第19話 恋人に好きな人ができた(後編)
第19話 恋人に好きな人ができた(後編)
及川の「好きな人」は 志帆自身だった。
月曜日の朝。工作室。
陽太の電話から一日半。頭の中で何度も反芻した結論を 全員の前に出さなければならなかった。
俺はホワイトボードの前に立った。桐生先輩、陽太、凛花が座っている。ホワイトボードの「依頼⑤:宮前志帆 保留」の文字が、朝の光を受けている。
「報告する。 土曜の夜に陽太から入った情報と、凛花のSNS分析を突き合わせた結果だ」
マーカーを取った。手は 震えていなかった。震えないように、力を入れていた。
「及川蓮のSNS。『いいね』の履歴。志帆のアカウントに集中 ただし、最近の投稿ではなく、交際初期の古い投稿に。出会った頃の写真、初期のやり取り、最初のデートの頃の動画。及川自身の投稿にも『初心に帰りたい』『あの頃の自分に戻れたら』というフレーズが繰り返し出てくる」
ホワイトボードに書いた。
及川の「好きな人」=志帆(ただし「今の志帆」ではなく「出会った頃の志帆」)
「つまり 及川は別の人を好きになったのではない。志帆への気持ちの鮮度が落ちてきて、最初に好きになった頃の感覚を取り戻したがっている。及川の『好きな人』は 志帆自身の、過去のバージョンだ」
工作室が静まった。
陽太が腕を組んでいる。凛花はノートにペンを走らせているが、ペンの速度がいつもより遅い。桐生先輩は 腕を組んだまま、ホワイトボードを見つめていた。
「ということは」
桐生先輩が口を開いた。
「志帆の依頼 『彼氏に好きな人ができた。忘れさせてほしい』。この前提が 崩壊する」
「はい。及川に『好きな人』がいるのは事実です。だがそれは別の人間ではなく 志帆自身の過去の姿です。及川は志帆と別れたいのではない。志帆を もう一度好きになりたいと思っている」
「志帆はそれを 知っていたのか」
「分かりません。志帆の認識では『彼氏に好きな人ができた』だった。 だが、及川の実態は違う。ずれている」
「ずれ ではなく、嘘の可能性は」
桐生先輩の問いが 鋭く刺さった。
嘘。志帆が 嘘をついた可能性。及川に好きな人がいるという前提が、最初から虚構だった可能性。
「......現時点では判断できない。及川本人に確認しないと」
「確認は いつだ」
「今日。 放課後に及川と会う約束を取った。志帆を通じて」
桐生先輩が頷いた。
「行け。 録音を忘れるな」
放課後。隣町のカフェ。
志帆の仲介で 「志帆の幼馴染が挨拶したいって」という名目で 及川蓮と会うことになった。及川は志帆の彼氏だ。俺と会うことに不自然さはないはずだ。 ただし、俺の本当の目的は「挨拶」ではない。
カフェのドアを開けた。
及川蓮は 奥の席に座っていた。隣町の私立の制服。背が高い。顔立ちは整っていて、穏やかな目をしている。 第一印象は「いい人」だった。志帆が好きになるのも分かる、と思った。その思考が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥で何かが きしんだ。
「あ、高瀬さんですか? 志帆から聞いてます。 及川です。よろしくお願いします」
「高瀬恒一です。 志帆の幼馴染で」
「知ってます。志帆、よく恒一くんの話しますよ」
よく。 志帆が、俺の話を及川にしている。その情報が 翻訳者の頭ではなく、恒一の心臓に着弾した。処理するな。今は及川の聞き取りに集中しろ。
飲み物を注文した。及川はアイスティー。俺はアイスコーヒー。ポケットの中でスマホの録音アプリが静かに動いている。
「今日は 実は、志帆のことで少し聞きたいことがあるんだけど」
「志帆のこと?」
「俺、志帆の幼馴染だからさ。 最近、志帆がちょっと元気ないみたいで。気になってて」
嘘 ではない。志帆は元気がない。工作室に依頼に来るくらいだから。だがこの質問の裏にある本当の目的は、及川の「好きな人」を直接確認することだ。
「元気ない、かぁ......」
及川は グラスを見つめた。アイスティーの氷が溶けて、液面がゆっくり上がっていく。及川の表情が 変わった。明るさが消えて、もっと 深い顔になった。
「......高瀬さん。俺 ちょっと、相談してもいいですか」
予想外だった。こちらが聞き出すつもりだったのに 及川のほうから話し始めた。
「もちろん」
「志帆のこと 好きなんです。今でも。付き合って一年になるけど、好きな気持ちは変わってない。 でも」
及川はグラスを両手で持った。指先が白い。力が入っている。
「でも 最初に志帆を好きになった頃の気持ちが......薄れてきて」
翻訳する。 「好きな気持ちは変わっていない」と「最初の気持ちが薄れてきた」は矛盾しない。好きであることは変わらない。だが、好きの「質」が変わった。最初の頃の 全てが新しくて、心臓がうるさくて、志帆を見るだけで世界が明るくなるような あの鮮烈な感覚が、日常に溶けていく。
「怖いんです。このまま 最初の気持ちを忘れたら、志帆のことを好きでいられなくなるんじゃないかって。 だから、最近......昔の投稿とか、見返してて」
「昔の 志帆の投稿を?」
「はい。出会った頃の写真とか。最初のデートの日のこととか。 あの頃の気持ちを、もう一回思い出したくて」
及川の目が 潤んでいた。泣いているのではない。感情が表面に近い場所まで上がってきている。
「最初に好きになった頃の志帆を もう一回、新しい目で見たいんです。忘れて、もう一回好きになりたい。 変かな」
「変じゃない」
俺は答えた。 翻訳者の声で。恒一の心臓がどれだけ暴れていても、声だけは 翻訳者の声を保った。
「それは 忘れたいんじゃない。更新したいんだ」
「更新......」
「最初の気持ちを捨てるんじゃなく、最初の気持ちを含んだまま、今の志帆をもう一回好きになる。 上書きじゃない。追記だ。辞書に新しい項目を足すようなものだ」
及川が 顔を上げた。目が 少しだけ明るくなった。
「追記......。そうかも。俺、消したいんじゃなくて 足したいのかも。今の志帆を好きな理由を、もっと増やしたい」
翻訳が 機能した。及川の感情に、正しい名前をつけることができた。「忘却」ではなく「更新」。「消去」ではなく「追記」。忘却屋の方法論とは正反対のアプローチ。 記憶を書き換えるのではなく、記憶を拡張する。
だが 翻訳が成功したことで、別の問題が浮上した。
「及川。一つ聞いていいか」
「はい」
「志帆は お前に『好きな人ができたんじゃないか』って、聞いたことあるか」
及川が 目を丸くした。
「え? いえ、直接は......。でも、最近俺がスマホばっかり見てるのは気づいてたかも。俺、隠すの下手なんで」
「志帆は お前のスマホの中身を見たか?」
「見てない と思います。俺、ロックかけてるし」
「志帆に 別の人を好きになったとか、そういうことを言ったことは」
「ないです。絶対に。 志帆のこと好きなのに、そんなこと言うわけない」
及川の声には 嘘の気配がなかった。翻訳者の目で見ても、声のトーン、表情、視線の動き 全てが一致している。及川は嘘をついていない。
つまり 及川は志帆に「好きな人ができた」とは一度も言っていない。
なら 志帆の依頼の前提は、何だ。
「彼氏に好きな人ができた」 それは志帆自身の解釈だ。及川が直接言ったのではなく、志帆が及川の態度の変化を読み取って そう解釈した。「女の勘」で。
だが 志帆の「勘」は、今回に限っては不正確だった。及川は別の人を好きになったのではない。志帆自身を もう一度好きになろうとしていたのだ。
......本当に、不正確だったのか?
志帆は 「勘」で及川の変化を感じ取った。だが及川本人に確認していない。確認せずに、工作室に来た。「忘れさせてほしい」と言った。 なぜ、及川に直接聞かなかった?
翻訳者の歯車が 錆びた音を立てながら、回り始めた。ノイズの中で。自分の感情というノイズの中で。 それでも。
「及川。 ありがとう。話してくれて」
「え、いや 俺のほうが聞いてもらえて楽になりました。高瀬さん 志帆の言う通りだな。人の気持ちを言葉にするの、上手いですね」
志帆が 俺のことを、そう紹介していたのだ。「恒一は人の気持ちを言葉にするのが上手い」と。
「志帆は なんて言ってた? 俺のこと」
聞くべきではなかったかもしれない。だが 翻訳者としてではなく、恒一として 聞きたかった。
及川は 少し考えて、笑った。穏やかな笑い方だった。
「『恒一は翻訳者なんだよ。人の気持ちを翻訳するの。 でも自分のことは全然翻訳しないの。不器用なんだよね』って」
志帆。
お前は 俺のことを、そう見ていたのか。
「あと 」
及川が、少しだけ声を落とした。
「 『恒一に、私を見てほしかった』って。一回だけ ぼそっと言ってたことがあって。俺、あのとき ちょっとだけ、嫉妬しました」
心臓が 止まった。一拍。二拍。動かない。
恒一に、私を見てほしかった。
その言葉が カフェの中の全ての音を消した。エアコンの音が消えた。BGMが消えた。氷が溶ける音が消えた。 志帆の声だけが、及川の口を通して、俺の耳に届いた。
「......ありがとう。 及川、ほんとにありがとう」
声が かすれた。翻訳者の声ではなかった。ただの 男の子の声だった。
カフェを出た。
帰り道。
夏の夕暮れ。七月の終わり。空が高く、雲が薄い。西の空がオレンジから紫に変わっていく。海沿いの道ではない 隣町の駅前から朝凪に戻る電車の中だ。
車窓に映る自分の顔を見ていた。 疲れた顔だった。目の下に影がある。唇の力が抜けている。翻訳者の顔ではなく、翻訳に疲れた人間の顔。
及川の言葉を反芻する。
「最初に好きになった頃の志帆を忘れて、今の志帆をもう一回好きになりたい」 それが及川の本音だった。忘却ではなく更新。消去ではなく追記。 及川は志帆を好きだ。今も。これからも。
なら 依頼の前提は崩壊した。
志帆の依頼 「彼氏に好きな人ができた。忘れさせてほしい」。
及川に好きな人は「いる」。だがそれは志帆自身だ。志帆以外の誰かを好きになったのではない。及川の態度の変化 スマホを見る時間が増えた、目が違う、どこか遠い それは全て、志帆への気持ちを「更新」しようとしていた結果だった。
志帆はそれを「好きな人ができた」と解釈した。 不正確な翻訳。志帆は翻訳者ではない。「女の勘」は鋭いが、万能ではない。勘が拾ったのは「及川が変わった」という事実だけで、変化の方向を誤読した。
......本当にそうか?
電車の窓に額を預けた。ガラスが冷たい。冷房が効いている。
志帆は 本当に誤読したのか。
「女の勘」で及川の変化を感じ取った。それを「好きな人ができた」と解釈した。 だが、及川に直接確認していない。確認できたはずだ。「ねえ、最近どうしたの?」「他に好きな人いるの?」 聞けばいい。聞けば、及川は正直に答えただろう。及川は嘘がつけない人間だ。カフェで五分話しただけで分かった。
なのに 聞かなかった。
聞かずに 工作室に来た。俺に 「忘れさせてほしい」と言った。
なぜ?
整理しろ。翻訳者として。感情を排して、論理だけで。
事実一。及川は志帆を好きだ。志帆以外の好きな人はいない。
事実二。志帆は及川の態度変化に気づいた。だが及川に直接確認していない。
事実三。志帆は工作室に来て「彼氏に好きな人ができた」と言った。
事実四。事実一と事実三が矛盾する。
矛盾の解釈は二つ。
解釈A 志帆が及川の変化を誤読した。本当に「好きな人ができた」と信じている。依頼は善意の誤解に基づいている。
解釈B 志帆は及川の真意を知っている。あるいは、少なくとも「好きな人ができた」確証がないことを分かっている。にもかかわらず 工作室に来た。「忘れさせてほしい」と言った。 依頼は、最初から嘘だった。
解釈Aなら 志帆に事実を伝えれば済む。「及川はお前を好きだ。好きな人は別にいない。安心しろ」。依頼は解消。ハッピーエンド。
解釈Bなら 。
解釈Bなら 志帆は嘘をついたことになる。嘘の依頼を出したことになる。 なぜ? 工作室に嘘の依頼を出す理由は何だ? 志帆が得るものは何だ?
翻訳しろ。
及川の言葉が、頭の中で反響した。
「恒一に、私を見てほしかった」。
志帆が及川にぼそっと漏らした言葉。 それが、依頼の本当の目的なら。
「忘れさせてほしい」は口実で 本当の目的は、俺に会うこと。俺に、自分の恋を見てもらうこと。翻訳者としての俺に 自分の気持ちを翻訳してもらうこと。
だとしたら 志帆の依頼は、恋愛相談でも忘却の依頼でもない。もっと 個人的な 。
電車が朝凪駅に着いた。ドアが開く。ホームに降りた。夏の夜の空気が 生温かい。潮の匂い。蝉の声。七月の夜。
駅のホームで 立ち止まった。
俺は どちらの解釈を取る?
解釈Aなら、翻訳者として志帆に事実を伝える。それで依頼は終わる。
解釈Bなら 。
解釈Bなら、志帆と向き合わなければならない。「依頼は嘘だろう」と。「お前は何を本当に望んでいるんだ」と。 そしてそれは、翻訳者としてではなく、恒一として、志帆と向き合うことを意味する。
解釈Bを選んだ瞬間に 翻訳者の仮面が剥がれる。恒一としての感情が、表に出る。
待て。整理しろ。
及川は志帆を好き。志帆もたぶん及川を好き。なのに志帆は工作室に来た。「忘れさせて」と言った。 なぜ?
この依頼は 最初から嘘だったのか?
......嘘。
嘘という言葉が、頭の中に着弾した。重い言葉だった。志帆が 嘘をついた。俺に。工作室に。あの泣きそうな笑顔で。「恒一がいてくれてよかった」と言いながら。
嘘 だったのか。
翻訳者は嘘を見抜くのが仕事だ。藤川の「告白したい」の裏を読んだ。水谷の「噂を消してほしい」の裏を読んだ。園田の「友達に戻りたい」の裏を読んだ。 全部、依頼者の言葉の裏にある本音を翻訳した。
なのに 志帆の嘘だけは、見抜けなかった。
見抜けなかったのか? いや。
見抜こうとしなかったのか?
翻訳者は 自分の感情が関与する依頼を、客観的に処理できない。志帆の言葉を分析しようとするたびに、ノイズが入った。胸の奥のざわつきが翻訳を止めた。 あのノイズが、嘘を見抜く機能を塞いでいた。
嘘を見抜けなかったのではない。嘘を見抜きたくなかったのだ。
志帆が嘘をついているという可能性を 翻訳者が無意識に排除していた。志帆は嘘をつかない人間だと思いたかった。志帆の言葉は本物だと信じたかった。 それは翻訳者の判断ではなく、恒一の願望だ。
桐生先輩が言った。「お前の判断は、依頼者が幼馴染だから歪んでないか?」。
歪んでいた。最初から。
駅のホームで、電車のドアが閉まる音が聞こえた。次の電車が来て、去っていく。ホームに残っているのは俺一人だった。
スマホを取り出した。志帆にメッセージを打った。
「話がある。依頼の件で。 明日、会えるか」
送信。
一分。二分。三分。 長い沈黙。
五分後。志帆から返信が来た。
『......うん。ごめんね、恒一』
ごめんね。
その三文字が 全てを語っていた。
志帆は 「何について」謝っているのか、書いていない。だがこの「ごめんね」は 嘘をついたことへの謝罪だ。俺がメッセージの意図を読み取ったことを 志帆も読み取っている。お互いの翻訳が噛み合った瞬間。だがそれは 歓喜ではなく、痛みの交差だった。
スマホを閉じた。
駅のホームを出て、堤防沿いの県道を歩いた。七月の夜。海が暗い。波の音が近い。星が 出ていた。梅雨が明けて、空が晴れている。天の川は見えないが 星座の断片がいくつか。夏の大三角のあたり。
志帆の依頼は 嘘だった。
嘘の依頼。嘘の理由。 志帆は、俺に何を見せたかったのか。
明日 志帆と会う。嘘を暴くためではない。志帆の本音を 翻訳するために。翻訳者として。
だが 翻訳者として機能できるのか?
志帆の「ごめんね」を読んだ瞬間、胸の中で何かが崩れた。小さな崩壊。積み上げていた「翻訳者」の壁に、ひびが入った。壁の向こうには 名前のない感情が溜まっている。壁が崩れたら 溢れ出す。
翻訳者は自分を翻訳できない。 だが明日、志帆と向き合うとき、翻訳者でいられるか? 恒一が 表に出てしまわないか?
分からない。分からないまま、堤防の上を歩いた。波の音が規則的に響いている。海は暗い。だが 空は、少しだけ明るかった。星がある。星明かりが海面にわずかな光の粒を落としている。
明日。
志帆と 向き合う。
嘘の依頼の、本当の理由を。
翻訳者は そのとき、翻訳者でいられるのか。それとも 壁が崩れて、恒一として立つことになるのか。
どちらになっても もう、保留はできない。保留の期限が 切れようとしていた。




