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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──
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第15話 書く側の暴力

 第15話 書く側の暴力


 ペンは剣より強い。


 つまり、ペンは人を切れる。


 忘却屋とのDMのやりとりから数日が経った。凛花が文体の照合を進めている間、俺は通常の工作室業務に戻っていた。園田と瀬尾の件は安定期に入っている。文化祭準備の共同作業の中で、二人は少しずつ「クラスメイト」という新しい距離を育てている。断罪ゲームのターゲットリストに工作室の名前が載っている件は、玲奈の判断で静観中だ。


 表面上は穏やかだ。しかし水面下では凛花が動いていた。


 六月の第三週。梅雨真っ只中の水曜日。


 放課後、俺が工作室に行くと、凛花がいなかった。珍しい。凛花は工作室と新聞部室を行き来する生活をしていて、少なくとも一日に一度は工作室に顔を出す。今日は来ていない。


 陽太に聞いた。


「凛花、新聞部室にいるんじゃないか。記事の締め切りが近いって言ってたぞ」


 新聞部室に向かった。


 ドアの前で足を止めた。中から凛花の声が聞こえた。電話をしている。


「はい。はい。分かっています。でも、この記事は」


 声のトーンが硬い。普段の凛花とは違う。追い詰められている人間の声だ。


「お願いします。記事にしないでください。書かれたら、また広がるんです。もう放っておいてほしいんです」


 電話の相手の声は聞こえない。しかし凛花の表情が見えなくても、声だけで翻訳できた。凛花は困っている。取材対象から掲載拒否を受けている。


 電話が終わった気配がした。俺はドアをノックした。


「凛花」


「先輩」


 凛花がドアを開けた。目が赤い。泣いてはいないが、泣く直前まで行った顔だ。


「入っていいか」


「はい。ちょうど、相談したいことがあったんです」


 新聞部室は工作室より狭い。机が二つと、古いパソコンが一台。壁に歴代の新聞が貼ってある。黄ばんだ紙から、朝凪高校の歴史が透けている。


 凛花がパソコンの前に座った。画面には記事の原稿が表示されている。タイトルは「朝凪高校の匿名文化について」。


「新聞部の次号に載せる予定の記事です。匿名掲示板の問題を取り上げています。断罪ゲームのこと、忘却屋のこと、噂の拡散構造。全部まとめて、匿名文化の光と影を分析する記事にしました」


「いい記事になりそうだな」


「なるはずでした。でも今、取材対象の一人から掲載拒否を受けました」


 凛花が画面をスクロールした。記事の中盤に、あるエピソードが書かれている。匿名掲示板で個人情報を晒された生徒の体験談。名前は伏せてあるが、状況の描写が具体的だ。


「この部分です。匿名被害の実例として、ある生徒の体験を匿名で掲載する予定でした。本人にも事前に確認を取っていたんですが、今日になって『やっぱりやめてほしい』と連絡が来ました」


「理由は」


「名前を伏せても、状況で分かる人には分かると。記事になったら、また自分のことが話題になると。もう放っておいてほしいと」


 凛花の声が震えた。小さく。しかし確かに。


「先輩。事実を書くのはジャーナリストの仕事です。匿名文化の問題を知ってもらうためには、具体的な被害の実例が必要です。抽象的な分析だけでは読者の心に届かない。でも」


 凛花の手がキーボードの上で止まった。


「書いたら、この人がまた傷つくんです」


 事実を書くことと、人を守ることの矛盾。凛花が直面しているのは、ジャーナリズムの根本的なジレンマだ。真実を伝えるためには具体性が必要。しかし具体性は当事者を露出させる。真実と保護は、しばしば両立しない。


 俺は凛花の向かいの椅子に座った。


「凛花」


「はい」


「お前が書くのは、事実を伝えたいからか」


「はい。匿名掲示板の問題を知ってもらいたいんです。断罪ゲームで傷ついた人がいる。忘却屋に依存し始めている人がいる。それを記事にして、この学校の人たちに考えてもらいたい」


「それは本当か」


 凛花の目が揺れた。


「本当です。本当、ですけど」


「けど」


 沈黙。六月の雨が窓を叩いている。新聞部室は工作室より窓が小さくて、雨音がよく響く。


「凛花。翻訳するぞ」


「はい」


「お前が書くのは、事実を伝えたいからだけじゃない。書くことで、お前自身が当事者にならずに済むからだ」


 凛花の呼吸が止まった。一秒。二秒。


「書いている間、お前は観測者だ。記者だ。取材する側だ。取材する側は、される側の痛みに直接触れなくていい。記事という壁を挟んで、安全な距離から見ていられる。書くことは、お前にとって防御壁だ」


 凛花の目が大きくなった。


「観測者でいたいんだ。お前は。当事者になるのが怖い。自分の感情に向き合うのが怖い。だから書く。書いている間は、感情を言葉に変換する作業に没頭できる。自分の感情じゃなく、他人の感情を」


 翻訳者の言葉が、凛花の防壁に穴を開けていた。凛花の手がキーボードから離れた。膝の上で握り締められた。唇が震えている。


「それは」


 凛花の声が掠れた。


「それは、先輩も同じじゃないですか」


 反論が来た。予想していなかった。


「先輩だって、翻訳してる間は当事者にならない。他人の恋を設計している間は、自分の恋と向き合わなくていい。翻訳は先輩の防御壁です。書くことが私の防御壁なのと、同じです」


 正確な翻訳だった。凛花は記録者だが、翻訳もできる。俺の言葉を俺自身に返した。鏡のように。


 翻訳者と記録者は、方法が違うだけで構造が同じだ。他人の感情を扱うことで、自分の感情から距離を取っている。


「ああ。同じだ」


 俺は認めた。否定する理由がなかった。


「俺も翻訳で自分を守ってる。お前も記録で自分を守ってる。それは悪いことじゃない。防御壁は必要だ。しかし問題は、防御壁の裏に隠れたまま、他人に踏み込むことだ」


「他人に踏み込む」


「お前は記事で匿名被害者の体験を書こうとした。お前自身は安全な場所にいて、被害者の痛みを記事にする。被害者は記事で再び露出する。お前は傷つかない。被害者だけが傷つく。その非対称は、匿名掲示板の断罪と同じ構造じゃないか」


 凛花の顔が白くなった。


「同じ」


「書く側は安全で、書かれる側だけが名前と顔を晒す。匿名の断罪者と、記事を書く記者。方法は違うが、構造は似ている。安全な場所から他人を露出させるという意味で」


 凛花がパソコンの画面を見た。自分が書いた記事を。匿名文化の問題を論じた記事を。その記事の中に、具体的な被害者の体験が書かれている。名前は伏せている。しかし状況で分かる人には分かる。


「私は、断罪者と同じことをしようとしていたんですか」


「いや。同じじゃない。お前の動機は断罪者と違う。断罪者は快感のために書く。お前は真実のために書く。動機が違う。しかし構造が似ているから、結果として同じ傷を与えうる」


 凛花は黙った。長い沈黙。雨音だけが響いている。窓ガラスに水滴が流れている。六月の雨は止む気配がない。


「どうすればいいですか」


 凛花の声が小さかった。記録者が自分の記録に疑問を持った瞬間の、脆い声。


「二つある。記事を出さないか、記事を書き直すか」


「出さないのは」


「それも暴力だ。匿名文化の問題を知っている人間が黙るのは、問題の放置だ。書かないことも暴力になりうる」


「じゃあ書き直す」


「ああ。被害者の体験を削除する。具体的なエピソードではなく、構造だけを論じる記事にする。誰が傷ついたかではなく、なぜ傷つく仕組みが存在するかを書く」


「でも、具体性がなくなったら読者に届かないかもしれません」


「届かないかもしれない。しかし届くかもしれない。読者の知性を信じろ。構造を示せば、具体例は読者自身が思い浮かべる」


 凛花が画面に向き直った。キーボードに手を置いた。そして、記事を書き直し始めた。


 被害者の体験談を削除した。名前どころか、状況描写も全て消した。残ったのは匿名文化の構造分析だけだ。三本の情報ルート。噂の消費サイクル。断罪ゲームのメカニズム。忘却屋のビジネスモデル。すべてを個人のエピソードではなく、システムの問題として論じる記事。


「これで、誰の名前も出ません。でも問題の構造は伝わるはずです」


「見せてくれ」


 凛花の書き直した記事を読んだ。文章は明確だ。論理の流れが整っている。具体性は落ちたが、分析の鋭さは残っている。凛花の記録者としての力が、ジャーナリストの筆に乗っている。


「いい記事だ。出せ」


「本当にいいですか」


「いい。お前が覚悟を持って書き直した記事だ。自信を持て」


 凛花は少しだけ微笑んだ。しかしその微笑みの中に、完全に晴れない曇りがあった。名前を伏せた。構造だけを論じた。しかし凛花の中の葛藤は消えていない。


 書くことは暴力になる。書かないことも暴力になる。


 その間のどこかに、記録者の居場所がある。完全な正解はない。書くたびに誰かを傷つけるリスクがある。書かないたびに問題を放置するリスクがある。どちらを選んでも、リスクは消えない。


「先輩」


「ん」


「私、ずっと書くことで距離を取ってきました。先輩に言われた通りです。観測者でいたかった。当事者になりたくなかった。でも今日、気づきました。書くこと自体が、他人を巻き込む行為なんだって。観測者のつもりでペンを持っていても、ペンが紙に触れた瞬間に、誰かの人生に踏み込んでいる」


 凛花の声は落ち着いていた。泣く前の不安定さは消えている。代わりに、何かを受け入れた人間の静けさがあった。


「書くことは暴力になる。でも書かないことも暴力になる。なら、せめて切り口を選びます。誰を傷つけるかを、自覚した上で書きます。無自覚に切るのはやめます」


 凛花の言葉を、俺は翻訳せずに聞いた。翻訳する必要がなかった。凛花は自分の言葉で、自分の答えに辿り着いている。記録者が記録者のまま、自分を言語化している。


「いい答えだ」


「先輩のおかげです」


「違う。俺は質問しただけだ。答えを出したのはお前だ」


 工作室の原則。選ぶのは本人だ。凛花は自分で選んだ。書き直すことを。切り口を選ぶことを。無自覚な暴力を避けることを。


 記事は翌日、校内新聞に掲載された。


 反応は賛否両論だった。


「匿名文化の問題点を分かりやすく解説していた」「もっと具体例がほしかった」「抽象的すぎて実感がわかない」「こういう記事は大事」「余計なお世話」。


 凛花は反応の一つ一つをノートに記録していた。記録者は反応も記録する。賛同も批判も同じ精度で。


「先輩。記事の反応、まとめました。賛成が四割、反対が二割、どちらでもないが四割です」


「どちらでもないが一番多いのか」


「はい。関心がない人が多いということです。匿名文化の問題は、問題だと思っていない人間にとっては問題ではない」


「それは仕方ない。問題を感じていない人間に問題を見せるのは、時間がかかる。でもお前の記事は種を蒔いた。種がいつ芽を出すかは分からないが、蒔かなければ永久に芽は出ない」


 凛花が小さく頷いた。


 その夜。


 凛花からLINEが来た。


『先輩。記事への反応の中に、一件だけ気になるものがあります』


『何だ』


『忘却屋からDMが来ました』


 忘却屋。凛花の記事を読んだのか。


『内容を見せてくれ』


 凛花がスクリーンショットを送ってきた。忘却屋から凛花への匿名DM。


「いい記事でした。匿名文化の構造を、感情的にならず分析している。あなたは書く側の暴力を知っている人だと思いました」


 ここまでは褒め言葉だ。しかし続きがあった。


「僕は、忘れる側の暴力を知っています。書くことが暴力になるなら、忘れることも暴力になる。記憶を持ち続けることは、ときに自分自身への暴力です。あなたが書く側の暴力と向き合ったように、僕は忘れる側の暴力と向き合っています。同じ問題の、違う面です」


 忘れる側の暴力。


 その言葉を、俺は頭の中で転がした。忘却屋は自分の行為を「暴力」と認識している。忘れさせることが暴力であると、自覚した上でやっている。凛花が書くことの暴力性に気づいたように、忘却屋も忘れることの暴力性に気づいている。


 自覚がある。


 忘却屋は無自覚な善人ではない。自分がやっていることの危険性を分かっている。分かった上で続けている。なぜだ。自覚があるなら、止められるはずだ。なのにやめない。止められない理由がある。


 翻訳者の直感が告げていた。忘却屋の中に、止められない痛みがある。他人の忘却を手伝うことでしか処理できない、自分自身の痛みがある。他人の記憶を書き換えることで、自分の消えない記憶から目を逸らしている。


「先輩。このDM、どう思いますか」


 凛花のメッセージ。


「忘却屋は頭がいい。凛花の記事を読んで、共感を示しながら自分の正当性を主張している。書く側の暴力と忘れる側の暴力を対等に並べることで、忘却屋の行為を相対化しようとしている」


「返信したほうがいいですか」


「するな。今は距離を取れ。忘却屋は凛花に共感を誘っている。共感した瞬間に、凛花は忘却屋のペースに乗る。記録者は距離を取れ。これは玲奈先輩も言ってた。深入りするな」


「はい。返信しません。記録だけしておきます」


 凛花のノートに、忘却屋のDMが記録される。記録者は記録を続ける。距離を保ちながら。


 スマホを置いた。


 六月の夜。雨が止んでいる。窓を開けると、湿った空気の中に潮の匂いが流れ込んできた。雨上がりの潮風は、いつもより濃い。


 忘却屋が凛花に接触してきた。記事を読んで。書く側の暴力を知っている人間に、忘れる側の暴力を語りかけてきた。


 忘却屋は凛花を仲間にしようとしているのか。それとも、ただ共感を求めているのか。翻訳者にもまだ分からない。


 一つだけ分かっていることがある。忘却屋の文体。あのDMの文体。読点の打ち方、文末処理の統一、感情を排した構造的な書き方。凛花の照合作業は進んでいる。校内の過去の投稿との一致点が増えている。


 忘却屋の正体に、凛花は確実に近づいている。


 しかし近づくほど、忘却屋もまた凛花に近づいている。観察者と対象の距離が縮まっている。それが危険なのか、必要なのかは、まだ分からない。


 工作室の原則を思い出した。心は操作しない。場を作るだけ。


 忘却屋は場を作らない。記憶を書き換える。方向が違う。しかし忘却屋の中にも、何かを守ろうとする意志がある。方法が間違っているとしても、動機には理由がある。


 その理由を翻訳する日が来るかもしれない。しかし今はまだ早い。情報が足りない。凛花の照合を待つ。


 明日も工作室は開く。


 園田と瀬尾の新しい距離を見守りながら、凛花の記事への波紋を追いながら、忘却屋の影を監視しながら。そして断罪ゲームのターゲットリストに載った工作室の名前を、視界の端に置きながら。


 翻訳者の仕事は増え続けている。しかし翻訳者は翻訳する。それが仕事だから。


 帰り際に、ふと玲奈のことを思った。


 団長はこの状況をどう見ているのだろう。凛花の記事のこと、忘却屋のDMのこと、報告していない。明日、全部まとめて報告しよう。


 玲奈なら、全体を見渡した上で的確な判断を下すだろう。冷静に。論理的に。感情を殺して。


 しかしその冷静さの裏に何があるのかを、俺はまだ知らない。桐生玲奈がなぜあれほど感情を排除するのか。なぜルールに固執するのか。なぜ「心は操作しない」を原則の一番目に置いたのか。


 団長には団長の理由がある。その理由を聞く日が、そう遠くないうちに来る気がした。


 六月の空は、まだ梅雨雲に覆われていた。

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