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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第50話 本文

 第50話 本文


 桜が七分咲きだった。


 三月の朝。十一時少し前。旧部室棟の二階。廊下の窓から見える校庭の桜。昨日の五分から七分になっている。ピンクが枝を覆っている。空の青が桜の隙間から見えている。春の二色。


 彩音はまだ来ていない。少し早く着いた。


 窓の前に立った。海を見た。三月の海。春の青。透明で柔らかい。冬の鉛色が嘘のように消えている。光がきらめいている。粒ではなく面のきらめき。海全体が光っている。


 二年前の四月。この廊下を初めて歩いた日のことを思い出した。工作室に入った日。玲奈先輩の隣で翻訳者として立った日。ドアが開いているのを見た日。


 あの日も海は光っていた。四月の海。春の海。しかし二年前の俺には海の色が見えなかった。翻訳者の目で見ていた。分析の目で。海を見ても構造を読もうとしていた。光の角度。水面の反射。波の周期。全部をデータとして処理しようとしていた。


 今は違う。海を見ている。ただ見ている。きれいだと思っている。それだけ。


 足音が聞こえた。階段を上がってくる足音。知っている足音。


 彩音が現れた。


 水筒を持っていた。大きな水筒。アールグレイ。弁当の包み。紙コップ二個。レジャーシート。


「恒一さん。おはようございます」


「おはよう。荷物が多いな」


「花見ですから。準備しました」


「準備」


「はい。花見には準備が要ります。翻訳者は準備なしで行きましたが、花見は準備します」


「翻訳者と花見を比較するな」


「します。どちらも恒一さんの人生ですから」


 窓際にレジャーシートを敷いた。廊下の床に。窓から桜が見える位置に。二人分の広さ。


 座った。二人で。


 彩音がアールグレイを注いだ。紙コップに。湯気が立った。春の空気の中でアールグレイの香りが広がった。ベルガモットの匂い。陽太と真白の始まりのフレーバー。


「恒一さん。乾杯しましょう」


「何に」


「桜に」


「桜に乾杯か」


「桜に。春に。卒業に。工作室に。翻訳者に。高瀬恒一に。全部に」


「全部に。欲張りだな」


「欲張りです。全部に乾杯したい」


 紙コップを合わせた。小さな音。紙と紙の音。ガラスの乾杯とは違う。軽い音。しかしその軽さがいい。


 アールグレイを飲んだ。温かい。春の朝に温かい紅茶。ベルガモットの香りが鼻に抜ける。


「うまいな」


「うまいです」


 弁当を開けた。彩音の卵焼き。桜の塩漬け入り。ピンクの点が黄色の中に散っている。きれいだ。横に唐揚げ。俺が持ってきた。母親の味。


 交換した。いつもの。卵焼きと唐揚げ。非合理な交換。カロリーの等価ではない。気持ちの等価。


「桜の卵焼き。うまい」


「よかった。初めて作りました。塩漬けの加減が難しかった」


「難しかったのか」


「難しかった。塩辛すぎたら卵焼きが泣く。薄すぎたら桜が消える。ちょうどいい塩加減を探しました」


「見つかったか」


「たぶん。恒一さんがうまいと言ったから、見つかったんだと思います」


「俺が基準か」


「恒一さんが基準です。恒一さんがうまいと言えばうまい。恒一さんの舌が私の卵焼きの審判です」


「責任が重い」


「重くていいです。恋人の責任ですから」


 弁当を食べた。二人で。廊下に座って。窓から桜を見ながら。海の音が遠くから聞こえる。春の波の音。冬の波より柔らかい。


「恒一さん」


「ん」


「昨日言った話。花見の後に話したいこと」


「ああ。何だ」


「花見の途中で話します。後ではなく」


「途中で」


「はい。桜を見ながら。紅茶を飲みながら。恒一さんの隣で」


 彩音が紙コップを膝の上に置いた。俺を見た。壁がない目。四月から十二月まで少しずつ外してきた壁。全部消えた目。ただの瀬川彩音の目。


「恒一さん。四月のことを覚えていますか。私が初めて工作室の前に来た日」


「覚えている。廊下に立っていた。批判者として」


「批判者として。分析じゃなくて逃避ですよね、と言いました」


「言った。翻訳者に向かって」


「あのとき。恒一さんの目を見ました。翻訳者の目。分析の目。鋭くて冷たくて正確な目。怖かった」


「怖かったか」


「怖かった。しかし同時に。見たことがある目だと思った。前の学校の鏡で見た自分の目と同じだった。分析する人間の目。他人を読む人間の目。壊す側の人間の目」


「壊す側」


「はい。私は壊す側の人間でした。前の学校で。善意で生徒に依存を作って壊した。恒一さんも壊す側になりかけていた。園田先輩のケースで。善意の翻訳が副作用を生んだ。同じ構造。同じ目」


「同じ目だったか」


「同じでした。だから怖かった。自分の失敗を繰り返している人間を見るのが怖かった。だから批判した。止めたかった。しかし止められなかった。恒一さんは止まらなかった。壊れかけても戻った。私にはできなかったことを」


「彩音。その話は前にも聞いた。十月に。全部話してくれたとき」


「はい。全部話しました。しかし一つだけ話していなかったことがあります」


「話していなかったこと」


「四月にあの廊下に立ったとき。批判者として立ったとき。恒一さんの目を見て怖いと思ったとき。同時に」


 彩音が紙コップを両手で包んだ。温かさを手に吸収するように。


「同時に。好きだと思いました」


 春の空気が止まった。桜が止まった。海の音が遠くなった。


「四月に」


「四月に。初日に。恒一さんの目を見た瞬間に。怖くて好きだった。同じ目を持っている人間を見つけた。壊す側の人間を。善意で間違える人間を。自分と同じ構造の人間を。見つけた瞬間に好きだった」


「四月の初日から」


「初日から。しかし認めなかった。認めたら批判者でいられなくなる。好きな人間を批判できない。だから壁を作った。毒舌で距離を保った。丁寧語で壁を作った。全部、好きだと認めないための防御でした」


 四月から。


 俺が八ヶ月かけて名前をつけた感情を、彩音は初日から持っていた。


「八ヶ月かかりましたか。恒一さんは」


「八ヶ月」


「私は一日でした。しかし認めるまでに八ヶ月かかった。恒一さんと同じ八ヶ月。同じ時間がかかった。認めるまでに」


「同じか」


「同じです。感じるのは一瞬でも、認めるのに時間がかかる。翻訳者が翻訳不能を八ヶ月かけて受け入れたように。私も八ヶ月かけて好きだと認めた」


「彩音。一つだけ翻訳していいか。最後の翻訳として」


「翻訳者はもういないのでは」


「いない。しかし一つだけ。最後の最後の。もう二度としない翻訳を」


「聞きます」


「お前が四月に感じた怖さと好きは同じものだ。名前が二つあるだけで。怖いも好きも、同じ構造の人間を見つけたときの反応だ。鏡を見たときの反応。自分と同じ人間を見つけたときの。怖いと好きは、鏡の表と裏だ」


「怖いと好きが同じもの」


「同じだ。小野寺が好きでいること自体を罪だと感じたように。怖さの裏に好きがある。好きの裏に怖さがある。お前は怖いと思った瞬間に好きだった。俺は好きだと自覚したとき怖かった。裏表だ」


「最後の翻訳ですね」


「最後だ。もうしない」


「しないでください。翻訳はもういりません。感想だけください。これからは」


「感想」


「はい。翻訳ではなく感想。分析ではなく感想。恒一さんの感想が欲しい。今の。この瞬間の」


「感想」


 考えた。考えなかった。考える前に口が動いた。


「桜がきれいだ。アールグレイがうまい。卵焼きがうまい。彩音が隣にいる。手が温かい。春だ。俺は高瀬恒一だ。翻訳者だった。今はただの恋人だ。それだけで十分だ」


「それだけで十分」


「十分だ」


「恒一さん。私の感想も聞いてくれますか」


「聞く」


「桜がきれいです。アールグレイがおいしい。唐揚げがおいしい。恒一さんが隣にいます。手が温かい。春です。私は瀬川彩音です。元翻訳者でした。壊した人でした。逃げた人でした。やり直した人でした。今は恒一さんの恋人です。それだけで十分です」


「同じだな。俺と」


「同じです。同じ感想。同じ温度。同じ言葉。同じ場所にいるから」


 同じ場所に立っている。一年前に久我に言った言葉。工作室の哲学。しかし今は哲学ではない。事実だ。同じ廊下に座っている。同じ桜を見ている。同じ紅茶を飲んでいる。同じ弁当を食べている。同じ手を繋いでいる。


「恒一さん。話したかったことは以上です」


「以上か」


「以上です。四月に好きだった。それだけです。話したかったのは」


「一年近く隠していたのか」


「隠していました。言うタイミングがなかった。恒一さんが自覚するまで待っていた。自覚した後に言おうとした。しかし告白の前後はタイミングが悪い。卒業式も。引き継ぎ式も。全部タイミングが悪かった」


「花見がタイミングか」


「花見がタイミングでした。春の。桜の。紅茶の。弁当の。全部が揃っている場所。日常の中で。特別な場所ではなく」


「特別な場所ではなく」


「はい。工作室ではなく。教室ではなく。告白の場ではなく。ただの廊下。ただの窓際。ただの弁当の時間。日常の中で言いたかった。四月に好きだったと」


「日常の中の告白か」


「告白ではないです。報告です。過去の報告。四月に好きだった。それだけの報告」


「報告を受けた。翻訳者として。いや。高瀬恒一として」


「高瀬恒一として受け取ってください」


「受け取った」


 桜が風に揺れた。花びらが一枚、窓から入ってきた。七分咲きの桜から一枚だけ。早い散り方。しかし一枚だけ。レジャーシートの上に落ちた。ピンクの一枚。


 彩音がその花びらを拾った。指の上に載せた。


「恒一さん。前作のテーマを覚えていますか」


「翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる」


「本作のテーマは」


「翻訳者が最後に翻訳するのは自分自身だ」


「両方のテーマが今ここにあります。翻訳できない感情。好きだ。見つけた。世界が広くなった。翻訳者が自分を翻訳した。好きだと名前をつけた。全部がここにある。この廊下に。桜の下に」


「テーマ回収か」


「回収です。しかし回収ではなく。続いています。テーマは回収されて終わるのではなく、続く。翻訳できない感情は今もある。恒一さんの中に。私の中に。毎日見つかる。毎日世界が広くなる。翻訳者がいなくなっても」


「翻訳者がいなくなっても世界は広がるか」


「広がります。翻訳者の仕事は翻訳することでした。しかし世界を広げるのは翻訳者だけの仕事ではない。ただの人間にもできる。ただ感じることで。ただ見ることで。ただ一緒にいることで。世界は広がる」


「ただ一緒にいることで」


「はい。恒一さんが私の隣にいる。それだけで世界が広がっている。昨日より今日のほうが世界が広い。なぜなら昨日は五分咲きだった。今日は七分咲き。明日は八分。桜が咲くたびに世界が広がる。恒一さんがいるから見える桜。一人では見えなかった桜」


 一人では見えなかった桜。


 翻訳者は一人で海を見ていた。分析の目で。構造を読む目で。しかし高瀬恒一は二人で桜を見ている。感想の目で。ただの目で。


「恒一さん。前作との円環。完成しますか」


「円環」


「前作は翻訳者が生まれる物語でした。工作室を引き継ぎ、翻訳者になり、依頼者の恋を翻訳する。本作は翻訳者が消える物語でした。翻訳者が自分を翻訳して、翻訳者を卒業して、ただの人間に戻る。生まれて消える。円環です」


「円環。しかし同じ場所ではない」


「同じ場所ではない。螺旋です。凛花さんが言った通り。同じ位置の一段上。翻訳者になる前の高瀬恒一と、翻訳者を卒業した後の高瀬恒一は、同じ位置の一段上にいる」


「一段上にいるか」


「います。翻訳者を経験した高瀬恒一は、翻訳者を経験していない高瀬恒一より世界が広い。翻訳できない感情を見つけたから。見つけるたびに広くなったから」


「前作のテーマが本作の結論になっている」


「なっています。翻訳できない感情を見つけるたびに世界が広くなる。二年間で見つけた翻訳不能の全部が、高瀬恒一の世界を広くした。園田の依存。長谷川の存在確認。小野寺の居場所。藤原の始める勇気。そして好きだ。全部が翻訳不能で、全部が世界を広くした」


「全部が本文の素材だった」


「はい。翻訳者が他人に渡した言葉が、自分の本文の素材になった。他人の恋を翻訳しながら、自分の恋の辞書を作っていた。辞書が完成したとき、翻訳者は不要になった。辞書を持った高瀬恒一が残った」


 桜が揺れている。風が吹いている。春の風。花びらが舞っている。一枚。二枚。まだ七分だから散りすぎない。しかし風が吹くたびに少しだけ散る。


「恒一さん。一つだけ聞いていいですか。最後の質問」


「聞け」


「翻訳者だった二年間。一言で言うなら何ですか」


 一言。


 翻訳者なら分析する。二年間を構造化して、テーマを抽出して、最も適切な一語を選ぶ。しかし翻訳者はいない。


 考えなかった。考える前に口が動いた。


「本文」


「本文」


「ああ。二年間は本文だった。翻訳ではなく。設計でもなく。俺の本文だった。他人の恋を翻訳していたと思っていた。しかし実際は自分の本文を書いていた。二年間かけて」


「二年間が一つの本文」


「一つの本文だ。十三行のノートに書いたものだけが本文ではなかった。二年間の全部が本文だった。工作室を引き継いだ日。依頼者に翻訳を渡した日。壊れた日。直った日。彩音に出会った日。名前をつけた日。好きだと言った日。卒業した日。全部が本文の一行ずつ」


「何行の本文ですか」


「数えない。数えきれないから。しかし全部がここにある。俺の中に。整理されていないまま。順番もないまま。園田の涙と卵焼きの味が同じ重さで」


「同じ重さで」


「同じ重さで。グレーのまま。灰色の中に色がある。冬の海に青がある。夕日にオレンジがある。桜にピンクがある。全部が混ざっている。混ざったまま本文になっている」


 彩音が俺の手を取った。左手で俺の右手を。自然に。考えないで。春の手。温かい。


「恒一さん。本文は続きますか」


「続く」


「卒業しても」


「しても」


「大学に行っても」


「行っても」


「十年後も」


「十年後も」


「ずっと」


「ずっと。本文に終わりはない。翻訳には終わりがある。依頼が完了したら翻訳は終わる。しかし本文は終わらない。生きている限り続く」


「生きている限り」


「生きている限り。毎日が一行ずつ。おはようが一行。おやすみが一行。卵焼きがうまいが一行。手が温かいが一行。桜がきれいが一行。全部が一行ずつ加わっていく」


「無限の本文ですね」


「無限だ。翻訳者の辞書は有限だった。語彙に限りがあった。しかし本文は無限だ。毎日新しい一行が加わる。昨日と同じ一行でもいい。同じでも新しい。今日の卵焼きがうまいは、昨日の卵焼きがうまいとは違う。同じ言葉でも違う一行」


「同じなのに違う」


「同じなのに違う。名前がつく前と後で同じものが違って見えたように。毎日が同じなのに違う。恋人になる前の弁当交換と恋人になった後の弁当交換は同じだが違う」


「違いますね。同じ卵焼きなのに」


「同じ卵焼きなのに。桜の塩漬けが入っているが」


「今日だけです。特別版。明日は普通の卵焼きに戻ります」


「普通でいい。普通の卵焼きが好きだ」


「普通が好き。恒一さんらしい」


 桜が揺れている。風が止まった。花びらが止まった。静かになった。波の音だけ。遠くから。春の海の音。


「恒一さん。最後の質問に、もう一つ答えてもらっていいですか」


「もう一つ」


「はい。翻訳者だった二年間は本文だと言いました。では、これからの日々は何ですか」


 考えた。一秒だけ。


「続き」


「続き」


「ああ。本文の続きだ。翻訳者だった二年間が本文だった。これからの日々はその続きだ。翻訳者がいなくなっても本文は続いている。高瀬恒一の本文が。毎日。彩音の隣で。桜の下で。海の前で」


「続きが楽しみです」


「楽しみか」


「楽しみです。怖いですけど」


「怖い」


「怖い。これから先のことが。大学が。社会が。十年後が。全部怖い」


「怖いまま行くか」


「行きます。怖いまま。恒一さんと一緒に」


「一緒に」


「一緒に。同じ場所に立って。同じ怖さを抱えて。同じ手を繋いで」


 手を握った。強く。少しだけ。考えないで。自然に。握り方はもう上手くなっている。考えないことで上手くなった。


 桜が風に揺れた。花びらが一枚、紙コップの中に落ちた。アールグレイの湯気の上に。ピンクの花びらが紅茶の表面に浮いた。


「恒一さん。花びらが入りました」


「入ったな」


「飲みますか。花びら入りのアールグレイ」


「飲む」


 花びらごとアールグレイを飲んだ。桜の味は分からなかった。アールグレイのベルガモットの味だけ。しかし花びらが入っていることを知っている。知っているだけで味が変わる気がする。


「どうですか」


「同じだ。しかし違う」


「同じなのに違う」


「ああ。花びらが入っていても入っていなくても同じアールグレイだ。しかし入っていることを知っている。知っているだけで」


「知っているだけで世界が変わる」


「変わる」


 翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる。


 花びら一枚。知っていることと知らないことの差。入っていることを知っているアールグレイ。好きだと知っている隣の人。翻訳者だったと知っている自分。全部を知っている。知っていることで世界が広い。


「恒一さん。桜。きれいですね」


「きれいだ」


「海も」


「海もきれいだ」


「恒一さんも」


「俺はきれいじゃない」


「きれいです。不完全で。格好良くなくて。手の繋ぎ方がまだ少しぎこちなくて。弁当が唐揚げばかりで。泣き虫で。鼻水が出て。翻訳者の名残が消えなくて。数えないと言いながら数える癖が残っていて。全部含めてきれいです」


「全部含めて」


「全部含めて。グレーのまま。不完全のまま。恒一さんのまま」


 春の風が吹いた。桜が揺れた。花びらが舞った。三枚。四枚。風に乗って。窓から入って。廊下に散って。レジャーシートの上に。紙コップの横に。弁当の蓋の上に。


 桜の花びらの中で二人が座っている。旧部室棟の廊下で。窓の前で。海と桜が見える場所で。


 工作室のドアは開いている。中に誰もいない。午後の授業中。凛花も蒼も教室にいる。


 しかし工作室は生きている。ドアが開いているから。ルールがホワイトボードに書いてあるから。ガイドラインが貼ってあるから。来週には新しい依頼者が来るかもしれない。来月には新入部員が入るかもしれない。


 工作室は続く。翻訳者がいなくても。


 そして本文も続く。翻訳者がいなくても。


「恒一さん」


「ん」


「帰りましょうか」


「帰ろう」


「手を繋いで」


「繋いで」


「桜の下を歩いて」


「歩いて」


「海沿いの道を」


「海沿いの道を」


「家まで送ってもらって」


「送って」


「おやすみなさいと言って」


「おやすみと言って」


「明日もまた会って」


「また会って」


 立ち上がった。レジャーシートを畳んだ。弁当を片付けた。紙コップを捨てた。水筒の蓋を閉めた。


 普通の片付け。花見の後の。恋人同士の。


 廊下を歩いた。旧部室棟の階段を降りた。外に出た。


 校庭の桜が目の前にあった。七分咲き。ピンクの雲。春の空を背景にして。


「恒一さん。桜の下、通りましょう」


「通ろう」


 桜の下を歩いた。二人で。手を繋いで。花びらが時々落ちてくる。肩に。髪に。手の上に。


「恒一さん。花びらが髪についています」


「取ってくれ」


 彩音が俺の髪から花びらを取った。指で。軽く。触れるか触れないかの力で。


「取れました」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 六語目。どういたしまして。恋人の語彙。数えないと言ったが数えてしまった。最後の一回。もう数えない。本当に。


 校門を出た。海沿いの道。春の道。桜並木ではない。海沿いには桜がない。しかし校庭の桜がまだ見えている。振り返れば。


 振り返らなかった。前を向いた。


 海が光っている。三月の海。春の青。透明で柔らかい。きらめきが面になっている。世界が広い。


 彩音が隣にいる。手を繋いでいる。温かい。


 本文が続いている。今も。一歩が一行。一歩ごとに一行が加わる。無限の本文。


 翻訳者はいない。翻訳者だった人がいる。ただの人がいる。恋人がいる。高瀬恒一がいる。


 朝凪の海。春の光。桜の残り香。アールグレイの余韻。卵焼きの味。手の温度。


 全部がここにある。全部が本文にある。整理されていない。順番もない。グレーのまま。不完全なまま。


 しかし全部がある。


 翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる。


 世界は今日も広がっている。桜一枚分。花びら一枚分。手の温度一つ分。


 明日も広がる。明後日も。来月も。来年も。十年後も。


 本文は続く。翻訳者がいなくても。


 高瀬恒一の本文は、ここから先も続く。

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