝。朝凪高校の桜は満開を過ぎて、散り始めていた。風が吹くたびに花びらが舞う。校門から体育館までの道が桜色の絨毯になっている。


 制服を着た。ネクタイを締めた。鏡の前に立った。一年前の四月に転入してきたときと同じ制服。しかし中身は別人だ。四月の高瀬恒一は翻訳者ですらなかった。今の高瀬恒一は翻訳者であり、運営責任者であり、壊れたことがある人間であり、自分の恋に着地した人間だ。


 学校に向かった。海沿いの道。春の朝。光が柔らかい。潮の匂いに桜の匂いが混ざっている。朝凪の海は春の色だ。透明な青。冬の灰色が完全に消えた海。


 体育館。卒業式。


 在校生の席に座った。陽太が隣。凛花がその隣。三人で並んで座っている。工作室のメンバー。来年度はこの三人で始まる。


 式が始まった。校歌。校長の挨拶。在校生の送辞。卒業生の答辞。型通りの進行。しかし型の中に、それぞれの一年が詰まっている。


 卒業証書授与。五十音順。


 か行。


「桐生玲奈」


 名前が呼ばれた。壇上に上がる玲奈の姿を見た。制服にリボン。背筋がまっすぐだ。いつもの姿勢。工作室のホワイトボードの前に立っていたときと同じ姿勢。


 証書を受け取った。一礼。席に戻る。表情は見えない。遠い。しかし翻訳者の目には、横顔の輪郭が見えた。玲奈の横顔は冷静だ。しかし冷静さの奥に、何かが光っている。光の名前はつけない。


 か行が終わり、さ行、た行。


 た行の途中。


「影山透」


 影山が壇上に上がった。穏やかな顔だった。屋上で初めて対峙したときの冷徹な顔でも、忘却屋が破綻したときの憔悴した顔でもない。重荷を下ろした人間の顔。忘却屋を閉じ、本物の痛みに戻り、無害化を選んだ人間の顔。


 証書を受け取る影山を見ながら、思った。一年前、玲奈と影山は工作室を作った。一年後、二人が卒業していく。工作室は残る。二人が蒔いた種が、別の人間の手で育ち続ける。


 卒業式が終わった。


 体育館を出た。校庭。桜吹雪。卒業生たちが写真を撮っている。笑い声。泣き声。抱擁。三年間の感情が溢れている。


 俺は人混みの中で玲奈を探した。しかし先に見つけたのは影山だった。


 校庭の隅。桜の木の下に立っている。一人で。証書の筒を手に持っている。


 目が合った。影山が小さく頷いた。俺も頷いた。


「卒業おめでとう」


「ああ。ありがとう」


 それだけだった。それだけで十分だった。影山との関係は、言葉を尽くす関係ではない。頷きと短い言葉で通じる関係。翻訳者と忘却屋の距離。いや、元忘却屋の距離。


「工作室、続けるんだろう」


「ああ。続ける」


「なら大丈夫だ。お前がやってるなら」


 影山が去っていった。同級生の集団に合流していく。穏やかな背中。忘却屋を閉じた男の背中。


 放課後。工作室。


 最後のミーティング。


 四人が集まった。恒一、陽太、凛花、玲奈。卒業式の後の、最後の工作室。


 玲奈は制服のままだった。卒業式の花飾りがまだ胸についている。白い花。卒業のシンボル。


 工作室は変わっていなかった。ホワイトボード。五つのルール。依頼ボード。窓から見える海。全部が同じだ。しかし今日で、この四人がこの部屋に揃うのは最後だ。


「最後のミーティングを始める」


 俺が言った。運営責任者として。


「議題は一つ。引き継ぎ」


 玲奈がデスクの引き出しから、小さな箱を取り出した。見たことのない箱だ。古い。少し黄ばんでいる。


 箱を開けた。中に小さなバッジが入っていた。手作りだ。金属ではなく、樹脂に色を塗ったもの。青い色。朝凪の海の色。バッジの表面に、小さな文字が刻まれている。


「恋路工作室 団長」


「これは」


「去年、工作室を作ったときに自分で作った。団長の証。一年間ずっと鞄の中に入れていた。降板した後も。捨てられなかった」


 玲奈がバッジを俺に差し出した。


「受け取れ。お前が次の団長だ」


「参謀のままでいいと言ったはずです」


「名前はどうでもいい。参謀でも団長でも。しかしこのバッジは、工作室の責任者が持つものだ。責任者はお前だ」


 バッジを受け取った。小さい。親指の爪ほど。しかし重い。一年分の重さ。玲奈が作った工作室の、全ての歴史の重さ。


「恋路工作室は、私の最高傑作だった」


 玲奈の声が少しだけ変わった。平坦さが薄れている。感情が混ざっている。一ミリだけ。


「四月にお前が入ってきて、翻訳者になって、依頼を回して、炎上して、壊れて、直して、ver.2を作って。全部見てきた。工作室は私が設計したが、ver.2はお前の作品だ。好きにやれ。ルールは更新し続けろ」


「了解です」


「完全救済はしなくていい。場を作り続けろ。それが工作室のやるべきことだ。去年の四月に私が決めて、今年の三月にお前に渡す。場を作ること。それだけは変えるな」


「変えません」


 玲奈が全員を見渡した。陽太。凛花。恒一。三人の顔を、一人ずつ見た。


「天野。お前がいなかったら、工作室は冷たい組織だった。お前の笑顔が工作室を温めた。ありがとう」


 陽太の目が赤くなった。鼻をすすった。


「泣くなよ、先輩」


「泣いてない」


「俺も泣いてない」


 二人とも泣きそうだった。しかし二人とも泣かなかった。


「柊。お前がいなかったら、工作室の記録は残らなかった。お前の三冊のノートは、工作室の財産だ。来年も記録を続けろ」


 凛花が涙を堪えた。しかし堪えきれなかった。一筋。二筋。頬を伝った。


「先輩。記録します。先輩が卒業しても。ずっと。工作室がある限り」


「頼む」


 玲奈が凛花の頭を一度だけ撫でた。軽く。一秒だけ。桐生玲奈が他人に触れるのを見たのは初めてだった。


「高瀬」


 俺を見た。最後に。


「お前には、一番多くのことを言った。一番多く叱った。一番多く修正した。しかしそれは、お前が一番成長したからだ。四月に来た翻訳者と、今の運営責任者は、別人だ」


「先輩のおかげです」


「おかげじゃない。お前が壊れて、直して、走りながら更新した結果だ。私の手柄ではない」


 玲奈らしい。最後まで論理的で、最後まで感情を包装する。しかし今日の包装は薄い。感情が透けて見えている。


 全員が立ち上がった。工作室を出る準備。


「最後に一つ」


 玲奈がホワイトボードの前に立った。マーカーを持った。


 五つのルールの下。余白に。


 一行書き加えた。


「恋路工作室。創設:桐生玲奈・影山透。引き継ぎ:高瀬恒一」


 創設者の名前と、引き継ぎ先の名前。工作室の歴史が一行に凝縮されている。


「消すなよ。ルールは更新していい。しかしこの一行は消すな」


「消しません」


 玲奈がマーカーを置いた。


 工作室を出た。全員で。ドアを閉めた。


 廊下に出た。旧部室棟の廊下。埃っぽい空気。窓から差す夕日。四月に初めて歩いたときと同じ景色。しかし今日が最後だ。この四人でこの廊下を歩くのは。


 玲奈が立ち止まった。ドアに貼ってある紙を見た。「恋路工作室 再開しました」の告知。九月に貼った紙。もう半年以上経っている。


「この紙も貼り替えろ。来年度用に」


「了解です」


 陽太と凛花が先に帰っていった。帰り際に陽太が玲奈に手を振った。「先輩。また遊びに来てくださいよ」。凛花が頭を下げた。「ありがとうございました。先輩」。


 二人が去った。


 工作室の前に、恒一と玲奈が残った。二人きり。


 夕暮れの旧部室棟。窓から桜の花びらが見える。風に乗って飛んでくる。廊下に桜の影が落ちている。


「桐生」


 名前で呼んだ。先輩をつけずに。二度目だ。一度目は降板のとき。


 玲奈の肩が微かに動いた。


「また名前で呼ぶのか」


「今日は許してくれ」


「許す。今日だけ」


「ありがとう、桐生。工作室を作ってくれて。俺を翻訳者にしてくれて。壊れたとき止めてくれて。降りたとき言葉を残してくれて。全部」


 声が震えた。微かに。翻訳者の声が震えるのは珍しい。しかし今日は翻訳者ではない。高瀬恒一として、桐生玲奈に感謝を伝えている。


 玲奈が俺を見た。目が潤んでいた。泣いてはいない。しかし涙の一歩手前。降板のときと同じだ。「泣きそうになる」。


「ありがとう、高瀬」


 玲奈が名前で返した。先輩ではなく。団長でもなく。顧問でもなく。桐生玲奈として、高瀬恒一に。


「名前はつけなかった」


 玲奈が言った。声が静かだった。


「この感情に。お前に対する感情に。名前をつけなかった。恋とも友情とも呼ばなかった。名前のないまま、一年間持っていた」


 俺は知っていた。翻訳者だから。玲奈の名前のない感情を、読み取っていた。読み取って、翻訳しなかった。翻訳しないことが誠実さだった。


「でも、これは確かに、私の一番大事な何かだった」


 玲奈の声がわずかに震えた。合理主義の殻の内側から。名前のない温もりが、声になって漏れた。


「俺もだ」


 短く答えた。翻訳はしない。名前もつけない。玲奈がつけなかったものに、恒一が勝手に名前をつけるのは越権だ。しかし「俺もだ」とは言える。名前のないまま。同じ種類の何かを、こちらも持っている。それだけ伝える。


 玲奈が微笑んだ。口角が一ミリ。いつもの桐生玲奈の笑顔。しかし今日の一ミリは、いつもの一ミリより温かかった。


「じゃあな、高瀬。工作室を頼む」


「了解です。元団長」


「元団長、か。悪くない呼び名だ」


 玲奈が背を向けた。廊下を歩いていく。卒業式の花飾りがまだ胸についている。白い花。桜の花びらが窓から入ってきて、玲奈の肩に一枚落ちた。


 払わなかった。


 桜を肩に乗せたまま、玲奈は廊下の奥に消えていった。


 俺は工作室のドアの前に立っていた。一人で。


 ドアに貼ってある紙。「恋路工作室 再開しました」。この紙を貼り替える。来年度用に。


 しかし今日ではない。今日は、この紙をもう少しだけ見ていたい。九月に貼った紙。ver.2の再起動の証。半年以上の風雨に耐えた紙。角が擦れて、字がかすれている。しかしまだ読める。


「恋路工作室」。


 その四文字は、去年の春に玲奈が書いた。手書きの紙。玲奈の字。少し角ばった、几帳面な字。


 来年度からは、俺の字になる。少し右に傾いた、几帳面だが完璧ではない字。


 玲奈の字から恒一の字へ。世代交代。引き継ぎ。バトンタッチ。


 ポケットの中に、玲奈から受け取ったバッジがある。小さな樹脂のバッジ。朝凪の海の色。「恋路工作室 団長」。


 団長。参謀のつもりだったのに。しかし玲奈がバッジを渡した以上、受け取る。名前はどうでもいい。責任は俺にある。


 工作室の電気を消した。ドアを閉めた。鍵はかけない。工作室のドアはいつでも開いている。依頼者が来たときに、すぐ入れるように。


 帰り道。海沿いの道。三月の夕暮れ。桜が舞っている。海がピンク色に染まっている。夕焼けと桜の色が混ざった、朝凪の海の春の色。


 歩きながら考えた。


 玲奈が去った。影山が去った。三年生が全員去った。工作室の歴史の最初の章が終わった。


 しかし次の章が始まる。四月から。恒一が団長の。陽太が実行班長の。凛花が記録係兼参謀候補の。三人の工作室。新メンバーを迎えて、四人になるかもしれない。五人になるかもしれない。


 ルールは五つ。無害化のレシピがある。凛花の三冊のノートがある。全部が引き継がれる。


 玲奈が作ったものの上に、恒一が作ったものが積まれている。恒一が作ったものの上に、来年度のメンバーが新しいものを積む。毎年、毎年。更新し続ける。完璧を待たない。走りながら。


 家に着いた。自室の机に向かった。


 引き出しからバッジを出した。手のひらに乗せた。小さい。軽い。しかし一年分の重さ。


 バッジを鞄のポケットに入れた。明日から毎日、持ち歩く。玲奈がそうしていたように。


 机の上にあるもの。ver.2のノート。記憶整理のノート。全部がここにある。


 記憶整理のノートを開いた。最後のページ。「声にした。好きだった、と。過去形で。志帆は受け止めた。名前のない距離を作った。恋路は続く」。最後の記録。


 ノートを閉じた。このノートはもう書かない。志帆の記憶整理は完了した。


 ver.2のノートを開いた。五つのルール。メモ。覚書。夏休みに書き始めて、秋に完成して、冬に実践して、春に引き継いだ。


 最後のページに一行書き足した。


「引き継ぎ完了。桐生玲奈よりバッジを受領。恋路工作室、次年度も継続」


 閉じた。


 窓を開けた。三月の夜。春の風。桜の匂い。潮の匂い。朝凪の海が見える。暗い海。しかし月が出ている。月の光が海面に銀色の道を作っている。


「場を作り続けろ」


 玲奈の最初の遺言。降板のとき。


「完全救済はしなくていい。場を作り続けろ」


 最後の言葉。卒業の日。


 同じ言葉。しかし一年間の全ての経験を経た後では、同じ言葉が違う重さを持っている。


 場を作る。恋路を照らす場を。噂の中で立てる場を。痛みと共に生きるための場を。


 恋路工作室は続く。


 翻訳者は翻訳を続ける。壊れたまま。直したまま。痛みを持ったまま。名前のない距離と名前のない温もりを持ったまま。


 春の夜。月の光。海の音。


 明日から、新しい一年が始まる。


 工作室のドアに、新しい紙を貼る。新しい字で。俺の字で。


「恋路工作室」。


 その四文字は、変わらない。誰が書いても。何年経っても。


 恋路は続く。

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