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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第44話 恒一の翻訳

 第44話 恒一の翻訳


「忘れなくていいんだ」


 森本の言葉は、恒一自身への翻訳だった。


 三月に入っていた。二月が終わり、空気が変わった。朝凪の海は灰色を脱ぎ始めている。波の色に青が増えた。風の温度が一度だけ上がった。一度の違いが季節を分ける。冬と春の境界線は、体感で一度だ。


 森本の最終セッション。


 工作室に四人が揃っていた。恒一がホワイトボードの前。凛花がノートを開いている。陽太が窓際。玲奈がデスクにいる。


 森本が入ってきた。


 顔が違っていた。初回に来たときの、乾いた砂漠の目ではない。二回目の、涙を取り戻しかけた目でもない。今日の森本の目は穏やかだった。痛みが消えた目ではない。痛みを持ったまま、穏やかになった目。


「書いてきました。未来の自分への手紙」


 森本が胸ポケットから便箋を取り出した。折り畳まれた白い紙。心臓の上に入れていた。あの日渡した便箋。持ち帰って、一人で書いた。


「読まなくていいです。書けたことだけ報告に来ました」


「そうか。書けたか」


「はい。一年後の自分に。あの夏をどう思い出していてほしいかを」


 森本は手紙の中身を語らなかった。語る必要がない。手紙は森本自身のためのものだ。翻訳者が内容を知る必要はない。書けたという事実だけが、無害化のプロセスの完了を示している。


「森本。最終確認をする。あの夏の恋を思い出したとき、今はどう感じる」


 森本が三秒黙った。目を閉じた。記憶を呼び出している。七月の補習教室。コンビニのアイス。花火大会の手の温度。海の波打ち際。最後のホームの笑顔。


 目を開けた。


「まだ痛いです」


 正直な答えだった。


「でも、痛いだけじゃなくなった。痛みの隣に、ありがとうがあります。思い出すと痛い。でも思い出すとありがとうって思える。両方が同時にある。前は痛みだけだった。今は痛みと感謝が隣り合っている」


 無害化。痛みを消すのではなく、痛みの隣に感謝を置く。森本がセッションの中で自分の言葉で定義した通り。叫ばない痛み。共存できる痛み。


「それが無害化だ」


 俺は言った。確認として。


「痛みはゼロにならない。しかし痛みだけの記憶が、痛みと感謝の記憶に変わった。記憶の温度が下がった。火傷しない温度に。それで十分だ」


 森本が頷いた。そして少しだけ笑った。穏やかな笑顔。砂漠に芽が出て、芽が育って、小さな花が咲いたような笑顔。


「高瀬先輩。最後に一つだけ」


「ん」


「忘れなくていいんですよね。あの夏を」


「忘れなくていい」


「痛くてもいいんですよね」


「痛くていい。痛みは、あの夏が本物だった証拠だ。痛くない恋は、そもそも恋じゃなかったってことだ。痛いから本物。痛いから大事。消す必要はない」


 森本の目から涙がこぼれた。最後の涙。しかしこの涙は痛みの涙ではなかった。解放の涙。長い間抱えていた重荷を下ろした瞬間の涙。忘れなければならないと思い込んでいた。痛みを消さなければならないと思い込んでいた。その思い込みから解放された涙。


「忘れなくていい。この痛みは、あの夏が本物だった証拠だから」


 森本がその言葉を自分で言った。翻訳者の翻訳ではなく。依頼者の自分の言葉で。


「ありがとうございました。工作室に来てよかったです。忘却屋じゃなくて」


「忘却屋に行かなくてよかったか」


「はい。忘却屋に行ってたら、あの夏を忘れてた。忘れたら、痛みは消えたかもしれない。でも感謝も消えてた。痛みと感謝はセットだから。片方だけ消すことはできない。両方持つか、両方消すかの二択だった。俺は両方持つほうを選びます」


 両方持つ。痛みも感謝も。忘却ではなく共存。影山が試みた忘却の対極。工作室ver.2が提案した無害化の結論。


「依頼⑦。森本遥。完了」


 俺が宣言した。ホワイトボードに書いた。


「結果。無害化成功。痛みの温度低下。感謝との共存。依頼者の自己言語化達成」


 凛花がノートに記録した。


「依頼⑦。森本遥。最終セッション。未来への手紙執筆完了。無害化プロセス完了。依頼者の最終報告、痛みと感謝の共存。依頼完結」


 記録者の最後の一行。工作室ver.2の最終依頼の、最後の記録。


 森本が帰った。ドアが閉まった。


 工作室に四人が残った。


 静かだった。しかし空虚な静けさではない。充実した静けさ。やるべきことをやり遂げた後の、深い呼吸のような静けさ。


 陽太が窓を開けた。三月の風が入ってきた。春の風。冬の残り香がまだあるが、芯が温かい。潮の匂い。しかし潮の中に、土の匂いが混ざっている。芽吹きの匂い。


「終わったな」


 陽太が言った。


「ああ。終わった」


「最終依頼。ver.2の集大成。いい仕事だった」


「いい仕事だった」


 凛花がノートを閉じた。ペンを置いた。


「先輩。工作室の記録、ここまでで三冊になりました。四月からの全部。依頼の記録、メンバーの記録、ルールの変遷、全部。ver.1からver.2への移行も含めて」


 三冊のノート。工作室の一年間の歴史。凛花が一行一行書き留めてきた記録。


「その記録は、来年度の工作室に引き継ぐ。凛花が書いた記録が、次のメンバーの教科書になる」


「教科書なんて大げさです」


「大げさじゃない。記録は蓄積だ。蓄積は力だ。お前の三冊のノートが、次の翻訳者と次の設計者の土台になる」


 凛花が少し赤くなった。記録者が褒められて恥ずかしがるのは珍しい。


 森本が帰った後の工作室で、俺は森本の最後の言葉を反芻していた。


「忘れなくていい。この痛みは、あの夏が本物だった証拠だから」


 忘れなくていい。


 その言葉が、森本のためだけの言葉ではないことに気づいていた。翻訳者の脳が自動で動いている。しかし今回は他人の言葉を翻訳しているのではない。森本の言葉を、自分自身に翻訳している。


 忘れなくていい。


 志帆を好きだった過去を。中学のときから隣の席にいたことを。「またね」を。LINEの未返信を。嘘の依頼を。公園の涙を。「いつか辞書開けてよ」を。辞書を開けなかった情けなさを。翻訳できなかった不甲斐なさを。壊れたことを。


 全部、忘れなくていい。


 全部が、俺の恋路だ。


 痛い。志帆の前で声にできなかったことが痛い。三文字を言えなかったことが痛い。しかし痛みは、あの感情が本物だった証拠だ。本物じゃなければ痛くない。痛いから本物。痛いから大事。


 翻訳者が自分自身を翻訳した。


 十ヶ月かかった。四月に転入してから。翻訳者になって。依頼者の恋を翻訳して。設計して。壊れて。直して。そしてようやく、自分自身を翻訳できた。


「忘れなくていい。志帆を好きだった過去も。翻訳できなかった情けなさも。全部、俺の恋路だ。痛いけど、本物だった」


 声に出さなかった。頭の中で。しかし声に出したのと同じくらい明確に、言語化された。


 自己翻訳。翻訳者が自分の感情を翻訳する。他者翻訳と自己翻訳。十ヶ月間、他者翻訳ばかりしていた翻訳者が、ようやく自己翻訳にたどり着いた。


 藤川の告白を翻訳した。「猫を見ているときの横顔が好き」。あのとき翻訳者は、他人の恋を言語化する快感を知った。水谷の噂を翻訳した。佐々木の断罪を翻訳した。園田の距離を翻訳した。瀬尾の本音を翻訳した。全部、他人の恋だった。


 日下部の片想いを感謝に翻訳した。あのとき初めて、翻訳が自分自身に跳ね返ってくるのを感じた。森本の痛みを無害化に翻訳した。あのとき、翻訳者は自分の痛みの存在をはっきりと自覚した。


 十ヶ月間の翻訳は、全部が自己翻訳への助走だった。他人の恋を翻訳するたびに、翻訳者の辞書は育っていた。語彙が増えていた。感情の温度を測る精度が上がっていた。全部が、最後に自分自身を翻訳するための準備だった。


 今、準備が終わった。


 陽太と凛花が帰り支度をしている。帰る前に凛花が言った。


「先輩。森本さんの依頼、完璧でした。ver.2の集大成です」


「完璧を約束しないのがルール④だ」


「約束しなくても、結果として完璧に近かった。それでいいんですよね。ルール④の意味は」


「ああ。それでいい」


 陽太が手を挙げた。


「恒一。次は何する。依頼はもう来ないだろ。三年生は卒業準備だし」


「もう一つ、やらなきゃいけないことがある」


「志帆さんだな」


「ああ」


「いつだ」


「今日決める。今夜。志帆に連絡する」


 陽太の目が光った。


「マジか。ついにか」


「ついにだ。森本の依頼が終わった。翻訳者としての最後の仕事が完了した。次は高瀬恒一としての仕事だ」


「設計書は」


「書かない。翻訳もしない。自分の言葉で行く」


 陽太が笑った。満面の笑みではない。七割くらいの笑顔。しかし本物の笑顔。中学時代のトラウマを超えた後の、本物の笑顔。


「行ってこい。応援する。っていうか応援しかできないけど」


「応援で十分だ」


 凛花が微笑んだ。


「先輩。書かないでくださいね。声にしてください」


「分かってる。ペンなしで行く」


 二人が出ていった。工作室に玲奈と恒一が残った。


 玲奈は窓際のデスクにいた。立ち上がった。恒一の前に来た。


「よくやった」


 三文字。短い。しかし桐生玲奈の「よくやった」は、百の言葉より重い。


「森本の依頼。ver.2の全ての依頼。翻訳者としてのお前の仕事。全部、よくやった」


「ありがとうございます」


「もう一つ、やることがあるんだろう」


「はい。志帆に会いに行きます」


「設計書は」


「要りません。自分の言葉で行きます」


 玲奈が俺を見た。目が静かだった。名前のない温もりを持った目。しかし翻訳者はその温もりを翻訳しない。翻訳しないことが、翻訳者の誠実さだ。


「設計書は要らない。お前の言葉で行け」


「ああ。自分で決めます」


「それが一番だ」


 玲奈が背を向けた。ドアに歩いていく。


「先輩」


「何だ」


「工作室を作ってくれて、ありがとうございました」


 玲奈が立ち止まった。振り返らなかった。しかし肩が微かに揺れた。


「感謝は結果で返せ。まだ終わってない」


 玲奈がドアを開けて出ていった。ドアが閉まった。


 一人になった。


 工作室に一人。ホワイトボードには五つのルールと依頼の記録。窓から三月の海が見える。春の海。灰色が抜けて、青が戻っている。朝凪の海が春の色を取り戻している。


 窓の外の海を見ながら、スマホを取り出した。


 志帆のLINEを開いた。最後のメッセージは一月の待ち合わせ。公園で会ったあの日。あれから二ヶ月。連絡していなかった。


 指が動いた。今度は止まらなかった。


『志帆。会いたい。話がある。設計じゃなくて、俺の言葉で。いつでもいい。場所はお前が決めてくれ』


 送信した。


 指が震えなかった。心臓は速い。しかし指は震えなかった。十ヶ月前なら震えていた。半年前なら送信できなかった。今は送れた。


 送信した後、スマホを机に置いた。裏返さなかった。志帆のLINEの画面を上にして。返信を待つ。逃げない。


 工作室の窓から、三月の風が入ってきた。春の風。温かい。潮の匂いに花の匂いが混ざっている。校庭の桜はまだ咲いていない。しかし蕾が膨らんでいる。もうすぐだ。


 翻訳者が翻訳者でなくなる一瞬が、来る。


 志帆の前で。自分の言葉で。三文字を声にする。


 十ヶ月前、工作室のドアをノックした。「入れ」と玲奈に言われた。翻訳者になった。他人の恋を翻訳した。設計した。壊れた。直した。辞書を開いた。声の練習をした。全部がこの瞬間に向かっていた。


 全部が、俺の恋路だった。


 スマホが震えた。


 志帆からの返信。


『会う。日曜日。中学の公園。ブランコの前で。午後二時。待ってる。ずっと待ってた』


 ずっと待ってた。


 その四文字を見て、目の奥が熱くなった。


 泣かなかった。しかし熱かった。涙の一歩手前の熱さ。本物の感情が身体に満ちている熱さ。


 日曜日。あと三日。


 三日後に、翻訳者は翻訳者をやめる。一瞬だけ。志帆の前に立つ一瞬だけ。


 工作室の電気を消した。ドアを閉めた。廊下に出た。


「恋路工作室 再開しました」の告知が目に入った。九月に貼った紙。半年経っている。角が擦れて、字が少し薄くなっている。しかしまだ読める。まだ機能している。


 この工作室で、十ヶ月間の恋路を歩いた。他人の恋路を。そしてこれから、自分の恋路を歩く。


 設計図はない。翻訳もしない。


 自分の言葉で。


 三月の夕暮れ。春の夕焼け。空がピンク色に染まっている。冬の鮮烈なオレンジとは違う、柔らかいピンク。春の色。新しい季節の色。


 翻訳者は帰り道を歩いた。海沿いの道を。三月の風を受けながら。


 日曜日が来る。


 志帆が待っている。ずっと待っていた。


 俺も、ずっと向かっていた。十ヶ月かけて。遠回りして。壊れて。直して。


 ようやく、辿り着く。


 三月の海が、春の色で光っていた。

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