民営ドラゴン 第7章:山頂のネゴシエーション
軽トラックのタイヤが、泥水を跳ね上げる。
ワイパーは最大速度で動いているが、土砂降りの雨で視界はほぼゼロに近い。カーブを曲がるたび、車体が大きく横滑りする。
ドンッ!
まただ。さっきより強い、腹に響く地鳴り。
麓の町が、今この瞬間も「大家」の怒りに晒されている。
「……クソッ、間に合え……!」
急勾配の山道を登り切り、給餌ポイントBに到着したのは、事務所を飛び出してから十分後だった。そこは、JDMが設置した一番古い給餌ポイントで、今はもう使われていない監視小屋がポツンと建っているだけだ。
俺はダッシュで軽トラから飛び降り、監視小屋の扉を蹴破るように開けた。
カビと獣の匂いが混じった、ひどい悪臭が鼻をつく。
「スピーカーは……あった!」
軒先に、錆びついたホーンスピーカーが二基、明後日の方向を向いてぶら下がっている。
田沼さんが先に手配してくれた電源車が、すでに小屋の横に停まっていた。
俺は、土砂降りの雨の中、電源車からケーブルを引きずり出し、監視小屋の中にある古いアンプと、ホコリまみれのオープンリールデッキに接続した。
「頼む、動いてくれ……!」
祈るような気持ちで、電源車のエンジンを始動し、アンプのスイッチを入れる。
……シーン。
何の反応もない。
「通電してないのか!?」
慌ててテスターを当てる。電気は来ている。
ならばアンプか? デッキか?
ゴゴゴゴゴ……!
足元が、ゆっくりと、しかし確実に揺れている。
これはもう「微動」じゃない。「振動」だ。
「ちくしょう!」
俺は、公務員時代に培った(というより、古い備品をだましだまし使ってきた)経験を総動員し、アンプのヒューズを引っこ抜き、接点を磨き、力任せに叩き込んだ。
ガリッ、というノイズ。
アンプの小さなランプが、弱々しく点灯した。
「……よし!」
カビ臭いテープをデッキにセットし、再生ボタンを押し込む。
リールが、ぎこちなく回り始めた。
『……ピーヒャラ、ピーヒャラ、ドンドン……』
ノイズ混じりの、間の抜けた祭囃子の音が、錆びたスピーカーから鳴り響いた。
だが、音があまりにも小さい。土砂降りの雨音に、かき消されそうだ。
「ダメだ、これじゃ『挨拶』にもならねえ!」
俺はアンプのボリュームを最大までひねり上げた。
ノイズがひどくなる。リールが悲鳴を上げる。
『ピーーーーヒャラララ!! ドンッ! ドンッ!!』
その瞬間だった。
ピタリ、と地鳴りが止んだ。
さっきまでの嵐のような雨音が、まるで嘘のように遠のいていく。
いや、違う。
雨音も、風の音も、俺の心臓の音も、すべてを飲み込むほどの「静寂」が、山頂を支配していた。
俺は、ゴクリと唾を飲んだ。
監視小屋の割れた窓から、外を見る。
深い、深い霧が、あたりを包み込んでいる。
そこに、ゆっくりと霧が割れていく。
霧の向こうに、何か「山」のようなものが現れた。
いや、山じゃない。
濡れた岩肌のような、巨大な「鱗」。
そして、霧の切れ間から覗く、小屋よりも巨大な、黄金色の「瞳」。
アカギノヌシが、俺を見ていた。
俺は、恐怖で金縛りになったように動けなかった。
これが、俺たちが「管理」していたつもりの存在。
これが、この土地の「大家」……。
ヌシは、ゆっくりと、その巨大な頭を垂れた。
まるで、お囃子の音色に耳を澄ませるかのように。
その時、無線機がけたたましく鳴った。
『赤城さん! 赤城さん、聞こえるか! JAのトラックが、今、山頂に着く!』
田沼さんの切羽詰まった声だ。
霧の向こうから、大型トラックのヘッドライトが二つ、ぼんやりと見えた。
荷台には、A5ランクの和牛が満載されている。
『ど、どうすりゃいい! ヌシはどこだ!』
運転手がパニックになっている。
俺は、震える手で無線機を掴んだ。
「……落ち着いてください。ゆっくりと荷台のゲートを開けて、和牛を全部、投下してください」
『ば、バカ言え! 目の前に……目の前に、化け物が……!』
「大丈夫です」
俺は、黄金色の瞳をまっすぐに見つめ返しながら言った。
「大家様が、お待ちかねだ」
トラックの荷台が傾き、極上の和牛のブロックが、ゴロゴロと地面に転がり落ちていく。
ヌシは、満足そうに一つ頷くと、その巨大な口を開き、和牛をまるで小石でも飲み込むかのように、静かに、しかし一瞬で平らげていった。
すべてを食べ終わると、ヌシはもう一度、俺(のいる監視小屋)を見た。
そして、ゆっくりと霧の中へと後退していく。
黄金色の瞳が霧に消える直前、俺は確かに聞いた。
腹の底に響くような、低い声。
『……ごちそうさん』
霧が晴れ始めた。
土砂降りの雨は、いつの間にか、暖かな日差しへと変わっていた。
無線機から、ソフィアの冷静な、しかしわずかに上ずった声が聞こえた。
「……赤城さん。麓の全観測地点より、霜害の急速な『融解』を確認。……火山性微動、完全に停止しました」
俺は、その場にへたり込んだ。
カビ臭いテープだけが、『ピーヒャラ』と間抜けな音を立てて、回り続けていた。




