第13話 断罪と正義の距離
第13話 断罪と正義の距離
瀬尾には事情があった。
でも事情があっても、傷つけた事実は変わらない。
凛花が新聞部のルートで掴んだ情報は、予想していたよりも重かった。
朝の工作室。全員が揃っている。凛花がノートを開いて報告を始めた。
「瀬尾くんのクラスメイトに、文化祭の取材名目で話を聞きました。そのときに、瀬尾くんと園田さんの交際中のことが出てきたんです」
「交際中の話か。園田からは聞けなかった部分だな」
「はい。園田さんは『なんとなく上手くいかなくなった』としか言いませんでした。でもクラスメイトの話では、少し違う印象です」
凛花のペンがノートの上を走った。箇条書きを指しながら説明する。
「瀬尾くんは交際中、嫉妬心が強かったそうです。園田さんが他の男子と話しているだけで不機嫌になったり、放課後の予定を細かく聞いたりしていたと。園田さんは最初は気にしていなかったけど、だんだん窮屈そうになっていったって」
窮屈。
その一語で、パズルの絵柄が見え始めた。瀬尾が園田のことを聞くと「目が泳ぐ」と陽太が報告していた。見ちゃいけないものを見ないようにしている泳ぎ方。瀬尾が見ないようにしているのは、園田ではない。園田を窮屈にしていた自分自身だ。
「陽太。瀬尾に直接会えるか」
「今日の放課後、バレー部の練習終わりに捕まえる」
「頼む。凛花の情報を踏まえて、瀬尾から本音を引き出してくれ」
「了解」
放課後。
陽太が瀬尾を屋上に連れ出した。俺は行かなかった。翻訳者が行くと、瀬尾は警戒する。言葉を分析される感覚を、本能的に避ける人間がいる。瀬尾はそのタイプだ。陽太のように裏表のない人間のほうが、瀬尾のガードを下げられる。
屋上から戻った陽太の表情は、いつもと違っていた。
笑顔がない。天野陽太に笑顔がないのは珍しい。しかし暗い顔でもない。何か重いものを受け取った人間の顔だ。重いが、受け止めている顔。
「話、聞けたぞ」
工作室の椅子に座った陽太が、天井を見上げながら言った。
「瀬尾のやつ。好きだから別れたんだ」
好きだから別れた。
矛盾した言葉だ。しかし翻訳者の耳には、その矛盾の裏にある論理が聞こえる。
「詳しく聞かせてくれ」
「瀬尾は園田のことがずっと好きだった。別れた今も好きだと思う。でも付き合ってる間、自分の嫉妬心を抑えられなかった。園田が誰かと話すたびに気になって、態度に出て、園田を追い詰めてた。それに気づいたんだ」
陽太が天井から視線を下ろした。
「瀬尾が言ったんだよ。『好きだから別れたって言ったら、笑うか』って」
笑わない。翻訳者には、その言葉の重さが分かる。
「俺がそばにいると、あいつが窮屈そうで。笑わなくなってた。付き合い始めた頃はあんなに笑ってたのに。俺のせいだって分かった。好きだから一緒にいたい。でも一緒にいると、あいつの笑顔を消す。なら離れたほうがいいって」
瀬尾は園田を守るために離れた。自分の嫉妬心が園田を傷つけていると気づいて、傷つける前に距離を取った。園田が「なんとなく上手くいかなくなった」と言っていた裏側に、瀬尾のこの判断があった。
「園田は知ってるのか。この理由」
「知らない。瀬尾は園田に理由を言わずに別れを切り出した。『もう付き合えない』とだけ。理由を言ったら園田が自分を責めるって思ったんだろうな。あいつの嫉妬心は自分の問題なのに、園田が『私が悪かったのかも』って思うのが嫌だったんだ」
瀬尾の優しさは不器用だ。守ろうとして、伝えない。伝えないから、園田は理由が分からないまま三ヶ月を過ごした。理由が分からないから「友達に戻りたい」と思った。友達に戻れば、距離の正体が分かると思ったのかもしれない。
「恒一。これ、園田に伝えるべきか」
陽太が俺を見た。真剣な目だ。
俺は考えた。瀬尾の事情を園田に伝えれば、園田は納得するだろう。別れの理由が分かれば、気まずさの正体が見える。しかし同時に、園田は瀬尾の嫉妬心を知ることになる。知った上でどう感じるかは予測できない。
「玲奈先輩」
俺は判断を玲奈に仰いだ。
玲奈はホワイトボードの前に立っていた。陽太の報告を聞きながら、何かを考えている顔だった。
「伝えない」
短い。しかし即答だった。
「瀬尾の決断を尊重する。瀬尾は自分の判断で理由を伏せた。その判断を工作室が覆す権利はない。園田に必要なのは瀬尾の事情ではなく、新しい距離だ」
「でも理由が分かれば園田は楽になるかもしれない」
「楽になるのは一瞬だ。その後、園田は瀬尾の嫉妬心を知って、別の苦しみを抱える。『私のせいで瀬尾くんが苦しんでいた』。事情を開示するのは、誠実に見えて暴力的だ」
玲奈の目が光った。
「相手が受け止められる分だけ、言葉を渡せ。全部渡すな。全部渡すのは、渡す側の自己満足だ」
事情を全部開示するのは、誠実に見えて暴力的。
その言葉は、翻訳者の胸に深く刺さった。俺たちは情報を集め、事実を積み上げ、真実に近づこうとする。しかし真実を全て開示することが、常に正しいわけではない。相手が受け止められる量には限りがある。翻訳者は言葉を渡す仕事だが、渡す量を制御するのも仕事だ。
「方針を確認する。瀬尾の事情は園田に伝えない。園田には別のアプローチで新しい距離を作らせる。文化祭準備の班分けを使う。クラスメイトとしての共同作業」
「了解」
「陽太。瀬尾にも伝えてくれ。園田が工作室に来ていること。新しい距離を探そうとしていること。ただし瀬尾の事情は園田に伝えていないこと」
「分かった。瀬尾にはちゃんと話す」
文化祭準備が始まった週。
凛花の工作で、園田と瀬尾は同じ班に振り分けられた。クラスの出し物は模擬喫茶店。班ごとにメニュー開発、内装、接客を分担する。園田と瀬尾は内装班になった。
俺は遠くから見ていた。教室の隅で教科書を読むふりをしながら、二人の動きを観察する。翻訳者は観察者でもある。
最初の日。園田と瀬尾は必要最低限の会話をしていた。「ここにポスター貼る」「画用紙取って」。事務的なやりとり。友達のフリではない。仕事としての会話。目的があるから、関係に名前をつけなくてもいい。
二日目。少しだけ変化があった。園田が壁に模造紙を貼ろうとして手が届かなかった。瀬尾が横から手を伸ばして押さえた。園田が「ありがとう」と言った。瀬尾が「ん」と返した。
それだけだ。それだけの出来事。しかし翻訳者の目には、二人の間の空気が少しだけ柔らかくなったのが見えた。友達のフリをしていたときとは違う。演技ではなく、共同作業の自然な流れ。バケツを持ってきてもらうのではなく、手が届かない場所を助けてもらう。助けてもらって礼を言う。当たり前のこと。当たり前のことが、当たり前にできている。
三日目。園田が笑った。
壁に貼った装飾の配色が変だったらしく、別の班員が「なにこの色合い」と突っ込んだ。園田が笑って「センスないよね」と返した。瀬尾も少しだけ口角が上がった。
友達に戻ったのではない。新しい距離が、静かに芽を出していた。名前のない距離。恋人でも友達でもクラスメイトとも少し違う、園田と瀬尾だけの距離。
俺は教科書から目を上げた。窓から六月の陽射しが差し込んでいる。雨上がりの光。湿った空気の中に、微かに甘い匂いが混ざっていた。紫陽花の匂いだ。
放課後。工作室。
「報告する」
全員が集まった。
「文化祭準備の共同作業、三日目。園田と瀬尾の間に、新しい距離の兆しが見える。演技ではなく、自然な共同作業の延長線上に生まれた距離だ。まだ名前はない。名前がないまま育てるのがいい」
名前をつけない距離。その概念が、なぜか俺の胸に残った。名前のない関係は不安定だ。しかし名前をつけた瞬間に、関係は固定される。固定されると、成長が止まる。名前のないまま育てることで、二人だけの距離が自然に定まる。
「園田には」
「園田には伝える。瀬尾との距離が動き始めていること。ただし急がないこと。名前をつけようとしないこと。クラスメイトとしての共同作業を続けながら、自然な距離感を探ること」
「瀬尾には」
陽太が聞いた。
「瀬尾には陽太から。今のまま、自然に。無理に園田と仲良くしようとしなくていい。班の仕事を一緒にやるだけでいい」
「了解」
依頼④は、ひとまず軌道に乗った。完全な解決ではない。園田と瀬尾の関係は、まだ定まっていない。しかし方向性は見えた。友達に戻るのではなく、新しい距離を見つける。その過程が、文化祭準備という具体的な場の中で進んでいる。
「ただし」
凛花が手を挙げた。
「一つ、気になることがあります」
「何だ」
「園田さんと瀬尾くんの関係は改善しつつあります。でも、周りの生徒はまだ瀬尾くんのことを『園田を捨てた男』って見ています」
断罪。
掲示板の断罪ゲームは佐々木の件で一段落したはずだった。しかし断罪の空気は消えていなかった。佐々木のスレッドは沈んだが、断罪する習慣は残っている。新しいターゲットを探す目が、校内に散らばっている。
「園田さんと瀬尾くんが仲良くしているところを見て、今度は『園田が情けない。捨てた男にまた寄っていくのか』って書き込みが出てます」
凛花がスマホの画面を見せた。匿名掲示板。園田と瀬尾が文化祭の班で一緒にいることを、誰かが書き込んでいた。コメントには「園田アホだろ」「瀬尾に未練かよ」「元カレと仲良くしてるの気持ち悪い」。匿名の正義が、二人の新しい距離を踏みにじろうとしている。
「これは」
俺は拳を握った。
当事者が和解に向かっている。新しい関係を模索している。その過程を、匿名の観客が勝手に断罪している。当事者の気持ちとは関係なく、外野が正義の名のもとに裁いている。
「正義は、当事者が和解しても止まらない」
俺は声に出した。
「観客にとって正義は娯楽だから。ドラマを見ているのと同じだ。登場人物が和解しても、視聴者は別の展開を期待する。盛り上がる展開を。断罪のほうが盛り上がるから、和解を許さない」
玲奈が腕を組んだ。
「対処するか」
「園田と瀬尾には影響を最小限にする。上書きメソッドを使うか、掲示板のスレッドが下がるのを待つか。ただし、断罪ゲームの構造そのものは工作室だけでは止められない」
「同感だ。構造を止めるのは工作室の仕事ではない。目の前の依頼者を守るのが仕事だ」
玲奈の判断は常にスコープが明確だ。工作室が扱えること、扱えないこと。その線引きが的確。断罪ゲームという現象全体を止めることは工作室の能力を超えている。しかし園田と瀬尾を守ることならできる。
「園田と瀬尾には、掲示板を見ないよう伝える。陽太、頼む」
「了解。瀬尾には俺から。園田には恒一から」
「凛花。掲示板のスレッドの動向を引き続き監視してくれ」
「はい」
凛花がノートに書き込んだ。
「依頼④。園田真琴。関係の再定義。フェーズ2、クラスメイトとしての共同作業。新しい距離の萌芽を確認。ただし匿名掲示板での断罪が発生。対処継続」
記録は続く。工作室の仕事は依頼の完了で終わらない。依頼の周辺で起きる副次的な問題にも対応しなければならない。完全救済はしない。しかし見えている問題に背を向けることもしない。
帰り道。
六月の夕暮れ。雨上がりの道路が光っている。水たまりに空が映っている。夕焼けの空。オレンジ色が水面に滲んでいる。
陽太と並んで歩いた。
「なあ恒一」
「ん」
「瀬尾の話聞いたとき、ちょっとだけ分かっちゃったんだよな」
「何が」
「好きだから離れるって気持ち。中学のとき、俺も似たこと考えたことある。振られた後に友達に戻ろうとして失敗したって話、前にしたろ。あのとき、俺もさ、好きなまま隣にいるのが辛くて、でも離れるのも辛くて。結局どっちも選べなくて、全部崩れた」
陽太の声は軽かった。しかし軽さの下に、記憶の重みがある。陽太は過去を笑い飛ばすのが得意だ。しかし笑い飛ばしたものが消えるわけではない。
「瀬尾はさ、離れるほうを選んだんだよ。俺が選べなかったほうだ。それが正しかったかは分かんないけど、少なくとも瀬尾は自分で決めた。そこは、すげーと思う」
自分で決めた。
工作室の原則。選ぶのは本人だ。瀬尾は自分で離れることを選んだ。その決断の重さを、工作室が否定する権利はない。
「なあ恒一」
「ん」
「好きだから離れるって選択肢があるなら、好きだから踏み込むって選択肢もあるだろ。瀬尾は離れるほうを選んだ。でも園田は踏み込むほうを選んだ。工作室に来たってことは、距離を変えたかったってことだ。どっちが正しいとかじゃなくて、二人とも自分で決めてる」
陽太の言葉は翻訳を必要としない。いつもそうだ。表の言葉がそのまま本音。だから強い。
「ああ。二人とも自分で決めてる。工作室はその決断の場を作っただけだ」
「それでいいんだろ」
「いい。それでいい」
海沿いの道に出た。潮の匂いが濃い。六月の海は春より色が濃い。青というより紺に近い。深い色だ。
校門を出る前に、凛花から追加の連絡があった。
『先輩。掲示板の件ですが、断罪ゲームのスレッドに新しい動きがあります。次のターゲットリストが投稿されていました』
ターゲットリスト。次に誰を断罪するかのリスト。匿名の群衆が、次の標的を選んでいる。遊び感覚で。
『リストの中に、気になる名前があります』
凛花のメッセージが続いた。スクリーンショットが添付されている。
掲示板の画面。「次に断罪すべきターゲット」というスレッド。いくつかの名前やグループ名が挙がっている。
その中に。
「恋路工作室」
心臓が跳ねた。
第九話の夜に感じた予感が、現実になりつつあった。工作室が断罪ゲームの標的として名前を挙げられている。「恋を弄ぶ組織」「学校の癌」「生徒の恋愛を操作している」。匿名のコメントが並んでいる。
まだスレッドの端のほうだ。メインの話題ではない。しかし種は蒔かれた。匿名の群衆が工作室に目を向け始めている。
俺はスマホを握り締めた。
玲奈に報告しなければならない。しかし今日は遅い。明日の朝、工作室で共有する。
帰宅して、机に向かった。園田と瀬尾の依頼は軌道に乗った。新しい距離の萌芽が見える。しかしその周辺では断罪の波が動いている。園田と瀬尾を守りながら、工作室自体への断罪にも備えなければならない。
翻訳者の仕事が増えている。依頼者の言葉を翻訳するだけでなく、匿名の悪意を翻訳し、断罪の構造を読み解き、工作室の存在意義を証明し続けなければならない。
その重さが、六月の湿った空気のように肩にのしかかっていた。
しかし重くても動く。動くと決めたのだから。
窓の外に、星は見えなかった。梅雨の雲が空を覆っている。しかし雲の上には星がある。見えないだけで。
園田と瀬尾の新しい距離。名前のないけれど確かな距離。あの二人が文化祭の装飾を一緒に作っていた光景を思い出した。窓から差す光。水滴の虹。園田の笑顔。瀬尾のかすかな口角の上昇。
あれが、工作室が作った場だ。完璧ではない。断罪の目にさらされている。それでも、あの光景は本物だった。
一方で、掲示板の片隅では忘却屋の投稿が相変わらず続いていた。「忘れたい恋、ありませんか」。匿名の声が、匿名の傷に寄り添うふりをしている。利用者が増えているという凛花の報告が頭をよぎった。
忘却屋と断罪ゲーム。どちらも匿名の海から生まれた現象だ。片方は忘却を売り、もう片方は正義を売っている。工作室はその海の中で場を作る。三つの潮流が、朝凪高校の水面下で交差している。
明日はまず、玲奈に断罪ゲームのターゲットリストを見せる。工作室が標的になっている事実を、冷静に報告する。玲奈なら適切な判断を下すだろう。いつも通り、冷静に。論理的に。
そして園田と瀬尾には、掲示板を見るなと伝える。二人の新しい距離が、匿名の言葉で壊されないように。
守れるものは守る。守れないものは認める。撤退線の内側で、できることをやる。
翻訳者の辞書に、新しい言葉が加わっていた。
名前のない距離。好きだから離れる。正義と娯楽の区別がない場所。
苦い言葉ばかりだ。しかし翻訳者に必要なのは、美しい言葉だけではない。苦い言葉を知らなければ、苦い現実を翻訳できない。
六月が、まだ続いている。




