第10話 救うほど、誰かが諦める
第10話 救うほど、誰かが諦める
依頼は解決した。佐々木の名前は晴れた。
でも、断罪した側は、反省なんかしなかった。
佐々木の従姉妹が朝凪高校に来たのは、五月最後の水曜日だった。学校見学の名目で事務室に申請を出し、陽太が導線を設計した。佐々木の従姉妹は佐々木より一つ年上の高三で、隣の市の高校に通っている。名前は佐々木美月。佐々木と同じ苗字であること自体が、血縁の証拠だ。
設計書の通り、直接的な弁明はさせなかった。
美月は朝から学校見学をする体で校内を回り、昼休みに佐々木と合流した。食堂で一緒に食事を取った。二人が並んで座っている姿を、何人かの生徒が見た。顔が似ている。目元の形。眉の角度。同じ血が流れている人間特有の既視感がある。
「佐々木、あの人誰」
聞いてきたのは佐々木のクラスメイトだった。断罪ゲームに参加していた側の人間だ。
「従姉妹。今日、うちの学校見学に来てるんだ」
佐々木の声は平静だった。弁明のトーンではない。日常の一部を報告しているだけの声。俺たちが設計した「普通のこと」としての提示だ。
クラスメイトは美月を見た。美月が笑って「こんにちは。隼人のいとこです」と言った。佐々木と同じ苗字。同じ目元。自然な笑顔。何の演技もない。演技をする必要がないからだ。事実をそのまま見せているだけだ。
「あ。そうなんだ」
クラスメイトの顔から、何かが剥がれるのが見えた。疑惑という名前のフィルターが外れて、裸の事実が残った。カラオケの写真に写っていた女子は、従姉妹だった。浮気ではなかった。それだけ。
弁明は弱い。証明も弱い。一番強いのは、事実を普通のこととして見せることだ。
昼休みの食堂で、佐々木と美月が普通にいとこ同士として食事している風景は、掲示板上の五十件の断罪コメントよりも説得力があった。目の前にある現実は、画面上の文字より重い。
匿名掲示板のスレッドは、その日の夜にはほぼ静かになった。新しいコメントはつかなくなった。「従姉妹だったらしい」という事実が口伝てに広がり、断罪の前提が崩れたからだ。
設計は成功した。
しかし、その翌日に俺が教室で聞いた会話は、成功の味を完全に洗い流した。
「佐々木の件さ、結局シロだったんだってよ」
隣の席のクラスメイトが、別の生徒に話していた。弁当を食べながら。世間話のトーンで。
「マジか。じゃあ冤罪じゃん」
「まあね。でも疑われるほうも悪いっていうか」
「確かに。紛らわしいよな」
笑い声。軽い笑い声。水谷の件で聞いたのと同じ種類の、軽い笑い声。
「まぁ面白かったけどな」
面白かった。
その一言が、佐々木の三週間を踏み潰している。
三週間。佐々木が掲示板に晒されてから、従姉妹の来校で誤解が解けるまでの時間。その間、佐々木は教室で針のような視線を浴び、彼女との関係を壊され、夜眠れない日が続いた。隈のある目。噛み締めて切れた唇。それだけの苦痛を与えておいて、加害者側の感想は「面白かった」。
俺は弁当の蓋を閉じた。食欲が消えた。
怒りが込み上げてくる。翻訳者の冷静さで抑え込む。怒りは翻訳に混ぜてはいけない。しかし今日は、抑え込むのが難しかった。
正義ゲームの参加者にとって、佐々木の件は娯楽の一つが終わっただけだ。番組が一つ完結した。視聴者は次の番組を探す。視聴者にとって、前の番組の出演者がどうなったかは関心の外だ。
断罪された側の痛みは残る。断罪した側の記憶は消える。
この非対称は、水谷の件で学んだ匿名の非対称と同じ構造だ。加害のコストがゼロだから、加害の記憶も軽い。痛みを与えた自覚がないから、反省する理由がない。
正義は一方向だ。断罪する側は顔がない。される側だけが、名前と顔を晒す。この非対称がゲームを成立させている。
そして、ゲームが終わっても非対称は解消されない。佐々木の傷は残り、加害者の笑い声は消える。
放課後。工作室。
佐々木が来た。
「助かりました。ありがとうございます」
頭を下げた。声は落ち着いている。従姉妹の来校が成功して、誤解は解けた。掲示板の炎上は鎮火した。佐々木の名前は晴れた。
だが、佐々木の目は笑っていなかった。
「誤解は解けました」
佐々木は椅子に座ったまま、膝の上に置いた手を見つめていた。
「掲示板のコメントも止まりました。従姉妹が来てくれたおかげで、みんな分かってくれました」
「それは良かった」
玲奈が短く言った。事実の確認。
「でも」
佐々木の声が低くなった。
「彼女とは、別れました」
沈黙が落ちた。工作室の空気が冷えた。窓の外で鳥が鳴いている。海風が窓枠を揺らしている。工作室のメンバー全員が佐々木を見ていた。
「彼女に言ったんです。従姉妹だって。誤解が解けたって。でも彼女が言ったのは」
佐々木が顔を上げた。目が赤い。泣くのを堪えている。
「『信じられなかった自分が嫌だ』って」
工作室が静まり返った。
陽太が口を開きかけて、閉じた。凛花のペンが止まった。玲奈は腕を組んだまま微動だにしない。
「彼女は俺のことを信じられなかった。掲示板のコメントのほうを信じた。それが分かったとき、彼女は自分自身が嫌になったんです。信じなきゃいけない人を信じられなかった自分が許せないって。俺が悪いんじゃない。掲示板が悪いんでもない。自分が悪いって。だから別れようって」
佐々木の声が震えた。最後の一言は、ほとんど聞き取れなかった。
「それは、誰のせいでもないですよね」
誰のせいでもない。
佐々木の問いに、俺は答えられなかった。
誰のせいでもない。掲示板に嘘を書いた匿名の投稿者のせいか。それを面白がった群衆のせいか。信じられなかった彼女のせいか。弁明が遅れた佐々木のせいか。工作室が早く対応できなかったせいか。
全部が原因で、全部が原因じゃない。玲奈が水谷の件で言った言葉が蘇る。原因の連鎖を辿ったら際限がない。
佐々木の彼女は、信じられなかった自分を許せなかった。その痛みは、誤解が解けた後に来る痛みだ。誤解が解けたからこそ浮かび上がった痛み。解決が新しい傷を生む。救えば救うほど、別の場所が壊れる。
佐々木が立ち上がった。
「工作室のみなさんには本当に感謝しています。誤解が解けたのは、みなさんのおかげです」
礼儀正しい子だった。傷ついているのに、礼を言える人間。それが余計に痛かった。
「佐々木」
俺は呼び止めた。何か言わなければならない気がした。しかし何を言えばいいのか分からなかった。翻訳者は他人の感情を言葉にする。しかし今、佐々木にかける言葉が見つからない。翻訳するべき原文がない。佐々木の痛みは、言語化を拒んでいる。
「彼女の気持ちは、彼女のものだ。お前にはどうしようもない。でも、お前が工作室に来てくれたことは、間違いじゃなかった」
薄い言葉だと思った。しかし今の俺には、これ以上の言葉がなかった。
佐々木は小さく頷いて、工作室を出ていった。ドアが閉まる音が、いつもより大きく聞こえた。
四人が残された。
夕日が工作室に差し込んでいた。ホワイトボードが橙色に染まっている。依頼一覧の欄は空白だ。佐々木の依頼票は、先ほど玲奈が剥がした。三件目の依頼が終わった。
俺は窓際に歩いた。海が見える。朝凪の海。夕焼けに染まった海面が、金色とも橙色ともつかない色に光っている。波はない。静かだ。この海はいつも静かだ。
「高瀬」
玲奈の声が後ろから聞こえた。
「総括しろ」
総括。三件の依頼が終わった。第一期の活動報告が必要だ。しかし今、総括という言葉は報告書の意味だけではない。玲奈は俺に、ここまでの経験を言語化しろと言っている。
窓の外の海を見たまま、俺は口を開いた。
「三件の依頼を受けた」
声が自分のものではないように聞こえた。冷静に話しているつもりだが、どこかが軋んでいる。
「一件目。藤川の告白支援。成功した。しかし藤川は笑わなかった。告白がゴールではないことを、藤川は告白して初めて知った」
「二件目。水谷の噂消し。上書きは成功した。しかし善意の同情が水谷を別の檻に閉じ込めた。撤退線を引いた。水谷は泣きながら去った」
「三件目。佐々木の断罪からの救出。誤解は解けた。しかし彼女とは別れた。信じられなかった自分を許せなかった彼女の痛みには、工作室は手が届かなかった」
言葉にするたびに、後味の苦さが口の中に広がった。三件とも、依頼としては対処した。完全な失敗ではない。しかし完全な成功でもない。グレー。灰色。中途半端な結末。
「三件の依頼。三つの不完全な結末」
俺は海を見つめたまま、言葉を搾り出した。
「救うほど、誰かが諦める。傷が残る。後味は消えない」
言語化した途端に、それが真実だと分かった。翻訳者が言葉を見つけた瞬間の感覚。ぴたりとはまるピースの手応え。しかし今回、その手応えは心地よくなかった。苦い手応えだった。
「完全救済は、しない。できない」
声が小さくなった。
「俺たちがやれるのは、場を作ること。状況を整理し、言葉を設計し、撤退線を引くこと。選ぶのは本人だ。結果も、本人のものだ。工作室は結果を保証しない。保証しようとしたら、支援が支配になる」
水谷の件で学んだ言葉が、自然に出てきた。あのときは理屈として理解していた。今は皮膚感覚で分かっている。完全救済をしないことは、冷たいのではない。必要なのだ。完全に救おうとした瞬間、工作室は依頼者の人生を奪うことになる。
「それでも」
最後の一言を、搾り出した。
「それでも工作室は、次の依頼を受ける。それが、俺たちの恋路だ」
長い沈黙が流れた。
玲奈が何も言わないまま、頷いた。一度だけ。小さく。しかし確かに。桐生玲奈の頷きは、百の言葉より重い。
陽太が窓枠に肘をついていた。視線が下を向いている。いつもの笑顔がない。しかし唇を結んだその横顔には、覚悟のようなものが浮かんでいた。辞めない、という覚悟。きつい仕事だと分かった上で、ここにいるという意志。
凛花がノートを開いた。ペンを取った。
「記録します」
静かな声だった。
ペンが紙の上を走った。凛花の文字。小さくて几帳面な文字が、白い紙の上に一行ずつ刻まれていく。
「第一期活動報告」
字が並んでいく。
「依頼件数。三件」
ペンが進む。
「成功率」
凛花のペンが一瞬止まった。成功率。何をもって成功とするか。藤川は告白に成功したが満足していなかった。水谷の噂は消えたが傷は残った。佐々木の誤解は解けたが恋人を失った。
「計測不能」
凛花はそう書いた。成功率は計測できない。成功と失敗の二択で測れる仕事ではないからだ。グレーの結末にはグレーの評価しかない。
「継続判定」
最後の一行。凛花のペンが止まった。二秒。三秒。それからペンが動いた。
「継続」
ノートが閉じられた。
俺は凛花を見た。凛花は俺を見返した。その目に「やめましょう」とは書いていなかった。「きついですね」とも書いていなかった。ただ「続けましょう」と書いてあった。記録者は記録を続ける。工作室は依頼を続ける。
「解散」
玲奈が言った。
全員が帰り支度を始めた。鞄を持ち、椅子を戻し、電気を消す。日常の終わりの動作。しかしその動作の一つ一つが、今日は少しだけ重かった。
帰り際、陽太が俺の横に並んだ。
「恒一」
「ん」
「佐々木の彼女の言葉、きつかったな。信じられなかった自分が嫌だ、って」
「ああ」
「あれは誰にも救えないよな。佐々木にも、工作室にも、俺たちにも」
「ああ」
「でもさ」
陽太が立ち止まった。廊下の窓から見える空は、夕焼けが終わりかけて紫に変わり始めていた。
「信じられなかった自分が嫌だって思えるってことは、次は信じたいってことだろ。壊れたけど、終わってない。そういうことだと思うんだよな」
陽太の言葉は翻訳を必要としない。いつもそうだ。裏がない。表の言葉がそのまま本音だ。だから強い。翻訳者の技術では届かない場所に、陽太の言葉は届く。
「ああ。そうかもしれない」
「俺たちがやれるのは、場を作ることだけだ。でも場を作ったってことは、そこに人が立てるってことだ。佐々木も、彼女も、水谷も、藤川も。みんな場を通り過ぎていった。通り過ぎただけでも、何かは変わったんじゃねーの」
陽太はそう言って、手を振って帰っていった。
俺は一人で廊下に残った。窓の外の空を見た。紫色が濃くなっている。星はまだ見えない。しかし空のどこかで、光り始めている星がある。見えないだけで。
五月が終わろうとしている。
工作室に入って一ヶ月半。三件の依頼。三つのグレーな結末。翻訳者としての手応えと、翻訳者の限界。完全救済はしない。その原則を、今は言葉だけでなく身体で理解している。
校門を出た。海沿いの道。潮の匂い。空がほとんど暗くなっている。遠くに漁船の灯りが見えた。海の上の小さな光。あの灯りの下にも、誰かの日常がある。俺には見えない日常。翻訳者の目が届かない場所。
スマホを取り出した。志帆のLINEが未読のまま残っている。何日経っただろう。もう数えていない。
返信を打つ気にはならなかった。今は無理だ。自分の辞書を開く余裕がない。三件の依頼の後味で、翻訳者の脳が飽和している。
いつか返信する。いつかは、分からない。
翌朝。
工作室に来ると、依頼ボードに新しい紙が貼ってあった。
昨日の夕方は空白だった。夜の間に誰かが貼ったのだろう。手書きの文字。今度は震えていない。迷いがあるが、決意もある。そういう字だ。
「元カレと友達に戻りたいです。相談に乗ってもらえませんか」
依頼者の名前。二年女子。
俺はその紙を見つめた。
元カレと友達に戻りたい。それは、関係の再定義だ。恋人から友人へ。距離の変換。しかしそれは簡単ではない。一度恋人だった人間と友人に「戻る」ことはできるのか。知ってしまった感情は消えない。知る前の距離には戻れない。なら、新しい距離を作るしかない。
「新しい依頼だ」
後ろから玲奈の声がした。いつの間にか来ていた。朝の工作室に、団長が立っている。
「受けるか」
俺を見ている。判断を任せている。参謀として。
三件の依頼を経て、工作室の仕事が何であるかは分かった。完全救済はしない。場を作るだけ。後味は苦い。それでも続ける。
「受けましょう」
玲奈が頷いた。
凛花が工作室に入ってきた。ノートの新しいページが開かれる。二冊目のノートが、また一枚、埋まり始める。
六月が近づいていた。空気に微かな湿り気が混ざっている。梅雨の気配。季節は、工作室の事情とは関係なく進んでいく。




