第3話 告白は三秒で終わる
第3話 告白は三秒で終わる
告白は三秒で終わった。成功だった。 なのに、藤川は笑わなかった。
だがそれは、もう少し後の話だ。
水曜日。放課後。午後四時八分。
図書室の前の廊下に、俺たちは散らばっていた。
「配置確認。天野、ポジションは」
俺は小声で言った。スマホのイヤホンを片耳に入れている。通話ではなく、陽太とのグループチャットに繋がっているだけだ。盗聴器やトランシーバーを使うほど本格的な組織ではない。
『図書室の中。雑誌コーナーで週刊誌読んでるフリしてる。三浦さんはまだ来てない。窓際最奥席、空いてる』
陽太からのメッセージ。続けて凛花から。
『わたしは図書室入口の向かいの掲示板前にいます。新聞部の記事確認を装っています。藤川さんが来たら連絡します』
桐生先輩は工作室で待機している。現場に出るタイプではないらしい。「撤退線の担当者が現場にいたら、冷静に判断できない」というのが理由だった。
俺は図書室から少し離れた渡り廊下の窓際に立ち、スマホの画面を見ていた。設計書は完璧だ。場所、時間、動線。あとは 藤川の三秒。
四時十二分。凛花からメッセージ。
『三浦さん、来ました。図書室に入りました』
間を置かず、陽太。
『確認。三浦さん、窓際最奥席に座った。本を開いてる。 窓の外、まだ猫いない』
四時十五分。凛花。
『藤川さん、廊下に来ました。図書室の前で立ち止まっています。 顔が、白いです』
緊張しているだろう。当然だ。設計書がどれだけ精密でも、ドアの前に立った瞬間に感じる重力は、紙には書けない。
四時十六分。
『藤川さん、図書室に入りました』
四時十七分。陽太。
『藤川、入ってきた。入口で一回止まった。深呼吸してる。 三浦さんはまだ窓の外見てる。気づいてない』
俺はスマホを握ったまま、渡り廊下の窓から図書室の方向を見た。ここからでは中は見えない。見えるのは図書室の窓だけで、午後の光がガラスに反射して白く光っていた。
四時十八分。陽太。
『藤川、三浦さんの隣の席に座った。二席空けてる。 いい判断。近すぎない。設計書通り。本を取り出した。けど、ページ開いてない。手が震えてる』
四時二十分。
『......動かない。藤川、動かない。本を見てるフリしてるけど、完全にフリーズしてる。恒一、どうする?』
どうもしない。ここから先は、設計の外だ。
俺は返信を打った。
『待て。藤川のタイミングだ』
四時二十二分。陽太。
『猫来た。窓の外。三日月みたいな模様のやつ。三浦さん、窓のほう向いた。 藤川、それ見てる。三浦さんの横顔を、見てる』
四時二十三分。
沈黙。メッセージが途切れた。
スマホの画面が光ったまま、新しい通知が来ない。十秒。二十秒。三十秒。渡り廊下の窓の外で、海鳥が一羽、鳴いた。
四時二十四分。陽太。
『 言った。藤川、言った。立ち上がって、三浦さんのほうに歩いて、言った』
『何て言った?』と打とうとして、やめた。それは後で藤川本人から聞けばいい。
十秒後。陽太。
『三浦さん、ちょっと驚いてる。目が丸い。 藤川、まだ何か言ってる。声小さくて聞こえない。でも、三浦さんの顔......』
五秒。
『笑った。三浦さん、笑った。 で、何か言った。小さい声で。藤川が固まった。 いい固まり方だ。恒一、これ、たぶん 』
凛花から。
『図書室の中が静かです。他の利用者が何人か顔を上げています。 藤川さんと三浦さん、向かい合って立っています。三浦さんが、少し俯いて......笑っています』
俺はスマホの画面を閉じた。
図書室の窓に反射する午後の光が、一瞬だけ揺らいだ。風が出たのか、雲が流れたのか。光が揺れて、また元に戻った。
設計通りではなかった。
時間帯は合っていた。場所も合っていた。猫が来て、三浦さんが窓の外を向いた。そこまでは設計書の通りだ。だが藤川は、設計書に書いていないタイミングで立ち上がり、設計書に書いていない歩幅で三浦さんのほうに歩いた。
でも 翻訳は成功していた。
藤川の中から出てきた言葉は、俺が与えたものではない。俺がやったのは、藤川の中にある言葉を掘り出す手伝いだけだ。あの言葉 「猫を見てるときの横顔が好き」。あれは、藤川自身のものだ。設計書はガイドラインに過ぎない。
告白は三秒で終わる。
三秒。「猫を見てるときの横顔が好きです」 多少の前後があったとしても、核心はそこだろう。三秒。その三秒のために、俺たちは動線を洗い、座席を調べ、猫の出現時間を把握し、撤退線を設計した。三秒の手前までを、何日もかけて作った。
そして三秒は 藤川のものだった。
渡り廊下に風が通った。海の匂いがした。五月の、少し湿った風だ。
四時四十分。図書室前。
藤川が出てきた。
俺は渡り廊下から歩み寄り、陽太は雑誌コーナーから出てきて合流した。凛花は掲示板の前から少し離れた位置で、ノートを開いたまま立っている。
藤川の顔は 奇妙だった。
泣いてはいない。怒ってもいない。笑ってもいない。ただ、何かを持て余しているような表情だった。両手がだらりと垂れている。さっきまで握り締めていた拳が、開かれていた。
「藤川」
声をかけた。藤川は俺を見た。
「......付き合えることになりました」
声が平坦だった。成功の報告とは思えない声のトーンだ。
「おおっ! まじか! やったじゃん!」
陽太が藤川の背中をばしんと叩いた。藤川の体が揺れる。だが、表情は変わらない。
「三浦さん、何て言ったんだ?」
俺が聞くと、藤川は少しだけ目を伏せた。
「......『うん』って。それだけ。少し笑って、俯いて、『うん』って」
「それで?」
「それで......付き合えることになって、で......」
藤川は言葉を探していた。何かが引っかかっている。嬉しいはずの結果を、うまく受け取れていない。
「......一緒に帰ろうと思ったんです。付き合えたんだから。でも、隣に座ったら......何話していいか分かんなくて」
沈黙。
「三浦さんも黙ってて。猫はもういなくなってて。窓の外には何もなくて。二人で並んで座って ずっと黙ってました。五分くらい」
藤川の声が少し震えた。
「好きって言えたのに。隣に座ったら 何もない。何話していいか分かんない。思ってたのと......違う」
翻訳する。
藤川は告白をゴールだと思っていた。「変わりたい」と願い、告白という手段を選び、三秒の勝負に挑んだ。そして成功した。 だが、ゴールの先には更地が広がっていた。告白の設計書はそこまでの道を作っただけだ。「付き合う」という状態の中身は、設計できない。設計するのは藤川自身だ。
「......それは、お前の仕事だ」
俺は言った。冷たく聞こえたかもしれない。
「は?」
「工作室は場を作っただけだ。告白の場所と、告白の言葉を掘り出すところまでが依頼だった。ここから先 三浦さんと何を話して、どう一緒にいるかは、お前が考えることだ」
藤川は俺を見つめた。不満 ではない。困惑。助けを求めているのでもない。自分が持て余しているものの正体を、もう一度俺に翻訳してほしい、という目だった。
だが、ここから先は翻訳できない。翻訳者にできるのは、言葉を見つけ出すことだ。言葉を見つけた後の沈黙を埋めるのは 当事者だけだ。
「......恒一」
陽太が小声で言った。珍しく、声のトーンが低い。
「ちょっと突き放しすぎじゃね?」
「事実を言っただけだ」
「事実かもしんねえけどさ。藤川、今めちゃくちゃ不安なんだよ。見りゃ分かるだろ」
分かっている。見れば分かる。藤川は不安だ。告白は成功した。でも、その先の景色が想像と違っていた。俺にはその不安を翻訳することはできる。だが、不安を消すことはできない。不安を消すのは
「藤川」
凛花の声だった。
ノートを閉じた凛花が、藤川の前に立っていた。背筋がまっすぐで、視線はいつもよりほんの少しだけ高い位置にあった。
「三浦さんと隣に座ったとき、窓の外に何もなかったと言いましたよね」
「......はい」
「猫がいなくても、三浦さんはその席に座っていました。藤川さんが隣にいても、席を立たなかった。 それは、何もない、ではないと思います」
藤川は目を見開いた。凛花はそれ以上何も言わず、ノートを胸に抱え直して一歩下がった。
記録者の言葉だった。事実だけを述べている。解釈は添えていない。だが、事実の選び方そのものが 言葉だった。
「......そうかも。そう、ですよね」
藤川は小さく息を吐いた。それから、初めて ほんのかすかに、笑った。
「ありがとうございました。 すみません、なんか、変な報告になっちゃって」
「変じゃねえよ。普通のことだ」
陽太が笑った。藤川は頭を下げて、廊下を歩いていった。背中は 最初に工作室に来たときよりは、少しだけまっすぐだった。少しだけ。
工作室に戻ると、桐生先輩がデスクに座っていた。
報告を聞き終えた桐生先輩は、腕を組んだまましばらく黙っていた。窓の外は夕暮れに差しかかっていて、海がオレンジ色に染まっている。ホワイトボードの「依頼①:藤川」の文字が、傾いた光の中で影を作っていた。
「成功だな」
桐生先輩が言った。
「はい」
「撤退線は不要だった。藤川は無事に三浦と付き合い始めた。 結果としては、依頼達成だ」
「......はい」
俺の返事が歯切れの悪いことを、桐生先輩は見逃さなかった。
「何か引っかかるか」
「成功したのに、後味が悪い」
正直に言った。桐生先輩は表情を変えなかった。
「藤川は告白できた。三浦も受け入れた。それでも 隣に座ったら沈黙した。付き合い始めた瞬間に、設計書の外に放り出された。俺は『ここから先はお前の仕事だ』と言った。正しいと思う。でも 」
「でも?」
「......なんというか、告白の三秒までは翻訳できたのに、三秒の先が翻訳できない。三秒の先には俺たちの言語がない。それが 」
「苦い?」
桐生先輩の声は静かだった。
「......はい」
「いい。その苦さを覚えておけ」
桐生先輩は立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み寄った。マーカーを取ることはしなかった。ただ、「依頼①:藤川」の文字を見つめている。
「完全救済はしない。場を作るだけ。 これでいい。これが正しいかどうかは分からない。でも、これが工作室だ」
「桐生先輩は......苦くないんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。だが桐生先輩は、窓のほうを向いたまま答えた。
「毎回苦い」
短い声だった。
「毎回苦い。でも、苦くなくなったら終わりだ。苦さを感じなくなった瞬間に、工作室は他人の恋をただの仕事にしてしまう。 苦いうちは、まだ正しい」
夕日が海を焼いていた。水面がオレンジと赤の境界で揺れている。旧部室棟の窓ガラス越しに見える海は、ほんの少しだけ歪んでいた。ガラスの古い歪みが、海の輪郭を微かにずらしている。
告白は三秒で終わる。だがその先の沈黙は、ずっと続く。俺たちが設計できるのは、三秒の手前までだ。三秒の先にあるものは 当事者だけが知っている。当事者だけが作れる。
俺はそれを、正しいと思った。正しいと思ったうえで、苦かった。
凛花がノートを開いた。
工作室に残っているのは、俺と桐生先輩と凛花だけだった。陽太は「腹減った」と言って購買の残りを漁りに行った。
凛花のペンが、几帳面にノートの上を走る。
「記録を閉じます。 依頼①:藤川。依頼内容:告白の手伝い。対象:三浦美咲。結果 」
ペンが一瞬止まった。凛花は顔を上げ、桐生先輩を見た。それから俺を見た。
「 成功」
ペンが動く。その後に、括弧書きが続いた。
「ただし 依頼者の満足度、判定保留」
俺は凛花のノートを覗き込んだ。几帳面な文字。判定保留。依頼は成功した。告白は通った。カップルは成立した。だが、依頼者本人が完全に満足していたかどうかは 保留。
「判定保留か」
「はい。成功と不成功の二択では、この依頼の結果を正確に記述できないと判断しました」
凛花の声は平坦だった。だがその平坦さの中に、記録者としての誠実さがあった。事実を二択に押し込めない。灰色の結果を、灰色のまま記録する。
俺は小さく笑った。苦笑だったかもしれない。
「凛花、それ 正しいよ」
凛花はわずかに目を見開いた。それから、ノートに視線を戻した。
「ありがとうございます。 でも、正しいかどうかは、もう少し後にならないと分かりません」
ノートが閉じられた。パタン、という小さな音が、工作室の中に響いて消えた。
桐生先輩がホワイトボードの「依頼①」の横に、赤マーカーで一文字だけ書き加えた。
「了」
それだけだった。依頼①は終わった。
窓の外で、海が暮れていく。朝凪の海は、夕方になると色が変わる。昼間の銀色が、夕方にはオレンジになり、夜には黒くなる。だが波の音は変わらない。光が消えても、海はずっとそこにある。
ホワイトボードの「依頼①:藤川 了」の文字が、最後の夕日に照らされて赤く光った。
帰り道。海沿いの県道。
堤防の向こうの海はもう暗くなり始めていて、水平線のあたりだけがかろうじて茜色の残照を残していた。風が出てきた。凪が終わる時間だ。
俺は鞄を肩に掛け、イヤホンを外して歩いていた。頭の中で、今日の一連のことを反芻する。
藤川の告白。三浦さんの「うん」。隣に座ったときの沈黙。「思ってたのと違う」。凛花の「それは何もない、ではない」。桐生先輩の「毎回苦い」。
設計書は嘘をつかない 昨日、俺はそう思った。設計書に書いてあることは全部、事実と論理に基づいている。嘘はない。だが、設計書に書かれていないことがある。三秒の先。告白の後の沈黙。付き合い始めた二人の間に流れる、言葉のない時間。
それは設計できない。翻訳もできない。
じゃあ、俺は何のためにこれをやっているんだ。
桐生先輩が言った。「お前の翻訳は、誰のためにある?」。あれは昨日の問いだ。まだ答えが出ていない。依頼者のため? 自分のため? どちらでもない。どちらでもあるのかもしれない。
分からない。分からないが、苦い。そしてその苦さは 桐生先輩の言葉を借りるなら まだ正しい。
スマホが振動した。取り出す。陽太からだった。
『お疲れー。藤川よかったな。つーか恒一、最後ちょっと冷たくなかった? まあいいけど。 それよりさ、なんか掲示板にヘンな書き込みあんだけど、見た?』
掲示板。校内の匿名掲示板のことだろう。朝凪高校には、校内専用の匿名投稿ができるSNSのようなものがあると聞いていた。まだ見たことはない。
『見てない。何が書いてある?』
『「二年の藤川が三浦に告白して成功したらしい」 って。もう書かれてんの。はっや。今日の放課後のことだぞ? 誰が書いたんだよ』
図書室で他の利用者が顔を上げていた 凛花のメッセージを思い出した。目撃者がいたのだ。誰かが見て、誰かが書いた。告白から二時間も経っていない。
『あと、もう一個。別のアカウントが返信してんだけど なんかヘンなやつ。「忘れ方、教えます」って。何これ?』
忘れ方、教えます。
俺は立ち止まった。堤防の上で、海風が髪を揺らした。
『知らない。 明日、凛花に聞いてみる』
返信して、スマホを仕舞った。
匿名。噂。そして 「忘却」。
まだ何も分からない。ただ、風が変わった気がした。凪が終わって、海面にさざ波が立ち始めている。昼間は穏やかだった海が、夜の風を受けて少しだけ表情を変える。
依頼①は終わった。だが、朝凪高校の恋路は まだ、始まったばかりだ。




