第17話 恋人に好きな人ができた(前編)
第17話 恋人に好きな人ができた(前編)
「恋人に好きな人ができた。忘れさせてほしい」
それを言ったのは、俺の幼馴染だった。
志帆が椅子に座って、俺たちを見ていた。工作室のメンバー四人と、他校の制服を着た志帆。一人だけ色が違う。朝凪高校の紺色の中に、グレーのブレザーが浮いている。
「彼氏がいるんだけど」
志帆の声はいつも通り明るかった。しかし翻訳者の耳はその明るさの裏を聞いている。明るすぎる。本当に平気な人間は、こんなに明るくならない。明るさは鎧だ。志帆は鎧を着て、工作室に来た。
「付き合って半年くらいになるのかな。及川っていう、隣のクラスの男子。最初は普通に楽しかったんだけど」
志帆の目線が俺から逸れた。窓の外を見ている。海。灰色の海。梅雨の海は表情がない。
「最近、彼の様子がおかしくて。スマホ見てニヤニヤしてたり、私といるときにぼーっとしたり。それで聞いたの。好きな人でもできたの、って」
志帆が笑った。自嘲の笑いだ。
「否定してくれると思ったんだよね。そんなわけないじゃんって言ってくれると思った。でも彼、黙ったの。三秒くらい。その三秒が全部だった」
三秒。藤川の告白も三秒で終わった。肯定の三秒と否定の三秒。長さは同じだが、中身は正反対だ。
「彼は『ごめん』って言った。好きな人ができたわけじゃない、でも気になる人がいるって。気になるって何。好きの手前。好きの予備軍。でも否定できなかった。つまり、可能性がある。私の彼氏の中に、私以外の誰かが住み始めてる」
志帆の声が震えた。一瞬だけ。すぐに元に戻した。鎧を直した。
「で、お願いがあるの」
志帆が俺を見た。まっすぐに。
「彼のその気持ちを、忘れさせてほしい」
工作室が静まった。
忘れさせてほしい。
その言葉が空気の中に漂った。重い。鉛のように重い。工作室のメンバー全員が、その重さを感じている。
忘れさせる。それは工作室の領域ではない。心を操作することに等しい。原則の一番目に反する。
凛花のペンが止まっていた。記録すべき言葉が来たのに、ペンが動かない。記録者が記録を躊躇している。それだけで、この依頼の異常さが分かる。
陽太が椅子の上で身じろぎした。居心地が悪そうだ。陽太の直感も危険信号を出している。
玲奈が俺の横に立った。小声で。
「この依頼、受けるべきじゃない。原則に反する」
聞こえた。志帆には聞こえていないはずだ。しかし志帆は鋭い。空気の変化に気づいている。工作室のメンバーが戸惑っていることを察している。
「忘れさせるって、無理なんだよね」
志帆が自分で言った。
「分かってるよ。人の気持ちを消す方法なんてないって。でも何かできることはないかなって。恒一なら、何か方法を考えてくれるかなって」
恒一なら。
その言葉が胸に刺さった。志帆は俺を頼って来た。翻訳者としてではなく、恒一として。幼馴染として。何週間もLINEの返信をしなかった相手を、それでも頼りに来た。
「少し待ってくれ」
俺は志帆に言った。
「工作室のメンバーで話し合う時間がほしい。十分だけ」
志帆が頷いた。「分かった。廊下で待ってる」。志帆が出ていった。ドアが閉まる。
残されたのは四人。
「却下だ」
玲奈が即座に言った。
「忘れさせるという依頼は受けられない。他人の感情を操作するのは工作室の原則に反する。志帆の依頼は、彼氏の気持ちを変えてほしいという要求だ。それは心の操作だ」
「分かっています」
俺は認めた。玲奈は正しい。原則的に、この依頼は受けられない。
「でも方法を変えれば受けられないですか」
「方法を変えるとは」
「忘れさせるんじゃなく、志帆自身が次に進める場を作る。彼氏の気持ちを変えるのではなく、志帆が状況を整理できる場を設計する。工作室がやるのは場を作ることだ。忘却ではなく、志帆の自律を支援する」
玲奈が黙った。考えている顔だ。
「依頼の表面は『忘れさせてほしい』。でも翻訳すれば、志帆が本当に求めているのは『この状況をどうすればいいか分からない。助けてほしい』だ。忘却は手段であって目的じゃない。目的は、志帆が自分で決断できるようになることだ」
翻訳者として依頼を再解釈した。忘れさせてほしい、を翻訳する。表面の意味は「彼氏の感情を消してほしい」。裏の意味は「この痛みをどう処理すればいいか分からない」。
玲奈がなかなか答えない。考え込んでいる。
「高瀬」
玲奈の声が低くなった。
「お前の判断は、依頼者が幼馴染だから歪んでないか」
核心を突かれた。分かっていた。自分でも分かっていた。志帆の依頼を受けたいのは、翻訳者としての判断か。恒一としての感情か。区別がつかない。
「歪んでない。歪んでないはずだ」
声が不安定だった。自分でも聞こえた。
陽太が横から小声で言った。
「目、泳いでるぞ」
あの台詞。志帆のLINEを見たときにも言われた言葉だ。嘘をつくと目が泳ぐ。今、俺の目は泳いでいるのか。
「泳いでない」
「泳いでる。右に二回」
陽太は容赦がない。しかしだからこそ信頼できる。嘘を指摘してくれる人間は貴重だ。
「高瀬」
玲奈が腕を組んだ。
「条件をつける。依頼は受ける。ただし『忘れさせる』ではなく『状況整理の支援』として受ける。志帆に対してはその旨を説明し、同意を得る。そして、設計の最終判断は私がする。お前は翻訳に専念しろ。設計に感情が混ざるリスクがある」
「了解です」
「もう一つ。志帆の彼氏の情報を集める。『好きな人ができた』が事実かどうかを確認する。志帆の話だけで動かない。裏を取る」
「裏を取る。彼氏の及川を調査するということですか」
「ああ。他校の生徒だから陽太の潜入は使えない。志帆から情報を引き出すしかない。ただし高瀬。お前は志帆に対して客観的でいられるか」
「いられます」
また目が泳いだ。自覚がある。泳いでいる。
「嘘つき」
陽太が笑った。しかし笑いの奥に心配がある。陽太は俺のことを心配している。翻訳者が翻訳不能になることを。
「条件付きで受理。柊、記録しろ」
凛花がようやくペンを動かした。
「依頼⑤。宮前志帆。他校生徒。内容、彼氏の感情変化に関する状況整理支援。手法、忘却ではなく自律的決断の場の設計。備考、依頼者は参謀・高瀬の幼馴染。客観性の維持に注意」
凛花の記録は正確だ。「高瀬の幼馴染」と書いた。事実だ。事実だが、その一文がノートに残ることで、この依頼が工作室にとって通常の案件ではないことが記録される。
志帆を呼び戻した。
「志帆。依頼を受ける。ただし条件がある」
俺が説明した。忘れさせることはできない。工作室にできるのは状況の整理と場の設計だ。志帆自身が決断できるように支援する。彼氏の気持ちを変えることはしない。
志帆は黙って聞いていた。表情が変わっていく。期待から、理解へ。理解から、少しの失望へ。しかし失望の底には安堵があった。全面的に助けてもらえるわけではないが、一人ではないという安堵。
「分かった。それでいい」
志帆が頷いた。
「忘れさせるのは無理ってことだよね。でも、どうすればいいか一緒に考えてくれるんだよね」
「ああ。一緒に考える。でも決めるのは志帆自身だ。工作室は場を作るだけだ」
「恒一らしいね。昔から、そうだった。答えを出さないで、質問ばっかりする」
志帆が笑った。今度は少しだけ本物の笑顔だった。鎧の隙間から漏れた、素の表情。
「情報が必要だ。彼氏の及川について、もう少し詳しく聞かせてくれ。いつから様子がおかしくなったか。何がきっかけか。及川が気になっている相手に心当たりはあるか」
翻訳者モードに切り替える。志帆の言葉を分析する。感情を排除する。排除、しようとする。
しかし志帆が話すたびに、俺の中で何かが軋む。志帆が「彼氏」と言うたびに、及川という名前を口にするたびに、翻訳者の冷静さが揺らぐ。志帆に彼氏がいること。その彼氏に好きな人がいること。志帆が傷ついていること。全部が俺の感情を刺激する。
志帆が帰った後、工作室に四人が残された。夕日が差している。もう七月が近い。日が長くなっている。夕方の六時でもまだ明るい。
「高瀬」
玲奈が言った。
「本音を聞く。お前、大丈夫か」
大丈夫か。団長が参謀に「大丈夫か」と聞くのは初めてだ。玲奈は普段、個人の状態を気にしない。業務の精度だけを見る。その玲奈が「大丈夫か」と聞いている。つまり俺の状態は、外から見ても明らかに不安定だということだ。
「大丈夫です」
「嘘だ」
玲奈は即座に否定した。陽太ではなく玲奈に否定された。
「お前の翻訳精度が落ちている。志帆が話している間、お前は三回聞き返した。普段の高瀬なら一回で全部聞き取る。感情がノイズになっている」
三回聞き返した。自覚がなかった。翻訳者の集中力が落ちていることに、翻訳者自身が気づいていなかった。
「翻訳の仕事は継続する。ただし設計判断は私が全部やる。お前は情報収集と翻訳に専念しろ。設計に感情を入れるな」
「了解です」
「それと、志帆からの連絡は業務時間内だけ受けろ。夜中にLINEが来ても、翌日の朝まで返すな。距離を取れ」
距離を取れ。翻訳者に対する、最も適切な処方箋。距離がなければ翻訳できない。近すぎると読めない。文字に顔を近づけすぎると、文字が見えなくなるのと同じだ。
「了解です」
今度は声が安定していた。玲奈の指示は冷たいが正確だ。冷たさが俺を冷やしてくれる。沸騰しかけた頭に、氷水を一杯。
解散後。
陽太と二人で帰り道を歩いた。六月の最後の夕暮れ。空がオレンジ色だ。梅雨の合間の晴れ間が、夕焼けを鮮やかにしている。
陽太が長い間黙っていた。天野陽太が黙るのは珍しい。何か考えている。
「恒一」
「ん」
「志帆さんって、きれいだな」
「は」
「いや見た目の話じゃなくて。いや見た目もきれいだけど。何ていうか、言葉の選び方がきれいだなって。あの子、本音を隠すのが上手い。お前と似てる」
翻訳者と似ている。志帆も言葉の裏に本音を隠す人間だ。陽太はそれを見抜いた。
「似てるから、お前は読めないんだろ。同じ言語を使う人間は、お互いの嘘を見抜けない。同じ暗号を使ってるから」
陽太の洞察は鋭い。俺が志帆を翻訳できないのは、志帆と俺が同じ翻訳のコードを持っているからかもしれない。志帆は俺の翻訳術を知っている。中学時代から見てきた。だから志帆は、俺の翻訳を回避する言葉を選べる。
「気をつけろよ。翻訳者が翻訳不能になると、暴走する。他人の恋を設計する人間が、自分の感情を処理できなくなるのは一番やばいパターンだ」
「俺は暴走しない」
「しないと思ってるやつが一番やばい」
陽太は笑って手を振った。家が近い。ここで別れだ。
「じゃあな。志帆さんの件、俺も手伝うから。一人で抱え込むなよ」
「ああ。ありがとう」
一人になった。海沿いの道。潮の匂い。空の色が橙から紫に変わっていく。
志帆の依頼。彼氏に好きな人ができた。忘れさせてほしい。
俺は翻訳者として、この依頼をどう扱えばいい。
志帆の言葉を翻訳しろ。「忘れさせてほしい」。表の意味は「彼氏の感情を消してほしい」。裏の意味は「この痛みをどう処理すればいいか分からない」。
ここまでは翻訳できる。しかしもう一層深い場所に、翻訳できない何かがある。
志帆はなぜ工作室に来た。他校の生徒が、わざわざ朝凪高校まで来て。恒一がいることを知っていて。恋の相談をしに来た。
それは「工作室に依頼した」のか。それとも「恒一に助けを求めた」のか。
主語が違う。工作室への依頼なら、業務として処理できる。恒一への助けなら、個人的な関係だ。志帆はどちらのつもりで来た。
翻訳しろ。
できない。
志帆の言葉の裏が読めない。志帆の声のトーン、目の動き、姿勢、全部の情報が揃っているのに、翻訳ができない。パターンマッチングが機能しない。いつもなら自動的に動く翻訳エンジンが、志帆の言葉に対してだけ停止する。
原因は分かっている。俺自身の感情がノイズになっている。翻訳者は他人の感情を客観的に読む。しかし志帆に対しては客観的になれない。志帆の言葉を聞くと、俺の中で何かが反応する。反応するのは翻訳者の脳ではなく、恒一の心だ。恒一の心が、翻訳者の脳を邪魔している。
翻訳者は自分を翻訳できない。
あの言葉が蘇った。第八話の夜に感じたことだ。自分の感情だけが辞書にない。載せたくないから載せていない。しかし今、その辞書のない領域から、ノイズが湧き上がっている。志帆という単語に対する、未登録の反応。
家に着いた。自室のベッドに座る。
スマホを取り出した。志帆からのLINEを開く。あの「今度会おうよ」のメッセージに、俺はまだ返信していない。何週間も。しかし今日、志帆が直接来た。返信を待つのに疲れて、直接来た。
志帆の最新のメッセージ。工作室を出た後に送られてきたものだ。
『ありがとう、引き受けてくれて。恒一がいてくれてよかった』
恒一がいてくれてよかった。
その一文を翻訳しようとした。表の意味は感謝。裏の意味は。
翻訳が止まった。
「恒一がいてくれてよかった」の裏に何がある。安堵か。信頼か。依存か。あるいは、もっと別の何か。
翻訳できない。したくない。翻訳したら、俺自身の感情と向き合わなければならない。志帆に対する感情。辞書に載せなかった感情。中学時代から蓋をしてきた感情。
スマホを見つめたまま、返信を打とうとした。指が動かない。何を返せばいい。「どういたしまして」か。「気にするな」か。「お前のためなら」か。
どれも違う。どれも本音ではない。しかし本音が何かも分からない。
翻訳者は他人の本音を見つけるのが仕事だ。しかし自分の本音だけは見つけられない。見つける気がない。見つけたら、翻訳者のポジションを失うからだ。客観的な翻訳者が、主観的な感情を持った瞬間に、翻訳の精度が落ちる。志帆の依頼を受けた今、翻訳精度の低下は致命的だ。
だから見つけない。見つけないまま、翻訳者として志帆の依頼に向き合う。
できるのか。
分からない。
スマホを裏返して枕元に置いた。何度目だろう。何度目でもいい。返信は明日の朝まで保留する。玲奈が言った通り。業務時間内だけ。距離を取れ。
しかし距離を取っても、志帆の顔は頭から消えない。工作室で笑った志帆。「恒一らしいね」と言った志帆。鎧の隙間から漏れた素の表情。
あの表情を見た瞬間、翻訳者の脳が停止して、恒一の心が動いた。
心は操作しない。工作室の原則の一番目。
しかし今、操作されそうなのは依頼者の心ではなく、翻訳者の心だ。
志帆の依頼は、工作室にとっての試金石になる。原則が守れるかどうか。翻訳者が冷静でいられるかどうか。撤退線を引けるかどうか。
全部が試されている。
七月が来る。夏が来る。梅雨が明ければ、朝凪の海は青くなる。
しかし俺の中の天気は、まだ曇ったままだった。




