第36話 志帆の手紙
第36話 志帆の手紙
手紙が来た。
宮前志帆から。「あの依頼の、本当の理由を話したい」。
十二月の第四週。日下部の依頼が終わってから数日後。クリスマスを過ぎて、年末の空気が校舎に漂っている。冬休みまであと二日。教室の窓から見える朝凪の海は鉛色だ。冬の海。静かではない海。波がある。風がある。しかし嘘のない海。
朝のHRが始まる前に、担任が配り物をした。プリント類の束。その中に一枚だけ、封筒が混ざっていた。白い封筒。手書きの宛名。「高瀬恒一様」。
学校経由で手紙を受け取るのは初めてだった。差出人の名前は書いていない。しかし字を見た瞬間に分かった。この字を知っている。中学のときに何度も見た字だ。ノートの貸し借り。プリントの書き込み。志帆の字。少し丸くて、少しだけ右に傾いている。
封筒を机の引き出しにしまった。授業中には読めない。読む覚悟もまだできていない。
手紙。
メールでもLINEでもなく、手紙。志帆はデジタルでは言えないことを言おうとしている。LINEなら既読がつく。メールなら受信通知が出る。しかし手紙は、相手が読んだかどうか分からない。読むタイミングも、読む場所も、全部受け取った側に委ねられる。手紙は一方通行の言葉だ。投函した瞬間に書き手の手を離れて、受け取り手に全てを預ける。
志帆は俺に預けようとしている。何かを。
放課後。
学校に残った。工作室には行かなかった。教室に一人で座って、引き出しから封筒を取り出した。白い封筒。角が少しだけ折れている。学校の配布物に混ざったせいだろう。
封を切った。中から便箋が一枚。手書き。志帆の字。
読んだ。
「恒一へ。
久しぶりに手紙を書きます。LINEじゃ言えないことがあって。
あの依頼の本当の理由を、ちゃんと話したいです。公園で話したとき、全部は言えなかった。泣いちゃったし、恒一も翻訳できないって言ったし。あのときは二人とも限界だったから。
でも今なら、ちゃんと話せる気がします。
及川くんとは、あれから上手くやっています。恒一が翻訳してくれた言葉がきっかけで、及川くんも自分の気持ちを言葉にしてくれました。今は大丈夫です。
でも、恒一のことは大丈夫じゃない。
私はまだ、恒一に伝えていないことがあります。
会ってくれますか。
志帆」
便箋を持つ手が震えた。微かに。翻訳者の手が。
「伝えていないことがある」。
志帆は公園で本音を言った。「恒一に見てほしかった」「翻訳してほしかった」。しかしそれは本音の一部だった。まだ言っていないことがある。公園で泣きながら飲み込んだ最後の一文。あのとき声にならなかった一行。
翻訳者の耳は、あのとき志帆が飲み込んだ言葉を聞いていた。聞こえていたが、翻訳を拒否した。翻訳したら自分の辞書を開かなければならないから。
今は違うのか。
今なら翻訳できるのか。
分からない。しかし志帆は会いたいと言っている。手紙で。デジタルではなく紙で。志帆の覚悟がその形に表れている。
便箋を封筒に戻した。引き出しにしまった。
返事ができなかった。
一日目。返事を書こうとして、便箋を出して、ペンを持って、白紙を前にして何も書けなかった。翻訳者のくせに。他人の感情は言葉にできるのに、自分の返事が書けない。
二日目。冬休みに入った。学校は閉まった。家にいた。志帆の手紙を何度も読み返した。「伝えていないことがある」。その一文が頭の中でループしていた。
三日目。陽太からLINEが来た。
『恒一。なんか様子変だったぞ。何かあったか』
コミュ力お化けは人の変化に敏感だ。学校最後の日、俺の顔色が変わっていたことに気づいていたらしい。
『志帆から手紙が来た。会いたいって』
『マジか。で、返事した?』
『まだ』
『まだかよ。何日経ったんだよ』
『三日』
返信が十秒来なかった。陽太が考えている。
『恒一。俺が先輩風吹かせてもいいか』
『お前に先輩風はない。同学年だろ』
『じゃあ友達風で。自分で決めろ。それだけだ。工作室が教えてることだろ。選ぶのは本人だ。お前が依頼者に何度も言ってきたことだ。今度はお前が本人だ』
選ぶのは本人。
工作室の原則。依頼者に対してずっと言い続けてきた言葉。それを今、翻訳者自身に向けられている。陽太の言葉には裏がない。翻訳の必要がない。「自分で決めろ」。シンプルで、正確で、逃げ場がない。
『工作室の設計じゃ解決できないぞ、これは。志帆さんに会うかどうかは、工作室の依頼じゃない。お前個人の問題だ。設計書は書けない。翻訳もしなくていい。自分の言葉で、自分で決めろ』
陽太は正しい。これは工作室の案件ではない。依頼者の問題ではなく、翻訳者個人の問題だ。設計書で解決するものではない。他人の言葉を翻訳するのではなく、自分の言葉を見つけて、自分で決める。
四日目。大晦日。
年が変わろうとしている。テレビの除夜の鐘が遠くから聞こえている。家族は居間にいる。俺は自室にいた。
机の上に志帆の手紙がある。何度も読んだ便箋。折り目が増えている。
隣に、白い便箋が一枚。俺の返事用。まだ白紙。
ペンを持った。
翻訳しない。設計しない。自分の言葉で書く。
日下部の依頼が教えてくれたことがある。三年間の記憶を整理し、言葉に変換し、相手に渡す。その過程が清算になる。日下部はありがとうと書いた。
俺は何を書く。
ペンの先を便箋に当てた。インクが紙に染みた。
「志帆へ。
会おう。
手紙ありがとう。LINEじゃなくて手紙で来たから、俺も手紙で返す。
伝えていないことがあるって書いてたな。俺にも、伝えていないことがある。ずっと。中学のときから。
会って話そう。場所は、中学の近くの公園で。あのブランコのあるところ。
恒一」
短い。翻訳者のくせに、短い手紙だ。他人の感情は何千文字でも翻訳できるのに、自分の言葉は数行しか出てこない。
しかしこの数行に嘘はない。設計もない。翻訳もない。高瀬恒一の、素の言葉。
「俺にも伝えていないことがある」。
その一文を書いた瞬間、翻訳者の辞書が一ページ開いた。志帆の名前の横にある白紙のページが、わずかに動いた。まだ一語は書かれていない。しかしページが開いた。風通しが良くなった。密封されていた辞書に、空気が入った。
便箋を封筒に入れた。宛名を書いた。「宮前志帆様」。志帆の学校の住所は知っている。中学の友達から聞いていた。聞いていたのに、一度も手紙を書かなかった。何ヶ月もLINEの返信すらしなかった。
今、書いた。遅すぎるかもしれない。しかし遅すぎても、書かないよりましだ。完璧を待たない。走りながら更新する。工作室のルール③。自分にも適用する。
翌日。元日の朝。年が変わっていた。
ポストに手紙を投函した。白い封筒が赤いポストの口に消えていった。
投函した瞬間に、手紙は俺の手を離れた。あとは志帆に届くのを待つだけだ。届いて、読まれて、志帆が何を思うかは志帆次第だ。俺にできるのはここまで。
家に戻って、窓の外を見た。元日の朝。冬の空は晴れていた。空気が澄んでいる。朝凪の海が見える。冬の海は灰色だが、今朝は少しだけ青が混ざっている。元日の光が海面を照らしている。
スマホが震えた。陽太からのLINE。
『あけおめ。返事書いたか』
『書いた。投函した』
『マジか。やったな。で、何て書いた』
『会おうって。手紙で。中学の近くの公園で』
『お前が手紙書いたのかよ。翻訳者が自分の言葉で手紙書いたのかよ。成長したな恒一』
『うるさい。お前より遅いけど』
『遅くても着いたんだからいいだろ。走りながら、だっけ。走ってたんだな、ちゃんと。歩いてるように見えたけど』
陽太の言葉に裏はない。しかし温かさがある。コミュ力お化けの温かさ。
凛花からもLINEが来た。
『あけましておめでとうございます。先輩、年末に何かあったんですか。顔色が変わってました』
記録者も気づいていた。翻訳者の顔色の変化を。
『志帆から手紙が来た。返事を書いて出した。会う約束をした』
『記録します。って、これは工作室の記録じゃないですね。先輩個人の記録です。でも記録したいです。先輩が志帆さんに返事を書いたこと。それは工作室の歴史の一部です。翻訳者が自分の辞書を開こうとしていること。それは全部に繋がっています』
凛花の言葉が沁みた。工作室の歴史の一部。翻訳者個人の問題が、工作室全体に繋がっている。ルール⑤。メンバーも当事者になりうる。当事者になったら自覚して申告する。俺は当事者だ。志帆の件で。そして当事者であることを、もう隠さない。
玲奈には連絡しなかった。顧問に個人の恋の報告をするのは違う。しかし玲奈はたぶん知っている。玲奈は全部見ている。顧問として。そして玲奈としても。
一月。新年。
冬休みが明けて、三学期が始まった。教室に戻った。日常が戻った。しかし俺の中では日常ではないことが進行していた。
志帆からの返事を待っていた。
手紙を投函してから五日後。元日に出したから、配達の関係で遅れているのかもしれない。あるいは志帆が返事を考えているのかもしれない。俺が三日間返事できなかったように、志帆も時間がかかっているのかもしれない。
一月六日。三学期の初日。
朝のHRが始まる前に、スマホが震えた。志帆からのLINE。手紙ではなく。
『手紙読んだ。ありがとう。恒一が手紙で返してくれると思わなかった。嬉しかった。
公園で会おう。中学の近くの。ブランコのあるところ。
日曜日。午後二時。
待ってる』
来た。
返事が来た。日時と場所が決まった。日曜日。あと五日。
五日間で、何を準備する。設計書は書かない。翻訳もしない。自分の言葉で会いに行く。日下部が篠原に「ありがとう」を言いに行ったように。しかし俺が志帆に言うのは「ありがとう」ではないかもしれない。
何を言うのか。
辞書を開かなければならない。志帆の名前の横のページ。白紙のページ。そこに一語を書く。浮かんで沈んで浮上しかけているあの一語を。
好きだ。
頭の中で、あの一語が水面に顔を出した。今度は沈まなかった。浮かんだまま、水面に留まっている。空気に触れている。
好きだ。志帆のことが。中学のときから。隣の席で窓の外を見ていたときから。「またね」と言われたときから。LINEの返信をしなかったのは、好きだと認めるのが怖かったから。嘘の依頼を見抜けなかったのは、好きな人間の嘘は見たくなかったから。全部が繋がっている。全部が、好きだという一語に収束する。
翻訳者が自分を翻訳した。
長かった。四月に転入してから九ヶ月。中学時代から数えれば三年以上。辞書を閉じていた時間。その辞書がようやく開いた。一ページだけ。一語だけ。しかし一語で十分だ。
好きだ。
その一語を志帆に言うのか。日曜日に。公園で。ブランコの前で。
分からない。言うかもしれない。言わないかもしれない。日下部は「好き」を「ありがとう」に変換した。俺は「好き」をそのまま言うのか。別の言葉に変換するのか。
決めない。今は決めない。日曜日に、志帆の前に立ったときに決める。現場で決める。設計書通りにはいかない。藤川もそうだった。日下部もそうだった。設計書は道具であって台本ではない。現場では何が起きるか分からない。
翻訳者は翻訳しない。設計者は設計しない。高瀬恒一として、宮前志帆の前に立つ。
ノートを開いた。「志帆に対する記憶の整理」のノート。何ページも記憶が並んでいる。最後のページ。白紙だった場所。
ペンを持った。一語書いた。
「好きだ」
二文字。ノートの最後のページに。翻訳者の辞書に、ようやく登録された一語。
ノートを閉じた。
日曜日まであと五日。
工作室の仕事は続けながら。忘却屋の利用者対応も続けながら。全部を並行して。しかし日曜日のことだけは、工作室とは切り離す。工作室の翻訳者としてではなく、高瀬恒一として。
待ち合わせ場所は中学の近くの公園。ブランコのあるところ。中学時代に二人でよく遊んだ場所。志帆がブランコを漕いで、恒一がその横のベンチで本を読んでいた場所。
あの場所に戻る。九ヶ月ぶりに。いや、中学の卒業以来だから、二年ぶりか。
志帆が待っている。「伝えていないこと」を持って。
俺も行く。「伝えていなかったこと」を持って。
二人とも、ずっと伝えていなかった。ずっと辞書を閉じていた。
日曜日に、二つの辞書が開く。
一月の夜。窓の外に星が見える。冬の星。冷たくて、遠くて、しかし明瞭に光っている。
翻訳者の辞書に一語が載った。
あとは、その一語を声にするだけだ。




