第38話 参謀の崩壊
第38話 参謀の崩壊
高瀬恒一が、初めて設計書を破った。
志帆の告白から三日後。一月の半ば。冬の朝凪高校は乾いた空気に包まれている。廊下を歩くと静電気が指先に走る。教室の暖房が効きすぎて、窓を開けると一気に冷気が入ってくる。温度の落差。外と内の境界が明確な季節。
しかし俺の中では境界が崩れていた。
放課後。工作室。通常の相談対応。忘却屋の利用者から継続的に来ている相談の一つ。二年の女子。上書きストーリーと本物の記憶が混ざって、自分の失恋がどこまで本当でどこからが上書きか分からなくなっている。
翻訳する。依頼者の言葉を聞いて、裏を読んで、本音を探る。いつもの作業だ。
「記憶が混ざって辛いって言ってるけど、本当に辛いのは記憶のことじゃない。元カレのことがまだ好きなのか分からなくなっていることが辛いんだ。上書きで感情まで曖昧になった。好きだったのか、もう好きじゃないのか。自分の気持ちが分からない」
翻訳した。しかし翻訳の途中で、自分の声が変質しているのに気づいた。
「自分の気持ちが分からない」。
その言葉が、依頼者の翻訳ではなく、俺自身の感情の投影になっていた。
俺が言ったのは依頼者の本音ではない。俺自身の本音だ。自分の気持ちが分からない。分かっているのに声にできない。好きだと辞書に書いたのに、志帆の前で声にできなかった。その焦燥と自己嫌悪が、翻訳に混入していた。
依頼者の言葉を俺の感情で染めていた。
「高瀬。止まれ」
玲奈の声が鋭かった。顧問として、翻訳者を止めた。
「今のは翻訳じゃない。お前の感情の投影だ」
依頼者が困惑している。翻訳者に翻訳されたはずの言葉が、自分のものではないと感じている顔だ。的外れな翻訳。翻訳者がノイズを混入させた翻訳。
「すみません」
依頼者に謝った。頭を下げた。翻訳者として、あってはならないミスだ。
凛花が依頼者をフォローした。「少しお待ちください。別のメンバーが対応します」。陽太が代わりに依頼者の話を聞き始めた。コミュ力お化けの対話力で場を繋ぐ。
俺は工作室の隅に退いた。
依頼者が帰った後、工作室に四人が残った。陽太と凛花は黙っていた。空気が重い。
玲奈が口を開いた。
「高瀬。二人で話す」
陽太と凛花が退出した。ドアが閉まった。
二人きりの工作室。一月の光が窓から差している。低い角度の冬の光。ホワイトボードに五つのルールが書かれている。その五番目。
原則⑤:メンバーも当事者になりうる。その場合は自覚して申告する。
「お前は今、当事者だ」
玲奈の声は平坦だった。しかし鋭さがある。手術用のメスのような声だ。患部を正確に切る。
「志帆の件が翻訳に影響している。今日の翻訳は翻訳ではなかった。投影だ。依頼者の言葉を聞いていたのではなく、自分の感情を依頼者の言葉に重ねていた」
「分かっています」
「分かっているなら、ルール⑤に基づいて申告しろ」
「当事者です。志帆の件で。翻訳の精度が落ちています」
声に出した。申告した。ルール⑤の初発動。自分が作ったルールを、自分が初めて使う。
「一時離脱を勧告する」
「離脱」
「休め。翻訳者が自分の感情で翻訳を歪めたら、それは翻訳じゃなく捏造だ。捏造は工作室の仕事じゃない」
捏造。翻訳ではなく捏造。その言葉が胸に刺さった。重い。正確で、重い。
「捏造者が依頼者の相談に乗るのは危険だ。依頼者を傷つける。今日は間に合った。私が止めたから。しかし次は止められるか分からない」
「俺がいなかったら、工作室の翻訳は」
「天野と柊でカバーする。天野は翻訳者ではないが、対話力がある。柊は分析力がある。二人で翻訳者の穴を埋める。お前がいなくても工作室は動く。完璧ではないが、動く。原則③だ」
完璧を待たない。走りながら更新する。俺がいなくても、工作室は走り続ける。
「先輩。離脱は」
「お前が自分と向き合う時間だ。志帆の件を処理しろ。翻訳者として処理するんじゃなく、高瀬恒一として処理しろ。翻訳者の道具を使うな。設計もするな。自分の言葉で、自分の感情に向き合え」
「自分の言葉で」
「ああ。翻訳者はいつも他人の言葉を翻訳する。お前は自分の言葉を持っていない。持っていないのではなく、使っていないだけだ。翻訳者の仮面を外せ。高瀬恒一の素の言葉で、志帆に向き合え。それが、お前が作ったルール⑤だろう」
俺が作ったルール。俺自身に適用されるルール。設計者の宿命。玲奈も同じ目に遭った。自分が作ったルールで自分を裁いた。
「了解です」
声が小さかった。しかし逃げなかった。
「離脱期間は」
「お前が決めろ。必要な時間だけ。工作室は待つ。お前が陽太に言ったのと同じだ。戻ってくるまで場を守る。居場所がなくなることはない」
陽太に言った言葉が、今度は俺に返ってきた。工作室は待つ。戻ってくるまで場を守る。俺が陽太の離脱を受け入れたように、玲奈は俺の離脱を受け入れている。
「明日から離脱します」
「了解した。天野と柊には私から伝える」
「すみません」
「謝るな。ルール⑤に従っただけだ。ルールに従うことは謝ることではない」
玲奈の論理。冷たいが正確。そしてその正確さの裏に、心配がある。翻訳者の目にはそれが見える。玲奈は冷たい言葉で心配を包んでいる。いつもそうだ。
「一つだけ」
玲奈がドアに向かいかけて振り返った。
「翻訳者をやめるな。離脱しても。翻訳者であることをやめるな。お前は翻訳者だ。翻訳者が自分の感情と向き合うのは、翻訳者をやめることではない。翻訳者が進化することだ」
進化。崩壊ではなく進化。玲奈はそう言った。
ドアが閉まった。玲奈が去った。
俺は一人で工作室に残った。
ホワイトボードを見た。五つのルール。自分が書いた文字。自分が集めた言葉。仲間の言葉を翻訳して積み上げたルール。
しかしそのルールが今、俺自身を追い込んでいる。
自分が作ったルールに自分が殴られる。玲奈と同じだ。設計者の宿命。
帰宅。自室。
机の上にノートが三冊ある。ver.2のノート。凛花の記録ノートのコピー。そして「志帆に対する記憶の整理」のノート。
ver.2のノートを手に取った。ページをめくった。夏休みに凛花と陽太の言葉を集めて、翻訳して、ルールの形にした。あのときの達成感。工作室を再起動させた手応え。翻訳者として、設計者として機能していた手応え。
しかし今、その手応えが空虚だ。
翻訳者として機能していた。他人の恋を翻訳し、設計し、場を作り、依頼者を支援していた。しかし自分の恋は翻訳できなかった。志帆の前で声が出なかった。辞書に書いたのに。分かっているのに。
他人の恋を設計する資格が、俺にあるのか。
自分の恋すら翻訳できない人間が、誰かの恋路を照らせるのか。
ver.2のノートを机の上に投げた。バサッと音がして、ノートが開いたまま机の端に落ちかけた。
感情が溢れていた。コントロールできない。翻訳者は感情を制御する。他人の感情を客観的に分析し、構造を把握し、言語化する。冷静に。論理的に。しかし今の俺に冷静さはない。志帆の「ずっと好きだった」がループしている。声にできなかった「好きだ」がループしている。全部が混ざって、何も整理できない。
「志帆に対する記憶の整理」のノートを開いた。最後のページ。「好きだ」の二文字。その下に書いた宣言。「次に会ったとき、声にする」。
次に会ったとき。それはいつだ。志帆は待っている。「近いって分かったから」と言った。近い。あと一歩。
しかしその一歩が踏めない。三日経って、まだ踏めない。一歩の距離が海より広い。
ノートを閉じた。投げなかった。投げたら、あの二文字が消える気がした。消えない。インクは消えない。しかし物理的な衝撃で精神的な何かが折れる気がした。
ベッドに横になった。天井を見た。白い天井。何も書いていない。辞書の白紙と同じ色。
翻訳者が壊れている。
参謀が機能不全に陥っている。恋路工作室のリーダーが、自分の恋の前で立ち往生している。依頼者には「選ぶのは本人だ」と言い続けてきた。影山には「無害化」を提案した。日下部には「ありがとう」を設計した。全部、他人のために。
自分のためには何もできていない。
他人の恋は翻訳できる。設計できる。場を作れる。しかし自分の恋だけが手つかず。翻訳者は他人専用の機械だ。自分のためには動かない。
自己嫌悪が渦を巻いている。
夜中。眠れなかった。天井を見ていた。スマホが枕元にある。志帆のLINE。最後のメッセージは公園の待ち合わせ。あの日以降、連絡していない。志帆も連絡してこない。待っているのだ。恒一が声にするのを。
声にできない。
怖い。まだ怖い。好きだと言った先が見えない。翻訳者の辞書にない領域。未知。
しかし未知を恐れて動かなければ、ルール③に反する。完璧を待たない。走りながら更新する。自分が作ったルールが自分を追い込んでいる。
深夜。二時。
ベッドから起き上がった。机に向かった。ver.2のノートが開いたまま置いてある。さっき投げたまま。
ノートを拾い上げた。
ページを開いた。五つのルールが書いてあるページ。自分の字。マーカーではなくペンで書いた控え。
原則①:心は操作しない。
原則②:忘却ではなく無害化。
原則③:完璧を待たない。走りながら更新する。
原則④:完全救済を約束しない。
原則⑤:メンバーも当事者になりうる。自覚して申告する。
五つのルール。全部、他人の言葉を翻訳して作ったルール。陽太の言葉、凛花の言葉、玲奈の言葉、影山の言葉。翻訳者が集めた仲間の言葉を、ルールの形に整えた。
しかしルールの中に、翻訳者自身の言葉が一つもないことに気づいた。
翻訳者は他人の言葉を翻訳する。自分の言葉は持っていない。持っていないのではなく、使わないことを選んできた。翻訳者であることが安全だったから。他人の言葉を扱っている限り、自分の感情に触れなくて済む。翻訳者は防壁だ。影山が言った通りだ。工作室は逃げ場だ。
しかし逃げ場は居場所でもある。凛花が言った。矛盾しない。
逃げていていいのか。
いい。逃げていていい。原則⑤が許容している。メンバーも当事者になりうる。壊れていていい。壊れたまま立っていていい。完璧じゃなくていい。陽太が言った。
壊れている。今の俺は壊れている。翻訳者として機能不全だ。参謀として使えない。しかし壊れていることは、終わりではない。壊れていることを認めて、修理する。走りながら修理する。
ノートを机に置いた。投げなかった。丁寧に。
ペンを持った。五つのルールの下の余白に、一行書き足した。
「翻訳者の覚書:翻訳者は自分の言葉を持つ。翻訳だけでは足りない。自分の言葉で語る力を育てる」
ルールではない。覚書だ。翻訳者自身への覚書。他人の言葉を翻訳するだけでは足りない。自分の言葉で語る力がなければ、翻訳者は永遠に第三者のままだ。第三者のままでは、志帆に好きだと言えない。
自分の言葉。
翻訳者は今まで、自分の言葉を使ったことがあるか。
ある。「好きだ」とノートに書いた。あれは翻訳ではなかった。自分の感情を、自分の言葉で書いた。初めての自分の言葉。
それができたなら、声にもできるはずだ。書くのと声にするのは違うが、出発点は同じだ。自分の感情を言語化するという行為。ペンでやるか声でやるか。道具が違うだけで、行為は同じ。
夜が明けた。
一月の朝。窓の外が白み始めている。冬の夜明けは遅い。六時半でまだ薄暗い。しかし東の空に、薄い橙色が滲み始めている。
ノートを拾い上げた。ver.2のノート。投げた。拾い上げた。壊さなかった。ルールは残っている。覚書を追加した。
翻訳者は壊れた。しかし壊れたまま、一行書き足した。壊れたまま動ける。折れてはいない。
朝。
工作室には行かなかった。離脱初日。翻訳者不在の工作室。陽太と凛花と玲奈が回す。三人で。俺がいなくても動く。原則③。
代わりに海沿いの道を歩いた。朝の散歩。冬の朝の海は冷たい。風が強い。コートの襟を立てた。マフラーを巻いた。手がかじかむ。
朝凪の海。冬の朝凪は静かではない。波がある。しかし波の奥に凪がある。表面は荒れていても、深い場所は動かない。そういう凪。
海沿いの道を歩いていると、前方にベンチがあった。防波堤の上の、コンクリートのベンチ。誰か座っている。
影山だった。
影山透が、朝の海を見ていた。制服ではない。私服。ダウンジャケットにマフラー。手に文庫本を持っているが、開いていない。海を見ている。
偶然か。あるいは影山もまた、朝の海に答えを探しに来たのか。
影山が俺に気づいた。目が合った。
「高瀬」
「影山」
二人が朝の海の前で向かい合った。
影山の顔色は以前より良かった。憔悴は薄れている。忘却屋を段階的に縮小している過程で、少しずつ回復しているのだろう。
「工作室をサボりか」
「離脱だ。ルール⑤に基づく一時離脱」
「ルール⑤。メンバーも当事者になりうる」
「ああ。俺が当事者になった。翻訳者として機能不全だ。志帆の件で」
影山が俺を見た。目が静かだった。嘲笑ではない。共感に近い何か。
「お前も壊れたか」
「壊れた」
「俺と同じだな」
影山が海を見た。冬の海。波がある。白い飛沫がコンクリートにかかっている。
「お前が俺に言ったこと、覚えてるか。無害化。痛みを消すんじゃなくて、痛みの温度を下げる。呪いを教訓に変える」
「覚えてる」
「試してみた。俺の失恋を。上書きストーリーを捨てて、本物の記憶に戻って。痛かった。めちゃくちゃ痛かった。麻酔が切れた後の痛みだ。一年半分の痛みが一気に戻ってきた」
影山の声は平坦だった。しかし平坦さの中に深みがある。経験を通過した後の声だ。
「でも、死ななかった。痛かったけど、壊れなかった。痛みは痛みのまま残ってる。でも温度が下がった。少しだけ。忘却じゃなくて、ただ時間が経っただけかもしれない。分からない。でも触れても火傷しなくなった」
影山が無害化を実践していた。完璧ではない。しかし始めていた。忘却を捨てて、本物の痛みに向き合って、温度を下げようとしていた。
「お前のおかげだとは言わない」
影山が付け足した。
「でもきっかけはお前だ。忘却が不可能だと認めるきっかけを、お前がくれた。感謝はしない。しかし否定もしない」
影山らしい。素直に感謝しない。しかし否定もしない。その中間のどこかに、影山なりの誠実さがある。
「高瀬。お前が壊れてるなら、一つだけ言う」
「何だ」
「壊れたまま立ってろ。壊れたら修理しろ。お前が俺に言ったことだ。忘却屋を閉じて、本物の痛みに戻って、そこから始めろって。お前も同じだ。翻訳者の仮面を外して、本物の感情に戻って、そこから始めろ」
影山が俺の言葉を俺に返した。翻訳者の提案が、翻訳者自身に適用されている。
「翻訳者の仮面を外す」
「ああ。お前はいつも翻訳者として話す。翻訳者として考える。翻訳者として設計する。しかし好きだって言うのに翻訳者は要らない。高瀬恒一として言えばいい。翻訳しなくていい。設計しなくていい。自分の言葉で、三文字言えばいい」
影山が立ち上がった。文庫本をポケットにしまった。
「俺に偉そうなこと言える立場じゃないけどな。自分の恋も片付けられてないし。でも少なくとも、忘却はやめた。本物の痛みと向き合ってる。お前もやれ。翻訳者をやめるんじゃなくて、翻訳者に戻るために」
影山が歩き出した。海沿いの道を。朝の光の中を。
「忘却屋は来週、正式に閉じる。最後の投稿を書いて、アカウントを消す」
振り返らずに言った。
「お前が言った通り、利用者への謝罪も書く。忘却は嘘だったと。痛みを消す方法はないと。しかし痛みと一緒に生きる方法はあると。最後の投稿にそれを書いて、終わりにする」
影山が遠ざかっていった。冬の朝の道を歩いていく。背中がまっすぐだった。以前の猫背が戻っていた。論理で身体を支えていた頃の姿勢。しかし今の姿勢は論理だけではない。経験が加わっている。壊れて直した人間の姿勢。
俺は防波堤のベンチに座った。
海を見た。冬の朝凪。波がある。しかし波の奥に凪がある。
影山が言ったことを反芻した。「翻訳者の仮面を外して、本物の感情に戻って、そこから始めろ」。「自分の言葉で、三文字言えばいい」。
三文字。好きだ。
翻訳者の仮面を外す。高瀬恒一として、三文字を声にする。
昨夜ノートに書いた覚書。「翻訳者は自分の言葉を持つ。翻訳だけでは足りない。自分の言葉で語る力を育てる」。
その力を育てる場所はどこだ。工作室ではない。工作室は他人の恋を扱う場所だ。自分の恋は、工作室の外で処理する。
しかし工作室で学んだことは、外でも使える。陽太が奈緒に告白したとき、工作室のメソッドは使わなかったが、工作室で学んだことが背中を押した。日下部が篠原にありがとうと言ったとき、工作室が設計した場で、日下部自身の言葉を使った。
翻訳者が志帆に好きだと言うとき。工作室のメソッドは使わない。しかし工作室で九ヶ月間翻訳してきた経験が、翻訳者の背中を押すだろう。
壊れたままでいい。壊れたまま立つ。壊れたまま、一歩踏み出す。
答えはまだない。しかし問いは明確になった。
翻訳者は翻訳者をやめるのか。やめない。翻訳者は翻訳者のまま、自分の言葉を持つ。翻訳と自分の言葉を両立させる。それが進化だ。玲奈が言った通り。
冬の海。朝の光が水面を照らしている。灰色の海に、金色の筋が走っている。冬の朝日は低い。しかし低いからこそ、水面に長い光の道を作る。
翻訳者は壊れた。しかし折れてはいない。
明日も海を見に来るかもしれない。工作室には行かない。離脱中だ。しかし海は見に来る。海は答えを持っていない。しかし海を見ていると、問いが整理される。
問いは一つ。
志帆に、好きだと声にする。いつ。どこで。どうやって。
設計しない。翻訳しない。自分の言葉で。
しかしその「自分の言葉」を見つけるのに、もう少しだけ時間が要る。
ノートを取り出した。ポケットに入れていた小さなメモ帳。翻訳者の道具ではなく、個人のメモ帳。
一行書いた。
「志帆に会いに行く。翻訳者としてではなく、恒一として。自分の言葉で。三文字を声にする。いつかではなく、近いうちに」
書いた。設計書ではない。宣言だ。自分に向けた宣言。二度目の宣言。一度目はノートの「好きだ」。二度目は「声にする」。
あとは実行だ。
冬の海が光っている。波がある。風がある。しかしその奥に、凪がある。
翻訳者は凪の場所を知っている。荒れている表面の下に、静かな場所がある。そこに答えがある。
もう少しだけ。もう少しだけ潜れば、届く。
一月の朝。冬の光。海の匂い。
壊れた翻訳者が、ベンチに座って海を見ている。壊れたまま。しかし折れてはいない。




