第33話 忘却から無害化へ
第33話 忘却から無害化へ
「忘却は不可能だ」
恒一は、影山の目を見てそう言った。
工作室が正式に再始動してから三日後。九月の二週目。秋の空気が日ごとに濃くなっている。朝凪の海は深い青を湛えて、夏の騒がしさを失い、静かに秋に移行している。
屋上。四度目。
影山透を呼び出したのは俺のほうだった。LINEを送った。影山のアカウントは炎上以降も生きている。忘却屋のアカウントとは別の、影山個人のアカウント。
『話がある。屋上で。放課後』
返信は三十分後に来た。『来る』。二文字。影山らしい。無駄のない返答。
放課後の屋上。九月の光が夏より柔らかい。コンクリートの床はまだ温かいが、風が涼しい。フェンスの向こうに朝凪の海が広がっている。
影山はフェンスに寄りかかって立っていた。前に会ったときより顔色が良い。隈は残っているが、校舎裏で見たときの憔悴は薄れている。私服ではなく制服を着ている。学校に通っている。日常を取り戻しつつある。
しかし目はまだ定まっていない。迷いが残っている。忘却屋を閉じると言ったが、まだ閉じていない。閉じる決断はしたが、実行に移せていない。
「来たな」
影山が言った。
「ああ。話がある」
俺は影山の三メートル手前で立ち止まった。翻訳者の距離ではない。対話者の距離。対決の距離でもない。同じ問題について話し合う人間同士の距離。
「工作室がver.2で再起動した。新しいルールで。新しい体制で」
「知ってる。ドアの告知を見た」
影山は工作室の前を通ったのだ。旧部室棟に来ている。工作室のドアに貼られた「再開しました」の告知を見た。工作室から離脱した人間が、工作室の変化を確認している。
「新しいルールの中に、お前への提案がある」
「提案」
「忘却は不可能だ。お前も分かっているはずだ」
影山の目が動いた。翻訳者の一行目が急所に触れた。
「上書きストーリーは嘘だった。記憶は消えない。消したふりをして、隠しただけだ。隠したものは漏れる。お前が証明した。忘却屋の破綻が証明した」
影山の唇が引き結ばれた。反論したい顔だ。しかし反論の材料がない。事実を前にして、論理の人間は黙る。
「でも、痛みを無害化する方法はある」
「無害化」
影山がその言葉を噛んだ。初めて聞く言葉ではない。屋上で話したときに、俺は「無害化」を口にしている。しかし今日は正式な提案として、論理を組み立てて伝える。
「痛い記憶がある。消えない。消えないなら、記憶の持つ意味を変える。呪いを教訓に変換する。傷を、自分を作った経験に読み替える。痛みの温度を下げる。ゼロにはならない。しかしゼロにする必要もない」
影山が黙って聞いている。腕を組んでいない。開いた姿勢。聞く姿勢。
「陽太が実践した。中学時代に告白を晒されたトラウマを、忘却ではなく清算で乗り越えた。相手に再会して、あの告白は恥ずかしくなかったと確認した。痛みは消えていない。しかし痛みの意味が変わった。トラウマが、工作室に繋がる道標になった。痛みが方向を持った。方向のある痛みは、方向のない痛みよりずっと軽い」
影山の目が揺れた。翻訳者の言葉が届いている。しかし届いていることと、受け入れることは別だ。
「お前にもできる。お前の失恋。工作室のメソッドで完璧に設計して、それでも救えなかった恋。その痛みは消えない。でも意味は変えられる。あの失恋があったから忘却屋を作った。忘却屋が破綻したから、忘却の限界を知った。知ったから、次に進める。失恋は呪いじゃなくて、お前の人生の一部だ」
影山の表情が変わった。固まっていた顔に、何かが走った。怒りではない。衝撃でもない。もっと静かなもの。波紋のようなもの。石を投げた水面に広がる、同心円の揺れ。
沈黙が続いた。五秒。十秒。屋上の風が二人の間を吹き抜けた。
「偉そうに言うな、高瀬」
影山の声が低かった。しかし怒りの声ではなかった。もっと痛い場所から出てきた声だ。
「お前だって、あの幼馴染のことで翻訳不能になっただろ。嘘の依頼を見抜けなかっただろ。工作室を炎上させただろ。無害化できてない人間が、無害化を語るな」
正論だ。
反論できなかった。影山の指摘は的確だ。俺はまだ志帆に対する感情を無害化できていない。辞書は開きかけているが、完全には開いていない。「好きだ」という一語が浮かんで沈んだだけだ。形になっていない。
「正論だ」
俺は認めた。認めるしかなかった。翻訳者が自分の弱点を認める。ルール⑤の実践だ。当事者になったら自覚して申告する。
「俺はまだ無害化できていない。志帆のことも、辞書の中身も。全部未処理だ。走りながら処理すると決めただけで、まだ走り始めたばかりだ」
「なら語る資格はないだろ」
「資格はないかもしれない。でも方向性は正しいと信じている。俺が無害化できていないことと、無害化という概念が正しいことは別だ。医者が病気でも、処方箋は書ける」
影山が鼻で笑った。しかし嘲笑ではなかった。苦笑だ。俺の比喩が的外れではないことを認めた笑いだ。
「お前は面白いやつだな。自分の弱点を認めた上で、それでも提案をやめない」
「翻訳者だから。翻訳者は自分が不完全でも翻訳を止めない。完璧な翻訳者だけが翻訳していいなら、翻訳者は一人もいなくなる」
「工作室のルール③か。完璧を待たない」
「ああ。走りながら更新する。俺自身も走りながら更新する。お前にも同じことを提案している。忘却を諦めて、無害化を試してみないか。完璧にできなくてもいい。走りながら」
影山が海を見た。九月の海。深い青。波が穏やかだ。朝凪の海は秋に入ると表情が落ち着く。夏の躁的な輝きが消えて、静かな深さに変わる。
「無害化、か」
影山がその言葉を三度目に噛んだ。初めて聞いたときは拒絶した。二度目は考えた。三度目は、味わっている。
「痛みを消さずに、意味を変える。忘却の対極だ」
「対極だが、出発点は同じだ。どちらも痛みから始まっている。痛みをどう処理するか。忘却は消す方向。無害化は変換する方向。方向が違うだけで、スタートラインは同じだ」
「同じスタートライン、か」
影山が俺を見た。目が静かだった。屋上で初めて対峙したときの挑発的な目ではない。忘却屋が破綻した後の困惑の目でもない。もっと奥にある、素の目。影山透の目。
「認める」
影山が言った。
「何を」
「工作室が変わったことを。旧版の工作室は綺麗事だった。場を作るだけ。選ぶのは本人。残された痛みは放置。それが俺の批判だった。しかしver.2は違う。痛みの処理方法を提案している。忘却ではなく無害化を。旧版にはなかった回答だ」
影山が工作室の変化を認めた。批判者が変化を認めるのは、変化が本物である証拠だ。
「しかし」
影山の声が硬くなった。
「俺は今すぐ忘却屋を閉じない」
予想していた。影山はまだ閉じる準備ができていない。忘却屋は影山の逃避装置であり、同時に影山のアイデンティティの一部だ。一年間、影山は忘却屋として生きてきた。それを閉じることは、過去の一年間を否定することに近い。
「閉じないが、新しい利用者は受け付けない。既存の利用者への対応だけを続ける。そして模倣犯への対処も進める。俺の手でできることをやる」
段階的な撤退。一気に閉じるのではなく、徐々に縮小する。影山らしい合理的な判断だ。
「それでいい。お前のペースでやれ。工作室は待つ。お前が閉じると決めたとき、場を用意する」
「場」
「お前が忘却屋を閉じた後に立つ場所だ。忘却屋じゃない影山透として、朝凪高校に立つ場所。工作室がそれを作る」
影山が小さく息を吐いた。溜息ではない。何かが緩んだ音だ。緊張が一段下がった。
「一つだけ、伝言がある。玲奈先輩からだ」
影山の表情が変わった。玲奈の名前に反応している。かつての共同創設者。影山が問いを投げ、玲奈が沈黙した相手。
「先輩が言っていた。『あのとき答えられなくて悪かった。影山の問いに答えがなかったのは、私の設計の限界だった。ver.2が答えを見つけてくれたことに感謝している』と」
影山の目が揺れた。大きく。初めて見る揺れだった。
「桐生が、そう言ったのか」
「ああ。先輩の言葉そのままだ」
影山が顔を俯けた。五秒。十秒。長い沈黙。風の音だけが聞こえた。
影山が顔を上げたとき、目が潤んでいた。泣いてはいない。しかし涙の一歩手前だ。
「桐生に伝えてくれ。謝る必要はないと。あの問いに答えがなかったから、俺は忘却屋を作った。忘却屋が破綻したから、忘却の限界を知った。全部、必要な回り道だった。答えがなかったことも含めて」
影山が玲奈の謝罪を受け止めた。しかし許しではなく、理解として。全部が回り道だった。答えがないことも、回り道の一部だった。
「それと」
影山が背を向けた。屋上のドアに歩き始めた。
「高瀬。お前の提案は拒否する。今は。しかし」
影山が立ち止まった。振り返らなかった。
「無害化という言葉は覚えておく。忘却が完全に行き詰まったとき、その言葉を使うかもしれない。──使わないかもしれない。分からない」
それで十分だった。
種は蒔いた。芽が出るかは影山次第だ。工作室にできるのは場を作ることだけ。心は操作しない。影山が無害化を選ぶかどうかは、影山が決める。
影山が屋上のドアを開けた。去り際に、もう一言。
「工作室が変わったのは認める。お前が率いる工作室は、桐生のときより不格好だが、不格好なぶんだけ本物に近い」
ドアが閉まった。影山の足音が階段を降りていく。遠ざかっていく。
俺は屋上に一人残された。何度目の一人だろう。この屋上で一人になるのは。
海を見た。九月の海。深い青。波がない。朝凪の海。
種を蒔いた。無害化という種を。影山の中に。芽が出るかは分からない。しかし蒔かなければ永久に芽は出ない。凛花の記事と同じだ。蒔くことに意味がある。結果は、時間が決める。
影山の言葉を反芻した。「お前こそ無害化しろ」。正論だ。翻訳者は他人に無害化を提案しておいて、自分はまだ無害化していない。志帆への感情。辞書の白紙。
走りながら処理する。原則③。完璧を待たない。
しかし走り続けていても、いつかは立ち止まって辞書を開かなければならない瞬間が来る。走ることは処理の先送りではない。走りながら少しずつ処理するのだ。一歩ごとに一行。一日ごとに一語。
今日は影山との対話で一つ処理した。影山に「正論だ」と認めた。自分が無害化できていないことを認めた。認めたことは処理の一歩だ。
あと何歩あるのか。分からない。しかし一歩は進んだ。
屋上を降りた。廊下を歩いた。旧部室棟に向かった。
工作室のドアを開けた。
陽太と凛花がいた。
「どうだった」
陽太が聞いた。
「種は蒔いた。影山は今すぐ閉じないが、新規利用者は受けないと言った。段階的に縮小する」
「拒否はされたのか」
「無害化の提案は拒否された。今は、と言っていた。今は拒否。しかし覚えておくとも言った」
「種を蒔いたってことか」
「ああ。芽が出るかは影山次第だ」
凛花がノートに記録していた。
「影山透との対話。第四回。場所、屋上。結果、無害化提案を拒否。ただし段階的閉鎖を確認。玲奈先輩の伝言を伝達。影山からの返答あり」
記録者は全てを記録する。影山との対話も工作室の活動の一部として。
「それと」
俺はホワイトボードを見た。五つのルールが並んでいる。
「影山に言われた。お前こそ無害化しろ、って」
陽太が腕を組んだ。
「志帆さんのことか」
「ああ。影山に正論で返された。無害化を語るなら、まず自分が無害化しろと」
「で、どうすんだ」
「走りながら処理する」
「その走りながらっていつまで走んだよ」
「分からない。でも走ってる最中に見えるものがある。今日も一つ見えた。自分が不完全であることを認めたうえで、それでも提案を続けるのが翻訳者だと」
「なるほどな。不完全を認める強さ、ってやつか」
「格好つけるな」
「お前が格好つけてるんだよ」
笑い声が工作室に響いた。
凛花が顔を上げた。
「先輩。影山先輩のこととは別に、一つ報告があります」
「何だ」
「依頼が来ています。今朝、依頼ボードに紙が貼ってありました」
依頼。工作室ver.2としての最初の正式な依頼。
依頼ボードを見た。紙が一枚。手書きの文字。丁寧だが少し震えている。迷いがあるが決意もある字。以前にも見たことのある種類の字だ。助けを求める人間の字。
「三年間片想いの相手に、告白せずに卒業したい。でも後悔もしたくない」
矛盾した依頼。告白したくないのに後悔したくない。告白しなければ後悔する。告白すれば結果がどうあれ後悔しない。しかしこの依頼者は告白を選ばない。選ばないのに後悔を避けたい。
翻訳者の脳が動いた。自動で。この矛盾を解体する。「告白せずに卒業したい」は表面。「後悔もしたくない」が裏面。二つの欲望が同時に存在している。
「告白せずに、後悔しない方法を見つけてほしい」
これが依頼の本質だ。告白という行為を経由せずに、三年間の片想いに決着をつけたい。告白は怖い。しかし何もしないまま終わるのも怖い。第三の道を求めている。
告白しない告白。言葉にしない告白。矛盾した、しかし美しい依頼だ。
「受けるか」
陽太が聞いた。
俺はホワイトボードのルールを見た。
原則①:心は操作しない。
原則②:匿名依頼は受けない。
原則③:依頼者の撤退も設計する。
原則④:完全救済を約束しない。
原則⑤:メンバーも当事者になりうる。
五つのルールに照らして、この依頼は受理可能だ。依頼者は実名で来ている。告白を強制しない。撤退も設計する。完全な解決は約束しない。そしてメンバーの誰も、この依頼で当事者にはならない。
「受ける」
ver.2の最初の正式依頼。三年間の片想いの清算。告白せずに後悔しない方法。
翻訳者の脳が回り始めた。依頼者の言葉を翻訳し、設計のヒントを探す。忘却ではなく無害化。三年間の片想いの痛みを消すのではなく、痛みの温度を下げて、清算する。
「明日、依頼者と面談する。凛花、同席してくれ。陽太は情報収集」
「了解」
「了解です」
ver.2が動き始めた。影山との対話は継続する。志帆の件は走りながら処理する。そして目の前には新しい依頼がある。
全部が同時に動いている。しかしそれでいい。完璧を待たない。走りながら更新する。
ホワイトボードに、依頼の情報を書き始めた。
「依頼⑥。三年間の片想い。告白なしの清算」
マーカーの音が工作室に響いた。新しい始まりの音。ver.2の最初の音。
窓から九月の風が入ってきた。秋の風。海の匂い。新しい季節。
工作室は走り始めている。
翻訳者は翻訳を続ける。不完全なまま。走りながら。自分の辞書も、少しずつ。
九月の海が、窓の外で静かに光っている。




