第39話 当事者の資格
第39話 当事者の資格
設計者じゃなく当事者として 恒一は初めて、支えられる側に回った。
離脱して 二日が経っていた。
十一月の半ば。学校には行っていた。授業は受けていた。 だが放課後になると、旧部室棟には向かわず、まっすぐ家に帰った。工作室のドアの前を通ることすら 避けていた。
自室にいる時間が長くなった。ベッドの上で天井を見ている時間。机の上のver.2のノートを見つめる時間。 何もしない時間。翻訳も設計もしない時間。
設計者でいられた間は 楽だった。
問題は他人のものだった。藤川の告白。水谷の噂。佐々木の断罪。園田の再定義。日下部の片想い。 全部、他人の問題だった。俺はツールだった。翻訳というツール。設計というツール。 ツールは壊れない限り、自分自身を問われない。
今 問題は俺自身だ。志帆への感情。翻訳者としてのアイデンティティ。壊れた仮面。 全部が、俺自身の問題だ。
ツールが壊れたら 何が残る?
高瀬恒一から 翻訳者を引いたら。工作室の参謀を引いたら。 何が残るのか。
答えが 出なかった。
離脱二日目の放課後。
家に帰るつもりだった。 いつものように。
校門を出た瞬間 陽太がいた。
校門の柱にもたれかかって、メロンパンを齧っている。 俺が出てくるのを待っていた。
「よう、恒一」
「......陽太」
「飯行こうぜ。 約束しただろ」
約束。 砂浜でスマホに返信した。「行く」と。 忘れていなかった。忘れていたのではなく 体が動かなかっただけだ。
「......ああ」
「元気なさすぎだろ。 まあいいや。行くぞ」
陽太は 何も聞かなかった。
志帆のことも。工作室のことも。翻訳者として壊れたことも。 何一つ聞かなかった。ただ、歩き始めた。俺の隣を。 いつもの歩幅で。
朝凪駅前のカフェ。 志帆と来たことがある店とは別の店。陽太が選んだ。「ここのナポリタンがうまいんだ」と。 そんな理由で。
席に座った。注文した。陽太はナポリタンとメロンパン。 メロンパンはカフェのメニューにはない。自分で持ち込んでいる。
「メロンパンは持ち込み禁止だろ」
「バレなきゃセーフ」
「バレてる。 店員がこっち見てる」
「......マジ? まあいいや。食い終わってから齧る」
普通の会話だった。 翻訳も設計もない。ただの くだらない日常の会話。陽太とメロンパンの話。ナポリタンの太さについての議論。 俺は太麺派で陽太は中太麺派だった。どうでもいい話だ。
だが どうでもいい話が、今は 一番ありがたかった。
ナポリタンが来た。食べた。 味がした。昨日は何を食べても味がしなかった。今日は 少しだけ、トマトの酸味が舌に残った。
「恒一。 飯食えてなかっただろ」
「......少しは食べてた」
「嘘。 顔色で分かる。お前、志帆ちゃんの嘘は見抜けなかったくせに、自分の嘘は隠せないんだな」
刺さった。 だが、悪意はなかった。陽太は 笑っていた。いつもの笑い方。目を細めて、口を大きく開けて。
「......うるさい」
「飯は食え。 それだけだ。飯食って寝ろ。 壊れてても、飯は食える」
食事を終えた。会計を済ませた。 カフェを出た。
帰り道。駅前の通り。 陽太が、隣を歩いていた。
「恒一」
「何だ」
「一つだけ 先輩風、吹かせていいか」
「お前に先輩風は 」
「ない。 でも友達風ならある」
友達風。 陽太の造語。だが 悪くなかった。
「言え」
陽太は 足を止めた。駅前のロータリー。夕暮れの光が ビルの隙間から差し込んでいた。
「お前が壊れても 工作室は回る」
声が 真剣だった。陽太の目から笑いが消えていた。
「凛花がいるし、桐生先輩もいる。田中の依頼は凛花が進めてるし、新しい相談者は桐生先輩が対応してる。 お前がいなくても、回ってる」
俺がいなくても 回っている。
その言葉は 安心と同時に、寂しさを運んできた。俺がいなくても工作室が回る。 それは、俺が必要ではないということか。いや そうではない。陽太はそういう意味で言っていない。
「だから 安心して壊れろ」
「安心して 壊れろ?」
「そう。 お前はさ、壊れたくないから無理してるんだろ。翻訳者でいなきゃ、設計者でいなきゃ、参謀でいなきゃって。 壊れたら工作室が止まるって思ってるだろ。止まらないから。安心して壊れろ」
安心して壊れろ。 矛盾した言葉だ。壊れることに安心はない。 だが、陽太が言うと 矛盾が消える。
「壊れることと 終わることは違う」
陽太が 繰り返した。以前、瀬尾に向けた言葉。陽太自身に返った言葉。 そして今、俺に向けられている。
「お前は壊れてるだけだ。 終わってない。直し方? 知らね。俺は翻訳者じゃないからさ、お前の壊れ方の名前も分からない。 でも」
陽太が にっと笑った。
「壊れてるお前も お前だろ」
壊れてるお前もお前。
その言葉が、胸に じんわりと染みた。
翻訳者でない恒一。設計者でない恒一。参謀でない恒一。 壊れた恒一。何もできない恒一。志帆への感情を抱えたまま動けない恒一。 それも、恒一だ。
当たり前のことだ。 だが、陽太に言われるまで 見えなかった。壊れた自分を否定していた。壊れた自分は 高瀬恒一ではないと。翻訳者でいられなければ 存在意義がないと。
「......陽太」
「何だ」
「ありがとう」
「礼はいい。 メロンパン奢れ。クリームの方」
「お前 さっき食っただろ」
「食った。 でもまだ食える。腹は別」
「腹は別って 女子か」
笑った。 小さく。だが 声が出た。
陽太は 満足そうに笑った。俺が笑ったことに。 それだけで。
翌日。離脱三日目。
放課後。 また家に帰ろうとした。だが今日は 足が、海沿いの道に向かった。砂浜ではなく 堤防の上の遊歩道。朝凪の海が見える道。
十一月の海。 灰色だった。曇り空の下で 海が鈍い色をしている。波は穏やかだが 夏のきらめきはない。秋の海。 冬に近づく海。
堤防の上を歩いていると 後ろから、足音が聞こえた。軽い足音。 聞き覚えがある。
振り返らなかった。 振り返らなくても分かった。
「凛花」
「 あ。バレました?」
「足音で分かる。 翻訳者は耳がいい」
凛花が 俺の隣に並んだ。制服のまま。鞄を肩にかけて。 ノートは持っていなかった。前に堤防で話したときと同じ ノートなしの凛花。
「偶然 ですか?」
「偶然を装ってます。 先輩がこの道を歩くだろうと思って」
「予測が正確すぎる。 記録者の推測力は怖いな」
「推測じゃないです。 昨日、陽太先輩に聞きました。『恒一は海が好きだから、たぶん海沿いを歩く』って」
陽太 情報を漏らしている。だが 悪い気はしなかった。
凛花は 何も聞かなかった。陽太と同じだ。志帆のことも。工作室のことも。翻訳者として壊れたことも。 聞かなかった。
代わりに 凛花は、自分の話をし始めた。
「私 観測者をやめたとき、怖かったんです」
「怖かった?」
「はい。 記録者でいる間は、安全だったんです。ノートの向こう側に立っていれば 自分は傷つかない。出来事を書き留めるだけ。評価しない。判断しない。 安全な場所」
凛花は 海を見ていた。灰色の海。波が低い。
「でも 観測者をやめたら、安全な場所がなくなった。ノートの向こう側からこっち側に来た。 当事者になった。当事者は 傷つく」
「傷ついたか?」
「傷つきました。 影山先輩の記事を書かないと決めたとき。ジャーナリストとしては最悪の選択だって 自分で分かっていて。それでもメンバーとしての選択を優先した。 あれは、痛かった」
凛花の声が 静かだった。いつもの平坦さ ではなく、もっと柔らかい声。
「でも 痛かったけど、後悔はしてないんです。当事者になったから 自分の物語を生きてる感じがする。記録者のときは 他人の物語を書いていた。今は 自分の物語の中にいる」
凛花が 俺を見た。
「先輩」
「何だ」
「当事者って 怖いけど。自分の物語を生きてる感じがします。設計図じゃなくて 本文を書いてる感じ」
設計図じゃなくて 本文。
その言葉が 頭の中で反響した。砂浜で、ノートに書いた言葉と 重なった。「設計図ではなく本文を書くこと」。凛花が別の角度から 同じ場所に着地した。
「本文 か」
「はい。 先輩も、今 本文を書いてるんじゃないですか」
「本文?」
「翻訳者として壊れた。設計者として機能しない。 でも、それは設計図が壊れただけで。本文は まだ書いてる途中じゃないですか」
本文。 俺の本文。高瀬恒一の本文。翻訳者でも設計者でもなく 一人の人間としての物語。
「志帆さんへの気持ちも。翻訳者としての限界も。壊れてることも。 全部、先輩の本文の一部です。設計図に書かれていないこと。 予定外のこと。でも 自分の物語」
凛花は ポケットから何かを取り出した。小さな紙切れ。折りたたんでいる。
「これ 陽太先輩からです」
「また陽太からか」
「はい。 先輩に直接渡してくれって」
メモを開いた。陽太の雑な字。 メロンパンのシミはなかった。今回は。
「 無理すんな。でもサボりすぎんな。ちょうどいいとこで戻ってこい」
笑った。 三行。ちょうどいいとこって何だ。翻訳者にも分からない。
「陽太は こういう言い方しかできないんだな」
「陽太先輩は 翻訳者じゃないから。でも、伝わりますよね」
「伝わる。 翻訳より伝わる。たまに」
「たまに ですね」
凛花が 笑った。小さく。
二人で堤防の上を歩いた。 しばらく無言で。波の音。海鳥の声。風の音。 言葉がなくても、隣にいるだけで 何かが伝わっている。
「凛花」
「はい」
「ノート まだ預かってくれてるか」
「預かってます。 安全に」
「明後日 取りに行く。工作室に」
凛花が 目を見開いた。
「戻る んですか?」
「戻る かは分からない。ノートを取りに行くだけだ。 でも」
言葉を探した。 翻訳者の言葉ではなく。設計者の言葉でもなく。恒一の言葉。
「でも 本文を、書かなきゃいけないから。工作室の じゃなくて。俺自身の」
凛花は 頷いた。深く。
「待ってます。 ノート、いつでも返せるように」
「ああ」
堤防の上で 凛花が立ち止まった。分かれ道だ。凛花の家はここから東。俺の家は西。
「先輩。 もう一つだけ」
「何だ」
「壊れてる先輩も かっこいいと思います」
「 は?」
「翻訳者のときの先輩は 完璧で、冷静で、すごいなって思ってました。でも 壊れてる先輩も。自分の恋で悩んでる先輩も。 人間らしくて。 私は、そっちの先輩のほうが好きです」
好き という言葉に、一瞬 心臓が跳ねた。だがすぐに翻訳した。凛花の「好き」は 恋愛感情ではない。尊敬と親しみの「好き」だ。 メンバーとしての好き。友達としての好き。
「......ありがとう。 凛花」
「じゃあ 明後日、工作室で」
凛花は 手を振った。小さく。 東に向かって歩いていった。
俺は 西に向かった。帰り道。
海が 夕暮れに染まっていた。灰色だった海が ほんの少しだけ、オレンジの光を帯びていた。雲の隙間から 夕日の光が漏れている。完全な曇りではなかった。 光が、少しだけ差している。
自室。夜。
陽太のメモをもう一度読んだ。「無理すんな。でもサボりすぎんな。ちょうどいいとこで戻ってこい」。
ちょうどいいとこ。 翻訳不能だ。何がちょうどいいのか 基準がない。
だが 「ちょうどいいとこ」は、きっと 翻訳者が計算して決めるものではない。体が勝手に動く瞬間。足が 工作室に向かう瞬間。 それがちょうどいいとこだ。
凛花の言葉。「設計図じゃなくて本文を書いてる感じ」。
俺は ずっと設計図の中で生きてきた。他人の恋を設計図に落とし込む。場の設計。タイミングの設計。言葉の設計。 全部、設計図。第三者の目線。客観的な分析。翻訳者のフィルター。
だが 自分の恋には設計図が使えない。設計者は自分の恋を設計できない。影山が証明した。 俺も証明した。
設計図がないなら 本文を書くしかない。自分の言葉で。翻訳ではなく。設計でもなく。 生の言葉で。
本文。 俺の本文。
志帆に 何を言うか。翻訳者としてではなく。設計者としてではなく。 高瀬恒一として。
「好きだ」 と言えばいい。それだけだ。公園で一人で呟いた言葉を 志帆の前で言えばいい。
だが それだけでは足りない。「好きだ」の三文字の向こうに まだ言葉がある。翻訳者として志帆を見続けてきた時間。翻訳を拒否してきた時間。仮面の裏で 名前をつけずに抱え続けてきた時間。 全部を含めた「好きだ」でなければ 志帆には届かない。
本文。 どう書く。
まだ 分からなかった。
だが 書く場所は分かっていた。設計図の上ではない。ノートの中ではない。 志帆の前で。志帆の目を見て。声で。
影山が言っていた。「翻訳者のフリはもういいだろ。お前の言葉で、あの幼馴染に向き合え。設計書じゃなく」。
影山に 会わなければならない。工作室に戻る前に。 影山と話さなければならない。壊れた者同士として。翻訳者のフリを捨てた二人として。
明日 影山を探す。海沿いの道で。砂浜で。屋上で。 影山がどこにいるか分からないが、いるはずだ。影山も 壊れかけている。忘却屋の崩壊。方法論の破綻。 影山も、今 本文を書こうとしているはずだ。
二人の壊れた翻訳者が 海岸で並ぶ。
その場面が 頭に浮かんだ。まだ起きていない場面。 設計図ではない。予感だ。翻訳者の予感。
明日。 影山に会いに行く。
ノートを 鞄に入れた。明後日、工作室で凛花から記録ノートを受け取る。 その前に、影山と話す。
工作室に戻る前に もう一つ、やるべきことがある。
影山との対話。 壊れた者同士の、最後の対話。
「本文を書く、か。 設計図じゃなく」
声に出して 呟いた。窓の外は十一月の夜。星は 見えなかった。曇り空。 だが、雲の向こうに星があることは知っている。見えなくても ある。
俺の中にも 見えないものがある。壊れた仮面の向こうに。翻訳者のフリの裏に。 見えなくても、ある。
志帆への感情。名前はつけた。「好きだ」と。 次は、それを本文にする。設計図ではなく。 自分の言葉で。
まだ 書けない。でも 書こうとしている。
それが 今の俺に分かる、全てだった。




