第18話 恋人に好きな人ができた(中編)
第18話 恋人に好きな人ができた(中編)
志帆の彼氏の「好きな人」。
その正体を追う調査は、俺自身を追い詰めていた。
七月に入った。梅雨はまだ明けない。湿度が高い日が続いて、校舎の中がどこもかしこもじっとりしている。窓を開けても海風が入ってこない日がある。空気が動かない。停滞している。俺の中の何かと同じように。
志帆の依頼を受けてから三日が経っていた。
朝の工作室。作戦会議。
「調査方針を確認する」
俺はホワイトボードの前に立った。いつもの場所。いつもの姿勢。翻訳者として依頼に向き合う。そう自分に言い聞かせている。
「志帆の彼氏・及川は他校の生徒だ。陽太の潜入は使えない。直接接触は難しい。だからSNS情報と志帆からの聞き取りで及川の『好きな人』を特定する」
「SNS調査は俺が回す」
陽太が手を挙げた。
「及川のアカウント名は志帆さんから聞いてる。公開アカウントだから外からフォロー傾向は見える。いいね履歴、リプ相手、投稿頻度の変化。蒼がいたら数字で出せるけど、蒼はいないから俺の目視で」
蒼。忘却屋の件で名前が出た凛花のデータ分析の話を、陽太は別の名前に差し替えている。いや、蒼という名前は出していない。俺の聞き違いだ。陽太は「俺の目視で」と言った。
「凛花。志帆の話の中に矛盾や不自然な点がないか、記録を精査してくれ」
「はい。先日の面談の記録を見直します」
凛花のノートが開かれた。依頼⑤の項。志帆が工作室で話した内容が、凛花の小さな文字でびっしりと記されている。
「それと、俺は志帆に追加のヒアリングをする。及川の行動変化の時期と、態度が変わった具体的なエピソードを聞き取る」
「高瀬」
玲奈が口を挟んだ。
「ヒアリングは二人きりでやるのか」
「依頼者との面談は通常二人きりです」
「通常の依頼者なら問題ない。しかし今回の依頼者はお前の幼馴染だ。二人きりの面談で客観性を保てるか」
玲奈の目がまっすぐ俺を射抜いている。試されている。いや、心配されている。玲奈は論理の言葉で心配を伝える人間だ。
「保てます」
「なら、カフェでやれ。学校外の場所で。校内だと依頼の存在が目立つ。志帆は他校の生徒だ。朝凪高校に頻繁に出入りさせるのはリスクがある」
「了解です」
カフェ。二人きり。志帆と。
翻訳者としてのヒアリングだ。個人的な再会ではない。依頼の情報収集だ。
そう言い聞かせても、心臓が少し速くなっている。自覚がある。玲奈にも見えているだろう。
放課後。
駅前のチェーンカフェ。夕方の店内は空いていた。窓際の席に志帆が座っていた。制服のまま。グレーのブレザー。他校の制服はこの街では珍しくない。朝凪高校のある沿岸部には、近隣に三つの高校がある。
「恒一。久しぶりにこうやって向かい合うの、なんか変な感じだね」
志帆がアイスコーヒーを啜りながら言った。笑顔。しかし翻訳者の目で見ると、笑顔の温度が安定していない。高い瞬間と低い瞬間がある。波打っている。不安定な笑顔。
「依頼の件で聞きたいことがある」
俺はノートを広げた。凛花の記録ノートとは別の、俺専用のメモ帳だ。ペンを持つ。翻訳者の姿勢。仕事モード。
「及川の様子が変わったのは、いつ頃からだ」
「夏休み明けくらいかな。九月に入ってから。二学期が始まって、最初の一週間くらいで何か変わった」
「何が変わった。具体的に」
「スマホ見てる時間が増えた。前は私と一緒にいるときはスマホいじらなかったのに。あと、目が違うの」
「目が違う」
「うん。誰かのことを見てるときの目になるの。スマホの画面を見てるだけなのに、その先に人がいるみたいな。恒一だって、そういう目するときあるよ」
俺はペンを止めた。
「しない」
「するよ。中学のとき、たまに窓の外見てるとき、そういう目してた。何か考えてるんだけど、考えてることの先に誰かがいるような目」
志帆の観察力は鋭い。中学時代から俺を見ていたのか。翻訳者は他人を観察する。しかし翻訳者自身も観察されていた。志帆は俺の観察者だった。
話題を戻す。感情を混ぜるな。情報収集に集中しろ。
「及川がスマホを見ているとき、何のアプリを使っているか分かるか」
「LINEかインスタだと思う。画面は見せてくれないから分からないけど、通知の音でだいたい」
「及川の友人関係で、夏休み以降に新しく増えた相手はいるか」
「分からない。及川の友達のことはあんまり知らない。部活仲間はいるけど」
「及川の部活は」
「サッカー部。でも最近は練習をサボることが増えたって言ってた」
情報が集まっていく。ペンが走る。九月の変化。スマホの使用頻度増加。目の変化。部活のサボり。
パターンが見える。恋をしている人間の典型的な行動変化だ。スマホの向こうにいる誰かが気になって、他のことへの集中力が落ちる。及川は確かに「誰か」を意識している。志帆の証言は一貫している。
しかし「誰か」が誰なのかが分からない。
「志帆。心当たりはないのか。及川が気にしている相手」
「ないよ。あったら自分で何とかしてる。分からないから、ここに来たんだよ」
志帆の声が少しだけ硬くなった。苛立ちではない。無力感だ。自分の彼氏の心の中に入れない苛立ちと、入れないことへの無力感。
「もう一つ聞く。及川は『好きな人ができたわけじゃない、気になる人がいる』と言ったな。その言い方に、何か引っかかることはなかったか」
志帆が考え込んだ。アイスコーヒーのストローを回している。氷が溶けてカランと鳴った。
「引っかかったのは、好きな人ができたわけじゃないって、わざわざ否定したところ。普通、否定するならもっと強く言うよね。でも及川は弱く否定した。好きな人ができたわけじゃない、って小さい声で。否定しながら、否定しきれてないっていうか」
翻訳者の耳が反応した。弱い否定。否定したいが否定できない。つまり、及川自身も自分の感情を正確に把握できていない可能性がある。「好きかどうか分からないが、気になる」。感情が言語化されていない段階。
「もう一つ」
志帆が付け加えた。
「及川がそれを言ったとき、私の目を見なかったの」
目を逸らした。
人間が嘘をつくとき、あるいは核心に触れたくないとき、目を逸らす。しかし逸らし方にも種類がある。罪悪感で逸らすのと、恐怖で逸らすのと、混乱で逸らすのは全部違う。
「どっちに逸らした。右か、左か」
「下。下を向いた」
下。下を向くのは、自分の内面を見ているときの動きだ。外部の刺激から目を逸らすのではなく、内省的になっている。及川は志帆の質問に対して、外に目を向けたのではなく、内に目を向けた。
つまり、及川は嘘をついているのではない。自分の感情を探っていた。分からなかったのだ。自分が何を感じているか。
翻訳者として、及川の行動パターンを再構成する。
九月以降の変化。スマホの使用増加。部活のサボり。「好きな人ができたわけじゃない」の弱い否定。目を下に向ける内省的な動き。
及川は恋をしている。あるいは恋の前段階にいる。しかし相手が誰なのかが特定できない。志帆にも心当たりがない。SNSの調査結果が陽太から来れば、候補が絞れるかもしれない。
「ありがとう。今日はこれで十分だ」
「もう終わり。もうちょっと話してもいいのに」
志帆が残念そうに言った。笑顔。しかし笑顔の裏に、別の何かが透けている。翻訳しようとする。止める。今は依頼のヒアリングだ。志帆の個人的な感情を翻訳する場ではない。
「志帆。一つだけ確認させてくれ」
「何」
「お前は及川のことが好きか」
直球で聞いた。依頼の前提条件として確認が必要だ。及川の「好きな人」を問題にするなら、志帆自身の感情の現在地も把握しなければならない。
志帆の表情が止まった。一瞬。口角が固定されたまま動かない。
「好きだよ。及川くんのこと、好き。だからこんなに辛いんじゃん」
声は明るかった。しかし目が笑っていなかった。翻訳者の目はその不一致を捉えている。口は「好き」と言っている。目は別のことを言っている。
何を言っているのか。翻訳しろ。
できない。志帆の目が何を語っているのか、翻訳者の脳が拒否している。読み取れる情報があるのに、翻訳エンジンがフリーズする。ノイズだ。俺自身の感情がノイズになって、翻訳回路を妨害している。
「分かった。ありがとう」
カフェを出た。外は蒸し暑い。七月の夕方。日がまだ高い。空は曇っている。梅雨はいつ明けるのだろう。
志帆が手を振った。「またね」。中学の卒業式で聞いた言葉と同じだ。「またね」。あのときと同じイントネーション。あのときと同じ笑顔。
翻訳者は記憶の中の「またね」と現在の「またね」を重ね合わせる。同じ言葉。同じ声。しかし意味は変わっているのか、変わっていないのか。翻訳不能。
帰宅。自室。机に向かう。
ヒアリング結果を整理した。ノートに書き出す。
及川の変化の時期:九月以降。
行動パターン:スマホ使用増加、部活サボり。
証言の特徴:「好きな人ができたわけじゃない」の弱い否定。目を下に向ける内省的動き。
志帆の感情:好きだと言うが目が笑わない。不一致あり。
データは揃いつつある。しかし設計書が書けない。
ペンを持っている。ノートの白いページが目の前にある。設計書を書くべきだ。志帆の依頼に対して、工作室としてどう対応するかの設計書。場所。タイミング。言葉。撤退線。全部を設計するのが参謀の仕事だ。
しかし白紙のまま、三十分が過ぎた。
ペンが動かない。
翻訳はした。ヒアリングは終えた。データは集めた。設計のための材料は揃っている。しかし設計図を描く手が止まっている。頭の中で構造が組み上がらない。
原因は分かっている。
志帆の依頼を設計するということは、志帆の恋に対する俺の立場を確定させるということだ。翻訳者として。参謀として。第三者として。志帆の恋を客体として扱い、設計対象として処理する。
それが、できない。
志帆が「好きだよ」と言ったときの目。あの不一致。口が言っていることと、目が言っていることが違う。翻訳者ならその差分を読み取れるはずだ。読み取って、設計に反映させるべきだ。しかし読み取りたくない。読み取ったら、俺自身の感情と向き合わなければならないからだ。
ノートを閉じた。設計書は白紙のまま。
夜遅く。
工作室に寄った。忘れ物を取りに戻るふりをして。本当は一人で考えたかった。
ドアを開けると、玲奈がいた。
「遅いな」
デスクに座っている。書類仕事でもしていたのか。あるいは俺を待っていたのか。桐生玲奈のことだから、両方かもしれない。業務をこなしながら待つ。効率的だ。
「忘れ物を」
「嘘だろう。設計書が書けないから来たんだ」
見抜かれている。玲奈の観察力は翻訳者の俺より正確な場合がある。特に俺自身のことに関しては。
「白紙か」
「白紙です」
「データは」
「揃ってます。志帆からのヒアリングも終えた。及川の行動パターンも把握した。設計の材料は全部ある」
「なのに設計書が書けない」
「書けないです」
俺は椅子に座った。窓の外は暗い。夜の工作室は昼間とは違う表情を持っている。海は見えない。暗闇の中に波の音だけが聞こえる。
「翻訳者が翻訳できない状態で設計するのは、目隠しで手術するのと同じだ」
玲奈の声は平坦だった。しかしその比喩は鋭い。目隠しで手術。患部は見えているのに、メスを持つ手が震えている。技術はある。知識もある。しかし目が曇っている。
「依頼を降りろ」
「降りられない」
「なぜだ」
沈黙。理由を言葉にできるか。翻訳者が自分の感情を翻訳する。やるべきことだ。しかし一番難しいことだ。
「これは俺がやらなきゃいけない」
「なぜ」
「志帆が俺を頼って来たからです」
「それは依頼者として頼って来たのか。それとも幼馴染として頼って来たのか」
玲奈の質問は、俺自身が自分に問いかけていた問いと同じだった。志帆は工作室に依頼したのか。恒一に助けを求めたのか。
「分からない。分からないから、降りられない。分からないまま手を離したら、志帆は一人になる」
「一人にならない。工作室には俺がいる。天野がいる。柊がいる。お前が降りても、工作室は依頼を続行できる」
「でも志帆は俺に来た。俺を指名して来たんです。他のメンバーでは代替できない」
「代替できないのは、お前が翻訳者だからか。お前が恒一だからか」
同じ問いだ。形を変えた同じ問い。玲奈は俺に自覚を促している。翻訳者として動いているのか、恒一として動いているのかを。
「両方です。たぶん」
「たぶんは答えじゃない」
「答えが出ないんです。志帆の前にいると、翻訳者の脳と恒一の心が分離する。翻訳者は情報を集めようとする。恒一は志帆の顔を見ていたくなる。二つが同時に動いて、どっちの自分で判断しているのか分からなくなる」
言語化した。自分の状態を。翻訳者が自分を翻訳した。不完全だが、今の俺にはこれが限界だ。
玲奈は黙った。五秒。十秒。長い沈黙。波の音だけが聞こえる。
「降りなくていい」
予想外の言葉だった。
「ただし条件を追加する。ヒアリングは今後、凛花が同席する。二人きりにはしない。設計は私がチェックする。お前の翻訳結果を私が検証してから設計に反映する。二重チェック体制だ」
「了解です」
「もう一つ。お前自身の感情を、定期的に報告しろ。工作室のメンバーとして。翻訳者の精度に関わる情報だ。業務上の報告として」
業務上の報告。玲奈は俺の感情の揺れを「業務上の問題」として管理しようとしている。感情を感情として扱うのではなく、業務の一変数として管理する。玲奈らしい方法だ。冷たいが、有効だ。
「報告します」
「よし。今日は帰れ。明日、陽太のSNS調査結果を待って次の動きを決める」
立ち上がった。鞄を持つ。ドアに向かう。
「高瀬」
振り返った。
「お前が志帆のことを気にしている理由を、いつか自分で翻訳しろ。今じゃなくていい。でも、いつか。翻訳者が自分の辞書を開かないまま仕事を続けるのは、限界がある」
玲奈の声は静かだった。業務命令ではない。忠告だ。団長としてではなく、玲奈として。
「いつか、は約束できないです」
「いつかでいい。約束は要らない。自覚だけしておけ」
自覚。自分が志帆に対して翻訳不能であるという自覚。翻訳不能なのは感情がないからではなく、感情がありすぎるからだという自覚。
「自覚はしてます」
「なら十分だ。帰れ」
帰り道。海沿いの道。夜の海は音だけだ。暗闘の中で波が砕ける音。潮の匂い。七月の夜は蒸し暑い。風がない。空気が動かない。
志帆のカフェでの顔を思い出していた。「好きだよ」と言ったときの目の不一致。口は好きと言い、目は別のことを言っていた。
別のこと、とは何だ。
翻訳者の脳が自動で仮説を立てる。止められない。
仮説①:志帆は及川のことがもう好きではない。しかし好きでいなければならないと思い込んでいる。
仮説②:志帆は及川のことが好きだが、別の感情も同時に抱えている。好きだが、怒っている。
仮説③:志帆は及川のことが好きだと言いながら、本当に好きなのは別の人間。
三つ目の仮説で、翻訳者の脳がフリーズした。
別の人間。志帆が本当に好きなのが及川ではなく、別の誰かだとしたら。この依頼の前提が根底から崩れる。
考えすぎだ。データが足りない。推測で設計するのは危険だ。明日、陽太のSNS調査結果を見てから判断する。
家に着いた。自室のベッドに座る。
スマホを開いた。陽太からメッセージが来ていた。
『恒一。及川のSNS調査、一通り終わった。ちょっと変なことになってる。明日工作室で話すけど、先に概要だけ送っとく』
続きのメッセージ。
『及川のインスタ。いいね傾向を追ったんだけど、九月以降に急にいいねの対象が変わってるんだよ。それまでは男友達のアカウントばっかりだったのに、九月から特定のジャンルにいいねが集中してる』
『ジャンルっていうか、テーマっていうか。なんて言えばいいかな。とにかく、及川がいいねしてる投稿の傾向に偏りがある。でもさ、その偏りが──ちょっと変なんだよ。恒一、これ見てくれ。明日説明するから』
画像が添付されていた。及川のインスタのいいね一覧のスクリーンショットらしい。しかし画質が悪くて詳細は読めない。
『明日、もうちょっとまともなデータ持ってくる。でもさ恒一、一個だけ言っとく。及川の「好きな人」の候補、俺が最初に想像してたのと全然違う方向に行ってる。ちょっと予想外だ。覚悟しとけ』
予想外。
陽太が「予想外」と言うのは珍しい。コミュ力の天才は人間関係の展開をかなりの精度で予測できる。その陽太が予想外と言っている。
及川の「好きな人」は、誰だ。
翻訳者の脳が再び仮説を立て始める。データが増えた。九月以降のいいね傾向の変化。特定ジャンルへの集中。陽太が「予想外」と感じる方向。
仮説が複数走る。しかしどれも確証がない。明日の陽太の報告を待つしかない。
スマホを置いた。天井を見る。
志帆の顔が浮かぶ。「恒一だって、そういう目するときあるよ」。あの言葉が頭から離れない。志帆は俺の目を読んでいた。俺が誰かのことを考えているときの目を。
誰かのこと。
中学時代に、俺は誰のことを考えていた。窓の外を見ながら。志帆の隣の席で。
答えは分かっている。翻訳するまでもない。分かっているから辞書を閉じている。
閉じたまま、眠りに落ちた。
翌朝。陽太の報告が待っている。
及川の「好きな人」の正体が、予想外の方向を指している。
予想外、という言葉の翻訳は「準備ができていない」だ。
翻訳者は、準備ができていないまま、次の日を迎える。




