第25話 空白の教室
第25話 空白の教室
工作室がない朝凪高校は、ただの学校だった。
噂と沈黙だけが残った。
玲奈が降板してから一週間が経っていた。七月の後半。夏休みまであと数日。校内は期末テストの余韻と夏の開放感で浮き足立っている。窓の外には入道雲。空は高い。セミの声。夏の学校。
しかし俺にとっては、からっぽの一週間だった。
朝、教室に行く。授業を受ける。昼休み、弁当を食べる。放課後、帰る。その繰り返し。以前なら放課後は工作室に向かっていた。旧部室棟の廊下を歩き、埃っぽい空気を吸い、工作室のドアを開ける。玲奈がいて、陽太がいて、凛花がいて、ホワイトボードに何かが書いてあって、依頼ボードに紙が貼ってあって。
その全部がなくなった。
放課後、旧部室棟に行ってみた。
廊下は前と同じだ。古い部活の道具が積まれている。埃っぽい空気。窓から差す夕日。四月に初めて歩いたときと同じ景色。
工作室のドアの前に立った。手書きの紙がまだ貼ってある。「恋路工作室」。玲奈が剥がさなかった看板。
ドアを開けた。
空の教室。
ホワイトボードは白い。何も書かれていない。依頼ボードも空白。椅子が四脚、元の位置に戻っている。デスクの上には何もない。玲奈の書類も、凛花のノートも、陽太がいつも置いていたペットボトルもない。
窓から海が見える。朝凪の海。波がない。静かで、動きがない。今の工作室みたいだ。空っぽで、静かで、何も起きていない。
椅子に座った。ホワイトボードの前の、いつもの席。しかしホワイトボードには何も書かれていない。読むべき文字がない。翻訳すべき原文がない。翻訳者が翻訳する対象を失った。
無力だ。
こうして一人で座っていても、何も変わらない。工作室は活動停止中だ。依頼は受けられない。メンバーは散り散りだ。玲奈は降りた。陽太は休養中。凛花は新聞部の仕事に戻っている。
俺は何をしている。空の教室に一人で座って、何をしている。
窓の外を見た。海が夕日に染まっている。金色の海面。波がない。朝凪。
立ち上がって工作室を出た。ドアを閉めた。
教室に戻る途中、廊下で声をかけられた。
「高瀬くん。工作室、もう終わりなの」
クラスメイトの女子だ。名前は覚えている。工作室のことを前から気にしていた生徒だ。依頼を出そうかどうか迷っていたらしい。
「活動停止中だ」
「停止って、復活するの」
「分からない」
正直に答えた。分からない。再起動できるかどうか。俺一人でルールを更新して、メンバーを集め直して、信用を回復して。全部が不確定だ。
「そっか。まぁ、しょうがないよね」
しょうがない。その一言で片付けられた。俺たちの一年が。工作室が作ってきた場が。依頼者と向き合ってきた時間が。「しょうがない」の三文字で消えていく。
「ああ。しょうがないな」
声が自分でも乾いていた。
教室を出て、校門に向かった。校舎を出るとき、廊下の向こうに見覚えのある背中が見えた。
水谷花凛。依頼②の依頼者。噂を消してほしいと泣いた一年生。
水谷は俺に気づいていた。視線が一瞬合った。しかし水谷は何も言わず、目を逸らして歩き去った。声をかけられなかった。俺からも、水谷からも。
工作室に助けられたことを、今は言えない。工作室と関わっていたことが負い目になる空気。助けた側も、助けられた側も、沈黙している。
次の角で、もう一人すれ違った。佐々木。断罪ゲームから救出した二年生。佐々木も俺に気づいた。目が合った。佐々木の表情は複雑だった。感謝と罪悪感が混ざった顔。しかし声はかけなかった。小さく頷いただけで、通り過ぎていった。
過去の依頼者たちは、工作室が燃えている間、俺たちを助けてくれなかった。助けられなかったのだ。助けた側が助けを求めたとき、助けられた側が応えるのは難しい。恩義で動くのは美しいが、現実では恩義より保身が勝つ。それは人間として自然なことだ。責められない。
しかし痛い。
校門を出た。海沿いの道。夕暮れ。七月の夕暮れは鮮やかだ。空がオレンジと赤に燃えている。海面が金色に光っている。美しい夕焼けだ。美しいが、今の俺には刺さる。世界がこんなに美しいのに、工作室は止まっている。
帰り道に、カフェに寄った。いつもの駅前のチェーンカフェ。志帆と及川の件でヒアリングをした場所。
志帆がいた。
約束はしていない。偶然だ。しかし志帆のほうも俺に気づいた。目が合った。窓際の席で一人、アイスティーを飲んでいた。
「恒一」
声をかけてきたのは志帆のほうだった。俺はカウンターでコーヒーを注文してから、志帆の向かいに座った。
「偶然だな」
「うん。ここ、たまに来るの。一人で考え事するとき」
志帆の目の下に薄い隈がある。最近眠れていないのだろう。俺と同じだ。
「恒一。工作室のこと、聞いた。活動停止って」
「ああ」
「私のせいだよね」
「違う」
即答した。
「お前のせいじゃない。構造の問題だ。玲奈先輩がそう言った。嘘の依頼を見抜けなかったのは、工作室の審査体制に穴があったからだ。お前の嘘が原因じゃなく、嘘を検出できない仕組みが原因だ」
「でも私が嘘をつかなければ」
「お前の気持ちは嘘じゃなかった」
志帆が目を見開いた。
「依頼の形は嘘だった。及川に好きな人ができた、というのは事実と異なっていた。でも、お前が俺のところに来た気持ちは嘘じゃなかった。俺に見てほしかった。翻訳してほしかった。その気持ちは本物だった。嘘だったのは、形だけだ」
翻訳者の言葉だ。志帆の行動を翻訳している。嘘と本音を分離している。依頼の外装は嘘だった。しかし中身の感情は本物だった。
志帆の目から涙が滲んだ。
「ごめん。本当にごめん。恒一」
「謝るな。俺も見なかった。お前のことを見ようとしなかった。中学のときから。それは俺の問題だ。お前が謝ることじゃない」
志帆が袖で涙を拭いた。カフェの店内に、他の客がちらほらいる。二人の高校生が向かい合って一人が泣いている。傍から見たら恋人の喧嘩か、別れ話に見えるかもしれない。
「及川くんには全部話した。嘘の依頼のこと。工作室に来てたこと。恒一に会いたかったこと」
「及川はなんて」
「怒らなかった。恒一が言った通り。怒るより先に心配してくれた。『俺のことはいいから、高瀬さんに謝ってこい』って」
及川は善人だ。志帆を好きな人間は、志帆が嘘をついた相手を心配する。翻訳者の予測は正しかった。
「及川とは」
「付き合ってる。まだ。うまくいくかは分かんないけど。及川くんが言ってくれたの。『最初の気持ちじゃなくて、今の気持ちで好きでいたい』って。恒一が翻訳してくれた言葉、そのまま」
更新。忘却ではなく更新。及川は恒一の翻訳を使って、志帆に自分の気持ちを伝えた。翻訳者の言葉が、当事者の口から出て、当事者の恋を動かした。
工作室は止まっている。しかし工作室が作った翻訳は、まだ動いている。
「志帆。一つ、聞いてもいいか」
「うん」
「お前が俺に見てほしかった気持ち。翻訳してほしかった気持ち。あれは今も、あるのか」
志帆が沈黙した。アイスティーの氷がカランと鳴った。
「ある。でも、今はいい。恒一にも恒一の事情がある。工作室が止まって、大変なのは分かってる。私の気持ちの翻訳は、後回しでいい」
「後回し」
「うん。後回し。でも永久に後回しにしないでよ。いつか、ちゃんと翻訳して。恒一の辞書が開いたら」
「約束は」
「しなくていい。前にも言ったでしょ。約束しなくていい。でも、いつか」
いつか。また、あの二文字。志帆は「いつか」という言葉が好きだ。確定しない約束。未来への投擲。投げた先に届くかどうかは分からないが、投げること自体に意味がある。
「分かった」
カフェを出た。志帆と別れた。「じゃあね」。また「じゃあね」だ。「またね」ではなく。志帆は今日の別れを、再会の約束にはしない。しかし「いつか」を先に投げてあるから、「じゃあね」で十分なのだ。
帰宅。自室。
机の前に座った。引き出しからノートを取り出した。新しいノート。まだ何も書いていない。白紙のページ。
ペンを持った。
表紙を開く。最初のページ。白い紙。
ペンの先をページに当てた。インクが紙に染みる。文字を書く。
「恋路工作室 ver.2」
五文字。ノートの一行目。
書いた。何を書くか決まっていない。しかし書き始めた。ペンを持って、紙にインクを落とした。それだけで、何かが動き出した気がする。
二行目。
「原則①:心は操作しない」
玲奈が作った原則の一番目。これは変えない。工作室の根幹だ。依頼者の心を操作しない。場を作るだけ。これは玲奈が中学時代のトラウマから導き出した鉄則だ。正しかった。これからも正しい。
三行目。
「原則②:」
そこでペンが止まった。
二番目の原則。何を書く。玲奈のルールでは「状況の整理、言葉の設計、撤退線の確保」が工作室の三つの機能だった。しかしこのルールでは嘘の依頼を防げなかった。嘘を検出する仕組みがなかった。翻訳者の感情がノイズになったとき、ルールがそれを制御できなかった。
新しい原則が必要だ。嘘の依頼を受けないための原則。翻訳者の感情を管理するための原則。匿名攻撃に対処するための原則。
しかしまだ言葉が見つからない。翻訳者は他人の言葉を翻訳する。しかし自分の言葉を紡ぐのは別の技術だ。ルールを作るのは設計者の仕事であり、翻訳者の仕事ではない。しかし今、翻訳者が設計者にならなければならない。
「原則②:」
白紙のまま。
ペンを置いた。今日はここまでだ。原則の一行目は書けた。二行目は書けなかった。しかし一行目が書けたことに意味がある。ゼロから一への距離は、一から百への距離より大きい。
ノートを閉じた。
窓の外を見た。七月の夜。星が見える。梅雨が完全に明けて、夜空が澄んでいる。夏の星は冬の星より暗いが、たくさんある。一つ一つは小さいが、数が多い。
工作室は止まっている。しかしペンは持った。ノートは開いた。一行目は書いた。
更新しろ、と玲奈は言った。今のルールが壊れたなら、新しいルールを作れ。
まだ何も見えない。二行目の原則が何になるか分からない。しかしペンは持った。書き始めた。
再起の最初の一歩は、ペンを持つことだ。翻訳者にとって、ペンは武器であり道具であり命綱だ。書くことが凛花の武器であるように。設計することが玲奈の武器であるように。翻訳することが俺の武器であるように。
武器はまだ手の中にある。折れてはいない。
明日もまた、空の工作室に行くだろう。一人で座って、白いホワイトボードを見るだろう。しかし手にはペンがある。ノートには「ver.2」の文字がある。
空白は怖い。何もないから。しかし空白は余地でもある。何でも書けるから。
翻訳者は空白に向き合っている。空白の教室。空白のホワイトボード。空白のノート。空白の辞書。全部が白い。全部がこれから書かれる場所だ。
工作室の活動停止は、終わりではない。更新のための停止だ。パソコンが再起動するとき、一度画面が暗くなる。暗くなっているのは壊れたのではなく、新しいシステムを読み込んでいるからだ。
工作室は今、暗転している。新しいシステムを読み込んでいる。読み込みが終わったら、画面が再び灯る。
いつ灯るかは分からない。しかし灯る。灯ると決めた。翻訳者が決めた。
玲奈が託してくれた言葉がある。陽太が「辞めない」と言ってくれた。凛花は記録を続けると言った。志帆は「いつか」を投げてくれた。
全部が俺の中にある。全部が、ver.2の中身になる。
ノートをもう一度開いた。
「原則①:心は操作しない」
その下の空白行に、もう一つだけ書き加えた。原則ではない。メモだ。
「忘却ではなく、無害化。痛みを消すのではなく、痛みと一緒に生きる言葉を見つける」
まだ原則の形にはなっていない。ぼんやりした輪郭だ。しかし方向性が見えた。忘却屋とは違う道。痛みを消すのではなく、痛みを翻訳する。痛みに言葉を与えて、痛みと共存する方法を設計する。
それが工作室ver.2の核心になるかもしれない。
ノートを閉じた。今度こそ、今日はここまで。
ベッドに横になった。天井を見た。白い天井。しかし今日の白は、昨日までの白と少しだけ違う。空虚な白ではなく、可能性の白。
翻訳者はペンを持った。ノートに一行書いた。もう一行、メモを書いた。
まだ何も始まっていない。しかし何も始まっていないのに、何かが動き始めている。
夏が来ている。七月が終わろうとしている。夏休みが近い。
夏休みの間に、ver.2のノートを埋める。原則を書き、仕組みを設計し、工作室を再起動する準備をする。
九月。新学期。工作室が再び動き出す。
そのイメージが、ぼんやりと頭の中に浮かんだ。まだ解像度は低い。しかし見えた。見えたということは、翻訳者の脳が動き始めているということだ。停止していたエンジンが、かすかに回り始めている。
七月の夜。星がたくさん見えた。
明日の朝も、工作室はない。空白の教室がそこにある。しかし翻訳者のポケットには、ペンが入っている。
それだけで、今日は十分だった。




