第1話 恋路工作室は依頼を選ぶ
第1話 恋路工作室は依頼を選ぶ
「恋愛操作団が愛と願いを叶えます」 校内掲示板にそんな怪文書が貼ってあった。転入初日にこれか。
A4用紙一枚。明朝体。四隅をセロハンテープで丁寧に留めてあり、おまけにラミネート加工までされている。ここまで堂々と掲示されていると、かえって誰もまともに読まない類のものだ。実際、通りすがりの生徒たちは掲示板の前を素通りしていく。風景に溶けている。
県立朝凪高校。海沿いの、特にこれといった特徴のない公立校だった。窓の外には五月の海が広がっていて、三時間目の教室にまで潮の匂いが漂ってきた。カーテンがゆるく膨らむたびに、磯の湿り気を含んだ風が頬に触れる。
転入の挨拶は簡潔に済ませた。帰国子女という看板に一瞬だけ視線が集まり、五分で忘れられる。どこの学校でも同じだ。人の好奇心は、思っているよりずっと燃費が悪い。
昼休みの廊下は騒がしかった。弁当を広げるグループ、購買に走る一団、窓際で菓子パンをかじりながらスマホを覗き込んでいる男子。海の近くの学校特有の、どこかゆるい時間の流れがある。潮風のせいなのか、あるいは窓の外に見える水平線が時間感覚を鈍らせるのか。
俺は廊下を歩きながら、耳だけは開けていた。
人の言葉には必ず翻訳が必要だ。本音をそのまま言える人間なんて、この世にほとんどいない。
たとえば さっき後ろの席で交わされていた会話。
「ねえ、恋路工作室って知ってる?」
「あー、知ってる。告白の手伝いとかやるとこでしょ」
「えー、キモくない?」
「でもさ、去年二組の岡田くんがそれで成功したらしいよ」
「......まじ? 岡田くん彼女いたの。 え、それ今も続いてんの?」
翻訳する。
一人目は興味がある。話題にした時点で確定だ。二人目も同様。「キモくない?」は防衛線であって本音ではない。本当にどうでもいいことを、人はわざわざ話題にしない。そして最後の問い 「今も続いてんの?」。あれは工作室の実績を確認しているのではない。恋愛が「続く」ということへの、漠然とした不安の投影だ。
別に趣味でやっているわけじゃない。ただ、人の言葉を聞くと裏側が透ける。海外にいた頃、言語の壁がある環境で意思疎通するには、言葉そのものではなく言葉の「外側」を読むしかなかった。表情、間、声のトーン、視線の動き。帰国してからもその癖は抜けない。というより、日本語のほうがよほど翻訳が必要だった。言葉の裏に、言葉では言えない本音が何層にも折り畳まれている。
掲示板の怪文書をもう一度見た。
「恋愛操作団が愛と願いを叶えます 県立朝凪高校・恋路工作室 依頼はこちらまで」
下に小さく、旧部室棟の部屋番号が記されていた。
好奇心が、足を動かした。
旧部室棟は本校舎から渡り廊下を一つ挟んだ場所にあった。築三十年は超えているだろう。壁のペンキは色褪せ、廊下の蛍光灯は三本に一本が点滅を諦めている。だが窓の向こうの海は本校舎よりも近く、波の音がかすかに届く距離だった。水面が午後の光を反射して、廊下の天井にゆらゆらと光の模様を落としている。
二階の奥から二番目。ドアに表示はない。
ノックしようと拳を上げた瞬間、中から声が漏れた。
「 だから、受ける基準を満たしていない。却下」
低い。短い。断定的。女の声だった。
ドアは半開きだった。そのまま覗き込む。
六畳ほどの部室。窓際に古いスチールデスクが二つ並び、壁にホワイトボード。折りたたみのパイプ椅子が無造作に数脚。カーテンの隙間から入る午後の光が、ホワイトボードのマーカー痕を白く照らしていた。
その前に、腕を組んで立つ女子が一人。
「......すみません」
俺が声をかけると、彼女がこちらを向いた。
切れ長の目。黒髪を後ろで一つに束ねている。制服の着こなしに隙がなく、リボンの結び目まで左右対称だった。三年生のリボンの色。
「誰?」
一語。主語も疑問符の抑揚もない。
「二年の高瀬です。今日転入しました。掲示板を見て」
「見学は受けていない。依頼なら書式がある。どっち」
「どちらでもなく 純粋に、興味本位です」
正直に答えた。彼女は二秒ほど俺を見つめ、それからパイプ椅子を一脚引いた。座れ、ということらしい。
「桐生玲奈。三年。ここの団長」
名乗りも最小限だった。俺が腰を下ろすと、桐生先輩はホワイトボードを指した。
「工作室にできるのは三つ」
ホワイトボードには黒マーカーで三項目が書かれていた。
一、状況の整理。
二、言葉の設計。
三、撤退線の確保。
「心を変えることは、しない」
桐生先輩はそう言い切って、腕を組み直した。声に迷いがない。この三項目を何度も口にしてきた人間の口調だ。
「撤退線、ですか」
「依頼が失敗した場合 あるいは、依頼そのものが間違いだった場合。依頼者が安全に退がれるルートを、事前に確保する。成功は約束しない。退路だけは保証する」
筋が通っている。恋愛相談の延長かと思っていたが、もう少し構造的なものだ。「撤退線」という単語の選び方が独特だった。恋を戦場にたとえているわけではない むしろ逆だ。戦わせないための退路。そこに組織としての思想がある。
「あと、もう一つ 」
桐生先輩が続けようとした瞬間、背後のドアが勢いよく開いた。
「玲奈先輩っ! 購買のメロンパン、ラスイチ確保しました!」
声がでかい。日に焼けた肌に、短く刈り込んだ髪。体操着の袖をまくり上げた男子が、メロンパンを頭上に掲げて突入してきた。二年のリボン 同学年か。
「天野。声量」
桐生先輩の声は温度を一ミリも変えなかった。
「え あ、客?」
天野と呼ばれた男子は俺を見て、メロンパンを掲げたまま固まった。
「客じゃない。興味本位で来たそうだ」
「へえ、珍しいじゃん。普通みんな依頼か冷やかしなのに、興味本位って正直に言うやつ初めてだわ」
天野はパイプ椅子をがたがたと引っ張り出して、俺の隣にどかっと腰を下ろした。距離が近い。メロンパンの甘い匂いが鼻に届く。
「天野陽太。二年。ここでは実行班 まあ要するに何でも屋? よろしくな」
差し出された手を反射的に握った。力強く、乾いた手のひら。握手の力加減で人柄が分かることがある。この手は、相手に合わせるのが上手い手だ。コミュニケーション能力の塊。誰の懐にも自然に入れるタイプ。情報収集に向いている。
「高瀬恒一。今日から二年に転入した」
「まじか。じゃあ朝凪のこと何も知らねえんだ。いいな、まっさら。工作室のこと、玲奈先輩にどこまで脅された?」
「脅していない」
桐生先輩が眉をわずかに寄せた。陽太は両手を上げて降参のポーズを取る。この二人のテンポ感は、なんというか 息が合っている。それなりに長い付き合いなのだろう。
「でさ、大事なルール、もう一個あんだけど」
陽太が桐生先輩を見た。桐生先輩は小さく頷いて、言った。
「完全救済は約束しない」
空気が変わった。窓の外で波の音がした。さっきまで聞こえなかったのに、桐生先輩の声が止まった瞬間に、海が聞こえた。
「......どういう意味ですか」
「そのまま。恋が実るとは限らない。傷が癒えるとも限らない。私たちにできるのは場を作ることだけ。結末を決めるのは依頼者自身」
完全救済は約束しない。
その一文が、妙に耳に残った。世の中の大半の物語は「救い」を売りにする。助けます、叶えます、変えてみせます。掲示板の怪文書にもそう書いてあった 「愛と願いを叶えます」。だがこの団長は、自分たちの看板を自分で否定している。
嘘はつかない、ということだ。それは誠実なのか、臆病なのか。 たぶん、両方だろう。
沈黙を破ったのは、ドアの控えめなノック音だった。
「失礼します」
小柄な女子生徒が入ってきた。一年生のリボン。銀縁の眼鏡の奥に、落ち着いた黒い瞳。胸の前に大判のノートを抱えていて、背筋はまっすぐだが視線だけがほんの少し下を向いている。人の目を見て話すことに慣れていないのではなく、見ることで何かを受け取りすぎるのを警戒しているような目だった。
「桐生先輩。依頼ボードに新規が一件入っています」
「内容」
「二年男子。告白の手伝いをしてほしい、とのことです」
彼女 柊凛花、と桐生先輩は呼んだ はノートを開き、ホワイトボードの横にメモを一枚貼った。俺はちらりとノートの中身を見た。細かい字がぎっしりと並んでいる。日付、依頼番号、ステータス。記録すること自体が呼吸であるような人間の筆致だ。
凛花は俺に向かって小さく頭を下げた。
「柊凛花です。一年。記録係を担当しています」
「高瀬恒一。今日転入してきた」
「はい。三時間目の転入挨拶、拝見しました。英語の発音がとても綺麗でした」
観察している。そして、観察したことを記録している。この子は「書くこと」で世界との距離を測るタイプだ。カメラのファインダー越しに現実を見るように、ノートの紙面を挟むことで自分と出来事の間に一枚の壁を置いている。
「おー、来た来た」
陽太がドアのほうに声をかけた。廊下に一人の男子が立っている。背が高い。肩幅は広く、運動部だろう。だが目元が落ち着かない。手が体の横で所在なく開いたり閉じたりを繰り返している。
「藤川だろ。入れって」
促されて入ってきた男子 藤川は、パイプ椅子に座っても視線が泳いでいた。膝の上で拳を握り、その拳を見つめている。自分の感情を持て余している人間の、典型的なサインだ。
桐生先輩が口を開いた。
「藤川。依頼内容を、自分の言葉で話せ」
「は、はい。えっと......好きな人がいて、告白したいんですけど、その......何て言えばいいのか分からなくて」
ありふれた依頼内容だ。だが俺は、その言葉の奥を聞いていた。
「告白したい」。言葉通りに受け取れば、ただの告白代行の依頼だ。しかし声のトーン、視線の落とし方、拳の握り方 言葉の「外側」に、別の情報がある。
「藤川、一つ聞いていいか」
俺が口を挟んだ。桐生先輩がちらりとこちらを見たが、止めなかった。
「え、はい」
「告白して、相手が『うん』って言ったらどうする?」
「え......それは、付き合うんじゃないですか」
「じゃあ、付き合ってどうする?」
「どうする、って......」
藤川は眉を寄せた。俺は続けた。
「告白の言葉が分からないんじゃない。告白した『後』が怖いんだ」
沈黙。藤川の手が、膝の上で止まった。
「......つまり君は、告白したいんじゃない。告白して『変わりたい』んだ」
藤川の目が、見開かれた。
「え? ......あ 」
数秒の間があった。長い数秒だった。
「......そうかも、しれないです」
藤川は自分の拳を見つめたまま、ぽつりと言った。
「俺、今の自分があんまり好きじゃなくて。でも、あの子のことを見てると もうちょっとマシな人間になれるんじゃないかって、そう思えるんです」
翻訳完了。藤川の「告白したい」の本音は「変わりたい」だった。告白は手段であって、目的ではない。目的は自分の変容だ。そこを正確に設計すれば、この依頼は形にできる。
桐生先輩が、ホワイトボードのマーカーを手に取った。
「依頼受諾」
短い宣告だった。それから桐生先輩は俺を見た。
「高瀬」
名字で呼ばれた。
「さっきの お前がやったこと。翻訳、と言えばいいのか。あれを、設計書に落とせるか」
唐突な問いだった。俺はまだこの工作室のメンバーですらない。通りすがりの転入生だ。
「......やれると思います」
「『思います』は要らない。やれるか、やれないか」
「やれます」
桐生先輩はマーカーの蓋を閉じた。
「天野。藤川に飲み物を買ってこい。柊、受諾記録。高瀬 」
一拍の間。
「 明日、ここに来い。仕事がある」
陽太がにっと笑った。凛花はすでにノートに何かを書き始めている。藤川は、さっきまでとは少しだけ違う表情で、自分の手のひらを見ていた。握り締めるのではなく、開いて、眺めていた。
窓の外で、海が光っていた。凪だった。風がない。波もほとんどない。ただ光だけが水面の上で静かに揺れている。
帰り道は海沿いの県道だった。自転車がまだないので徒歩だ。堤防の向こうに海が広がっている。夕方の凪。水面が茜色の空をそのまま映して、鏡のように静かだった。
他人の感情を翻訳する。
さっき、藤川に対してやったことを頭の中で反芻する。「告白したい」を「変わりたい」に翻訳した。藤川の表情が変わった瞬間 自分の気持ちに初めて名前がついた、という顔。あの瞬間の手応えは、確かなものだった。
面白い。
言葉にならない感情に言葉を与えること。それは、地図のない場所に道を引くことに似ている。感情は最初からそこにある。ただ、それを指し示す記号がないだけだ。翻訳者の仕事は新しい感情を作ることではなく、すでにある感情を見つけ出して名前をつけることだ。
他人の恋を設計する。面白い ただ、ひとつだけ分からないことがある。
俺自身は、なんでこんなことに惹かれてるんだ?
他人の感情は翻訳できるのに、自分の中のこの感覚だけは、うまく言葉にならない。辞書を引いても該当する項目がないように、指がページを捲っても空振りする。
まあ、いい。今は他人の恋を翻訳するほうが先だ。
ポケットの中でスマホが振動した。取り出す。陽太からのメッセージだった。
『明日マジで来いよ。玲奈先輩が「来い」って言ったのスルーすると三倍怖いからな』
......返信は、とりあえず既読だけにしておいた。
スマホをしまおうとして、ふと連絡先の一覧が目に入った。転入初日にしては項目が少ない。クラスの連絡網。天野陽太。それだけ。
一覧の一番上 あ行に、古い登録名が一件だけ残っている。中学の頃から変えていない名前。
俺はスマホの画面を消して、ポケットに押し込んだ。
それは、翻訳しなくていい。今は。
翌朝。旧部室棟、二階、奥から二番目。
俺がドアを開けると、凛花がすでに椅子に座ってノートを開いていた。新しいページ。一行目に、几帳面な文字が並んでいる。
「高瀬先輩。肩書ですが、桐生先輩から『参謀』と記録しろと指示がありました」
「参謀......?」
「はい。参謀です」
凛花は真顔だった。ノートには、すでにこう書かれている。
参謀・高瀬恒一。
「......俺、昨日来ただけなんだけど」
「桐生先輩のご判断です」
取り合ってもらえる気配がなかった。凛花のペン先がノートの上で微動だにしない。記録は記録だ、と言わんばかりの姿勢。
背後で足音がした。陽太が、今日もメロンパンを片手に入ってくる。
「おっ、恒一。マジで来たんだ」
「来いって言われたからな」
「いや、来いって言われてマジで来るやつ、玲奈先輩は好きだぜ」
「好き嫌いの話はしていない」
後ろから声がした。いつの間にか桐生先輩がドアの前に立っている。足音がしなかった。この人、存在感の出力を自在に調節できるタイプだ。
桐生先輩はホワイトボードの前に歩み寄り、キャップを外したマーカーで一行書き加えた。
「依頼①:藤川 設計担当:高瀬」
振り返る。
「設計書、明日までに出せ。藤川の告白相手の情報収集は天野が動く。柊は記録と分析。私はチェックと撤退線の設計」
全員に指示が飛ぶ。淀みがない。
凛花がノートに転記する。陽太がメロンパンの袋を開ける。窓の外で海が光る。パイプ椅子の軋む音と、マーカーのインクの匂い。
これが恋路工作室の日常なのだとしたら 悪くない。
「高瀬」
桐生先輩が、マーカーのキャップを閉じながら言った。
「お前に一つ聞く」
「はい」
「お前の翻訳は、誰のためにある?」
唐突な問いだった。答えに詰まった。
桐生先輩は、答えを待たなかった。ホワイトボードに向き直り、藤川の依頼情報を書き足していく。会話は終わりらしい。
誰のために。
分からなかった。依頼者のため、と言えば綺麗だ。自分のため、と言えば正直だ。だがどちらも、正確ではない気がした。
まだ翻訳できない問いが一つ増えた。
俺はまだ、自分のことを翻訳者だと思っていた。他人の感情を読み、名前をつけ、設計する。それが俺の役割だ。当事者ではなく、翻訳者。そう信じていた。
窓の外で、朝凪の海が光っている。凪の海は穏やかに見える。だがそれは風がないだけだ。水面の下では、潮の流れが静かに方向を変え始めている。
まだ、誰もそれに気づいていなかった。




