民営ドラゴン 最終章:新しい業務日誌
あの日から、一週間が過ぎた。
赤城山は、まるで何事もなかったかのように、穏やかな青空を広げている。
麓のリンゴ畑を襲った霜も完全に消え、農家の人々が必死に畑の立て直し作業に追われていた。
JDM赤城山出張所は、奇妙な平穏を取り戻していた。
いや、平穏ではない。むしろ、以前より遥かに忙しくなっていた。
「赤城さーん! 本社から、『ヌシに関する特別管理費』の予算、通りました! けど、A5ランクじゃなくて、A4ランクにしろって……ヌシ、怒りませんかね!?」
「知るか! 交渉しろ!」
俺、赤城翼は、山のように積まれた稟議書の束を睨みつけていた。
すべて、「アカギノヌシ」関連の新規予算要求だ。
「赤城主任! 組合長がお見えです! なんか、すごい剣幕で……!」
「うわ、来たか……」
事務所のドアが開き、JA組合長の権田さんが、腕組みをしたまま入ってきた。
「……翼」
「は、はい! 組合長、このたびは、本当にご迷惑を……」
「うるせえ」
権田さんは、持っていた紙袋を俺のデスクにドン、と置いた。
中から出てきたのは、真っ赤に熟れたリンゴだった。……霜の被害を免れた、特級品だ。
「……これ」
「ああ? 見舞いだ。……お前んとこの『大家様』のおかげで、霜が溶けたのは早かったからな。被害は、思ったより少なくて済んだ」
権田さんは、フン、と鼻を鳴らす。
「それと、これだ」
彼が投げ出したのは、来月分の和牛の納品伝票だった。
「A5ランクだ。A4なんぞ食わせたら、また機嫌損ねるかもしれねえ。……差額は、JAが持つ。市長に『貸し』を作っとけ」
「……組合長」
「勘違いすんな。ヌシが腹ァ減らして、またこっちが迷惑すんのが嫌なだけだ」
権田さんはそれだけ言うと、背中を向けて帰っていった。
ツンデレがすぎる。
俺はリンゴを一つ手に取り、ガブリとかじった。
とんでもなく甘い。
「……さて」
デスクに戻ると、隣の席──所長室のドアが開いた。
ソフィア所長が、冷たい表情で立っている。
「赤城主任」
「はい」
「本社へのインシデント・レポート、拝見しました」
ソフィアは、俺が提出した報告書を手にしていた。
そこには「原因不明の火山性微動に対し、地元に伝わる伝統的な儀式(祭囃子の演奏)を試行したところ、微動が停止した。因果関係は不明だが、地域住民の精神的安定に寄与した」と、公務員時代に培った作文技術の粋を尽くして記述しておいた。
「……『因果関係は不明』、ですか」
「事実です」
「結構」
ソフィアは報告書を閉じると、代わりに分厚いバインダーを俺に差し出した。
表紙には、テプラでこう印字されている。
【JDM赤城山出張所:特別災害対策マニュアル(暫定)】
「なんですか、これ」
「新しい業務日誌です」
俺がページをめくると、まず「第1条:アカギノヌシの定義」という項目が目に飛び込んできた。
そこには、こう書かれていた。
『1-1:アカギノヌシは、生物学的分類を超越した、当地域の環境維持における最重要ファクター(通称:大家)である』
『1-2:ヌシへの給餌(通称:家賃)は、いかなるコストカット(合理化)よりも優先される』
俺は、目を疑った。
「所長、これ……」
「何か問題でも? 合理的な判断です」
ソフィアは、表情一つ変えずに言った。
「JDMのミッションは、ドラゴンの効率的な管理です。そして、最も効率的に管理する方法は、彼らの機嫌を損ねないこと(・・・・・・・)。それが、今回のインシデントで得られた、唯一の『データ』です」
彼女は、あのカビ臭いオープンリールテープを指差した。
テープは、厳重にプラスチックケースに保管され、「最重要管理備品」という赤いシールが貼られている。
「来月は、定例の『契約更新(お囃子)』です。赤城主任。スピーカーのメンテナンスと、バックアップ音源の準備を。予算は、先ほど通しました」
「……ハイレゾ」
「二度と、あんなノイズ混じりの音で交渉するのは許しません。あれは『大家』に対する無礼です」
どうやら、このエリート合理主義者は、あの日の恐怖で、別の方向に振り切れてしまったらしい。
俺は、新しい業務マニュアルの重みをずっしりと感じながら、ため息をついた。
事なかれ主義でいたかった俺の日常は、完全に終わった。
これからは、山頂の「大家」と、隣の「合理的なオカルト所長」の板挟みだ。
「……了解しました」
俺は、A5ランクの和牛の稟議書に、力強く決裁のハンコを押した。
空は青い。
民営化されたドラゴンの「管理」は、今日も世知辛く、そして非合理的に続いていく。
(了)




