第37話 幼馴染の距離
第37話 幼馴染の距離
「ずっと好きだった」
志帆は、ついにその言葉を恒一に向けた。
一月の日曜日。午後二時。
中学の近くの公園。ブランコがある。滑り台がある。砂場がある。冬の公園は子供が少ない。寒いから。午後の光が低い角度で差していて、遊具の影が長く伸びている。
志帆はブランコの前にいた。座ってはいない。立っている。手がブランコの鎖を握っている。金属の鎖は冬の冷たさを吸収していて、触れると指先が痛いはずだ。しかし志帆は握ったままだ。
俺は公園の入口から志帆を見ていた。十メートルの距離。中学時代、俺はベンチに座って本を読み、志帆がブランコを漕いでいた。いつもの構図。しかし今日は本を持っていない。ノートも。ペンも。翻訳者の道具を全部置いてきた。
「志帆」
声をかけた。志帆が振り向いた。
私服。白いコートにマフラー。ポニーテール。中学のときと同じ髪型。しかし目が違う。中学時代の志帆は明るかった。何も隠していなかった。今の志帆は明るさの下に別の層を持っている。覚悟の層。
「ありがとう、来てくれて」
志帆の声は静かだった。公園に来ている間に覚悟を固めたのだろう。手紙を書いたときよりも、声が安定していた。
「来ると言ったから来た」
「うん。手紙、嬉しかった。恒一が手紙で返してくれるなんて思わなかった」
「LINEじゃ言えないことがあるって書いてたから。俺もLINEじゃ言えないことがある」
志帆の目が少しだけ揺れた。俺が「言えないことがある」と言ったことに反応している。
二人で公園を歩いた。並んで。しかしブランコからベンチへの十メートルの距離が、今日は長く感じた。歩きながら、どちらも核心に触れなかった。
「この公園、変わんないね」
志帆が言った。滑り台を見ている。ペンキが剥がれかけている。しかし形は同じだ。
「お前も変わんないな」
「嘘。変わったよ」
志帆が俺を見た。目がまっすぐだった。
「変わっちゃったから、今ここにいるんだよ」
変わった。中学時代の志帆は恒一のことが好きだった。しかし言わなかった。変わったのは、言おうとしていること。変わったから今日ここにいる。覚悟が変わった。
ベンチに座った。二人で。中学時代と同じベンチ。しかし中学時代は俺が座って志帆がブランコにいた。今日は二人が隣に座っている。距離が近い。
一月の空気は冷たい。吐く息が白い。マフラーの上から鼻が冷える。手がかじかむ。しかし志帆は手袋をしていない。冷たい手のまま、ベンチの縁を握っている。
「話す」
志帆が言った。深呼吸した。白い息が空に上がっていった。
「あの依頼の、本当の理由。公園で話したとき、途中まで言った。恒一に見てほしかった。翻訳してほしかった。それは本当。でも、もう一つあった。あのとき飲み込んだこと」
飲み込んだ一文。あの日、公園のベンチで志帆が言葉を切った瞬間。「及川くんのことが好きなのか。それとも、私が本当に好きなのは」。そこで切れた。最後の一行は声にならなかった。翻訳者の耳には聞こえていた。しかし翻訳を拒否した。
「今日は飲み込まない」
志帆が俺を見た。目が赤くなっていく。泣く前の目ではない。泣かないと決めた目だ。涙をこらえるのではなく、涙を超えた場所にいる目。覚悟を完了した人間の目。
「恒一。ずっと好きだった。中学のときから」
空気が変わった。公園の空気が。一月の冷たい空気の中に、志帆の声だけが残った。「ずっと好きだった」。六文字。三年分の感情が、六文字に凝縮されている。
「中学一年の春から。恒一が隣の席に来たときから。窓の外見てるときの横顔が好きだった。誰かの気持ちを考えてるときの、真剣な目が好きだった。ノート貸してくれるときの、無愛想な優しさが好きだった」
志帆の声は震えなかった。準備してきた言葉だ。しかし準備した言葉と本音は矛盾しない。準備が必要だったのは、本音をそのまま出すことが怖かったからだ。準備するのは嘘のためではない。正直であるための準備。
「卒業するとき、言おうと思った。恒一に好きだって。でも言えなかった。言って振られたら、またねって言えなくなるから。だから『またね』だけ言った。好きですの代わりに、またねって」
「またね」。
中学の卒業式。校門の前。志帆が手を振った。「またね」。あのときの「またね」は、再会の約束ではなかった。告白の代替だった。好きですと言えなかった志帆が、好きですの代わりに投げた二文字。
翻訳者はあのとき、「またね」の裏を読めなかった。いや、読まなかった。読んだら、自分の感情と向き合わなければならなかったから。
「高校に入って、恒一は転校した。別の学校に。遠くに。忘れようとした。及川くんと付き合ったのは、恒一のことを忘れるためだった。好きな人を作れば、恒一のことを忘れられると思った」
忘却。志帆も忘却を試みていた。影山と同じだ。好きな人を忘れるために、別の人と付き合う。しかし忘却は不可能だった。影山が証明した通り。記憶は消えない。感情は消えない。
「でも忘れられなかった。及川くんと一緒にいても、ときどき恒一のことを考えた。恒一なら何て言うだろうって。恒一なら、この気持ちを何て翻訳するだろうって」
志帆は翻訳を求めていた。ずっと。中学から。自分の感情を言語化できない人間が、翻訳者に翻訳を求めていた。しかし翻訳者は逃げていた。LINEを返さなかった。辞書を閉じていた。
「工作室のことを聞いて、行こうと思った。嘘の依頼を持って。及川くんに好きな人ができたって嘘をついて。恒一に会いに。恒一に、私の恋を翻訳してほしかった」
全部が繋がった。全ての伏線が一つの点に収束した。
志帆の嘘の依頼。本当の理由。及川のことではなく、恒一のことだった。恒一に会いたかった。恒一に見てほしかった。翻訳者としてではなく、恒一として。志帆の恋の相手は、最初から恒一だった。
「嘘の依頼の本当の理由。恒一に、私を見てほしかった。翻訳者としてじゃなくて、恒一として。ずっと、好きだった」
志帆が全部言った。飲み込まなかった。六ヶ月前の公園で飲み込んだ最後の一行を、今日は声にした。
公園が静かだった。一月の午後。子供の声もない。風の音だけ。ブランコの鎖がわずかに揺れて、きいきいと鳴っている。
俺は黙っていた。
翻訳者は黙っていた。
志帆の気持ちは完璧に翻訳できる。百パーセント理解している。志帆が何を感じているか。なぜ嘘の依頼を持って来たか。なぜ手紙を書いたか。なぜ今日ここにいるか。全部翻訳できる。翻訳者の脳が自動で志帆の言葉を分析し、構造を把握し、感情の層を読み解いている。
完璧に翻訳できる。志帆の気持ちは。
しかし自分の気持ちだけが、声にならない。
辞書には書いた。「好きだ」と。ノートの最後のページに。しかしノートに書くことと、声にすることは別だ。書くのはペンの力だ。声にするのは自分の力だ。
分かっている。志帆のことが好きだ。中学のときから。隣の席で窓の外を見ていたときから。「またね」と言われたときから。好きだ。その一語は辞書に載った。もう沈殿していない。水面に浮かんでいる。
なのに声にできない。
分かっているから怖い。好きだと分かっている。分かっているのに声にしたら、翻訳者のポジションが完全に崩れる。客観的な第三者でいられなくなる。工作室の参謀として、翻訳者として機能しなくなる。
いや、違う。
その理由は嘘だ。翻訳者のポジションが崩れることへの恐怖は、本当の理由ではない。本当の理由はもっと単純だ。
好きだと言って、志帆に受け入れられたら。その先の世界が見えない。翻訳者は未知の感情を扱うのが苦手だ。既知の感情なら翻訳できる。しかし自分が誰かと付き合うこと。自分が誰かに好きだと言うこと。その先にある感情は、翻訳者の辞書にまだ載っていない。載っていない言葉を使うのが怖い。
「恒一」
志帆が俺を見ていた。待っている。答えを。
俺は口を開いた。何を言うか決まっていなかった。設計書はない。翻訳もしない。自分の言葉で。
「志帆。お前の気持ちは分かってる」
声が出た。掠れていた。しかし聞こえる声だった。
「完璧に分かってる。お前が何を感じてるか。なぜここにいるか。全部分かってる。翻訳者だから」
志帆が小さく頷いた。
「でも、自分の気持ちが声にならない」
正直に言った。嘘はつかない。翻訳者も、そろそろ嘘をつかなくていい。
「分かっている。分かっているのに、声にできない。辞書には書いた。しかし声にするのと書くのは違う。書くのはペンの力だ。声にするのは俺自身の力だ。今の俺には、その力がまだ足りない」
志帆の目が揺れた。しかし泣かなかった。泣かないと決めた目のまま。
「足りない、か」
「ああ。足りない。お前に応える資格がないとか、そういう話じゃない。資格の問題じゃなく、能力の問題だ。自分の感情を声にする能力が、まだ育っていない」
翻訳者の告白。自分の限界の告白。他人の感情は翻訳できるのに、自分の感情を声にできない。翻訳者としての能力の非対称。他者翻訳は百点。自己翻訳はゼロ点。
「少し、時間をくれ」
六ヶ月前にも同じことを言った。公園で。「時間がほしい」。あのときと同じ台詞。進歩していないのか。
いや、進歩している。六ヶ月前は「分からない」だった。今は「分かっている。しかし声にできない」。分からないのと声にできないのは別の段階だ。辞書は開いた。一語は書いた。あとは声にするだけ。あと一歩。
「待つよ」
志帆が言った。
泣いていなかった。笑ってもいなかった。ただ静かに、俺を見ていた。
「六ヶ月前も待つって言ったよね、私。今日も同じ。待つ。恒一が声にできるまで」
「何年でも待つのか」
「何年でもは無理。でも、もう少しなら。恒一が今、分かっているって言ってくれた。分かっているなら、あとは声にするだけでしょ。それなら待てる。近いって分かるから」
志帆は鋭い。翻訳者の限界を正確に理解している。分かっているのに声にできない。それは遠い問題ではなく近い問題だ。あと一歩。その一歩を待つことは、三年間待つことよりずっと楽だ。
「志帆」
「ん」
「一つだけ言えることがある」
志帆が俺を見た。
「お前の三年間は、無駄じゃなかった」
日下部に設計した言葉と同じ構造だ。三年間の感情を否定しない。消さない。忘却しない。志帆が俺を好きだった三年間は、なかったことにはならない。
「お前が嘘の依頼を持って工作室に来たのも、手紙を書いたのも、今日ここにいるのも。全部、三年間の気持ちから来ている。その気持ちは本物だ。嘘じゃない。俺はそれを分かっている」
志帆の目に涙が浮かんだ。しかし流れなかった。こらえた。泣かないと決めた目のまま。
「恒一も、変わったね」
「変わったか」
「変わった。中学のときの恒一は、こんなこと言わなかった。他の人の気持ちは読めても、自分のことは何も言わなかった。今は、自分のことも少しだけ言ってくれる」
少しだけ。まだ全部は言えない。しかし少しだけ。「分かっている」と言えた。「お前の三年間は無駄じゃなかった」と言えた。それは六ヶ月前の俺には言えなかった言葉だ。
「じゃあ、今日はここまでにしよう」
志帆が立ち上がった。ベンチから。コートの埃を払った。
「恒一。次に会ったとき、声にしてね」
「約束は」
「しなくていい。でも、近いって分かったから。待てる」
志帆が笑った。泣かなかった。笑顔。本物の笑顔。鎧でも防壁でもない。志帆の素の笑顔。中学のときにブランコを漕ぎながら見せていたのと同じ笑顔。
「じゃあね」
「じゃあね」
「またね」ではなく「じゃあね」。志帆はもう「またね」を使わない。「またね」は告白の代替だった。今日、告白した。告白した後に必要なのは「じゃあね」だ。今日の別れ。次がある前提の別れ。
志帆が公園を出ていった。白いコートが冬の光の中を歩いていく。ポニーテールが揺れている。背中が小さくなっていく。
俺はベンチに座ったまま動けなかった。
六ヶ月前と同じだ。志帆が去った後のベンチに、俺が一人で座っている。しかし六ヶ月前とは違う。あのときは白紙だった。今は一語がある。辞書に書いた一語。好きだ。
声にできなかった。
好きだと。志帆の前で。言えなかった。
翻訳者の脳は完璧に動いている。志帆の感情は百パーセント翻訳できている。志帆が恒一を好きなこと。三年間想い続けていたこと。嘘の依頼の動機。手紙の意味。今日の告白の覚悟。全部翻訳できている。
しかし自分の感情だけが、声にならなかった。分かっている。好きだ。ノートにも書いた。頭の中では浮上している。しかし喉から先に出なかった。
なぜだ。
分かっている。好きだと分かっている。なら言えばいい。好きだと。三文字。声にすればいい。
怖い。
まだ怖い。何が怖い。
声にした瞬間に、翻訳者ではなくなる。客観的な第三者ではなくなる。恋をしている当事者になる。当事者になったら、これまで翻訳してきた全ての依頼者と同じ場所に立つ。
同じ場所に立つことが、怖いのか。
違う。
同じ場所に立つのは怖くない。日下部も立った。陽太も立った。影山も立とうとしている。同じ場所に立つことは、人間として自然なことだ。
怖いのは、声にした後に何が起きるか分からないことだ。翻訳者は予測する人間だ。他人の感情を読み、展開を予測し、設計する。しかし自分の恋の展開は予測できない。好きだと言った先に何があるか。翻訳者の辞書には載っていない。未知の領域。
未知が怖い。
しかし未知を怖がって動かなければ、工作室の原則③に反する。完璧を待たない。走りながら更新する。未知は走っているうちに既知に変わる。
帰り道。
一人で歩いた。中学の近くの道。二年前まで毎日歩いていた道。志帆と二人で歩いた道。しかし今日は一人だ。
歒の途中で立ち止まった。
胸に手を当てた。冬のコートの上から。心臓が動いている。速い。普段より速い。志帆の告白を聞いた後から、ずっと速い。
翻訳不能の感情が、確かにそこにある。
翻訳不能ではない。翻訳済みだ。好きだ。辞書に載せた。しかし声にしていない。声にすることと、辞書に載せることの間に、まだ距離がある。
その距離を埋めなければならない。
いつか、ではない。近いうちに。志帆は「近いって分かったから」と言った。近い。あと一歩。
家に帰った。自室の机に向かった。
ノートを開いた。「志帆に対する記憶の整理」のノート。最後のページ。「好きだ」と書いてある。
その下に、一行書き足した。
「声にできなかった。しかし分かっている。好きだ。あと一歩。次に会ったとき、声にする」
書いた。約束ではない。予定だ。設計書ではない。宣言だ。翻訳者が自分に向けた宣言。次に会ったとき。声にする。
いつ次に会うか。分からない。しかし遠くはない。志帆が待っている。近いと分かっている。
ノートを閉じた。
一月の夜。冬の星。窓の外に、冷たくて明瞭な光が見える。
翻訳者は分かっている。あとは声にするだけ。しかしその「声にする」が、翻訳者にとっては最も困難な一歩だ。他人の言葉なら何万語でも翻訳できる。自分の言葉は三文字すら声にできない。
三文字。好きだ。
あと一歩の距離が、海よりも広く感じた。
しかし歩く。歩くと決めた。走りながらではなく、立ち止まって。次に志帆の前に立ったとき。辞書を開いて、声にする。
翻訳者が翻訳者でなくなる瞬間。それは終わりではなく、始まりだ。
冬の夜。一月の風。
その一歩は、近い。




